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「え……?」
「着いたよ、オルラナの湖だ」
 大気の変化に戸惑うイヴにアヴェルがからかうように声をかける。はっと周
囲を見回すと、生い茂る木々と静かな水面が目に入った。
「……ここが……」
 呆然と呟いた直後に、アヴェルにすがりついたままの自分に気づいたイヴは
慌てて手を離し、それから、湖のすぐ側に駆け寄って水面を覗き込んだ。鏡面
さながらの湖の上には細波一つなく、覗き込むイヴの顔を鮮やかに映し出す。
そっと手を差し入れてみると、澄みきった水はその姿に相応しい、切り付ける
ような冷たさで包み込んでくる。あまりの冷たさにイヴは慌てて手を引っ込め、
その衝撃が水面をしばしかき乱した。
「つ、つめたぁ〜〜……」
 思わず声を上げている内に水面は静まり、静寂が空間を支配する。イヴは眉
を寄せつつ、冷たく澄んだ水を見つめた。
(まいっちゃうなぁ……こんなに水が冷たいなんて、思わなかった)
 木々に閉ざされ日が差さない、という話からある程度は予想していたものの、
実際に触れた水の冷たさはそれを遙かに越えていた。とはいえ、ここで引き下
がる訳には行かない──こう念じる事で気持ちを奮い立たせると、イヴはマン
トを脱いで剣を腰から外した。ふとアヴェルの方を振り返ると、魔導師は特に
何をするでなく、巨木の根方に腰掛けて梢を眺めている。紫水晶の瞳は、いつ
になくぼんやりとしているようにも見えた。
「さて、と……」
 改めて水面に向き直ると、イヴは深く深呼吸して精神を統一した。それから、
両腕を一気に水に漬ける。冷たさが痺れを伴って腕を包むのを堪えつつ、イヴ
は意識を澄ませた。
『……ようやく来て下さいましたね……新たなる竜の巫女よ』
 それを待ち構えていたかのように、静かな声が意識に触れてくる。穏やかな
響きの女性の声だ。
(あなたは……湖竜オルラナ?)
 イヴの問いを、声はいいえ、と短く否定した。予想外の返事にイヴは戸惑う。
(そんな……それじゃ、あなたは?)
『わたくしの名は……ルオディア。水の祖竜』
(……っ!?)
 何を言えばいいのか、一瞬わからなくなった。祖竜、或いは始竜と呼ばれる
存在──それは文字通り竜の始祖、即ち、十八種の竜の源流とも言うべき存在
である。彼らはその強大さ故に人との関わりを避け、個々の結界の中で眠りに
就いているとされていた。
『巫女よ、わたくしの言葉を聞いて下さい。あなたに、お話ししたい事がある
のです……』
 呆然としていたイヴは、この訴えにはっと我に返った。
(話って……あたしに?)
『はい……できるなら、直接あなたにお会いしたいのですが、今はそれは叶い
ません。ですから、こうして我が眷属を介してあなたに呼びかけているのです』
 こう言われた直後に、イヴはふと気配を感じて顔を上げた。いつの間に現れ
たのか、すぐ側に深い碧色の美しい竜の姿がある。その巨躯から、一見して相
当な齢を重ねているとわかる湖竜だ。恐らくはこの島の古竜オルラナだろう。
澄んだ碧の瞳は静かにイヴを見つめていた。イヴが立ち上がるとオルラナは岸
に身体を寄せてくる。やって来た湖竜の背にイヴはためらいなく飛び乗った。
媒介となっているオルラナと近づく事で、祖竜の声をよりはっきりと聞き取る
ためだ。
(祖竜ルオディア……教えて。あなたは……あなたたちは、あたしに何をさせ
たいの?)
 湖竜の背にもたれつつ、イヴはずっと抱えていた疑問を投げかける。
『……救ってほしいのです……』
 問いに、祖竜は静かにこう答えてきた。
(救う? 神殿島の『標を無くした力』を?)
『そうです……それができるのは、竜の巫女ルディの血と力を受け継ぐ者イ
ヴ・リュース、あなただけなのです』
 静かな言葉に、イヴは唇を噛む。
(竜の巫女の力……あたしにとっては忌まわしいだけの力で、何が救えるの?
この力のせいで……あたしは、全てを失ったのに。家族を亡くして……守ろう
としていた人々には疎まれた。だから、封じて……全部、忘れていたのに! 
なのに、あなたたちはそれを解放させた……あんな回りくどい事までして! 
