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「……では、神殿島の地下には何か良からぬものがある……そう、仰るのです
か!?」
 聖域での出来事を聞くなりラドルは素っ頓狂な声を上げた。ある程度は予想
していたものの、この反応と解釈にアヴェルは苦笑する。
「まぁ、全く良からぬかどうかはともかく、何かがあるのは間違いないでしょ
うね」
 それからこんな注釈を付け加えるが、ラドルに届いているかどうかは疑わし
い。落ち着きを無くして室内を歩き回るラドルの様子に、アヴェルはやれやれ
とため息をついた。
「ん、じゃあさ、アヴェル。あの化け物って、そいつの手下なのかな?」
 話を聞きながら何やら思案していたカイルが問うと、アヴェルはいや、と短
くそれを否定した。
「あの化け物は闇族の妖魔の中でも、かなり下っぱの連中だ。で、あいつらは
力が過剰に集まってる所を嗅ぎつけて、そこに群がる習性があるんだ。だから、
一概には言えない。ま、とにかく!」
 言いつつ、アヴェルは勢いを付けて立ち上がった。カイルとレナ、そして歩
き回っていたラドルも足を止めて魔導師に注目する。
「オレたちがここで悩んでても、答えは出ない。とにかく今は、彼女の回復を
待とう」
「ええ……そうですわね」
 アヴェルの定義した当たり障りのない意見に、レナが一つ頷いた。
「じゃ、とにかくオレらは神殿島を警戒しとくよ。長、何かあったら、すぐ報
せますね」
 続けてカイルが立ち上がる。この言葉に、ラドルは頼むぞ、と頷いて椅子に
座り込んだ。
「なんかなぁ……長、だいじょぶかなぁ……」
 執務室を出るなり、カイルが呆れたようにこんな事を呟いた。
「言ってやるな、平和続きのとこにいきなり騒ぎが起きて、動転してんだろ」
 苦笑しつつフォローしてはいるが、アヴェルにもカイルと同じ不安があるの
は否めない。とにかく、一連の事件に対するラドルの対応には情けなさ、頼り
無さがついて回っていた。
「ま、ようはそれだけこの島が平和で住み易かったって事でもあるんだ、そう
落ち込みなさんなって!」
「別に落ち込んじゃいないケドさ……ま、いいや。んじゃオレ、館に戻るよ」
 ため息まじりの呟きの後、カイルは気を取り直したらしくいつもの調子でこ
う言った。
「ああ……ところで、イヴちゃんの竜は?」
「へ? ああ、大丈夫、竜舎で休んでるよ。まぁ、チビっ子の方はさすがに不
安そうだけどね。でも、こればっかりは仕方ないよ、多分、卵の絆があるから」
 問いにカイルは軽い口調でこう返し、その中の耳慣れない言葉にアヴェルは
怪訝な面持ちになる。
「……卵の絆?」
「竜と竜使いの、一番強い結びつきの事さ。卵を世話して孵した時、竜と竜使
いの間には凄く強い信頼関係が結ばれるんだよ。オレなんかは、何でかんで三
匹もいるからちょい大雑把って言うか……表には出てこないけど。彼女の場合、
自分で孵したのってあのチビっ子だけみたいだからね。だから、結びつきが特
に強いんだよ」
「……なるほどね……」
 説明を聞きつつ、アヴェルは聖域でのイヴの行動を思い出して妙に納得して
いた。小さな輝竜を必死で守ろうとしてたイヴの行動は、その絆に基づいてい
たのだろう。
「……アヴェル? どったのさ?」
 一人納得しているアヴェルに、カイルが怪訝な面持ちで呼びかける。それに
何でも、と応じると、カイルは特に追求するでなく、じゃね、と言ってリェー
ンの館へ戻って行った。アヴェルはしばしその場に佇み、それから、イヴの部
屋へと足を向ける。ノックをしてドアを開けると、付き添いを任せたレラがこ
ちらを振り返った。
「あ、アヴェルか」
「……様子は?」
「熱とかはないんだけど、凄くうなされてる。何か、やな夢でも見てるみたい」
「……夢?」
 言われてみれば、聖域で意識を失った時もイヴは酷くうなされていた。
(で、起きたと思ったら、オレに抱きついてきたもんな……)
 イヴのアヴェルに対する態度からすれば、それが一種の異常事態なのは明ら
かである。アヴェルはしばし、苦しげな面持ちのイヴを見つめていたが、やが
