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「……シェーリス、行くわよ!」
 凛とした宣言に、嵐竜は澄んだ声で応えて舞い上がる。高度を取った所でち
ら、と振り返ると、島全体を光の粒子が覆って行くのが見えた。『巫竜の結界』
が発動したらしい。それを確認するとイヴは神殿島に向き直り、島を取り巻く
壁の正体に気がついた。以前、島で戦った妖魔が群がり、壁のように集まって
いるのだ。
「親玉のおこぼれ目当ての雑魚だな。しっかし、数だけはいるねぇ」
 壁の正体に、アヴェルが呆れきった声を上げる。
「あのねぇ……悠長に構えてないで、抜ける方法考えてよ!」
 呑気な物言いについ苛立った声を上げると、アヴェルはわかってますって、
と返してきた。
「一つ聞くけど、光輝の守護陣は張れるかな、元巫女様?」
「それ、イヤミ? ……って、なんであんたがそれ知ってるのよっ!?」
 からかうような問いにムッとした直後に、イヴは疑問を感じて大声を上げて
いた。
「まぁま、そんな細かい事は、後、あと。で、どうなんだい?」
 そんなイヴを軽くいなして、アヴェルは改めてこう問いかけてくる。
「張れるけど……どうするつもり?」
「勿論、強行突破するのさ。魔力弾を先行させて壁に穴を開けて、その後ろを
ついて行く……簡単だろ?」
 事も無げに、飛んでもない事を言う。イヴは一瞬呆気に取られるものの、現
状ではそれが最善手なのは間違いない。故に、イヴは一つため息をついただけ
で、後は何も言わずに意識を集中した。心を澄ませ、精霊たちに呼びかける。
ほどなく、手綱を放した左手に白い光がぽうっと灯った。
「……無垢なる光の力、我が意に沿いて守護の陣と転じよ……」
 低い呟きと共に光を灯した手を天にかざすと、光はふわりと広がり、煌めく
光の球となって二人と二頭を包み込んだ。
「お見事。守護神との関わり一切なしで、ここまでしっかりした陣が張れると
はね……」
 周囲を取り巻く光の美しさに、アヴェルが感心したような声を上げる。
 基本的に、この世界の魔法は精霊と万有物質の存在に基づいている。巫女の
行う祈りの奇跡も魔導師たちの精霊魔法も、基本的な論理は同じなのだ。ただ、
魔導師たちは精霊に直接働きかけ、自在にその力を操れるが、巫女は仕える守
護神の媒介がなければ力を発動する事はできないのが普通なのだ。
 イヴは既に島の巫女としての任を担ってはいないため、本来ならば力の行使
は不可能のはずだが、生来の強大な力は守護神の関与を無用として、その行使
を可能としていた。
「お世辞言っても、何にも出さないわよ」
「はぁいはい、わかってますって♪ さて、次はオレの番だね……よっと」
 素っ気ない言葉に軽く応じて、アヴェルはひょい、と立ち上がる。同時に、
表情がすっと引き締まった。
「古よりの盟約を持ちて命ず……光霊ウィスプ、我に従い、我が下へ集え!」
 鋭い声に応じ、かざした手に光が集まって行く。光はやがて、躍動する光球
となって周囲を明るく照らしだした。
「さて……準備はいいか?」
「いつでも!」
「いい返事だね……それじゃ……行くぜっ!」
 妙に楽しげに言いつつ、アヴェルは光球を妖魔の壁に叩きつける。イヴはす
ぐその後をシェーリスに追わせた。光球は妖魔の壁に食らいつき、大穴を穿ち
ながら突き進む。その後について行くとなれば相当な衝撃波を受けるのだが、
イヴの張った守護陣はそれをものともしなかった。
 やがて黒い壁は終わりを告げ、イヴは眼下に緑の島を捉える。同時に、それ
まで膝を突いていたアヴェルが立ち上がって背後の壁を振り返った。
「こいつはお釣りだ……とっときな!」
 軽い言葉と共に、前方を漂う光球を反転させ、妖魔の壁に叩きつける。閃光
