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   4 思い、乱れて

 炎が舞う。
 紺青から漆黒へと変わって行く空に向け、幾多もの篝火が揺らめいている。
(……いや)
 その炎が意味するものはわかっていた。封じ込める事で忘れていた記憶が、
蘇ろうとしているのだ。
(……思い出すのは……いや)
 解かれてゆく記憶を押し止めようとイヴはか細く訴えるが、蘇った記憶の像
は淡々と流れ続ける。
 無数の篝火が照らしだすのは、祭りのために設えられた舞台だ。巫女が守護
神に奉ずる舞を舞うための場所──その中央にはまだ幼い少女の姿がある。巫
女の正装である白いドレスに身を包み、月光色の髪を白いリボンで結い上げた
少女──まだ七歳のイヴは、微かに緊張した面持ちでゆっくりと舞い始めた。
 イヴが巫女に任ぜられたのは、祭りの半年前。即ち、この祭りは巫女として
臨む、初めての祭りだったのだ。他の祭事は滞り無く執り行う事ができ、後は
舞の奉納を残すのみだった。涼やかな鈴と竪琴の音に導かれ、イヴは静かに優
雅に舞い続ける。
 何事もなく終わると思われた祭りは、何の前触れもなく異変に見舞われた。
 突然、竪琴の音が止んだ。真紅の飛沫が夜空へと舞い、楽士がどっ……と地
に倒れ伏す。
 シャアアアアッ!!
 突然の事に呆然とする人々に向け紺碧の嵐竜が鋭く警告を発し、その声に我
に返った人々は揺らめく炎に浮かび上がる存在の姿に息を飲んだ。
 つい先ほどまで楽士がいた所に、鋭い爪と牙を備えた異形の者の姿がある。
それは紅く濡れた爪を細長い舌で舐めつつ、息絶えた楽士の身体を踏んで一歩
前に出た。
『……イヴっ!』
 唐突な出来事に対処できず、呆然としていたイヴを少年の声が我に返らせた。
双子の弟・アークの声だ。我に返ったイヴはアークと父母の所へ向かおうとす
るが、それより一瞬早く異形の者が跳躍し、その前に立ちはだかる。血を思わ
せる真紅の瞳には、ただ、殺意のみが読み取れた。
『……ひっ……』
 あまりに強い殺気に、イヴは思わずその場に座り込んでしまう。その様子に、
異形の者は満足そうに口元を歪めて見せた。そしてゆっくりと、威圧的な動作
で爪を振り上げる。
 ヒュンっ!
 鋭い音が大気を引き裂く。異形の爪が振り下ろされた──のではなく、祭り
の警護に当たっていた若者が矢を放ち、異形の手を射抜いたのだ。攻撃を阻ま
れた異形は憎々しげにそちらを振り返る。一瞬生じたその隙を突いて父が舞台
に駆け上がり、イヴを抱き上げた。イヴは夢中で父にすがりつく。父は舞台を
飛び下りて、母たちの所へイヴを連れて行った。
 グゥウウウ……
 一度は捕らえかけた獲物を逃した異形は、低い唸り声を上げて周囲を見回し
た。舞台は父を筆頭とした島の者たちが取り囲んでいる。数の上では、島の者
に圧倒的に分が有った。しかし、この状況においても異形は慌てた素振り一つ
見せず、嘲りとも取れる笑みを牙の並んだ口元に浮かべた。
 シャアアアアっ!
 何かただならぬものを感じたのか、シェーリスが再び鋭い声を上げた。
 グワォウっ!
 それをかき消すように、異形の咆哮が大気を震わせる。次の瞬間、篝火が幾
つも描き出していた異形の影が立ち上がり、その一つ一つが異形としての形を
得た。
『……っ!?』
 島の者たちの間を動揺が駆け抜ける。僅かに生じたその隙を、異形は逃さな
かった。
 グォオオオオっ!
