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   6 荒霊鎮め

 日暮れが近づくと、世界は一つの色彩に染め上げられる。碧い海面は色を沈
め、やがて、空を写した茜色に染まっていく。茜は紫を経て青へと変わり、や
がて、深い夜蒼色が世界を染めるのだ。
「ふわ……なんっか、この頃寒いよなぁ……」
 海竜フォウルの背でその変化を眺めつつ、カイルは欠伸混じりにこう呟いた。
神殿島の異変が発覚して以来、少しずつだが夜の気温が下がっているように思
える。正直、波打ち際で張り番をする身には厳しい現象だ。
「とはいえ、これがオレの役目だし……文句は言えないよなぁ……」
 つい愚痴っぽく呟いてしまう。島の守護者の任が自ら望んで得たものである
以上、それに文句はつけられない……とわかってはいるが、アヴェルやイヴを
見ていると、自由な彷徨い人も悪くない、と思える時もあった。
 グゥゥ……
 不意に、フォウルが低い唸り声を上げた。顔を上げると、海竜たちの漆黒の
瞳が、物問いたげにこちらを見つめている。その視線に、カイルはちょっと微
笑ってみせた。
「わぁってるよ……自分の役目、投げたりしないって! 心配すんなよお前た
ち」
 明るい口調でこう言うと、海竜たちは安心したように低く喉を鳴らした。直
後に、ハーベルが浜辺を振り返る。何事かとそちらを見たカイルは、
「あれ、レラ……どしたの、こんな時間に?」
 後ろ手に何かを持って立つレラの姿にとぼけた声を上げた。
「ん、ちょっと……今、いいかな?」
 この問いにカイルは神殿島の方を振り返り、特に異変が見られない事を確か
めてから、いいよ、と頷いて浜へ飛び下りた。
「何か、用?」
「ん、用って言うか……これ、差し入れ」
 軽い問いに、レラは後ろ手に持っていた包みを差し出す事で答える。カイル
は手にした槍を浜に刺して包みを受け取る。ずしりと重い包みを開くと緑の木
の葉が顔を出し、それを広げると湯気をたてる蒸し饅頭が二つ現れた。魚と野
菜の餡を穀物の粉を練った皮で包んで蒸し上げた物だ。
「うわっは! 助かったぁ〜、寒いし腹は減るしで、参ってたんだよ〜♪」
「そぉ? でも、味の保証はしないからね」
 声を弾ませるカイルにレラは素っ気なくこう答える。それに、なに言ってん
の、と言いつつ、カイルは浜辺に座り込んで饅頭にかぶりついた。
「ん、美味い♪ やっぱ、レラの饅頭が一番だよ、何たって食いであるしさ♪」
 心底嬉しそうに饅頭を頬張るカイルに、レラはやや照れたようにそっぽを向
いた。
「……ね、カイル」
 カイルが一つ目の饅頭を平らげ、二つ目に取りかかった直後にレラが声を上
げた。カイルは饅頭に噛みついたまま、ん? と言いつつそちらを見る。
「あのさ……大丈夫、だよね」
「……ふえ?」
 突然の問いに、カイルはきょとん、と瞬いた。ともあれ一口目を味わい、飲
み込んでから、改めて何が? と問う。
「だから、これから先……大丈夫、だよね?」
「ああ……大丈夫だよ、きっと」
「きっと?」
「んにゃ……絶対、かな?」
 やや不安げなレラに、カイルははっきりとこう言い切った。
「……どうしてよ?」
「アヴェルとイヴがいるし……オレも、島のために全力出すつもりだしさ。だ
から、大丈夫だって」
 疑わしげな問いにカイルは楽天的な言葉を返し、レラは呆れたように幼なじ
みを見る。カイルは構わずに饅頭を平らげ、よっと言って立ち上がった。
「オレさ、思うんだよね。アヴェルとイヴはこのために、ここに来たんじゃな
いかって」
 波に揺らめく神殿島を見やりつつ、カイルはこんな呟きをもらす。