が走り、壁の一部が大きく削り取られた。その光に照らされつつ、イヴはシェ
ーリスを降下させる。
「このまま突っ込む! 落ちても知らないからねっ!」
 宣言と共にイヴは一気にシェーリスを加速させた。まだ立っていたアヴェル
はおっと、と言いつつまた膝を突く。加速したシェーリスは木々の抵抗を守護
陣で受け流し、強引に神殿前に着地した。神殿内には既に何者かが侵入してい
るらしく、封印は破られ、扉は打ち砕かれていた。
「……強引だね。ムダが多いと言うか……」
 転がる瓦礫にアヴェルが呆れたように呟く。イヴは嵐竜から飛び降り、ぽっ
かりと口を開けた神殿の入り口を見つめる。無表情な入り口の奥からは、澱ん
だ瘴気のようなものが感じられた。
「ティムリィ、シェーリスとここで待ってて」
 しばし神殿の奥を見つめると、イヴはこちらに来ようとする輝竜を静かに押
し止めた。
『どして?』
「この奥、凄く強い力が渦巻いてる……あなた、飲まれちゃうかも知れない。
だから、ここで待ってて」
 静かな言葉に輝竜がでもお、と不安げな声を上げるのに、イヴは大丈夫よ、
と微笑って見せる。
「さて、それじゃ行くわよ!」
 表情を引き締めつつアヴェルを振り返ると、魔導師ははいはい、と例によっ
て軽く応じた。口調は軽いが、瞳は厳しい。イヴは一つ深呼吸をして神殿へと
踏み込む。内部には明かりがなく薄暗いため、アヴェルが光球を作って道を照
らした。時折襲ってくる妖魔をなぎ払い、無機質な通路を進んで行く。そうし
て奥へと進むにつれて、イヴは何か、不安らしきものを感じるようになってい
た。自分の不安──ではない。状況に不安がなくはないが、それなら脅えや憤
りが伴うはずはないだろう。
(それじゃ、一体なに? 少なくとも、あたしたちの不安じゃない……だとし
たら……)
「……イヴっ!」
 不意に、鋭い声が名を呼んだ。突然の事にはっと足を止めると、目の前に黒
が翻る。アヴェルが自分を制止して前に出た──と理解した直後に、何かが横
薙ぎに大気を裂いた。
「……えっ!?」
 思わず息を飲むのとアヴェルが膝を突くのとは、ほぼ同時だった。魔導師は
右腕で腹部を抑え、苦しげに顔を歪めている。イヴは状況を理解できずにしば
し呆然としていたが、漂う異臭──血の臭いに我に返った。
「ちょ、ちょっと大丈夫っ!?」
「あんまり……大丈夫じゃない、かも……」
 傍らに膝を突いて上擦った声で問うと、アヴェルは低くこう返した。紫水晶
の瞳は鋭く前方を睨んでいる。その視線を辿り、顔を上げたイヴは、魔力の光
球に浮かび上がる姿にまた息を飲んだ。
「……まさか……」
 青鈍色の鱗に覆われた痩躯、コウモリのそれを思わせる一対の翼。頭部には
ねじれた角が生え、ひょろ長い腕の先には鋭い爪を備えた細い指──そして牙
の並んだ口元に浮かぶ、嘲りの笑み。その全てに、見覚えがあった。十年前に
エルナリュース島を襲い、イヴから家族を奪った異形が目の前に立っていた。
「……あ……」
 身体が震えているのがわかった。十年前の悪夢が脳裏をかすめて過ぎる。そ
れは恐怖と共に激しい怒りを心に呼び起こし、イヴは剣の柄に手をかけていた。
「……ちょい、まち」
 掠れた声と共に、剣を握った手を温かい感触が包み込む。え、と言いつつ振
り返ると、不敵な笑みを浮かべたアヴェルと目があった。
「ちょいまちって……何よ、怪我人はおとなしくしてなさい!」
「そ〜もいかねえって……ここまでイタイ目見せられたのは、久しぶりだしな
……それ相応の、礼は、したい訳よ」
 低く呟く、その端から床に真紅が滴り落ちている。相当な深手なのは明らか
だ。早く手当てをしなければ、生命にも関わるだろう。
「何、バカな事言って……っ!」
 それとわかるだけに押し止めようという試みは、不意の口づけに言葉ごと封
じられた。
