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   7 守護神祭りの夜

 アヴェル曰くの『残り物の掃除』──即ち、壁となって群がっていた妖魔た
ちの撃退は、さほど苦労せずに終わった。そもそもおこぼれ目当てで集まって
いた連中が強い道理がない、というのもあるが、アヴェルが惜しみなくという
言葉そのままに派手な魔法を披露しては妖魔に勝ち目があるはずもなかった。
「ま、ここに来てからこっち、男共にはペテン師扱いされてる節があったから
ね、オレ。ここらで汚名は返上しないとさ♪」
 文字通りの全開攻撃で妖魔を吹き飛ばしたアヴェルは、呆れ果てるイヴにに
やっと微笑ってこう言った。
 そんなアヴェルの妙な張り切りもあって、朝日が海を透明な茜に染める頃、
神殿島の周囲にはいつもと変わらぬ静寂が取り戻されていた。
「……何か、呆気なかったわね……」
「大物も弱かったからね〜♪」
 島へと戻りつつ、思わずもらした呟きに、アヴェルはお気楽にこう返してき
た。その物言いに、イヴは少しだけかちん、と来る。
「なによ……それじゃ、その弱いのに倒されたあたしの父様はもっと弱かった
って事!?」
「へ? あ、いや、そーゆー意味じゃなくて……あ、まあ、なんだ……」
 ムッとしつつこう言うと、アヴェルは慌ててフォローしようとするが、そも、
フォローのしようがない。
「そんなに怒らなくても……別に、他意はなかったんだって」
 結局フォローしきれなくなったらしく、アヴェルは頭を掻きつつこんな事を
言ってきた。それに、知らないわよ、と冷たく応じてイヴはシェーリスを加速
させる。『巫竜の結界』に包まれたイシュファの島は朝日を受け、美しく輝い
ているように見えた。
「お帰り、イヴっ!」
 浜辺に降りるとすぐ、レラがはしゃいだ声を上げて駆け寄って来た。イヴは
それに、にこっと微笑ってただいま、と応じ、シェーリスから降りる。
「イヴ殿! これで……全て、終わったのですか?」
 続けて駆け寄って来たラドルの問いに、イヴははい、と頷いて見せる。
「そうですか……ふう……」
 イヴの返事にラドルは安堵の息をもらし、直後に後ろへ向けてよろめいた。
「と、父さんっ!?」
 すぐ側にいたレラが慌てて支えようとするが間に合わず、ラドルはその場に
座り込んでしまう。膝を突き、顔を覗き込むレラに、ラドルは大丈夫だ、と笑
って応じた。
「何やら、急に気が抜けてな……心配はいらんよ」
「ならいいけど……もぉ、脅かさないでよ!」
 頬を膨らませるレラと、それに済まんな、と笑いかけるラドルの様子に、イ
ヴはふと、羨ましいものを感じていた。何となく立ち尽くしていると、ティム
リィが飛んできて肩に止まり、頬に身を寄せてくる。振り返ると、シェーリス
が穏やかな瞳でこちらを見ていた。そんな竜たちの優しさにイヴは笑みをもら
しつつ、大丈夫、と答えようとして、
(あ、あれ……?)
