目次へ


 それからは特に大きな騒ぎが起きる事もなく、その三日後に守護神祭りは無
事開かれる事になった……のだが。
「ええっと……これで、あたしにどーしろって……」
 祭りの当日、イヴはラミナに手渡された物に困惑していた。
「どうって……ドレスを着て、漁に出るって話は聞かないわね?」
 困惑するイヴに、ラミナは笑いながらこう答える。例えは妙だが、正論だろ
う。イヴは答えようもなく、手の中の淡い紫のドレスを見つめた。
「そんな、真剣に思い詰めなくてもいいじゃない。それとも、竜使いはお祭り
に着飾れない決まりでもあるの?」
「別に、そんな事は……」
「なら、いいじゃない。まぁ、あたしのお古じゃ気に食わないかも知れないけ
ど、お祭りの夜くらい、女らしくしてみたら? 誰かさんも喜ぶと思うわよ?」
 からかうような言葉にイヴはえ、と目を見張り、
「な……なんであたしが、あいつを喜ばせなきゃなんないのよっ!?」
 直後に大声を上げていた。この反応に、ラミナはくすくすと笑う。
「そんなに怒らないで……それよりほら、お祭りが始まっちゃうわ。早く着替
え、着替え」
「って、あたし、まだ着るとは……」
「い、い、か、ら!」
 着るとは言ってない、という主張は物の見事に黙殺され──結果。
「……ほら、やっぱりね。女らしい恰好の方が似合うじゃない」
 ものの十分もしない内に、イヴは薄紫のドレスに身を包んでいた。同じ色の
リボンを使って髪に白い花を編み込みつつ、ラミナは楽しげにこんな事を言う
が、イヴはこの装いに違和感を感じていた。
(ドレスなんて着るの、何年ぶりだろ……?)
 巫女の力を封じ、竜使いの修行を始めて以来だから、かれこれ九年にはなる
だろうか。そして、九年ぶりの女の装いは、妙に頼り無く、そして、こそばゆ
いようにも感じられた。
「……はい、これでいいわ。それじゃ、行きましょ」
 そうこうしている間にラミナはイヴの髪を整えてしまい、この言葉にイヴは
はため息と共に、はぁい……と頷いた。最早、観念するより他にない。

 守護神祭りにおいて最も重要なもの、即ち、守護神への祈りの祭事と舞の奉
納は、滞る事なく無事に終わった。正直、舞の奉納というのはイヴにとって最
も苦手な時間だった。過去のトラウマが、無意味と知りつつ気持ちを張り詰め
させるのだ。
(そんなに心配しなくてもいいんだよね……もう、あいつはいないんだから)
 とはいえ、トラウマの元凶は既に存在してはいない。そう考えると、気持ち
はかなり楽になった。
 全ての祭事が無事に終われば、祭りは無礼講の宴会と化す。直前まで張り詰
めていた反動もあってか、人々のはしゃぎようは尋常ではなかった。
(……あはは……苦手なのよね、こういう雰囲気って……)
 そして、イヴはこの人的騒音というのがどうにも苦手だった。そもそも、人
がわっと一か所に集まる、その状況そのものが苦手なのだ。故に、イヴは話し
かけてくる人々を適当にあしらいつつ、村の広場を離れて浜の方へと向かう。
広場から離れると辺りは一気に静寂に包まれる。その静けさにイヴはほっと安
堵の息をもらしつつ、ふと前を見やり、
「……あれ? あそこにいるのって……」
 浜辺に佇む二つの人影に気づいて足を止めた。そして、それが誰かを悟った
瞬間、思わず物陰に隠れてしまう。浜辺にはアヴェルと、そして、ラミナの姿
があったのだ。
「いいの、お祭りに出なくても?」
「ああ。騒々しいのは、好きじゃないんでね」
 ラミナの問いにアヴェルは肩をすくめてこう答える。これに、ラミナはそう
でしょうね、と呟いた。
「……そろそろ、行くんでしょう?」
 沈黙を経て、ラミナが静かに問いかけた。
「ああ……ここでやる事は、もうなさそうだしね。幻の探し物まで見つかった
しな」
「……あの子?」
「……絶対に見つからない……そう、思ってたんだけどね。どこがどうなるか、
わからないもんさ……」
「……そう」
 再び、静寂が舞い降りる。波音が響く中、イヴはふと、隠れている自分に疑
問を感じていた。
(あ、あれ? 何してるんだろ、あたし……こんなとこに隠れてる必要、ない
じゃない?)