「ここは、オレに任せなさいって……君の仕事は、この後だろ? 前座で消耗
しなさんな」
 唇を離したアヴェルは諭すようにこう言うが、イヴとしてはそれで納得は出
来ない。
「でも……でも、あいつは! あいつは、みんなを……父様、母様……それに、
アークを……あたしから、奪った! だから……」
「だから、自分で倒したいって? ……似合わないよ、君には」
「似合うとかどうとかって、そんな問題じゃないわよっ!」
「ま、そう怒らないでさ……大体、気に入らねぇんだよな……見たとこ、大し
た力も無さそうなのに、奇襲に成功したくらいで余裕かましてニヤけてるって
のが」
 微かな怒気をはらんだ口調で言いつつ、アヴェルは異形を見上げた。異形は
ニヤニヤと笑うだけで攻撃を仕掛ける素振りも見せない。十年前と同じ、その
態度は確かに癪にさわる。
「ま、そんな訳で……ぼちぼちこっちもいい頃合いなんでね。せっかく、ブラ
ッディ・ゲートを開かせてくれるってんだから、それ相応の技で応えてやるの
もいいかと思うワケだ」
 言いつつ、アヴェルは足下の血溜まりに手を触れた。滴り落ちた真紅が光を
放ち、それは複雑な文様を含んだ六芒星形を描き出す。魔方陣だ。魔方陣が描
かれると、アヴェルはゆっくりと立ち上がる。出血は、いつの間にか止まって
いた。
「ちょ、ちょっと……」
「とにかく、下がれ。さて、と……ガルヴァルド・ロッド!」
 静かな口調でイヴを遮ったアヴェルは左手を頭上にかざす。閃光が走り、か
ざした手の中に優美な造りの杖が現れた。先端に紫水晶をあしらった漆黒の杖
を両手で持ち、アヴェルはゆっくりと目を閉じる。
「……古より、世の理を司りし者、彼方の刻より世を見守りし者……天地の事
象を天より導く者、理の六霊王よ。我、我が真名において結びし盟約に基づき、
その力の行使を求める……」
 言葉に応じるように杖と、血の魔方陣がそれぞれ光を放つ。異形の表情を僅
かに動揺が掠め、その動揺をアヴェルは冷たい笑みで受け止めた。
「新たなる天霊王アーク・ジェラルド・ランバートの名において命ず。光霊王
ソル! 我が血、我が言を門となし、我の導くまま、愚かなる我が敵に光の洗
礼を与えよ!」
 凛とした声と共に魔方陣から閃光が迸る。光は鎧をまとった女性の姿を形取
り、手にした槍を構えて異形へと突撃した。異形は障壁を張り、それを受け止
めようとした……らしかった。だが、光の乙女の槍はその障壁を突き破り、そ
のまま異形を刺し貫く。
 グ……グオオオオっ!?
 美しい光の粒子が乱舞する。光の乙女の一撃は異形に状況を理解する暇を与
える事なくその存在を無へと還元し、そして消え失せた。
「……盟約の履行……感謝する」
 アヴェルが短く呟くと、その手の杖と足下の魔方陣が消え失せる。直後にア
ヴェルはその場に座り込み、どさっという音が呆然としていたイヴを我に返ら
せた。
「だ、大丈夫!?」
「あんまり、大丈夫じゃない……って、さっきも言わなかったっけ?」
 慌てて問いかけると、アヴェルは短くこう返してきた。口調こそ軽いが、歪
んだ表情と額の汗がダメージの深刻さを物語っている。傷口からはまた、血が
滲んでいた。イヴは力を集中して癒しの光を生み出し、それで傷口を照らしだ
す。光に触れた傷はゆっくりと口を閉じ、やがて消え失せた。
「ふう……さんきゅ、楽になったよ」
 傷が癒えるとアヴェルはいつもの軽い口調でこんな事を言い、イヴはそれを
ジト目で受け止めた。
「あれ……どーかした?」
「……ばか……」
 きょとん、とした問いにイヴは短くこう答える。それしか言えなかったのだ
が、さすがにアヴェルは困惑したらしかった。ある意味、当然の反応だが。
「ばかって……オレが?」
「他に、誰かいるの?」
「いや……いないけど。何で?」