 唐突に目眩を感じてよろめいていた。倒れる、と思った時には意識が遠くな
り……。
「……良く倒れるコだね、全く。少し力、使いすぎだよ」
 身体を受け止める暖かい感触と、呆れたような呟きを捉えた直後に気を失っ
ていた。

『……イヴ……』
 その声は、何の前触れもなく意識に触れてきた。幼さを残した少年の声──
それが自分を呼ぶ響きの優しさは、忘れる事は無かった。
『……イヴ……』
 再び声が響く。夢現の狭間を漂いつつ、イヴはやや困惑しながら声の主を呼
んだ。
「アーク? アーク……なの?」
 その瞬間、光が弾けた。光は、イヴにとって懐かしい風景を描く。満開に咲
き乱れる一面の花畑──生まれ育った聖域・リュースの谷だ。その花の中に一
人の少年が佇んでいる。イヴと同じ、月光色の髪と碧い瞳の少年だ。懐かしい
姿に、イヴは震える声でその名を呼ぶ。
「……アーク……」
『イヴ、もう、大丈夫だね』
 呆然とするイヴに、アークはにこっと微笑ってこう言った。
「大丈夫って……アーク?」
『もう、いいから……ぼくたちの事で、自分を責めなくていいから……自分の
力を真っ直ぐに受け止めて……血と、力に押しつぶされないで……』
「そんな……そんな事、いきなり言われても、あたし……どうしていいか……」
『大丈夫だよ、イヴ、もう、一人じゃないから。イヴは、イヴのほんとの運命
を見つけてる……だから、もうぼくに捕らわれなくてもいいんだ……』
「あたしの……ほんとの運命?」
 諭すようなアークの言葉に、イヴは困惑した呟きをもらす。そんなイヴにそ
うさ、と頷くアークの背に光が走り、柔らかな翼を生み出した。そして、アー
クは翼を広げてふわりと舞い上がる。
「……アーク!」
『イヴは一人じゃない。運命を結ぶ者と共にある。だから……血と力に押し潰
されないで。束縛される必要はないから……』
「運命を、結ぶ者……」
『そう……だから、もう大丈夫。ぼくは、父上たちの所に行くよ……イヴ……
じゃあね』
 優しい笑顔の言葉と共に、アークはゆっくりと翼を羽ばたかせる。白い羽が
散り、少年の姿は徐々に空へと溶け込んで……消えた。イヴは夢中でその名を
叫ぶ。
「……アークっ!!」
 そして──光が弾けた。

 目を開けて、最初に写ったのは木の天井だった。落ち着いた色合いの木目の
上に、日差しが柔らかな陰を描いているのがぼんやりと霞んで見える。霞んで
いるのは瞳が濡れているから、と気づくまで少し時間がかかった。それから更
に時間をかけ、自分がどこにいるのかを認識する。長の館の客室だ。
「……あたし、何でここに……えっと……」
 ぼんやりと記憶を辿ってみる。しばらく考えた所で、イヴは島に戻った直後
に、意識を失った事に思い至った。
「結局、また気絶しちゃったんだ……あ〜あ、ここに来てから、こんなのばっ
かり……」
 ため息まじりに呟いて目を閉じ、先ほどの夢に思いを馳せる。数年ぶりに見
た双子の弟の夢。それが単なる意識の泡沫ではないのは感じられる。だが、そ
れと認めるのはほんの少しだけ切ないものがあった。今の夢が意味するもの、
心の片隅で支えとしていた存在との完全な別れを容認するのは、やはり辛い。
「……はぁ……」
 何やら妙に気が重くなって、イヴはため息をもらす。直後にキィ……という
音が耳に届き、イヴは目を開けて身体を起こした。細く開いたドアの向こうに
黒い人影が見え、それを認識した直後に紫水晶の瞳と目が合った。アヴェルだ。
「や、お目覚めだね。気分はどう?」
 目が合うと、アヴェルはひょい、と中に入ってきて軽く問いかけてくる。
「悪くなかったわよ、さっきまではね」
「そ、じゃあ今はいいんだ」
 突き放すように答えるとアヴェルはとぼけた口調でこんな事を言い、その物
言いにイヴはかくん、とバランスを崩した。
「どこからそういう考えが出てくるのよっ!? ほんっとにもう……」
 自信過剰なのか脳天気なのか、とにかくアヴェルにはペースを狂わされる。
思わず額に手を当ててため息をついていると、きゅう、というか細い声が耳に
届いた。ティムリィの声……ではない。訝りながら顔を上げると、アヴェルの
肩の所で黒い塊がもそもそと動いているのが見えた。
「ああ、悪い悪い、お前さんの事、忘れてた」
 軽く言いつつ、アヴェルは肩の上で動くものをひょい、とつまみ上げてイヴ
に渡した。ふんわりした羽毛に包まれた濡れ羽色の小さな竜──闇の祖竜だ。
『もう、だいじょぶ? いたいの、ない?』
 大きな青い瞳をくりくりさせつつ、影竜が問いかけてくる。イヴはにこっと
微笑って、うん、と頷いて見せた。
「っとに、昨日は大騒ぎだったんだぜ? 君が気絶してから白黒のチビ竜が揃
って大泣きしてさ。白の方は嵐竜君がなだめてたんだが、こっちはそうも行か
なくて……一日中、だいじょぶなのって大騒ぎしてさ」
『だって、おきないから……だから……』
 呆れたようなアヴェルの説明に、影竜は細々とこんな事を言う。
「だからじゃないっての! ま、心配だったのはわかるけどな」
 それに、アヴェルはごく自然にこう返し、影竜はきゅう……と鳴いて縮こま
った。そして、イヴは今のやり取りに疑問を感じる。
(あれ? どうして、会話してるのよ、当たり前の顔して!?)