 とは思うのだがどうにも立ち去り難く、結果、イヴは隠れたままで二人の会
話に耳をそばだてる。
「あのさ、ラミナ……ありがと、な」
「……どうしたの、急に? あたしは、何もしていないと思うけど」
「いやまぁ……確かに、それはそうなんだが」
「あたしは何もしていない……むしろ、あなたにとても大きな存在を残しても
らったくらい。お礼を言いたいのは、こっちだわ」
「そう……かな?」
「ええ、そうよ。この子は、これからのあたしの、そして、島の希望……大事
にさせてもらうわね?」
「……ラミナ……」
 再び、沈黙が訪れた。妙に長い間を訝り、浜辺の方を覗き込んだイヴは直後
にそれを後悔する。二人は互いを支えるように抱き合い、唇を重ねていたのだ。
そしてそれと認識した途端、急に胸が苦しくなるような心地がして、イヴはぎ
ゅっと目をつぶって胸を押さえる。
(やだ……どしたんだろ……別に、気にするようなコトじゃ……)
 気にするような事じゃない、と思おうとすると余計に胸が苦しくなる。ここ
に至り、イヴはようやくここから離れよう、という気になっていた。でないと、
今の自分が壊れるような、そんな気がしていた。
(バカみたい……こんな事で動揺して……)
 こんな事を考えつつ、一歩を踏み出した時、
「それじゃあね、寂しがり屋の魔導師さん! ……さよなら」
 殊更に明るくラミナが言うのが聞こえた。それに、アヴェルがああ、と答え
ている。短いやり取りに戸惑っていると、ラミナが村の方、つまりこちらへ歩
いて来たため、イヴは慌てて縮こまった。ラミナが行ってしまうと周囲は沈黙
に閉ざされ、
「……あ〜あ、まぁたフラれちまったい!」
 自棄っぽい響きのアヴェルの一言がそれを破った。突然の事に呆気に取られ
つつ浜辺の方を見やると、アヴェルは水平線の彼方を見つめて立ち尽くしてい
た。その表情は何というか……妙に、さっぱりしている。
「ま、仕方ないのは、わかってるけどな……ったく、恨むぞ先祖! ……ん?」
 ため息まじりの愚痴は不意に途切れ、アヴェルがこちらを振り返る。突然の
事にイヴは隠れ損ねてしまい、まともに目が合った。
「え? イヴちゃん? いつから……」
「あ、えっと……」
 互いに言葉が途切れてしまい、妙に間の悪い空白が広がる。
「あ〜……っと、そうそう、ちょうど良かった。行くんだろ、オルラナの湖に
さ?」
 その空白を取り払ったのは、アヴェルの方だった。イヴは戸惑いながらもう
ん、と頷く。水の祖竜ルオディアにはまだまだ聞きたい事があるのだ。イヴの
返事にアヴェルは了解、と応じて魔力の門を開く。門を潜れば、深緑に閉ざさ
れた蒼い湖は目の前だ。
「……待っていましたよ……」
 湖につくなり、穏やかな声が二人を出迎えた。意識に響く声ではなく、耳に
聞こえる声だ。突然の事に戸惑っていると水面に光が走り、半透明の女性の姿
が浮かび上がるように現れた。長く伸ばした碧い髪と、同じ色の瞳が美しい。
「あなたは……まさか、ルオディア?」
 困惑しつつ問うと、女性は静かに頷いた。
「なるほどね……精神体を投影してるって訳か。それなら、どんな姿でも取れ
るもんな」
 きょとん、としているイヴの横で、アヴェルが納得したようにこう呟く。
「新たなる祖竜を救って下さった事、感謝します。他の四祖竜も安堵していま
す」
「それはいいけど……あの子、これからどうすればいいの?」
「もし望めるのであれば、しばらくはあなた方に預けたいのです。そしてわた
くしたち、他の祖竜の許へ連れてきて頂きたいのです」
「祖竜の所へ?」
「はい……わたくしたちは祖竜シェルヴェスの失われし力の断片を、それぞれ
が預かっています。それを取り戻す事で、新たな祖竜は、自らの在り方を見い
だせるでしょう」
「つまり、それまであたしに、あの子のマスターをやれって事?」
 イヴの言葉にルオディアははい、と頷いた。
「身勝手は承知の上のお願いです……聞き届けて頂けませんか?」
「……他に、誰もできないんでしょう?」
「……はい」
「なら……仕方ないじゃない。とにかく、やってみるわ」
 内心、不安の種は尽きないものの、イヴはそれを押し隠して微笑ってみせた。