「このため……って?」
「だからさ、この騒ぎを何とかするために。ま、単なる偶然かも知れないけど」
 きょとん、と問い返すレラにカイルは微笑ってこう答え、それに同意するよ
うにフォウルとハーベルが喉を鳴らした。どこまでも楽観的な物言いに、レラ
はため息をつく。
「怖くないの、カイルは!? この先……この先って、どうなるか全然わかんな
いんだよ!!」
 それから、声を荒らげてこんな問いをぶつけてくる。突然の剣幕にカイルは
やや気押されつつ、そりゃそうだけど、と返した。
「だったらどうして!? 何でそんなに落ち着いて……呑気に構えてられるの!?」
 叫ぶような問いが空に溶け、浜辺は静寂を身にまとう。波の音に閉ざされた
その沈黙は、カイルの短い言葉に破られた。
「ほんとは……怖いよ、オレだって」
 静かな言葉にレラは気勢を削がれ、え? と困惑した声を上げる。
「でもさ、オレは護り手だから。この島の、守護者だから。だから、怖いなん
て言えない……言っちゃダメなんだよ。この島のみんなを護るのが、オレの役
目だから……だから、怖くても言わない。逃げ出しちゃダメなんだ」
 戸惑うレラに、カイルは真面目な面持ちでこう言い切る。その表情には、竜
使いとして島を護ろうとする思い、強い決意があった。
「カイル……」
 初めて目の当たりにする幼なじみの凛々しい表情に、レラは呆然とその名を
呼ぶ。静寂が再び舞い降りるが、それは海竜たちの鋭い声に破られた。ただな
らぬ様子にカイルははっと竜たちを振り返る。
「フォウル、ハーベル、どうし……っ!?」
 問いの途中で、カイルは息を飲んでいた。つい先ほどまで何事もなく波に揺
られていた神殿島の周囲を、黒い雲のような物が取り巻いている。それは意思
ある存在のように蠢き、少しずつ密度を上げているのがやけにはっきりとわか
った。
「カ、カイル……なに、あれ?」
 レラが呆然と問うが、問われた方とて皆目見当もつかない。ただ、竜たちの
様子がそれが単なる自然現象ではない事を物語っている。カイルは島を見つめ
つつ、槍を手に取った。
「レラ……レラは、村に……」
 村に戻って、と言う言葉を遮るように、
 シャアアアアアっ!
 フォウルとハーベルが鋭く警告を発した。波が激しくうねり、浜辺が微かに
揺れるのが感じられる。その間にも神殿島を取り巻く雲は密度と幅を増してゆ
き、ついには島そのものを包み込んでしまった。
「……島が……」
 レラが呆然と呟いたその直後に、空から神殿島を向けて鈍い光が射し込んだ。

「……っ!!」
 それとほぼ同時に駆け抜けた悪寒が、イヴのまどろみを打ち破る。はっと顔
を上げると、アヴェルは肩ごしに振り返るようにして遠くを見ていた。紫水晶
の瞳はいつになく真剣だ。
「ねぇ、今の……」
「異界門が開いたらしいな……ザコが山ほど、神殿島に群がって……デーモン
ロードクラスが一体、島に降りた……な」
 恐る恐るの問いにアヴェルは淡々とこう返す。それから、魔導師はゆっくり
とこちらに向き直って、どうする? と問いかけてきた。
「どうするって……あたし……」
 問われたイヴは目を伏せて口籠もる。迷いはまだ、晴れてはいない。ただ、
このまま捨ておけない、という思いは心にあった。
(このまま放っておいたら、多分、たくさんの存在が失われる……闇の祖竜に、
力の均衡……それに……この島も……?)
 ふと閃いた最後の可能性は、やけに現実味を帯びていた。実際、神殿島に現
れた妖魔たちが祖竜の力を我が物としたなら、それを誇示するために手近にあ
る物、つまりイシュファ島を破壊する可能性は非常に高いだろう。
(そんな……そんなの、ダメ!)