 本来、人と竜は言葉のやり取りをする事はない。竜使いとその竜であれば言
葉に頼らない意思の疎通は可能だが、基本的に、人と竜の間で会話が成立する
事はないのだ。イヴの場合は生来の力、即ち、巫女としての高い能力によって
竜の言葉を人の言葉として受け止める事ができるが、これは例外的な事なのだ。
『……どしたの?』
 戸惑うイヴに影竜が不思議そうに呼びかけてきた。アヴェルも怪訝そうにこ
ちらを見ている。それにどう答えたものか、と思案していると、ドアが慌ただ
しくノックされた。
「イヴっ! イヴ、もう起きてるっ!?」
 何事かとそちらを見た直後に慌てふためくカイルの声が聞こえた。イヴは戸
惑いつつ、起きてるわよ、と答える。この返事に勢いよくドアが開き、すっか
り動転したカイルが駆け込んできた。
「ど、どうしたのよ、そんなに慌てて?」
「それが……マリレルが……」
「マリレルって……メスの海竜の事? その子が、どうかしたの?」
「急に、発情したんだよぉ〜!」
「え……」
 いかにも一大事、と言わんばかりのカイルの言葉にイヴは一瞬目を見張り、
直後に思わず吹き出していた。
「って、笑い事じゃないよ!」
「ご、ごめんね……でも、何もそんなに大騒ぎしなくたって……」
「オレに取っては一大事なの! とにかく、竜舎まで来てくれよぉ〜!」
 いささか情けない訴えにはいはい、と頷くと、カイルは頼むよ! と言って
慌ただしく部屋を出て行く。カイルが行ってしまうと、それまで成り行きを見
ていたアヴェルがやれやれ、とため息をつき、きょとん、としている影竜をひ
ょい、とつまみ上げた。
「ちょっと、どうするのよ?」
「あれ? んじゃ、ここにいていいのかな?」
 突然の事を訝って問うと、アヴェルは軽くこう返してきた。言われた意味を
掴みあぐねて、イヴはきょとん、と瞬く。
「だって、着替えるんだろ? 見ててもいいのかな〜? いや、オレはそれで
も一向に構わないけど♪」
「なっ……い、いい訳、ないでしょっ!」
 軽い言葉に大声で返すと、アヴェルは残念そうにやっぱし、と呟いた。

 アヴェルを追い出して着替えを済ませるとすぐ、イヴはリェーン一族の館へ
向かった。竜舎の前ではそわそわと落ち着かないカイルと、こちらは悠然とし
たロイルがイヴを待っていた。
「お待たせ! それで、どうなってるの?」
「それが……ええと……」
 問いかけに、カイルは困惑した様子で口籠もってしまう。
「発情による興奮状態が続いております。まずは、気を鎮めねばならんのです
が……」
 口籠もるカイルの代わりにロイルが説明し、それから、処置なし、と言わん
ばかりにカイルを見た。その言わんとする所を察してイヴはため息をつく。こ
ういう状況では竜使いが竜の気を鎮めるのが常なのだが、今のカイルにそれが
不可能なのは明らかだ。
「いいわ、取りあえずあたしが鎮めてあげる。メス落ち着けば、シェーリス、
慣れてるから大丈夫よ」
「あ……そうなんだ……」
 イヴの言葉にカイルはほっとしたように息をつく。
「申し訳ない、お手数をおかけして……」
 続けてロイルが頭を下げるのに、イヴはいえ、と微笑って見せた。
「でも、シェーリスの方がどう言うかはわからないのよね……結構、好みにう
るさいから」
 直後に眉を寄せつつこんな事を言うと、カイルはぴしいっと音入りで硬直し
た。素直な反応に笑いながら冗談よ、と言うと、カイルはがっくり、と力を抜
く。
「あんまり、脅さないでよ〜……」
「あは、ごめんごめん♪ それじゃ、マリレルの所に行きましょ」
「あ……オレも行くの?」
「……当たり前だ、馬鹿者っ!!」
 情けない声を上げるカイルの後頭部を、ロイルがげしっ!と音入りでどつき
倒す。ハードと言えばハードだが、そんなやり取り一つにも、ついこの間まで
の張り詰めた緊張から解放された安堵が感じられた。