ルオディアはどことなく済まなそうな、でも、安堵した面持ちで、ありがとう、
と頭を下げる。
「新たなる竜の巫女……そして、天霊王よ。地の理の均衡を、あなた方に託し
ます……」
 静かな言葉の直後に、祖竜の姿が大きく揺らいだ。一拍間を置いて、その姿
は碧い光の粒子となって消え失せる。それきり、湖面には細波一つ立たず、湖
畔は静寂に包まれた。
 し────────────ん……
 妙に重い沈黙が場に立ち込める。ちら、とアヴェルの方を見ると、同じよう
にこちらを見やった紫水晶の瞳と目が合った。アヴェルはしげしげとイヴの姿
を見、それから、こんな問いを投げかけてきた。
「それにしても……今夜は随分とまた、女らしい装いなんだね?」
「え!? こ、これはその……な、成り行きよ、な、り、ゆ、き!」
 からかうような問いに、イヴはとっさにこう答えていた。アヴェルはふーん
と言いつつイヴを見つめる。
「でもいいよ、凄く似合ってる。可愛いよ」
「……え……」
 短い言葉に、何故か胸が高鳴った。頬が熱くなるのが感じられ、イヴはとっ
さにアヴェルに背を向ける。
「お、おだてたって、何にもださないわよ!」
「そんなんじゃないって……って、あれ? もしかして、照れてる?」
「違うわよっ!!」
「まぁたまた……ほんと、素直じゃないなぁ♪ でも、君のそういうとこ、オ
レは好きだよ」
「べ、別に好いてくれなんて……」
「言わなくてもいいよ、ちゃあ〜んとわかってるから♪」
「って、なにをよっ!? もう、勝手にわからないで……え?」
 半ば怒鳴り声になっての言葉は、途中で途切れた。不意に、背後から包み込
むように抱きすくめられたのだ。
「な……なに、よ、いきなり?」
「……一つだけ、わかってほしい事がある」
 上擦った声で問うと、アヴェルは静かにこう囁いてきた。
「な……なによ?」
「オレにとって、君は世界で唯一の……特別の存在だって事。意味は、わから
なくてもいい……ただ、忘れないでいてくれれば、それでいいから」
 いつになく真剣な物言いに、イヴは戸惑いながら肩ごしに振り返る。が、そ
の困惑を受け止めたのは、相変わらずの茶目っ気を湛えた瞳だった。例によっ
て、切り替えだけはやたらと早い。
「とっころで、君はこれからどうするの? 祭りに戻るのかい?」
 先ほどとは一転、軽い口調で問いかけてくる。その変化に半ば呆れつつ、イ
ヴは戻らない、と短く答えた。
「あんまり好きじゃないの、ああいう雰囲気」
「へぇ……奇遇だね、オレもそうなんだ♪」
「あんたの場合、頭の中が年中お祭りでしょ」
 辛辣な口調で言うと、アヴェルは乾いた声であはは、と笑う。
「んじゃ……このままここで、オトナの一夜を過ごすってのは、どっかな?」
 それから、からかうようにこんな事を囁いてくる。それと共に身体に回され
た腕に力が籠もり、イヴは息を飲んだ。
「なっ、なんでそうなるのよっ!?」
「ほら、ここなら誰にも邪魔されないし?」
「そういう問題じゃないでしょっ!? もう、離して!!」
 言いつつ、何とか逃れようともがいてみるが、思いの外強い腕の力にそれも
ままならない。逃げられない、とわかると心拍が上がり、段々訳がわからなく
なって、その内、泣きだしそうになってきた。
「やれやれ……そんなにムキにならなくてもいいよ。今は、何もしないから」
 そんなイヴの様子にアヴェルはふう、と息を吐き、それから、唐突に腕の力
を緩めた。思わず座り込んだイヴの隣に笑いながら腰を下ろしたアヴェルは、
大きく息をしている肩をひょい、と抱き寄せた。
「今は、何もしないよ。オレが欲しいのは、君の身体だけじゃないからね。身
も心も、全てが欲しいから……まずは、その素直じゃない心の方をオレの物に
する」
 まだ微かに震えているイヴに、アヴェルは微笑いながらこんな事を囁く。こ
の言葉に、イヴはきょとん、と瞬いた。
「こ、心……?」
「そ。言わせてみせるよ、オレを『愛してる』ってね。これから時間をかけて、
ゆ〜っくり、オレが如何にいい男か教えてあげるから♪」
「あ……あのねぇ!! これからも、つきまとうつもりっ!?」
 軽い言葉にぎょっとして問うと、アヴェルは勿論♪ と頷いた。それに、冗