 それと思い当たった瞬間、浮かんだのはこの言葉だった。久しぶりに暖かさ
を感じさせてくれた島とそこに住む人々が、そんな、理不尽な理由で失われる
──それは、認められる事ではない。ならどうするか、という事になれば、結
論は一つだ。
「……行かなきゃ」
 ゆっくりと顔を上げ、小声で、しかしはっきりとこう言いきる。この宣言に
アヴェルは了解、と微笑って頷いた。立ち上がるとすぐ、イヴは剣を腰に下げ
てマントを羽織り、アヴェルは魔力の門を作りだす。門を潜り、戻った村は慌
ただしい雰囲気に包まれていた。
「……イヴ様、アヴェル様!」
 村に戻った、と認識するなり、叫ぶような声が二人を呼んだ。振り返れば、
明らかに動転したレナが今にも泣きそうな様子で立っている。
「良かった、戻って下さったのですね……神殿島が、神殿島が……」
「わかってますよ、大丈夫、オレたちに任しといて下さい」
 震える声で訴えるレナに、アヴェルが優しくこう応える。この言葉でレナは
随分落ち着いたようだった。
(あ……そっか、レナさんも……)
 その様子にふとこんな事を考えてしまうが、今はそれ所ではない。イヴはふ
とした考えを意識の隅に追いやると、気を引き締めてレナに声をかけた。
「巫女殿、すぐに『巫竜の結界』を発動させて下さい」
「……え?」
 イヴの言葉に、レナはとぼけた声を上げる。
「『巫竜の結界』……ですか?」
「ええ。これからどうなるにせよ、守りは万全にすべきです」
 やや厳しい口調で言うと、レナは困ったように目を伏せた。『巫竜の結界』
とは、巫女と竜使いが力を重ねる事で発動する守りの結界の事で、大抵は嵐の
直撃などを避けるのに用いられている。
「でも、私……結界を張った事は……」
 目を伏せたレナは細々とこんな事を呟いた。
「あるないは関係ないでしょう? とにかく、島の安全のために結界を発動さ
せて下さい!」
 重ねて訴えるのにもレナはでも、と口籠もってしまう。イヴは更に言葉を継
ごうとするが、それを遮るように島が大きく揺れた。海の荒れが酷くなってい
るらしい。このままでは神殿島をどうにかする前に、本島が危険な状態に陥り
かねないだろう。
「……巫女殿っ!」
「でも……私……怖い……」
 苛立ちから語気を強めると、レナは消え入りそうな声でこんな事を呟く。弱
気な呟きに苛立ちをかき立てられたイヴは、無言でレナの頬に平手を当ててい
た。乾いた音が周囲に響く。
「あなたは巫女でしょ? 島の護り手でしょ!? 島を護るのは他の誰でもない、
あなたたちの役目でしょ!? 違うの!?」
 早口の問いにレナは頬を抑えて目を伏せた。
「あたしは、あたしの成すべき事をします。だから、あなたも、あなたの成す
べき事をはたして! あなたは……あなたは、必要とされている巫女なんだか
ら……」
 目を伏せたままのレナにこう訴えると、イヴはリェーンの館へ向けて走り出
した。
「やれやれ、手加減ナシだね……」
 その背を見送りつつ、アヴェルがこんな呟きをもらす。それから、アヴェル
はうなだれるレナの肩をぽん、と叩いた。
「でも、今は彼女の方が正しいと言えるかな。島の巫女として、今は行動する
時です」
 静かな言葉に、レナはこくん、と頷いた。アヴェルはそうそう、と満足げに
頷く。
「じゃ、浜辺までご一緒しましょうか」
「……はい」
 軽い言葉に、レナはようやく声を出して、頷いた。

 竜舎に駆け込んだイヴはすぐに嵐竜の背に鞍を着け始めた。外のただならぬ
気配を感じているのか、ティムリィは不安げにぱたぱたと飛び回っている。一
通り作業を終えると、イヴは落ち着かない輝竜を呼んだ。