 律儀に周囲を見回してから問うアヴェルに、イヴは小さくため息をついた。
「何で……なんで、あんな危ない事するのよ……それで何かあったら……どう
するつもりだったのよ……ばか……」
 それから途切れがちにこう言って、くるりとアヴェルに背を向ける。仇敵と
の思わぬ遭遇とその呆気ない幕切れに気を緩めてしまった途端、急に泣きたく
なってしまったのだ。それだけならまだしも、アヴェルが無事だった事が大き
な安堵を心にもたらし、それに対する困惑が大きく気持ちを乱していた。
(やだ……もう、こんな時に……)
 とは思うのだが、どうにも気持ちの乱れが静まらない。
「あれ……もしかして、オレの事、心配してくれた……とか?」
 そこにアヴェルがお気楽な口調でこんな問いを投げかけてきた。イヴは思わ
ず、違うわよっ! と大声で返してしまう。この反応にアヴェルはやや引きつ
りながらそう、と呟き、それから、ぽん、とイヴの肩に手を置いた。
「あのさ……ひょっとして、オレが君を庇った事で怒ってる?」
「……だったら?」
「だとしたら、怒らないで欲しいんだよね。それ、オレ的には当然の事だから」
「当然……?」
「そ。本気で惚れた相手のために身体を張るのは、オレ的には当然♪」
「な……」
 一種場違いとも言える物言いに、イヴは毒気を抜かれて絶句する。同時に張
り詰めていたものが一気に緩んだような心地がして、イヴは深く、ふかぁくた
め息をついた。
「あんたって……どうしてそう、お気楽なのよ……?」
 呆れ果てて問うと、アヴェルは軽くさぁ?と返してきた。おどけた物言いが
心をほぐし、イヴは思わず笑みをもらす。
「ほんっと、あんたって訳がわかんないわね。掴み所がないと言うか、掴みた
くないと言うか……」
「褒められた、と思っとくよ、そいつは」
「……勝手にすれば? でも……ありがと」
 小声の呟きにアヴェルがえ? と目を見張った、ちょうどその時。
 ……キシェェェェェっ!
 前方の闇の中から、鋭い声が響いた。二人は表情を引き締めつつ、そちらを
振り返る。
「……今のは……」
「闇の祖竜……この地に、封じられし存在よ」
「ここの、御本尊って訳か……しかし、随分とご機嫌ナナメだね。侵入者を撃
退してやったってのに」
 軽くぼやきつつ、アヴェルはゆっくりと立ち上がる。イヴも立ち上がって今
の声を上げたものの気配を辿った。前方に蟠る闇の中に、強い力が感じられる。
そして、それが放つ激しい憤りと、何故か感じる一かけらの不安と恐怖。混在
する感情がイヴを戸惑わせた。
(何なのかな、これ……あたしのじゃないし、こいつにそんなのあるとは思え
ないし……)
「……来るぞ!」
 戸惑いながら思いを巡らせていたイヴを、アヴェルの声が我に返らせる。と
っさに後ろに飛びずさると、目の前を漆黒の霧のようなものが掠めて過ぎた。
闇属の竜が使う、闇の霧のブレスだ。着地したイヴは、アヴェルが前方に進め
た光球に照らされてそこに立つ存在に息を飲む。
 美しい濡れ羽色の羽毛に包まれた体躯に、見事な翼を備えた竜──十八種の
竜の内、鱗ではなく羽毛を備えた竜は二種類しかいない。一つはティムリィら
光属の輝竜。そしてもう一つが……。
「……影竜……」
 闇属の竜の中でも特に強い力を持つとされる影竜──即ち、今、イヴの眼前
にいる竜だ。影竜は目を真紅に光らせてこちらを睨み付けている。その色彩が、
竜の激しい憤りを物語っていた。
「どーするんだい? これ、どっちかって言うと、こっちが助けて欲しいって
感じだぜ?」
「た……確かにね」
 竜の放つ激しい怒りの波動に気押されつつ、イヴは引きつった声でこう呟い
た。祖竜ルオディアは闇の祖竜を救ってくれと言っていたが、これでは正直、
こちらの身が危うい。
(こんな状況で一体どうしろって言うのよ!? あたしに、何ができるの!?)
