目次へ




   5 邪竜転身・獣魔融体

『…………』
 今にも消え入りそうに揺らめきつつ、聖域を無くした守護神は空を見上げた。
『……間に合わぬか……竜の巫女よ……しかし……これもまた必然……』
 嘆息するように、影が揺らめく。
『竜の巫女よ……願わくば……闇に堕ちし、護り手の心を……救ってくれ……』
 小さな小さな呟きを残して、守護神の力の残滓は溶けるように消え失せた。
後には静寂が残る。それが文字通り、嵐の前の静けさである事は疑うべくも無
かった。
 勿論、誰一人として気付いてはいなかったが。

「何て速さだよ、あいつ……嵐竜くんが、追いつけないってのか?」
 雷竜と雷竜使いが変化したものは、あっという間に雨の向こうに消えていた。
飛行速度においてどの種にも勝ると言われる嵐竜すら捉えられないその速度に、
アヴェルがこんな呟きをもらす。
「わからないけど……普通の状態じゃないから……」
 その呟きにイヴはかすれた声でこう返した。嫌な予感がして、それが胸を騒
がせてならなかった。
「イヴ、大丈夫か?」
 微かに蒼ざめた顔に気がついたのか、アヴェルが心配そうにこう問いかけて
きた。それに、イヴは大丈夫、と短く答える。
「大丈夫って……」
「今は、あたしよりも、あの島の方が心配なの!」
 意識した訳ではないが、つい語気が鋭くなった。そんなイヴの様子にアヴェ
ルは微かに眉を寄せる。
「イヴ……」
「だって、あたし、約束したんだもの! あの島の、守護神に……だから、ほ
っとけない……絶対に……!」
「しかしなぁ……ったく! どーしよーもないお人好しだな、この元巫女様は」
「大きなお世話よっ!!」
 言いかけた言葉の代わりに呆れ果てた、と言わんばかりに吐き捨てるアヴェ
ルにこう返しつつ、前に向き直ったイヴは前方に立ち上る黒煙に息を飲んだ。
「……まさか!?」
 嫌な予感を感じつつイヴはシェーリスを急がせ、そして。
「……そんな……」
 広がる光景に言葉を詰まらせた。
 惨状という短い言葉で充分に表せる、そしてそれ故にその言葉を用いるのが
ためらわれる光景――強い力で引き千切られた人間がそこかしこに転がり、激
しい雨でも洗い流しきれない真紅が大地を染めている。そしてその中に、薄紫
のものが丸くなっていた。
「な……なに、あれ……何、してるのよ……」
「ちょい待ち! ありゃ、見ない方がいい!!」
 こみ上げてくるものを必死で抑えつつ、それが何をしているのかを見定めよ
うとするイヴをアヴェルが押し止めた。魔導師はまだイヴと仔竜たちを包んで
いたマントを引っ張ってイヴの視界を遮り、更に後ろから抱きすくめて動きを
封じる。
「な、なによ、いきなり……」
「いいから! このままじっとしてろ!」
 突然の事に戸惑うイヴに厳しく言いつつ、アヴェルは眼下でうごめくものを
見た。薄紫のそれは上空のやり取りなど気にかけた様子はなく、無心に何かを
貪っている。状況から考えれば、咀嚼されているのが何かは容易に察しがつい
た。
「……結局、こうなったか。まぁ、予想の範囲内だな」
 不意に、低い声が冷たくこんな事を言った。はっと振り返れば、漆黒の魔竜
に跨る少年・カヤトの姿がある。
「って……お前、あれが何か、わかるのか!?」
 アヴェルの問いにカヤトは素っ気無くああ、と頷いた。それに続く言葉を遮
るように、どおんっ!という轟音と激しい水音が響き渡る。島が崩壊し、海中
に没し始めたのだ。
「……プレートが、割れた? ……守護神、持たなかったか」
 それが意味するもの、即ち守護神の消滅を悟ったアヴェルが低く呟く。その
呟きを聞きつけたイヴは、マントの中で息を飲んだ。
「持たなかった? 守護神、消えちゃったの!?」
「ああ……どうも、そうらしい」
 身動きできない事にもどかしさを感じつつ問いかけると、アヴェルは低くこ
う呟いた。
「そんな……そんなのって……」
 呆然と呟くと、アヴェルが抱きすくめる腕に力を込めたのが感じられた。イ
ヴはぎゅっと唇を噛み締める。
(約束したのに……何とかするって、約束したのに……)
 そんなイヴの思いになど頓着せず、島の崩壊は続いた。やがて激しい波が惨
状諸共に紫のものを飲み込み、鈍い茶色が荒れ狂いながら全てを閉ざす。全て
が茶の濁流に沈んだ所でアヴェルはイヴを放した。
「……島……沈んじゃったの?」
 黒一色から解放されるなり目に入った濁った海面に、イヴは呆然と呟いた。
アヴェルがああ、とそれに頷く。
「それで……さっきのあれは?」
「さて……島と一緒に沈んだか……」
 グオオオオオッ!