てレラにじゃ、頼むわ、と声をかけて部屋を出ようと踵を返した。
「……アー……ク……」
 ドアに手をかけた瞬間、イヴが苦しげな声を上げ、アヴェルははっとそちら
を振り返る。突然の事にレラが不思議そうな目を向けた。
「どしたの?」
「え? あ、いや……」
「だから、うわ言だよ。何度も呼んでるんだよね、『アーク』って」
「あ……あ、そう」
 レラの説明に応じるアヴェルは妙に歯切れが悪かった。魔導師はしばし、困
惑したような瞳でイヴを見つめてから部屋を出る。そのまま館を出て空を見上
げると、夜空はやや陰りがちで星は見えなかった。
「……『アーク』……か。偶然……だよな、いくらなんでも」
 妙に真面目な面持ちで呟きつつ、魔導師は夜の黒へと溶け込んで行く。

 アヴェルが夜の闇に消えて間もなく、イヴは悪夢の束縛から逃れて目を覚ま
していた。
「あ……あれ? あたし……」
「気がついた?」
 状況の変化に戸惑い、とぼけた呟きをもらしていると、こんな問いが投げか
けられた。身体を起こして声の方を見ると、心配そうにこちらを見ているレラ
と目が合った。
「レラ? あたし……一体?」
「覚えてないの? 竜から降りようとした時に、気絶しちゃったんだよ。それ
より、だいじょぶ? 随分うなされてたけど……」
 困惑して問うとレラは呆れたように答え、逆に問いを投げかけてくる。それ
に、イヴはうん、と答えて額の汗を拭う。
「ほんとに? 何か顔色良くないよ?」
「え? あ、大丈夫よ。身体の方は、何ともないから……」
 心配そうな問いに、イヴはとっさに笑顔を作って見せた。レラはやや、疑わ
しげに眉を寄せている。
「そ、それよりレラ。ずっと、ついててくれたの?」
 更なる追求を避けるべく早口に問うと、レラは言いかけた問いの代わりにま
ぁね、と頷いた。
「そう、ありがとね」
「気にしないで、姉さんとアヴェルに頼まれただけだから」
「え……あ、そうなんだ……」
 アヴェルの名を聞いた途端、聖域での事が鮮烈に蘇ってきた。心細さに苛ま
れ、思わずすがり付いてしまった胸と、支えてくれた腕の力強さは、今でも身
体に焼きついている。
(や、やだな……あたし、どうしたんだろ?)
 聖域での事が思い出されるのと同時に、何とも奇妙な──心細いような寂し
いような、そんな思いが心にわき上がってきた。その思いが、聖域で抱きしめ
られていた時に感じた安らぎを、更に強く思い起こさせる。それらの思いは集
約し、最終的にはここにアメジストの瞳の魔導師がいない事に対する、言いよ
うのない切なさを感じさせていた。
「……イヴ?」
 心の中の異常事態を持て余すイヴに、レラがそっと呼びかけてきた。それで
我に返ったイヴは、上擦った声でなにっ!? と問い返す。
「なにって……どーしたの、顔、赤いよ?熱でも出た?」
「あ、えと、別に、そんなんじゃ……あ、あたし、ちょっと、外歩いてくるっ!
ティムリィたちの事も気になるからっ!」
 返事に窮したイヴは、早口にこう言って部屋を飛び出していた。後に残った
レラはしばしぽかん、としていたものの、やがて、ふう、と小さく息をつく。
「なんかみんな変なの……姉さんもイヴも、何かあったのかなぁ?」
 呆れたように呟いて、レラは自分の部屋へと戻って行く。
「……一体、どうしたんだろ、あたし……」
 一方のイヴは静かな村の通りを歩きつつ、こんな呟きをもらしていた。夜も
遅い時刻だけに人通りはなく、立ち並ぶ家々も寝静まっている。その静けさは
穏やかな安らぎと共に、言い知れぬ寂しさを感じさせた。
(……あたしって……一人、なんだ)
 ふと、こんな思いが頭を掠める。しかし、それは今までごく当たり前に受け
止めていた事のはずだった。
(そうよ……今更、そんな事で落ち込む必要ないじゃない。お祖父様とお祖母
様が死んで……エルナリュース島を捨てた時から、あたしは一人。島の誰にも
必要とされてないから、巫女の力を封じて彷徨い人になった……だから、誰も
いないし、誰もいらない。それでいいって、決めたんじゃない!)
 にも関わらず、その決意は今、大きく揺らいでいるように感じられた。
(どうして? まさか……あいつのせい?)
