目次へ


   4 怒りは狂気に、狂気は異変に

 幾度、その光景を忘れようとしたのかわからない。
 しかし、その光景は記憶に焼き付き、あれから二年が過ぎた今でも鮮烈に蘇
ってくる。
 悲しげな表情で、嵐の海の中に消えて行った幼なじみ。
 止める事ができなかった。救う事もできなかった。
 自分は無力だと思い知らされ、同時に、彼女をそこまで追い詰めた者が許せ
なくなった。

 そう……自分も、含めて。

 一族の他の者が島に見切りをつけて立ち去っても、彼はここに残る事を選ん
だ。
 許せないから。
 殺しても、飽き足りないくらいに。
 殺すのがとても簡単だからなおの事、それを選び取りたくはなかったのだ。
 飛来し、家を焼き、じわじわと追い詰めていく。それが復讐の手段として選
んだもの。

 それが、自らの心をじわじわと殺す手段であると知りながら。
 そして、その先に何が待ちうけるのかも知らないままで。

 ……グゥウウウウ……
 薄紫色の雷竜が、不安げな声を上げる。雷竜はお世辞にも穏やかとは言えな
い表情で眠る自らのパートナーを、じっと見つめた。
 いつからか、彼は笑わなくなった。黙々と、作業のように島の者を追い詰め
るだけの日々を繰り返し、少しずつ表情が失われているのがわかる。
 だが、雷竜にはどうする事もできなかった。
 彼の深い悲しみと、激しい怒りがわかるからだ。
 自分にできるのは、彼の意に沿う事。
 それだけだと、雷竜は思っていた。
 グゥウウウウウ……
 低い唸り声を上げて、雷竜は目を閉じる。
 自らの中に、何か異質な力が息づくのを感じながら。

「……あのさ、オレ、思うんだけど」
 ひとまず島を離れ、行動拠点となっている浮島まで戻るとイヴはアヴェルに
守護神から聞いた事情を話して聞かせた。アヴェルは黙ってそれを聞いていた
が、一通り話を聞くと額に手を当てつつ、ため息と共にこんな言葉を吐き出し
た。
「それってさ……も、救いようがカケラもなくない?」
「はっきり言わないでよっ」
 呆れたような物言いに、イヴはむっとしてこう返す。アヴェルはまた、やれ
やれ、という感じでため息をついた。
「そりゃまあ、ねえ……そんなくだらない事で島一つ沈みかけてるってーのは、
どうかとは思うけどねぇ」
「思うけど、何よ? 何か、不服?」
「うん、かなり」
 いじけたように問うと、アヴェルはにっこり笑ってこう返してきた。やけに
朗らかな物言いに、イヴはかちん、とくる。
「そんな事言ったって……ほっとけないじゃない! 島が沈んだらっ……」
「『直接関係ない人たちまで沈む』ってのは、ナシね。そうなった責任は、島
の住人全員にあるんだから」
 感情的な反論を、アヴェルは一言で封じ込めてしまった。静かな瞳に、イヴ
は反論する術を無くして口篭もる。
「それは……そうだろうけど……だけどっ……」
 だけど、放っておきたくなかった。その言葉は声にならず、イヴは唇を噛ん
で俯いてしまう。
 救う余地がない、というアヴェルの言葉が正しいのは、理解できる。彼らは
自らの護り手の全てを否定したのだから。たとえその否定が総意ではないにし
ても、一人の暴挙を止められなかった――いや、止めようとしなかったのだ。
 しかし、それでも。
 否定されてもなお、島を護ろうとする守護神と接した事で、イヴの中であの
島を救いたい、という気持ちはより一層強くなっていた。このまま、何もせず
に立ち去りたくはなかった。それがどんな結果をもたらすにせよ、このままで
終わりにはしたくなかった。
 アヴェルはしばし俯くイヴを見つめていたが、やがて、やれやれ、と言う感
じのため息をついた。
「まったく……君は、優し過ぎ。そんなに背負い込まなくてもいいだろうに」
 言葉と共に頭の上にぽん、と手が乗せられたのがわかった。上目遣いに上げ
た視線を、アヴェルは笑って受け止めてくれる。
「ま、取りあえずは、具体的にどうするか、だな。失われた護り手が戻ればい
い、とは言っても……」
 手を離したアヴェルは腕組みしつつ思案を巡らせる。とはいえ、思案を巡ら
せるまでも無く、その方法は一つしかないのだ。
「彼を……ブランシュを、島に戻さなきゃ。破壊者としてではなく……護り手
として」
 思いを込めて、イヴは唯一の解決策を口にした。アヴェルは一つ息を吐き、
そうだよねえ、と呟く。
「とはいえ、一筋縄じゃあいかないと思うよ?」
「わかってるわ。でも……約束、したから、あの島の守護神と」
 きっぱりと言いきると、イヴは立ち上がった。アヴェルも立ち上がり、ちら、
と降りしきる雨の帳を見る。
「いずれにしろ、この雨を止ませるには、それしかなさそうだしね……行って、
みますか?」
 冗談めかした言葉にうん、と頷いて、イヴは竜たちを振り返る。仔竜たちは
こくこくと頷き、嵐竜は大きく翼を羽ばたかせる事で同意を示した。
「行きましょう……もう一度、彼の所に」