「ほらほら、落ち込んでる間に、やる事やっちゃお! でないと、種付けして
あげられないよ?」
「わ、それ困る、絶対困る!」
 さすがにこの一言はきいたらしく、カイルは瞬時に復活を遂げていた。

 三時間後。
「ふぃぃぃぃ……け、けっこー、大変なんだなぁ……」
 竜舎を出るなり、カイルはがっくり、と肩を落として嘆息した。
「まぁ、初めてだもんね。でも、これでメゲたら、あと、続かないわよ?」
 そんなカイルに、イヴはやや意地悪くこんな事を言う。この一言に、カイル
は更に脱力したらしかった。
(でも、確かに凄かったもんね……)
 成体となって最初の発情と言うのは、若い竜の精神を非常に不安定にする。
それはわかっていたのだが、今回はその不安定さが尋常では無かった。恐らく、
ここしばらくの緊張状態による精神的なストレスに発情期の興奮が重なり、一
種の極限状態に陥っていたのだろう。
「でもさあ……なんて言うか、フクザツな感じだよなぁ……」
 不意にカイルがこんな呟きをもらし、イヴはえ? と言いつつそちらを見た。
「複雑……って?」
「いや、その……上手く、言えないんだけど」
 きょとん、としながら問うと、カイルはこう言ってがじがじと頭を掻いた。
その様子に、イヴはふとある事に思い至る。
「おかしな感じ? 自分の竜が、母竜になるのって」
 この問いにカイルは相変わらず頭を掻きながら空を見上げ、それから、ため
息と共にそうだね、と呟いた。
「でも、ま、いつかはこうなる訳だしさ。良かったんだしね、全く新しい血が
入るんだし。でも……なんかな〜、みょ〜に、フクザツでさぁ……」
「そんな事言っててどーするのよ。大体、属性の異なる竜同士だから、必ずし
も海竜が生まれるとは限らないんだし……しっかりしなきゃダメじゃない」
「え? そーなの!?」
 笑いながら言うと、カイルは素っ頓狂な声を上げた。
「そーなのって……やだ、知らなかったの!?」
 とぼけた物言いにぎょっとして聞き返すと、カイルはうん、と素直に頷いた。
「うんって……あのねぇ。でなかったら、どうして湖竜から海竜が生まれるの
よ? 同属同士なら母竜の種、別属同士なら母竜の属で種は不定って言うのが、
竜の交配の基本法則でしょお?」
 呆れながらの説明に、カイルはへぇ〜と感心したような声を上げる。お気楽
な物言いに、イヴは頭痛を感じて額を押さえた。
「でも、結局生まれて来るのは水竜、湖竜、海竜のどれかなんだろ?」
「まぁね……竜は、完全に母系の種族だから」
「なら、大丈夫。何とかなるよ♪」
 どこまでもどこまでも、カイルの物言いには危機感がない。そのお気楽さに
イヴがため息をついていると、風に乗って二人を呼ぶ声が聞こえてきた。振り
返ると、こちらへ走ってくるレラの姿が目に入る。
「あれ、レラ。どしたの?」
 やって来たレラにカイルがお気楽な口調で問う。この一言に、レラはあのね
ぇ、と言いつつ眉を寄せた。
「もぉ忘れたのぉ? 祭りの前に、もう一回神殿島を見てきてくれって、父さ
んが言ってたじゃないの!」
「え? あ、そうだった!」
「祭りって……そっか、守護神祭りがあるんだったわね」
 イヴの呟きに、レラはうん、と頷いた。
「今年はムリかな、なんて思ってたんだけど、何とかいつも通りにできそうだ
から……あ、そうだイヴ。姉さんがね、村の神殿まで来てくれないかって」
「……レナさん……が?」
 思いも寄らない言葉にきょとん、とするイヴに、レラはまた、うんと頷いた。
「何かね、祭りの禊に入る前に話したい事があるんだって。禊、始めちゃうと、
祭り終わるまで自由きかないからね」
「確かにね……わかった、行ってみるわ」
「ん、そうしてあげて。ほら、カイル、ボクらは見回り! 早く行こっ!」
 言いつつ、レラは有無を言わせずカイルを引っ張っていく。何とも微笑まし