 あまり認めたくはないが、辻褄は合う。このイシュファ島に来て、アヴェル
と知り合ってから、どこか、何かが今までと違っていた。しかし、一体何がど
う変わったのか、と考えても答えは出ない。イヴは小さくため息をつくと、通
りを抜けて浜辺へ出た。打ち寄せる波の音が、夜闇と共に自然な静寂を織りな
している。イヴは波打ち際に腰を下ろすと、寄せては返す波を見つめた。
「あら、お散歩かしら?」
 ぼんやりと波を眺めていたイヴを、不意の呼びかけが我に返らせた。はっと
顔を上げ、声の方を振り返ったイヴは、柔らかい月光の下に栗色の髪の女性の
姿を認めてきょとん、と瞬く。神殿島の調査に向かう直前に、アヴェルといた
女性だ。
(そうだ……確か、母体の勤めを果たしてる人……ラミナさんっていったっけ)
 カイルとレラに聞いた話を思い出していると、ラミナはどこか楽しげに微笑
みつつ、隣、いい? と問いかけてきた。断る理由はないので、イヴはどうぞ、
と頷く。
「こうやって話をするのは初めてね。あたしはラミナ、新たな血の母体を勤め
させてもらってるわ」
 腰を下ろしたラミナは静かにこう名乗る。
「そうですか……それで、何か御用ですか?」
「別に、用ってほどではないけど……ただ、一度、話してみたいなって思って
たの」
「あたしと……ですか?」
 ラミナの言葉に、イヴはやや戸惑いながら顔を上げる。目が合うと、ラミナ
はええ、と頷いた。
「綺麗な瞳をしてるのね。凄く綺麗で……でも、少しだけ寂しそう。彼と同じ
ね」
「彼……って?」
「勿論、アヴェルよ。彼ね、あなたが来てからいつも、あなたの話ばっかりし
てるのよ」
「なっ……」
 楽しげなラミナの言葉にイヴは絶句する。そんなイヴに、ラミナはくすくす
と笑みをもらした。
「そんなに驚かなくてもいいでしょう? とにかく、夢中みたいよ。人生二度
目の一目惚れ、ですって」
「……そんなの、あたしには関係ないっ!」
「あら、どうして?」
 思わず大声を上げると、ラミナは平然とこう返してきた。
「どうしてって……あたしは、あいつの事、何とも思ってないし……むしろ、
嫌いなんだからっ! 軽薄だし、スケベだし……」
(そうよ……そもそもあたしはあいつが嫌いなんだからっ! だから、近くに
いなくて清々するのが当然で、寂しいなんてある訳ないのっ!)
 早口でラミナに答えつつ、イヴはこう考えて先ほどの寂寥感を振り払おうと
試みる。ラミナは黙ってイヴの話を聞いていたが、それが一区切りするとこん
な問いを投げかけてきた。
「そんなに嫌いなの、彼の事が?」
「だから、そう言ってるじゃないですかっ!」
「……本当に?」
「……っ……」
 確かめるような問いに即答しようとして、何故か、イヴは言葉に詰まってい
た。声が喉の奥に引っかかってしまったのだ。まるで、自分の一部が言葉の暴
走に歯止めをかけているような、そんな感じだった。
(やだ……ホントにあたし、どうしちゃったの? 一体どうして……)
 困惑が心を激しく乱す。そんなイヴの様子に、ラミナはふう、とため息をつ
いてゆっくりと立ち上がった。
「……あの……」
「ムリ、しない方がいいわよ」
「ムリって……あたしは別に……」
「そうやって、自分の心を偽っちゃダメ。辛くなるだけよ」
「心を……偽る?」
 短い言葉は妙に重たく心に響いた。ラミナはええ、と頷くと、ゆっくりと歩
きだす。イヴはとっさに立ち上がり、待って、と呼び止めていた。
「そう言う……そう言う、あなたは? あなたは、あいつの事、どう思ってる
の!?」
 立ち止まったラミナに、イヴは叫ぶように問いかける。声が夜空に吸い込ま
れ、消え失せると、周囲は波の音だけが響く静寂に包まれた。
「ただの、通りすがり」
 その静寂を、ラミナは短い言葉でさらりと破った。あっけらかん、とした物
言いに、身構えていたイヴは毒気を抜かれ、え? と間の抜けた声を上げる。
「当たり前じゃない……あたしが愛してるのはただ一人、死んだ夫だけだもの。
今はたまたま、彼の子供を身ごもってるけど、でも、ただそれだけの事なのよ」
「ただ……それだけって……」