 恐るおそるの問いに対するアヴェルの答えは、完結する前に否定された。濁
った海面が渦巻き、薄紫色のものが飛び出してきたのだ。
「何なのよ……一体あれ、何なのよっ!?」
「邪獣だ」
 その存在が理解できず困惑するイヴに、カヤトがさらりとこう告げる。イヴ
はここでようやく、そこに真紅の瞳の魔竜使いがいる事に気がついた。
「じゃ……じゅう?」
「竜使いと竜の堕落の最終形……救いようの無い化物だ」
「竜使いと竜の……堕落の、最終形?」
 冷淡な解説に戸惑いつつ、イヴは改めて目の前のもの――薄紫の邪獣を見た。
「そうだ。あれは、あの雷竜使いとその竜が変化したものだろう?」
 淡々と答えた直後にカヤトは魔竜を旋回させた。一瞬遅れて、邪獣の放った
雷光が大気を引き裂く。イヴもシェーリスを旋回させ、邪獣と距離を取った。
「そんな……どうして? どうして、こんな事に……」
「難しい事じゃない。奴は、澱を溜めすぎた……それだけだ」
「澱? 澱って何よ!?」
「心の澱……即ち、負の感情。奴の中で高まった憤りや恨みが奴の竜を狂わせ、
邪竜に転身させた」
 再び雷光が放たれるが、それはカヤトに達する事なく、魔竜の放った闇の霧
に打ち消された。
「邪竜転身した竜は、主を自らの内に取り込もうとする。そして……その段階
に到っては、竜使いも自らの精神を御す事はできん。結果として二者は融合し、
狂気に囚われた化物と化す。それが獣魔融体……そして、それによって誕生す
るのが、あの邪獣だ」
 淡々とした説明に、イヴは先ほどの光景を思い出して身を震わせた。狂った
ように笑い続けるブランシュと、膨張しつつ彼を取り込んでいった雷竜――少
年の説明とあの光景は容易に結びつく。
「救う事は……元に戻す事はできないの!?」
「無理だ」
 叫ぶような問いに、カヤトは短くこう言いきった。
「奴は自ら背負ったものを律しきれず、そして、自らの弱さに押し潰されたに
すぎん。もはや自我すら存在せん……解放する術は、ただ一つ」
 静かに言いつつ、カヤトは鞍につけていた槍を外す。同時に、無表情だった
顔つきが厳しく引き締まった。
「ちょっと待ってよ! 何をするつもり!?」
「邪獣は全てを破壊する。その存在が消滅するまで、破壊のみを繰り返す……
野放しにはできん」
 どこまでも冷淡にこう言うと、カヤトは魔竜を上昇させた。殺気を感じたの
か、邪獣もその後を追う。ついてくるその姿にカヤトは冷たい笑みを浮かべつ
つ、鞍の上に上がって膝をついた。邪獣が雷光を放つ――その瞬間カヤトは不
安定な態勢から跳躍し、魔竜は瞬間的な降下でそれを避けた。
「……はあああああっ!」
 鋭い気合が大気を裂く。跳躍したカヤトは槍を構え、邪獣に向けて降下した。
邪獣は動かない。ブレス攻撃をした直後の僅かな硬直を、カヤトは的確に突い
ていた。
 どしゅっ……
 銀の穂先が邪獣の胸を貫く音が、雨の中に無機質に響く。
 グ……グギャオオゥッ!
 一瞬遅れて、邪獣の喉から絶叫が迸る。カヤトは邪獣の身体を蹴り、槍を引
き抜きつつ跳躍した。宙に舞ったその身体を、タイミング良く飛来した魔竜が
受け止める。見事な連携だ。カヤトが再び魔竜に跨るのと前後して、邪獣は濁
った海へと落下する。海面が波立ち、空白を経て沈黙が空間を閉ざした。
「……全く……どいつもこいつも惰弱に過ぎる。話にならんな」
 呆れたように吐き捨てるカヤトの声が、呆然としていたイヴを我に返らせた。
イヴはきっと顔を上げ、カヤトを睨みつける。
「……一体、どういうつもりなのよ!?」
 叫ぶように問うと、カヤトはうるさそうにイヴを見た。
「……何の事だ?」
「何の、ですって? この島の事よっ!?」
 大儀そうな問いに苛立ちをかきたてられつつ、イヴは更に問いを継いだ。
「あなた、あたしたちよりも先にここに来てたんでしょ!?」
「……そうだ」
 それがどうした、と言わんばかりにカヤトは投げやりな答えを返す。その態
度は逐一癪に触って、苛立ちを更に高めた。
「だったらどうして……どうして、何もしなかったのよ!?」
「その必然がない」
 簡潔な言葉に、イヴは言葉を無くしていた。
「必然って……」
「あの島の奴らは自ら滅びを選んだ。要と不要を取り違え、根本から道を誤っ
たのだ。
 不要なものを要と見なし、本来要とすべきものを不要とした……そして、そ
の不要は自らが要であり続けるために不都合なものを全て破壊した……島の守
護神ですら、自らの手で滅ぼしたのだから、恐れ入る」
 淡々とした語りに、イヴは守護神から聞かされた話を思い出していた。それ
から、島の人々の不安げな表情と、イヴたちが立ち去る際に見せた落胆が思い
出される。今にして思えば、彼らは救いを求めていたのだろう。要と不要――
島を護ろうとしていた竜使いと、自らの立場に拘泥する老人のどちらが必要か
を取り違えた事に気づき、状況を変える手助けを求めていたのだ。
(もう少し……もう少し早く、気がついていれば……!)