 雨の中を蒼い竜が飛んで行く。その竜がどこへ向かっているのか、真紅の瞳
の少年はすぐに理解した。
「……抗えると、思っているのか?」
 呆れたような口調で呟くと、カヤトは一つ息を吐いた。
 グゥウウウ……
 傍らの魔竜が、低い唸りを上げる。カヤトはちらりとそちらを見、再び雨の
降りしきる空を見上げた。
「時間の問題なのだがな……ヤツに、抗うだけの力はない。だが……」
 言葉が途切れ、少年の口元に冷たい笑みが浮かぶ。
「……見てみるのも面白いかも知れんな。もたらされる結末に、ヤツらがどん
な反応をするのか、を」
 低く呟くと、カヤトは魔竜に飛び乗った。魔竜は大きく身体を震わせ、雨の
中へと飛び立っていく。

 岩山周辺の海は、昨日訪れた時よりも荒れているように思えた。どうやら根
無しらしいその岩山は波に揺られ、不安定に漂っている。
「……守護神の力の乱れ、相当影響でてるようだな」
 その荒れに、アヴェルが冷静な口調でこう呟いた。それにそうね、と相槌を
打ちつつ、イヴはどうしたものかと思案する。海の荒れのおかげで、昨日とは
また違った理由で海中通路の調査は難しそうだった。
「これじゃ、説得に行く所じゃないわよね……」
 思わずこんな呟きをもらした時、海面が不自然に揺れた。
 ……きゃうっ!
 ……きゅうううっ!!
 それとほぼ同時に、ティムリィとシャイレルが甲高い声を上げる。
「なっ……どうしたの、突然……っ!?」
 突然の事に戸惑いつつ呼びかけた直後に、イヴは仔竜たちに声を上げさせた
ものに気がついた。
「やだ……なによ、コレっ……」
 海の中から、何か重苦しい力が感じられる。重く圧し掛かり、全てを押し潰
そうとしているような、そんな力だ。
(何なのコレ……気持ち悪い……)
 圧し掛かる力は不快感を醸し、イヴは半ば無意識の内に手綱から片手を離し
て口元に当てていた。
「こいつは……」
 その一方で、アヴェルはその力が何であるかに気付いたようだった。魔導師
は厳しく表情を引き締めつつシャイレルを肩から離し、イヴ、ティムリィと共
に自分のマントの中に包み込んだ。
「きゃっ!? な、何よ、いきなりっ!?」
「気をしっかり持てよ。でないと、飲まれかねない」
 突然の事にぎょっとして振り返ると、アヴェルは真面目な面持ちでこう言っ
た。
「飲まれる……って?」
「こういう手合いの波動ってのはね、無作為に周りのモノを飲み込みたがるん
だよ。チビさんたちが怯えてるのは、引き込まれるモノを感じてるからだろう
な。ついでに……」
 ここで、アヴェルは意味ありげに言葉を切る。
「ついでに……な、何よ?」
「君みたいに、無垢な心の持ち主も、飲まれやすいんでね。気をつけて」
 途切れた先を促すとアヴェルは表情を微かに緩めてこう続け、それから、強
引にイヴを振り向かせて唇を奪った。
「あ、あのねえ、こんな時にっ……」
 唇が離れるとイヴは頬を染めつつ文句を言うが、
「こんな時だからこそ、緊張をほぐす必要があるんだって……ほら、出てくる
よ」
 アヴェルはそれを軽く受け流した。紫の瞳が波打つ海面に向けられ、その視
線を追うように、イヴも海面を見た。海面の揺れが大きくなり、その中心から
薄紫色の影が飛び出してくる。イヴはとっさにシェーリスを上昇させ、それと
の衝突を避けた。
「……ちっ……まだ、いたのかよ、あんた……」
 苛立ちを帯びた低い声が呼びかけてくる。飛び出してきたもの――薄紫の雷
竜に跨った竜使いは、憎々しげな目をイヴに向けていた。鬼気迫るその様子に、
イヴは一瞬気圧される。先ほどから感じている重苦しい力が、視線を合わせる
事でより一層その重圧を増したように思えた。
「言ったはずだ……『さっさとどっか行っちまえ』ってな」
「そう言われて、はいそうですか、で引き下がれる状況でもないわよっ!」
 冷たい言葉にイヴは叫ぶようにこう返す。ブランシュは睨むようにイヴを見
つつ、忌々しげに鼻を鳴らした。
「引き下がれないから、どうするって言うんだよ?」
「島に戻ってあげて! このままじゃ、守護神が消えて、沈んでしまう!」
 露骨な苛立ちを込めた投げやりな問いに、イヴはストレートにこう訴えた。