 あまりにも淡白な言葉に、イヴは絶句するしかなかった。ぽかん、としてい
るイヴに、ラミナは静かな瞳を向ける。その瞳の陰り──寂しいような、切な
いような、何とも言い難い微妙な色彩が、イヴを我に返らせる。
「あの……」
「もう少し、自分に素直になりなさい。そして……彼の心をわかってあげて。
それができるのは……あなただけだから」
 瞳と同じ、静かな口調でこう言うと、ラミナはゆっくりと歩き去る。イヴは
呆然とその背を見送っていた。
「あいつの心……? 何よ、それ……無茶、言わないでよ。自分だってわかん
ないのに、人の心なんて……まして、あいつの心なんてわかる余裕なんか……
ある訳ないじゃない」
 ラミナの姿が見えなくなるとイヴは低く呟いて、だっと駆けだした。静寂の
包む浜を駆け抜け、リェーン一族の館へと走る。当然の如く館の人々は寝静ま
っているが、イヴは構わずに竜舎へ向かった。極力静かに戸を開けて中に滑り
込むと、気配を感じたのかシェーリスがゆっくりと顔を上げた。イヴは倒れ込
むようにその傍らに座り、嵐竜にもたれかかる。
『……どうした?』
 低い唸りが問いとなって頭に響く。それに、イヴは小さなため息で答えた。
「……シェーリス、あたし、どうしちゃったのかな……」
 それから、小声でこんな問いを投げかけると、嵐竜は訝るような目をこちら
に向けた。
「今まで、ずっと一人で……でも、それって当たり前だったよね。当たり前だ
から……だから、寂しくなんてなかった。シェーリスがいて、ティムリィがい
るから……完全な、独りぼっちじゃないから……だから、何でもなかった。な
のに……」
『……』
「なのに……あたし、今、それが怖い……一人だけ……誰もいない『当たり前』
が、凄く怖いの。
 ねぇ、あたし、どうしちゃったんだろ? どうしてこんな気持ちになってる
んだろ? わからない……どうしてもわからないよ……独りぼっちは、慣れて
るはずなのに……」
 話している内に、言いようのない寂寥感が再びこみ上げてきた。イヴは何と
かそれを抑え込めないものかと、胸を押さえて顔を伏せる。が、唐突に解き放
たれた感情の波は、その程度では鎮まろうとはしなかった。
「どうすればいいの……? どうすれば……父様、母様……アーク……誰か、
教えて……」
 祈るような問いに答える声はない。それとわかると、余計に苦しさが募った。
高ぶった感情は普段、気丈さで抑え込んでいる弱さを刺激し、いつか、イヴは
シェーリスにすがって泣きだしていた。
「……やれやれ……っとに。寂しい事、言ってくれるよねぇ……」
 その一方で、竜舎の外では黒い人影がこんな呟きをもらしていた。いつの間
にやって来たのか、アヴェルが竜舎の壁に寄りかかっていたのだ。
「独りぼっちは慣れてる……か。どっかで聞いたよーなセリフだぜ……ん?」
 ため息まじりに呟いた直後に、アヴェルは泣き声が途絶えた事に気がついた。
怪訝に思って竜舎の中を覗き込むと、泣き疲れたのか、イヴはいつの間にか眠
り込んでいた。普段、気丈に振る舞っている反動だろうか、泣き疲れの寝顔は
いつになく幼く、頼り無く見えた。
「……まったく、ねぇ……」
 足音を忍ばせて竜舎の中に入ったアヴェルは、呆れたように呟きつつイヴの
傍らに膝をつく。物言いたげな目を向けるシェーリスに茶目っ気のあるウィン
クを返すと、アヴェルはマントを脱いでイヴの身体にかけてやった。
「何だってこう……意地張るのかね、このコは。なぁ?」
 しばし寝顔を見つめてから、からかうようにシェーリスに問う。嵐竜は、さ
あ? とでも言いたげに首を傾げ、そのまま目を閉じてしまった。その反応に
苦笑しつつ、アヴェルはイヴの頬に残った涙をそっと拭ってやる。
「お休み、意地っ張りさん……今度は、いい夢見てくれよ?」
 額に軽く唇を触れ、こんな言葉を囁くと、アヴェルは音もなくその場を立ち
去る。半分開いていた戸が閉められ、竜舎の中は再び、静寂に包まれた。

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