 そうすれば、島が崩壊する前に争いを仲裁できたかも知れない。ブランシュ
が狂気に囚われる前に、救えたかも知れない。そう考えると悔しさが募った。
「……」
 俯いて唇を噛み締めるイヴをカヤトは無表情に眺めていたが、やがて、ため
息をついて槍を鞍につけた。
「話はそれだけのようだな……オレは、もう行くぞ」
「……待ちなさいよ!」
 淡々と告げて飛び去ろうとするカヤトを、イヴは絶叫で呼び止める。大儀そ
うに振り返った真紅の瞳を、イヴは怒りをたたえた青の瞳で睨み返した。
「もう一度聞くわ……どうして、何もしなかったの? どうして、守ってあげ
なかったの? 自分の島じゃなくても、守れるものは守る……それが、竜使い
の勤めでしょう?」
 イヴの問いに対する、カヤトの答えは単純だった。
「……知らんな、そんな事は」
「なっ……」
 冷たい言葉にイヴは息を飲み、アヴェルも表情を険しくした。しかし、カヤ
トはそんな事には無関心、といった様子で言葉を続ける。
「滅びを是としたものの消滅は必定……それが理というものだ。オレは何者に
も干渉せず、故に干渉も受けない。それを是としない、と言うのであれば……」
 ジャキっ……
 鈍い金属音が響き、一度は鞍に戻された槍が握られる。
「……オレは、それを取り除く。例えそれが、何であろうと」
 言葉と共にこちらに向けられた槍の穂先には寸分の揺らぎもなく、その向こ
うの真紅の瞳には、一片のためらいも見受けられなかった。イヴは唇を噛みつ
つその瞳を見つめ返し、やがて、剣の柄に手をかけた。
 きゃううっ!
 シャイレルが悲鳴じみた声を上げる。アヴェルも心持ち表情を厳しくした。
「……イヴ……」
「止めないで。あたし……こんなの、納得できない。竜使いとして、リュース
の血を継ぐ者として……あの考え方は認められないの」
 低く言いつつ、イヴは剣を抜き放つ。アヴェルはため息と共にわかった、と
答え、ひょい、と無造作にシェーリスから飛び降りた。そのまま海面すれすれ
の高さにぴたり、と止まる。
「ティムリィ、シャイレル、あなたたちも離れてて」
『でもお……』
「いいから! 離れてて!」
 不安げな声を上げるティムリィにイヴは厳しくこう言い放ち、輝竜は不安そ
のもの、と言った様子で、それでも影竜を促してアヴェルの所へ飛んで行く。
シャイレルは困惑しきった様子でイヴとカヤトとを見比べていたが、結局シェ
ーリスの背を離れ、アヴェルの所へと飛んで行った。
「一騎討ち、と言う訳か……面白い。断っておくが、挑んできた以上、女だか
らと言って容赦はせんぞ」
「望む所よ!」
「ふん……無駄な事に労力を裂く奴だ」
 呆れ果てたと言わんばかりに吐き捨てた、その直後にカヤトは動いていた。
魔竜が加速し、勢いをつけて降下してくる。イヴはシェーリスを急上昇させて
その一撃をかわし、逆に上空から攻撃を仕掛ける。
 キィンっ!