一体、どうして?)
 憤りを込めて問いかける。聖域での一件が、自分の力の封印を解くために仕
組まれた事なのは、薄々感じていた。ただ、島の守護神に干渉しうる存在など
そうはいないため、誰が何のために、という疑問が残っていたのだ。こうして
交信する事で、あの一件を仕組んだのが祖竜であった事は理解できたものの、
それはそれで疑問を呼び起こしていた。
『……あなたが巫女としての力を嫌悪しているのは承知しています。それでも、
わたくしたちには、あなたのその力以外に頼る存在はないのです』
(だから、どうして!? そもそも、神殿島の地下には、何がいるって言うの!?)
 苛立ちを交えた問いに対する、祖竜の答えは簡潔だった。
『闇の祖竜です』
(え……?)
『正確には、祖竜であった存在……闇の祖竜シェルヴェスの転生した、闇属の
竜が眠っているのです』
 予想外の答えに戸惑うイヴに、祖竜は静かなままで言葉を継ぐ。
(でも……どうして?)
『かつて、一つの戦いがありました。その際、シェルヴェスは戦いに深く干渉
してしまい、結果として力を使い果たしたのです。わたくしたちは消滅する事
叶わぬ存在……故に、シェルヴェスは転生する事で魂を存続させ、眠りに就い
たのですが……』
 ここで、祖竜はためらうように言葉を濁した。
(眠りに就いて……それから?)
 突然の事を訝りつつ続きを促すと、祖竜は二呼吸ほど間を開けてから話を続
けた。
『……眠りは、いつか覚めるもの……新たな祖竜は既に目を覚ましています。
しかし、転生の際に祖竜としての記憶は失われました。恐らく、新たな祖竜は
今、自らの存在、自らの置かれた状況を理解してはいないでしょう……即ち、
標を無くしているのです』
(それが……『標を無くした力』……)
『ええ……そして、困った事に今、祖竜の無垢なる力に引かれた妖魔が島に集
まりつつあります。このままでは、新たな祖竜は妖魔に力を奪われ、消滅する
やも知れません……』
 静かな言葉にイヴは唇を噛む。祖竜の消滅──力ある存在が失われる事が、
世界にいい影響をもたらすとは思い難い。しかし、それとわかっていても、や
はり納得できない部分は多々あった。祖竜もそれをわかっているのか、低い声
でこんな事を言う。
『……強制はしません。ただ、一つだけ……今のこの世界で、わたくしたち祖
竜の声を聞き取れるのは、あなたたちだけなのです……それだけは、わかって
下さい……』
 どことなく寂しげなこの言葉を最後に、祖竜の意識が遠のくのが感じられた。
その言葉の一部に疑問を感じたイヴは、慌てて祖竜を呼び止める。
(ちょっと待って! 『あなたたち』ってそれ、どういう意味!? 教えてって
ば!)
 呼びかけに答えはなく、意識の接触が完全に絶たれた事だけが感じられた。
状況への困惑と祖竜の言葉への疑問が気持ちを塞ぎ、イヴは小さくため息をつ
く。
「あたしに……どうしろって言うのよ……みんな、勝手な事ばっかり……」
 かすれた声で呟いた直後に身体の力が抜けた。慌ててオルラナに掴まろうと
するものの、四肢に力が入らない。落ちる、と思った瞬間、暖かい感触が身体
を受け止めた。
「あ……」
「ほんと、見てて危なっかしいね君は……崖の次は、湖かい?」
 きょとん、としていると、呆れたような声がこんな問いを投げかけてきた。
どうやらまた、落下直前にアヴェルに受け止められたらしい。とはいえ、ここ
は水の上のはず──と思って下を見ると、水面よりも僅かに高い位置にアヴェ
ルの足が浮いているのが見えた。
「浮遊歩行と瞬間移動……初歩の手品だよ」
 不思議がるイヴにアヴェルは微笑いながらこんな説明をつけ、岸へ向けて歩
きだした。二人が岸に着くと、オルラナは安心したように湖に消えて行く。
「ちょ、ちょっと下ろしてよ。ちゃんと、自分で歩けるから……」
「な〜に言ってんの。大体、今なんで落ちかけたワケ、君は?」
 岸に着くとイヴは早口に訴えるが、アヴェルはあっさりとそれを退けた。
「それはそうだけど……」
「わかってるなら、無理はしない! 身体、すっかり冷えきってるんだから、
今はおとなしくしてなって」
 こう言うとアヴェルはイヴを抱えたまま、器用に巨木の根方に腰を下ろした。