 咆哮が、再び大気を震わせた。紅く染まって見える空に黒い異形が舞い、そ
して、禍々しい花が真紅の花弁を開く。虐殺が始まったのだ。怒号と絶叫、血
に飢えた咆哮が交差する中、父が倒れ、母もまたイヴを庇って生命を落とした。
そして──
『イヴ……生きて……』
 いつも当たり前に一緒にいた双子の弟アークも、シェーリスの背にイヴを預
けて息を引き取った。ただ一人、取り残されたイヴは絶叫し──

「……っ!!」
 そこで、夢が破れた。

 がばっという表現そのままに、文字通り跳ね起きたイヴは荒く息をしながら
呆然と座り込んでいた。頭の中がぐるぐると回っているような、そんな感じが
して物事がまともに考えられない。ただ、今の夢によって感じたもの──激し
い恐怖と、そして寂寥感。それだけが心を埋めつくしていた。
「……イヴ……ちゃん?」
 不意に、すぐ側で声が聞こえた。はっと振り返ると、困惑した面持ちでこち
らを見つめるアヴェルと目が合う。
「……あ……」
 すぐ近くに人がいる──その事実を認識した瞬間、急に気が緩んでいた。イ
ヴは夢中でアヴェルの胸に飛び込み、ぎゅっとすがり付く。突然の事にさすが
にアヴェルは戸惑ったようだったが、イヴが支えを求めている事を察してそっ
とその身を抱きしめる。穏やかな静寂が、その場にふわりと舞い降りた。
 それから少しして、近くの岩場からティムリィがひょいと顔を覗かせた。輝
竜はイヴが目を覚ましているのを見て取ると、きゃう、と嬉しげな声を上げて
そちらに駆け寄ろうとするが、
「……ダメですよ。今は、行ってはダメ」
 ごく静かな言葉と共にひょい、と抱え上げられてしまった。ティムリィは不
満げな表情で声の主、即ちレナを振り返る。
「今は、お二人だけにしてあげましょう? 邪魔をしては、いけませんわ」
 きゅうう……
 諭すような言葉にティムリィは不満げな鳴き声を上げるものの、特に逆らお
うとはしなかった。レナはイヴとアヴェルの方を見やり、そっとその場を離れ
る。その瞳には何か、言い知れぬ切なさが宿っているようにも見えた。

 イヴが落ち着きを取り戻したのは、それから十分ほど過ぎてからだった。心
の乱れと身体の震えが静まり、我に返ったイヴは一瞬、自分の状態を掴みあぐ
ねてきょとん、とする。
「あ……あれ? あたし……」
 困惑を込めてこんな呟きをもらしていると、
「よ、落ち着いたかい?」
 からかうような声がすぐ側から聞こえた。はっと顔を上げたイヴは悪戯っぽ
いアメジストの瞳を至近距離に見つけて目を見張り、次いで、アヴェルにしが
みついている自分に気づいて言葉を無くした。
「え……え? あ、あたし……な、何で?」
 先程とは違う意味で気が動転してしまい、上手く言葉が出てこない。
「そこで、何でって聞かれてもねぇ……むしろ、オレの方が聞きたいかな。一
体、どーしたんだい? 怖い夢でも見たの?」
 からかうような問いがあまりにも当を得ていたため、イヴは逆に答えようが
なく目を伏せた。アヴェルは訝るように眉を寄せるものの、それ以上は追求し
ようとしない。
「まぁ……いいや。それより、もう大丈夫かい、身体の方は?」
「え? あ……うん、何とか……」
 話題が変わった事に安堵しつつ、イヴはこくん、と頷いた。
「そいつは何より。何せ、君の調子が悪いと村まで戻れないからね」
「ま、まあね……それより、ティムリィは!? ティムリィは大丈夫なの!?」
 はっと気づいて問うと、アヴェルは御心配なく、と微笑って見せた。
「多少、ショックは受けてたみたいだけど、すぐに元気になってたよ」
「そう……良かった……」
 ほっと安堵の息をもらしていると、身体を支えていた腕が離れた。怪訝に思
う間もなく頬に手が触れ、俯きがちにしていた顔を上げさせられる。顔を上げ
ると、先ほどとは一転して厳しい面持ちのアヴェルと目が合った。
「それはいいが、少し無茶が過ぎたんじゃないか? 君の潜在魔力は相当のも
のらしいが、本来交信すべきではない相手と直接精神接触をすれば、最悪生命
にも関わる問題になるんだぜ?」
 その変化に戸惑っていると、アヴェルはやや厳しくこんな事を言う。
「そ、それは……でも、あのままじゃティムリィが!」
「それで君に何かあったら、チビ竜ちゃんも同じくらい辛いんじゃないかな?