 鋭い金属音が響く。繰り出した剣の一撃を、カヤトは余裕で弾き返してきた。
反動で態勢が崩れるが、シェーリスが強く翼を羽ばたかせて起こした突風でカ
ヤトを牽制し、追撃を阻む。
 それに対して魔竜が闇の霧を吹きつけてきたためイヴはとっさにシェーリス
を上昇させるが、突風攻撃の直後のためか揚力を生み出せず、上昇高度が低か
った。このため狙ったほどは距離を開けられず、結果。
「えっ!?」
 一瞬後には、闇の霧を突き抜けて来た魔竜の姿が目の前にあった。瞬間の戸
惑いが判断を鈍らせ、回避を遅らせる。繰り出された槍の一撃が左腕を掠めつ
つ髪を数本断ち切り、薄暗い空間に真紅と金とを散らした。
「いっつう……」
 鋭い痛みにイヴは思わず顔をしかめるが、痛がっている暇はない。シェーリ
スを旋回させて距離を開けつつ、イヴは額の汗を拭った。
「どうした、もう終わりか?」
 カヤトが淡々と問いかけてくる。イヴとは対照的に、こちらには疲れた様子
など微塵も感じられない。
(普通にやりあっても、勝てそうにないわね……それなら!)
 それなら奥の手を出すまでの事、と割り切ると、イヴは剣を持つ手を横方向
に真っ直ぐ伸ばして目を閉じた。意識を澄ませ、周囲を漂う風の精霊に呼びか
ける。
(お願い、風の精霊たち……あたしに力を貸して……!)
 祈るような訴えに応えるように剣が淡い緑の光を放ち始めた。力の集中を感
じ取ると、イヴは目を開いて呼吸を整える。
「……はっ!」
 気合と共に振るわれた剣から、緑の光の矢が無数に放たれた。カヤトの表情
が一瞬だけ強張る。魔竜使いは巧みな回避で光の矢をかわしていくが、さすが
に全ては避けきれず、矢の数本がその頬や腕をかすめた。
「……精霊剣、か……他属性の技は、初めて見た……」
 光の矢のラッシュが一段落すると、カヤトは頬に手をやりつつ低く呟いた。
光の矢がかすめた頬には紅い線が引かれている。
「しかし……気の練り方が足りんな。それだけの力があるのなら……」 
 頬を濡らす真紅を拭い取ったカヤトは、相変わらず低い声で言いつつ槍を横
方向に構えた。鈍い銀の穂先に、黒い光が集中して行く。
「まさか……あの子も使えるの!?」
 その光が意味するものに気づいたイヴは、動転した呟きをもらしていた。
「……もう少し、マシな攻撃をして見せろ!」
 気迫と共に槍が振るわれ、黒い光の弾丸が六つ飛び立つ。黒い光は絡み合う
ように飛びつつその勢いを増し、最終的には一つになってイヴ突っ込んでくる。
避けられない、と判断したイヴはとっさに守護陣を展開した。
 バシュっ!
 激しい音と共に閃光が走り、大気が激しく振動する。守護陣はかろうじて弾
丸をうけとめるものの、弾き返すには到らない。
(なんて、力……抑えるだけで精一杯なんて……これじゃ……)
 激しい力の波動が心に不安を呼び込み、一瞬生じた迷いが力の均衡を乱した。
ほんの一瞬、障壁が弱まった隙を突き、弾丸が守護陣を突き抜ける。
「……っ!?」
 息を飲む、その瞬間には弾丸は目前に迫っている。
「シェーリス、頭、下げてっ!」
 とっさの判断でこう叫ぶと、イヴは剣を横薙ぎに振るった。嵐竜の頭上を刃
が掠め、光の弾丸を両断する。両断された弾丸は内包していた力を暴発させ、
瞬間、その場に力の嵐を引き起こした。衝撃にまともに煽られたイヴはバラン
スを崩し、海に落ちる直前に態勢を立て直して濁った海に着水した。一方のカ
ヤトは素早い回避でエネルギーを避け、海面で息を整えるイヴの前にふわりと
舞い降り、無言で槍を突きつけてきた。
「……勝負、あったな」
 静かな言葉と気迫にイヴは反論を封じられてしまう。正直、これ以上戦った
ところで勝ち目がないのは感じていた。
「貴様らには貴様らの考えもあろうが、オレにはオレのやり方がある。そして、
オレは何者にも干渉されるいわれはない……言いたい事は、それだけだ」
 イヴの喉元にぴたりと狙いを定めたまま、カヤトは淡々とこう言いきった。
真紅の瞳は相変わらず無表情のままだ。何の感慨もなく、他者を殺められる者
の瞳――どこか幼さの抜けきらない少年の瞳としては、恐ろしいものがある。
「……あいつ、かなりの場数を踏んでるな」
 冷たい瞳にアヴェルがこんな呟きをもらす。直後にその冷たい瞳が魔導師に
向けられた。カヤトは睨むようにアヴェルを見ていたが、やがて、何かに気付
いたようにはっと海面に目をやった。同時に、イヴも海の中に気配を感じる。
「この感じ……まさか!?」
 呟いた直後に、海の中から一条の雷光が放たれ、大気を切り裂いた。

← BACK 目次へ NEXT →