い様子にイヴは笑みをもらし、それから、一つため息をついた。
「お祭り、か……それじゃ、そろそろ出発の準備もしなきゃね……」
 ため息と共にこんな呟きを吐き出すと、イヴは気持ちを切り換えた。取りあ
えず客用竜舎へ向かい、ティムリィを連れてくる。種付けのどたばたで忘れら
れていたためか、ややご機嫌斜めの輝竜を宥めすかしつつ、村の神殿へと向か
う。村は祭りの準備で賑わい、すれ違う人々からは緊張から解放された安堵が
強く感じられた。
『みんな、楽しそうだね』
 不意に、ティムリィがこんな呟きをもらした。それにはうん、と何気なく相
づちを打ったものの、輝竜の次の言葉に、イヴは思わず足を止めていた。
『イヴ、がんばったからだね。がんばって、ガマンして、ちから、つかったも
んね』
「……えっ……」
 思いも寄らない言葉だった。確かに、島を消滅させたくない、という思いは
あった。だからこそ巫女としての力を使いもしたが、それは物質的な消滅の忌
避、という意味合いが強かった。
(そっか……そう言えば考えた事、なかったかもね……力を使って誰かに喜ば
れるなんて)
 他者のために力を用いる事、それ自体が稀だったのだから、ある意味当然な
のかも知れない。そして、嫌悪の対象でしかなかった自分の力が、結果的にと
はいえ人の心を癒せた、という事実は、妙にくすぐったく感じられた。
『……イヴ?』
 立ち止まってしまったイヴに、ティムリィが不思議そうに呼びかけてくる。
それに、なんでもない、と応じると、イヴは足早に神殿へと向かった。神殿の
周囲は祭りの準備で賑わっているが、その喧騒をすり抜けて中に入ると、しん
……とした静寂が包み込んでくる。その静寂に佇んでいたレナは、イヴに気づ
くとにこっと微笑んだ。
「ごめんなさい、こんな所までお呼びして。お身体は、もう大丈夫ですか?」
 それから、済まなそうにこう尋ねてくる。それに、イヴはにこっと微笑って
はい、と答えた。
「それで、どうしたんですか? あたしに、何か?」
「はい……その、なんて言うか……イヴ様」
「はい?」
「……ありがとうございます」
「え……?」
 唐突な言葉に、イヴはきょとん、と瞬いた。
「あの時、私の事……叱ってくれて。イヴ様が叱ってくれたから、私、逃げ出
さずに勤めを果たせました」
「レナさん……」
「私、今まで巫女の勤めを軽んじていました。ただ、守護神の声を聞いて、祭
事を執り行うだけの役だと思っていたんです。
 でも、本当はそれだけじゃない……竜使いと共に、島を守る事。それが、巫
女としての一番大切な役目だって……イヴ様のお蔭で、気づく事ができました」
 穏やかな言葉に、イヴは首を横に振る。
「あたしは何もしてません……それは、レナさんが、自分で気づいた事でしょ
う?」
「でも、きっかけを与えて下さったのはイヴ様です。だから……ありがとう」
 イヴの否定に、レナはこう返して微笑む。しばしの空白を経て、二人はどち
らからともなく笑いだした。
「お祭り……頑張ってくださいね」
「はい。どうか、見届けてください」
 一頻り笑ってこんな言葉を交わすと、イヴはそれじゃ、と言って踵を返した。
「あ、あの……」
 神殿を出ようとした直前、レナが上擦った声を上げた。イヴはえ? と言い
つつそちらを振り返る。
「あの……イヴ様は……いえ……何でもありません……」
 振り返ったイヴにレナは何か言いかけるものの、結局、言葉を途中で飲み込
んでしまった。イヴはティムリィと顔を見合わせるものの、レナがそれきり何
も言わないため、神殿を出る。一人残ったレナは、小さくため息をついた。
「結局、聞けなかった……でも、聞くまでもないものね……」
 どことなく寂しげに呟く、その心の内を知る者は……多分、いない。

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