それに……」
 反論するイヴを静かに遮ったアヴェルは、ここで意味ありげに言葉を切った。
「それに……何よ?」
「それに……オレとしても、あんまり嬉しくないしね、そーゆーのは♪」
 低い声で言葉の先を促すと、アヴェルはまたも表情を一変させ、軽いノリで
こんな言葉を返してきた。
「べ、別にあんたが喜ぼうが悲しもうが……あ、あたしには……」
 あたしには関係ない、という言葉は不意打ちの口づけに遮られた。
「あ……あんたは一体、何考えてんのよっ!!」
 唇が離れるや否やイヴは大声を上げるが、
「何って……そりゃ、楽しいコト」
 アヴェルは余裕の体でこう返してくる。
「悪いけど、余所でやってよね。あたしは、あんたみたいな男が一番嫌いなん
だからっ!」
「素直じゃないなあ……大体、そう言いながら、し〜っかりオレにしがみつい
てるのは、どゆこと?」
「……え?」
 軽い問いに、イヴはようやくアヴェルにしがみついたままの自分に気がつい
た。アヴェルはとうに腕を緩めており、離れようと思えばいくらでも離れられ
る状態になっているのだ。それと気づいたイヴはばっとアヴェルから離れ、つ
いでに距離を取る。
「か……勘違いしないでよねっ! 今のは、その……単なる成り行きで……き、
気が動転してたから、たまたま、あんたにしがみついてたってだけ、なんだか
らっ!!」
 それから早口でこうまくし立てるものの、バツの悪さは否めない。何とも面
白そうににやにやしているアヴェルの余裕が動揺に拍車をかけていた。
「んじゃまあ、それはそ〜ゆ〜事にしておいて……で、守護神さんとの交信は、
上手く行ったのかい?」
 余裕綽々の体から一転、真面目な表情に戻ってアヴェルが問う。その切り換
えの速さに半ば呆れつつ、イヴは一応ね、と答えた。
「そりゃ何より。それで、守護神さんは何だって?」
「それが……」
 短い交信で得た情報をどう説明したものか、イヴは眉を寄せて考え込む。そ
こに耳慣れた、きゃう! と言う声が飛び込んできた。はっとそちらを振り返
ったイヴは、こちらに走ってくるティムリィの姿に顔を輝かせ、ぴょん、と飛
びついて来た小さな竜をぎゅっと抱きしめる。
「ティムリィ! 良かったぁ……大丈夫?」
 きゃう! きゃうう!!
『うん、ダイジョブだよお』
 甲高い鳴き声に重なるように、頭の中に声が響く。突然の事にイヴは一瞬戸
惑い、それからその理由に思い至って小さくため息をついた。
(……当たり前……だよね。巫女の力を解放しちゃったんだもの……)
 きゃう?