 闇の霧をかわしつつ、イヴは苛立たしく自問する。しかし、考えても考えて
も答えはでなかった。苛立ちばかりが募る。そして苛立ちが募れば募るほど、
影竜の攻撃は激しさを増すように思えた。同時に、はっきりしない不安も強く
なって行く。
(この不安……もしかして……)
 ここに至り、イヴはようやくそれに気がついた。先ほどからずっと感じてい
る不安──それが、目の前の影竜のものである可能性に。
(そうか……ルオディアが言ってた。闇の祖竜は標を無くしている……自分を、
見失っているって。それなら……)
 それなら、とにかく気を静めさせ、自らを認識させなくてはならないだろう。
そして、確かにそれは竜使いでなくては難しい事と言えた。
(……助けて、あげなきゃ)
 その瞬間、イヴはごく自然にそう思っていた。竜の巫女の役目とか相手が祖
竜だとか、そういった理屈は一切抜きにして、一人の竜使いとして、暴走する
竜を鎮めたい──そう感じたのだ。
「……イヴちゃん?」
 急に動きを止めたイヴに、アヴェルが怪訝そうに呼びかけてくる。イヴは腰
につけた剣を外すと、持ってて、と言いつつアヴェルに押しつけた。
「も、持っててって……どーするんだよ?」
「剣なんか持ってたら、余計に怯えちゃうでしょ? だから持ってて。落とさ
ないでよ?」
 きょとん、とするアヴェルに素っ気なくこう言うと、イヴはゆっくり影竜に
近づいた。影竜がブレスを吐こうと身構えるのにも構わず、進んで行く。その
態度に影竜は困惑したようにぐうう……と唸り声を上げた。
「……だいじょうぶ、怖くないよ」
 影竜の目の前まで行くと、イヴはにこっと微笑ってこう言った。影竜は警戒
を解こうとはせず、低く唸っている。
「そんなに怯えないで、いじめたりしないから……」
 言葉と共にそっと手を差し伸べると、影竜は首を延ばしてイヴの腕を鋭い牙
に捕らえた。真紅が舞い、激痛と衝撃が身体を貫く。
「……イヴっ!?」
「大丈夫!」
 上擦った声と共に駆け寄ろうとするアヴェルを一言で制すると、イヴは痛み
を堪えつつ、左手で影竜の首筋をそっと撫でてやった。
「ね……大丈夫でしょ? 怖くない……何にも、怖い事なんてないよ……大丈
夫……」
 静かな言葉が、影竜に変化をもたらした。真紅にぎらついていた目が澄んだ
碧に変わり、次いで、細い腕を捕らえていた牙が離れる。
「いい子だね……もういいよ、ムリ、しないで……」
 きゅう……
 イヴの呼びかけに、影竜はその姿に似合わぬ可愛らしい声を上げた。黒い光
が弾け飛び、竜の姿が消え失せる。イヴはゆっくりとその場に膝を突き、未だ
に蟠る闇の中に手を伸ばした。ふんわりと暖かい感触が手に触れる。
「おいで、もういいの……ずっと独りぼっちで、寂しかったんだよね。でも、
もういいの……もう、独りぼっちに怯えなくていいの。だから……こっちにお
いで。ね?」
 優しく言いつつ、イヴは今、手に触れたものをそっと抱き上げた。ふわふわ
した羽毛に包まれた、小さな黒い竜が姿を見せる。ティムリィよりも二回りほ
ど小さな、本当に幼い竜だ。くりっとした碧の瞳が可愛い、という印象を更に
強めている。
「それが……闇の祖竜?」
 いつの間にか傍らにやって来ていたアヴェルが呆れたように問うのに、イヴ
がそうよ、と頷いた時、神殿が大きく揺れた。アヴェルはやれやれ、と言いつ
つイヴの腕の傷に手をかざす。癒しの光が灯り、鋭い牙の跡が消えて行く。
「何はともあれ……まずは、残り物の掃除をしちまおうか?」
 軽い言葉にイヴはそうね、と頷き、腕の中の影竜も同意するようにきゅう、
と鳴いた。

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