そのまま、自分のマントの中にイヴを包み込む。
「あ、ちょっと……」
「大丈夫、何もしやしないよ……心配しなくていい」
 至近距離の接近に焦るイヴに、アヴェルは笑いながらこう囁いた。優しい表
情と声に、イヴは緊張がほぐれるのを感じる。
(……何で、なんだろ。大っ嫌いなのに……大っ嫌いなはずなのに……どうし
て、こんなに落ち着けるんだろ? 側にいて……安心できるんだろ……)
 それと共に、こんな考えが浮かんで消えた。戸惑いを込めて上げた視線を、
穏やかな紫色が受け止める。
「どーかしたのかい?」
 問いかけに、イヴはなんでも、と呟いて目を伏せた。沈黙が周囲を包み込み、
やがて、その重みに耐えかねたイヴはねぇ、とアヴェルに呼びかけていた。
「ん? なに?」
「あたし……どうすればいいのかな……」
「……どう……って?」
「あたし……自分の力が嫌いなのに。その力じゃなきゃ、救えないなんて言わ
れても、どうしていいかわからない……どうすればいいのか……」
 怪訝そうな問いに、イヴは途切れがちにこう答える。
「……自分の力が、嫌いなんだ?」
「だって……だって、あたしの力のせいで、みんな……あたしが力を持ちすぎ
たから……傷ついて……」
 話している内にずっと押し込めてた痛みが蘇るような心地がして、イヴは声
を詰まらせる。アヴェルは静かにイヴを見つめていたが、不意にため息をもら
して梢を見上げた。
「自分の力が嫌い……か。昔、同じ事を言ってたヤツがいたよ」
 それから、唐突にこんな事を呟く。突然の事に、イヴはえ? と言いつつ顔
を上げた。
「そいつは自分の力も血筋も、ついでに自分自身も嫌いっていう始末におえな
い奴でね。生まれ故郷にいるのが嫌になって、彷徨い人になったんだ。あちこ
ち渡り歩いて、いろんな人に会って……少しはマシになったかなって頃に、一
人の女の子と出会ったんだ。
 その子は物凄く、厄介な病気にかかっててね。このままだと、死ぬしかない
……そんな状態だった。そいつは、何とかその子を助けられないかと思った。
自分の力……それで人を救いたいって、そう思ったんだ。だけど……」
 ここでアヴェルは言葉を切り、小さくため息をついた。
「だけど……なに?」
「……少し、遅かったんだ。病気が進み過ぎてて、秘術を使う以外……いや、
それでも難しい。そんな状態だった。術が成功すれば助かるけど、失敗すれば
病気の毒が一気に全身に回って最悪の死に方をする……そんな二択を迫られて
ね。悩んでたそいつに、その子はこう言ったんだ。『キレイなまま、死にたい』
……ってね」
「……そんな……」
「勿論、そいつは反対した。けど、説得する事はできなかった……失敗するか
も知れない……そんな不安を、面に出しちまったからね。絶対成功させる……
そう、言い切る事ができなかった。それができれば何とかなったかも知れない
けど……言えなかったんだ」
「それで……その人、どうしたの?」
 再び言葉を切ったアヴェルに、イヴはそっとこう問いかける。この問いに、
アヴェルはふう、と呆れたように息を吐いた。
「後は……なし崩しさ。周りとも話し合ったけど、結局、押し切られちまった。
ま、実際自信なんてなかった訳だし、無理もないがね。そして、そいつは女の
子に死を誘う眠りの呪いをかけて……そのまま、永眠させた。せめて苦しまな
いようにってね……それしか、できなかったんだよ。情けないがね」
 語り口こそ軽いものの、どことなく苦々しい響きを帯びた声でアヴェルは話
を続ける。紫水晶の瞳には何か、やる瀬ないような陰りが浮かび、その陰りが、
これが他人事ではないと言外に語っているようにも見えた。
(……同じなんだ、あたしと。自分の力……強すぎる力のせいで、傷ついて。
でも、力があるから……それを、ほんとの意味では理解されなくて……)
 力を持つが故の孤独──その耐えがたさは痛いほどにわかる。だからこそ、
イヴは自らの力を封じた。それが仮初めの逃避とわかっていても、そうする以
外に自分を護る術がなかったから……。
『もう少し、自分に素直になりなさい。そして……彼の心をわかってあげて。
それができるのは……あなただけだから』
 ラミナに言われた言葉が、ふと心を過る。言われた時は理解できずに反発を