『イヴ?』
 そのため息にティムリィが怪訝そうな声を上げる。イヴは微笑って大丈夫、
と言いつつ小さな頭を撫でてやった。
「……イヴ様、大丈夫ですか?」
 妙に遠慮がちな問いかけと共にレナが岩影から姿を見せる。やって来たレナ
はイヴがアヴェルから離れているのを見て取ると、何故かほっとしたように息
をついた。
「ええ、大丈夫です。ごめんなさい、ご心配をおかけして……」
「いいえ、そんな事は……それよりオーヴル様は? 何と仰っていらっしゃい
ましたの?」
 謝るイヴに微笑って応えると、レナも交信の結果を尋ねてくる。イヴはゆっ
くりと立ち上がり、ここからはやや霞んで見える神殿島を見つめた。
「……標を無くした力……」
「……え?」
 守護神の言葉の一つを呟くと、アヴェルもレナも不思議そうな表情を見せた。
「神殿の地下に標を無くした力が眠っている……そう守護神は言っていました。
ただ……」
「それがどんな物か、どうすればいいかまではわからない……と?」
 言い淀んだ言葉の先をアヴェルが引き取ると、イヴはそれにまぁね、と曖昧
に頷いた。
「そんな……それでは、どうしようもないのですか?」
 表情を陰らせたレナの問いに、イヴは首を横に振った。
「そこまで酷くはないんです。単に、守護神との交信では全てを伝えきれなか
っただけとも言えますから」
(今なら、どうかはわからないけどね……)
 落胆するレナに答えつつ、心の奥でこんな呟きをもらす。そしてこの言葉に
レナはきょとん、と瞬いた。
「どういう事ですの?」
「ですから……」
「さっきの交信は、言わば例外的接触。本来は交信すべきではない者同士が強
引に接触を持ったため、一方に負荷がかかって交信は短時間しかできなかった
……そうだろ?」
 不思議がるレナにどう説明したものかと悩んでいると、アヴェルが先程の状
況を端的にまとめて説明してくれた。
「ええ……だから、あたしの力で本来干渉できる存在……つまり、竜と交信す
れば。そうすれば、もっと細かい事情がわかると思うんです。とにかく、一度
戻りましょう。リェーンのロイル殿にも相談しないと……」
 こう言って話を結ぶと、イヴは足早にシェーリスのいる岩棚へと向かう。ア
ヴェルもそれに続こうとして、相変わらず怪訝な面持ちのレナに気がついた。
「……レナさん? どーか、しましたか?」
 軽い問いに、レナはちょっと、と答えて祭壇の方を振り返った。
「何か、気になる事でも?」
「ええ……何故なのかと思って……」
「何故って……何が?」
「何故、オーヴル様はあんな方法を取られたのかと……島の竜とイヴ様が話す
必要があるのなら、その事を私に伝えて下されば良いと思って……あんな危険
な事は、必要なかったのではありませんか?」
「ふむ、確かに」
 言われてみれば、そうとも言える。リスク的にも状況的にも、その方が適当
だろう。アヴェルはしばし何事か考える素振りを見せていたが、やがて考えて
も仕方ない、と思ったらしくレナを促して岩棚へと歩きだした。

 村への帰途は来る時と同様に何事もなく、一行は夕暮れには出発した広場へ
と帰り着いていた。
「おお、レナ! 無事か!」
 紺碧の嵐竜が舞い降り、籠からレナが降りてくるなりラドルが安堵の表情で
そちらに駆け寄った。
「はい、お父様。私は大丈夫です」
 そんな父にレナは笑顔でこう答える。
「っとに、父さんは心配性なんだから……竜使いと魔導師が揃ってて、危ない
事なんてある訳ないじゃない」
 心底ほっとした、と言わんばかりに力を抜くラドルに、レラがこんな憎まれ
口をきいている。その瞳には父と同じく、レナの無事を安堵する光が伺えた。
「やれやれ、仲のいい親子だね……」
 その様子に、アヴェルが苦笑まじりに呟きつつシェーリスから降りる。イヴ
もひとまず降りようとするが、
「……あ……?」
 その瞬間、激しい目眩に襲われバランスを崩していた。ティムリィがきゃう!
と声を上げるが、答えられない。バランスを崩したイヴはそのまま鞍から滑り
落ち、
「おっと!」
 先に降りていたアヴェルに寸での所で受け止められていた。
「イヴ!?」
 異変に気づいたレラが慌てて駆け寄ってくる。ティムリィもぱたぱたと飛ん
できた。
「……大丈夫、気を失ってるだけだよ。ま、無茶したからねぇ……」
 軽い口調でアヴェルが言う通り、イヴは気を失っていた。きゃうう……と鳴
きつつその顔を見つめるティムリィに、アヴェルはだいじょぶだって、と笑い
かける。
「とにかく、ゆっくり休ませないとな……長殿、申し訳ありませんが、報告は
後ほどと言う事で。レラ、手伝ってくれ」
 ラドルとレラ、それぞれに声をかけると、アヴェルは長の館へと向かう。レ
ラが急ぎ足でそれに続いた。ティムリィはきゃうう……と不安げな声を上げて
それを見送り、それを宥めるように、シェーリスが低い唸り声を上げた。

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