「ティムリィ、シェーリス……あなたたちの力をあたしに貸して。あたしが、
成すべき事を果たせるように……」
 静かな言葉にティムリィはきょとん、と瞬き、それから、うん、と無邪気に
頷いた。
『……リュースの血の定め……従うのか?』
 シェーリスが静かに問うのに、イヴは首を横に振る。
「それはわからない……でも、今は、この島を護りたい……それだけ」
『そうか……それも、良かろう』
 ため息まじりとも取れる響きの言葉に、イヴはありがと、と微笑んだ。開け
放たれた大扉から嵐竜が外に出ると、イヴは表情を引き締めて鞍に跨がる。輝
竜がその前にちょこなん、と座るとすぐ、嵐竜はふわりと舞い上がった。一ま
ず神殿島の見える浜辺へと向かうと、さして広くない浜には人だかりが出来て
いた。
「よ、準備は良さそうだね」
 波打ち際に降りるとすぐ、アヴェルがいつもと変わらぬ軽い口調で呼びかけ
てきた。それにまぁね、と返しつつ浜を見回すと、こちらを見ていたレナと目
があった。レナは微かに青ざめてはいたが、表情は落ち着いている。
「オレたちが行ってすぐ、『巫竜の結界』を張るってさ。こっちは大丈夫だよ」
「そう……って、今『オレたち』って言った?」
「あれ? もしかして一人で行くつもりだったとか?」
 何気なく相槌を打った直後にふと疑問を感じて問いかけると、アヴェルは軽
くこう返してきた。宛にしていなかった、とは言えないため、イヴはう……と
口籠もって目をそらす。
「イヴ殿、アヴェル殿!」
 そこに、ラドルがばたばたと駆け寄ってきた。例によって、状況について行
けずにいるらしい。
「神殿島が、おかしな雲に覆われてしまいました……一体、これからどうなる
のですか!? 我々はどうすれば……」
「それは……はっきりとは言えません」
 あたふたと問うラドルに、イヴは静かな口調でこう答えた。ラドルと、その
場に集まった人々の間を動揺が駆け抜ける。そのざわめきを制して、イヴは凛
とした声を上げた。
「でも、あたしたちは、最善を尽くします! あたしたちだけじゃない、この
島の護り手たちも! だから……信じて下さい。護ろうとする者を、その心を
……それが、力を与えてくれるから」
 こう言いきると、イヴはカイルの方を見た。カイルはにっと笑って親指を立
てて答える。問うまでもなく、その意は明らかだ。次にレナの方を見やると、
レナはこくん、と一つ頷いた。
「……ちょっと、行く気があるならさっさと乗ってくれる?」
 それからやや素っ気ない口調でアヴェルに声をかけると、魔導師は例によっ
て軽くはいはい、と応じて後ろに乗った。それを確かめると、イヴは改めて神
殿島を見た。島は相変わらず、蠢く壁に包まれている。その壁からは、言いよ
うもなく強い瘴気のようなものが感じられた。微かに覚えのある感触にイヴは
眉を寄せる。
(この感じ……まさかね……)
 ふとこんな事を考え、それから、その考えを振り払うように首を左右に振る。
「イヴ、気をつけてよ!」
 そこにレラがやや不安げに声をかけてきた。イヴは心持ち表情を和らげてう
ん、と頷く。その傍ら、アヴェルは視線を感じてふと振り返り、静かな瞳を向
けるラミナの姿に微かに表情を緩めていた。
「……よそ見してると、落ちるわよ」
 それに気づいたイヴは、低い声でこんな事を言っていた。アヴェルは余裕の
体ではいはい、と応じる。軽い返事に眉を寄せつつ、イヴは手綱をしっかりと
握って神殿島を見つめた。

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