ブランシュはほんの一瞬訝るように眉を寄せ、それから、はあ? とわざとら
しい声を上げる。
「あんた、何言ってんだ?」
「何、じゃないわよ! 護り手と聖域を失って、守護神はもうすぐ消えてしま
う……あなたが戻らなければ、護りの力を失ったあの島は沈んでしまうの! 
だから……」
 だから戻ってあげて、というイヴの訴えは、笑い声に遮られた。狂ったよう
なその笑いに、イヴもアヴェルも呆然としつつ声の主、即ちブランシュを見る。
「な……何がおかしいのよ!?」
「何が? 何もかも全部おかしいね!」
 我に返ったイヴの問いにブランシュは笑いながらこう答えた。
「何もかも、ですって!?」
「ああ、何もかも、だね。守護神が消える? 島が沈む? ……結構な事だね!
あのふざけた連中が島ごと消える? 最高だよ!!」
「なっ……」
 狂ったような笑いと共に放たれた言葉にイヴは絶句する。アヴェルも厳しい
面持ちで眉を寄せた。ブランシュは楽しくて仕方ない、と言わんばかりに笑い
続けている。その様は、おおよそ正気とは思い難かった。
「あなた……自分が、何を言ってるのか……」
「わかってるのか、って? わかってるさ! オレが手を下さなくとも、ヤツ
らが滅ぶんだろ? こんな楽な事はないじゃねえか? 島が沈むんなら、その
瞬間をじっくり拝んでやるさ……そう……荒れた海に沈むのがどんなに辛いの
か、身を持って味わってもらうのも、悪くない!」
「……そんな……そんなのって……」
「リシアは、海に沈められたんだ! だから、ヤツらも沈めばいいんだよ!」
「……え……」
 何をどう言えばいいのか、わからなくなった。イヴは呆然と笑い続ける雷竜
使いを見つめる。しかし、ブランシュはその瞳の戸惑いや悲しみに気付く様子
もなく、ただ、狂ったように笑うだけだ。
「……末期症状だな。完全に、イカレちまってる……」
 場で唯一冷静さを失っていないアヴェルが小声で吐き捨てる。
『……こわい……』
 不意に聞こえた震える声が、イヴを我に返らせた。先ほどアヴェルによって
腕の中に押し込まれたシャイレルが小刻みに震えている。シャイレルだけでは
なく、ティムリィも微かに震えているようだった。
「シャイレル、ティムリィ?」
『あのおいちゃん……こわれちゃうよ』
「え?」
 そっと名を呼ぶとシャイレルが震える声で応え、その言葉にイヴは眉を寄せ
た。
「壊れちゃう……って?」
『あの、いかずちのおいちゃん……こわれちゃう』
「ど……どう言う事?」
 戸惑いながら、更に問いを継いだその時。
 グゥゥゥゥゥ……グアゥルルルルルルゥゥっ!!
 何の前触れもなく、ブランシュの雷竜が咆哮した。咆哮というよりは、絶叫
と言うべきかも知れないが。それと共に先ほどから感じていた重圧がより一層
強くなり、イヴは一瞬身をすくませる。
「イヴ、気をしっかり持て!」
 アヴェルが慌てたように呼びかけてくるが、言われてすぐに実行できるもの
でもない。正直、手綱を放さないでいるだけで精一杯だった。アヴェルが支え
ていてくれているから何とかなっているが、でなければシェーリスから滑り落
ちかねない状態なのだ。
「ちっ……嵐竜くん、少しあいつらから離れろ! イヴやチビたちが危険だ!」
 そんなイヴの様子に処置なし、と悟ったのか、アヴェルはシェーリスに直接
訴える。状況を理解しているのか、嵐竜は低く唸ると翼を大きく羽ばたかせて
雷竜から距離を取った。それによって重圧が微かに和らぎ、イヴはひとまず落
ち着きを取り戻す。だが、仔竜たちの震えは静まるどころかその激しさを増し
ていた。
「なに……何が、起きてるのよ……?」
 震える声で疑問を口にしつつ、イヴは雷竜の方を見る。ブランシュはイヴた
ちが距離を取った事にも気づいた様子はなく、狂ったように笑い続けていた。
もはや誰の目にも、彼が正気を失っているのは明らかだ。
「こんなのって……どうすれば……」
 最悪に近い状況に、イヴはかすれた声でこう呟いた。
「精神に働きかけて、強引に落ち着かせるしかない、か、こりゃ……」
 アヴェルがほぼ唯一と思われる解決策を口にする。イヴは不安げに後ろを振
り返り、できるの? と問いかけた。