談じゃない、と言おうとして、イヴはふと安堵している自分に気がついた。ア
ヴェルと別れずに済む事に心の一部──と言うか大部分──が、強い安堵を覚
えているのだ。
「か……勝手にすれば!? でも、あたし、言わないからね、そんな事! あん
たなんか、大っ嫌いなんだからっ!!」
 だからと言ってそれを素直に言えるほど、イヴは自分に素直ではなく、結果、
口をついて出たのはこんな言葉だった。アヴェルははいはい、と余裕綽々で応
じている。その態度に苛立たしいものを感じつつ、イヴは改めて、絶対に言う
もんか、と決意を固めていた。

 明けて、翌日。空は見事に晴れ渡り、絶好の出発日和となっていた。
「皆さん、本当にお世話になりました」
 浜辺に集まった人々に、イヴはこう言って頭を下げた。これに、ラドルがい
えいえ、と首を横に振る。
「それは、こちらの言う事です。イヴ殿には何と礼を言えば良いのか……本当
に、感謝しております」
「そんな……あたしは、自分にできる事をやっただけです。島を守ったのだっ
て、結局はこの島の守り手ですもの」
 ラドルの言葉に、イヴは微笑ってこう返す。ラドルは次に、アヴェルの方を
見た。
「アヴェル殿にも、深く感謝しております。新たな血を加えて下さっただけで
なく、島のために尽くして下さった事、礼を言いますぞ」
「それこそ、お気になさらずに。彷徨い人の勤めですからね」
 軽い口調で答えつつ、アヴェルは見送りの人々を見回し、仕方ないか、とい
う感じのため息をついた。イヴも見送りの人々を見回し、何となくその理由に
思い至る。集まった人々の中に、ラミナの姿はなかったのだ。
(だから、何を気にしてるのよ、あたしは)
 こんな事を考えつつ、イヴはシェーリスに飛び乗った。鞍の前には、既にテ
ィムリィがちょこなん、と座っている。
「それでは皆さん、お元気で! イシュファの島に、風と光の恵みの続きます
ように!」
「あなた方の旅路に、大海の恵みが続く事を祈ります……どうか、お元気で!」
 努めて明るく旅立ちの決まり文句を口にすると、レナがこちらも決まり文句
でそれに応えた。アヴェルが後ろにひょい、と飛び乗った所で、イヴはシェー
リスを舞い上がらせる。
「お〜〜い、イヴ、アヴェル〜!」
 浜辺を飛び立ち、神殿島に近づくと、下から声が聞こえてきた。見れば海上
にはフォウルとハーベル、そしてその背に跨がるカイルとレラの姿がある。呼
びかけてきたのは、レラだった。
「いろいろありがと! 元気でね〜!」
 千切れんばかりに手を振るレラにうん、と頷き、敬礼を送るカイルに同じく
敬礼を返すと、イヴはシェーリスを加速させた。神殿島の緑が通りすぎ、周囲
は海と空の二つの青に閉ざされる。
「あ、ところでさ」
 しばらく飛んだ所で、アヴェルがふと思い出したように呼びかけてきた。イ
ヴは何よ、と短く応える。
「このチビ竜なんだけど、名前はどうするんだい?」
「え? 名前って……」
 言われてみれば、決めた覚えはない。どうしたものかと思案しつつ振り返る
と、当の影竜はアヴェルの頭にちょこなん、と掴まり、きょとん、とこちらを
見ている。無邪気な様子に、イヴは口元を綻ばせた。
「そうね、シェルヴェスは一度消滅した竜の名前だし……」
 ここでイヴは一度言葉を切り、それから、新たな祖竜の名に相応しい言葉を
一つ閃いた。
「じゃあね……シャイレル」
『シャイレル?』
「シンプルだね〜、古代魔法言語で『影』かよ。そのまんまだね」
 呆れたように突っ込むアヴェルに、イヴはややムッとしつつ悪い? と問う。
アヴェルは別に、とそれを受け流した。
『シャイレル……それ、なまえ?』
「そう、あなたの名前よ、シャイレル」
『シャイレル……うん、シャイレル、わかった!』
 どこまでも無邪気な反応に、イヴもアヴェルも笑みを禁じえない。何となく
楽しい気分に浸りつつ、イヴは前を見、そして空を見た。
(これから先、どうなるかはわからないけど、でも……)
 少なくとも、孤独に怯える旅路にはならないのは間違いない。そして、その
予感は言いようもなく、心地よく感じられていた。

← BACK 目次へ NEXT →
一章あとがきへ