感じた言葉だが、今ならその意味がわかる気がした。
(でも、あたしだってそんなに強くない……誰かに支えてほしいのに……人を
支えてあげるなんて、無理よ……)
 とはいえ、こんな反発もまた、心の一端を占めているのだが。
「イヴちゃん? どーしたんだい、なんか落ち込んじゃってるけど?」
 考えに沈むイヴにアヴェルが声をかけてきた。イヴは顔を上げ、逆に問いを
投げかける。
「それで……それからその人、どうしたの?」
「え? ああ……女の子を死なせてすぐ、そいつはその島を出たよ。ま、当然
だけどね。気にしなくていいとは言われても、やっぱり居づらいしね……で、
落ち込みながら彷徨ってる時に、放浪の竜使いと知り合ったんだ」
「……竜使い?」
「そ。それで、その竜使いに言われたんだ。『あんた、バカだね』ってね」
「……え?」
「『世の中の不幸、全部背負ってるような顔して、何様のつもり? 人間一人
にできる事なんて、たかが知れてんだよ』ってさ……考えた事もなかったんだ
よな、そんな事。いっつも一人で……それが、当たり前だったからさ。でも、
はっきりそう言われて……初めて、そいつは、自分の心ってモノに目を向けた
……自分の、弱さにね。でも……」
「でも……なに?」
「自分の力を割り切れても……でも、悔いは消えなかった。そいつは、今でも
後悔してるよ。女の子を救えなかった事……救わずに、逃げた事をね」
 途切れた言葉の先を促すと、アヴェルは静かにこう言った。この言葉にイヴ
は唇を噛む。
「……逃げるなって言うの……あたしに?」
「いや……それは、君が決める事だから。オレは、何も言わない」
 つい拗ねたような口調で問うと、アヴェルはこんな答えを返す。
「そんな事言われたって、どうしていいかなんてわかんないわよ。どうして、
あたしなの? どうして……どうして、あたしじゃなきゃいけないのよ!? ど
うして……」
 早口でまくし立てる内に、幼い頃から抱えていた疑問が蘇ってきた。何故自
分には力があるのか、何故自分でなければならないのか……答えの出ない疑問
が胸を塞ぐ。
「……理由なんて、ないんじゃないか?」
 不意に、アヴェルがこんな呟きをもらした。思わぬ言葉にイヴははっと顔を
上げる。
「理由は……ない?」
「あるとしても、誰かの子孫だからだとか、その程度の曖昧なモンだよ。力は、
芽生えるとこには芽生えるもんさ……だから、結局は力のある者が、自分の力
をどう受け止めるか……その方が大事なんだよ」
「自分の力を、どう受け止めるか? じゃあ、あんたはどう思ってるの、自分
の力を……?」
 問いかけに、アヴェルは微かに笑ったようだった。
「こんなもんだ、と思ってるよ。捨てられるモノじゃなし、一生付き合うしか
ないからね。でも、今は多少感謝してるかな」
「感謝? どうして?」
「君と……巡り会わせてくれたから。なぁ〜んてね♪」
 先ほどまでとは一転、茶目っ気を交えた物言いにイヴは毒気を抜かれて目を
見張る。それと同時に張り詰めていた気持ちが急に緩み、イヴは思わず笑い出
していた。
「あれ、そんなに……可笑しかったかな? う〜ん……本心なんだけどなぁ」
 笑いだしたイヴに、アヴェルはぼやくようにこんな事を言う。それも妙に可
笑しく思えて、イヴは更に笑い続ける。つられるようにアヴェルも笑いだし、
湖の辺にはしばし、笑い声が響いた。
 やがて笑い声はゆっくりと静まり、再び静寂が訪れる。冷たく澄みきった大
気の中、アヴェルが真面目な面持ちでイヴの頬に手を触れた。ごく自然に、イ
ヴは目を閉じる。逆らおうという気には何故か全くならなかった。唇が触れ合
い、言い知れぬ安らぎが心を包み込む。今なら、何をされても構わない──そ
んな気さえしていた。
「少し眠った方がいい……オレは、君の側にいる。それは、忘れないでほしい」
 唇が離れると、アヴェルが静かにこう囁いた。イヴはうん、と素直に頷いて
目を閉じる。
(何だか……懐かしい……あったかくて、安心できる……こんな感じ、前にも
あった……かな……)
 こんな事を考えつつ、イヴは眠りの中に沈んで行った。

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