「ああ。こうなっちまうともう、他に方法が……」
 他に方法がない、と言うよりも、全ての方法が失われる方が、ほんの少しだ
け早かったようだった。
 グギェェェェェェェェェっ!!
 雷竜が、一際鋭い声を上げた。苦しげな響きを帯びたその声にイヴとアヴェ
ルははっとそちらを見やり、
「な……何?」
「……こいつは……」
 目に映った光景に絶句した。
 めき……ばき、ばき……
 鈍い音が雨音を制して響いていく。雷竜に着けられていた鞍や手綱が、音を
立てて千切れ飛んだ。薄紫色の鱗がびちびちという嫌な音を立てながら爆ぜ、
雷竜の、どちらかと言うと細身の体躯が不自然に膨れ上がっていく。
「な……なん、なの? 何が、起きてる、の?」
 呆然と呟く言葉には、誰一人答える術を持たない。イヴは呆然と雷竜の異変
を凝視し、やがてある事に気がついてひっ、と声を上げつつ大きく身体を震わ
せた。
「イヴ、どうした!?」
 突然の震えに驚いたのか、アヴェルが上擦った声で問いかけてくる。
「あ、あの子……あの、雷竜……」
「あの雷竜が、どしたって!?」
「主を……自分の中に……取り込んで、る……」
 問いかけに震える声で答えると、アヴェルはさすがにぎょっとしたようだっ
た。
「と、取り込んでるって……」
「取り込んでる……自分の中に……同化、しようとしてるの……?」
 理解の範疇を超えた事態に、イヴはただ呆然としていた。その間にもめきめ
き、ばきばきという音は響き、雷竜の身体は膨張していく。そしてそれに連れ
て、ブランシュの身体が薄紫の中に飲み込まれていくのだ。既に足は見えず、
身体も半分は取り込まれている。そして、そんな異常な状況にあってなお、ブ
ランシュは笑っていた。
「……イカレすぎだぜ、おい……」
 その様子にアヴェルが低く吐き捨てる。イヴは再び吐き気を覚えて口元に手
を当てた。今、目の前で起きている事への不快さもあるが、何より、圧し掛か
るような感触がどんどん強くなっているのだ。腕の中でティムリィとシャイレ
ルが身を寄せ合って震えているのがはっきりとわかるし、シェーリスも落ち着
かない。
(何なのよ、これ……どうなってるの? こんな現象、見た事も、聞いた事も
ないわよっ!)
 少なくとも、祖父から伝授された竜と竜使いの知識の中にはこんな、異常事
態に関するものはなかった。それ故に、何が起きているのか全く理解できない。
ただ、今目の前で起きているのが『起きてはならない事態』である事だけは、
はっきりと理解できた。
「イヴ、一度ここを離れた方が……」
 こちらも苦しくなってきたのか、アヴェルが早口にこう囁いてきた。それに
イヴが答えるよりも早く、先ほどまで響いていた狂気の笑い声が止む。雷竜、
いやかつて雷竜であったものの背に、竜使いの姿は見えない。そして竜そのも
のも、その姿形を大きく違えていた。体型が人間と同じ、二足歩行を前提とし
たものに変わっている。とはいえその身を覆う鱗と頭部の形態、そして大きく
開いた翼は、紛れも無い竜のそれだ。
 フシュウウウウ……
 牙の並んだその口から、息のようなものがもれる。直後にそれはくわっと口
を開き、イヴたちめがけて雷光のブレスを放った。
「きゃっ……」
「ちっ!」
 呆然としていたイヴは突然の事に対処できず、回避が遅れた。だが、アヴェ
ルが素早く障壁を張り巡らせて雷光を弾く。標的を捕え損ねた事にそれは不愉
快そうに喉を鳴らすものの、それ以上は攻撃する事なく、翼を羽ばたかせて飛
び去った。
「どこに行くんだ、あれ……」
 アヴェルが訝るように呟く。イヴはかつて雷竜だったものが飛び去った方角
を確かめ、息を飲んだ。
「あっちは確か……シェーリス、追って!」
 慌てて出した指示にシェーリスはすぐに従ってくれた。紺碧の翼が大気を打
ち、嵐竜は滑るように雨の中を飛び始める。
「イヴ、どうした!」
「あの方角……あいつ、あの島に向かってる!」
「何だってぇ!?」
 アヴェルが素っ頓狂な声を上げる。イヴは両手で手綱を握り締めつつ、唇を
噛み締める。

 にわかに緊迫した状況に合わせるように、波と風がその荒さを少しずつ増し
始めていた。

← BACK 目次へ NEXT →