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 翌日は早朝から聖域行きの準備が始められた。大型種の嵐竜といえども背中
に三人は乗せられないため、大きめの籠を丈夫な縄で鞍に繋ぎ、シェーリスの
身体の下に吊り下げて、その籠にレナを乗せる事になっていた。
「レナ、気をつけてな。くれぐれも、無茶な事をしてはいかんぞ?」
 準備が整うまでの間、ラドルは何度となくレナにこう繰り返していた。レナ
はそれに、笑顔でわかっています、と答えている。その表情は、微かに緊張し
ているようだが、同時に何かに興奮しているような印象も受けた。
(こんな状況でも、守護神の聖域に行けるっていうのは、嬉しいのかな……?)
 その様子にふとこんな事を考えつつ、イヴは籠を吊るす縄の強度を確かめた。
さすがにと言うか、漁師の仕事道具である縄はしっかりとしており、鞍への結
びつけ方もがっちりとしている。これなら、よほどの事がない限り飛行中の事
故は起こらないだろう。
(……ほんと、何事もなくつければいいけど)
 とはいえ、昨日の妖魔の襲撃の事を考えると、不安が脳裏を掠めてしまう。
イヴは軽く頭を振って暗い予感を振り落とし、シェーリスの背に飛び乗った。
続けてぱたぱたと飛んできたティムリィがちょこん、と鞍の前に陣取る。
「……イヴ!」
 鞍に跨がったイヴにレラが呼びかけてくる。
「昨夜のコト……お願いね!」
「ん、わかってる」
「おやおや、お嬢様方は随分と仲がお宜しくなられましたよーで」
 レラにウィンクしつつ答えると、いつの間にかやって来ていたアヴェルがこ
う言って茶化した。
「何よ、あんたには関係ないでしょ?」
「あ、すっごい冷たいなー、その言い方って。何かさびしーなー、オレ」
 素っ気なく突き放すと、アヴェルは大げさな様子でこんな事を言う。
「別に、あんたに優しくしたげる義理、あたしにはないもの」
 それにイヴは冷たくこう言い放ち、アヴェルがそれに反論しようとしたとこ
ろに、ラドルとレナがやって来た。
「それではイヴ殿、アヴェル殿、どうかくれぐれも、レナの事を頼みます」
 やって来るなり、ラドルはどことなく不安なげ表情で二人に頭を下げた。そ
の様子にイヴは苦笑し、アヴェルはやれやれ、とため息をつく。
「わかっています、長殿。どうか御心配なく」
「危険を感じたら、すぐに戻りますよ。どうか、気持ちを落ち着けて待ってい
て下さい」
 顔を上げたラドルに二人はそれぞれこんな言葉をかけ、ラドルはまた、お願
いします、と頭を下げた。
「姉さん、無理しないでね」
 その一方で、レナが籠に乗り込むのを手伝いつつ、レラは姉にこんな言葉を
かけていた。
「ええ、わかってるわ。でも、アヴェル様たちもいらっしゃるし、大丈夫よ」
 それに、レナは笑顔でこう答える。レナが籠に乗り込み、縄に掴まったのを
確かめると、イヴはゆっくりとシェーリスを上昇させた。最初はゆっくり高度
を上げ、縄と籠の状態を確かめる。籠が安定しているのを確認すると、アヴェ
ルが低く呪文を唱えた。
「……何よ、今の?」
「守護結界。ま、巫女殿が落ちないための、保険だよ」
 突然の事を訝って問うと、アヴェルはさらりとこう返してきた。
「ふうん……一応、魔導師らしい事はできる訳ね」
「あのね……昨日だってやってたでしょーが」
「そうだった?」
「あのねぇ……」
「あの……イヴ様、アヴェル様」
 冷たい言葉にアヴェルが反論しようとするのを、レナが控えめに遮った。
「あ、はい」
「あの……そろそろ、出発しませんか?」
「あ、そうですね。えっと……島の中央にある、あの山に向かえばいいんです
ね?」
 レナの控えめな主張に今やるべき事を思い出したイヴは前方を見やりつつ確
認を取り、レナははい、とそれに頷いた。
「それじゃ、行きます……シェーリス、いつもより重くてちょっと大変だけど、
気をつけて飛んでね」
 イヴの言葉にシェーリスは澄んだ咆哮で答え、蒼い翼が大気を打った。ばさ
あっという音が響き、蒼い竜が空に舞い上がる。
「気をつけてねー!」
 地上からレラが手を振るのに頷いて答えると、イヴはこれから向かう山──
オルヴァ山を真っ直ぐに見つめた。シェーリスは巧みに気流を捉え、オルヴァ
山へと向かう。
「あ、あの……」
 しばらく飛んだ所で、籠に座ったレナが声をかけてきた。
「……? どうかしました?」
「いえ、大した事ではないのですけど……」
 突然の事を訝って問うと、レナはやや言いにくそうに眼を伏せた。
「あの……竜は、翼で羽ばたいて飛ぶ訳ではないのですね。私、知りませんで
した」
 やや間を置いて、レナは呟くようにこんな事を言う。全く予想外の言葉に、
イヴはえ? と言いつつ瞬いた。
「って……普通……ですよ。少なくとも、あたしの知ってる、飛行できる竜は
大抵、気流を捉えて滑空するんですけど……」
「他にも、飛べる竜がいるんですか?」
「まあ……風属の竜は、当たり前に飛べるし……火属の戦竜とか、光属の聖竜
も飛びますけど。輝竜も、成長すれば自分で飛べますし」
「そうなんですか……凄いのですね、竜と言うのは」
「はあ……」
 妙に楽しそうなレナとは対照的に、イヴはひたすらきょとん、としていた。
イヴにとって竜が気流で滑空する、というのは当たり前の事であり、複数の種
類の竜が飛行能力を持つという事実は常識とも言えるのだ。それだけに、その
『常識』に感心するレナの感じ方は、いま一つぴん、とこない。イヴは怪訝な
面持ちでティムリィと顔を見合わせ、それから、シェーリスの手綱を繰る事に
専念した。
 オルヴァ山に近づくにつれ、周囲の大気に変化が現れ始めた。高度の変化に
よるものもあるだろうが、何か、神聖な緊張感とでも言うのだろうか。言いよ
うもなく澄んだ緊張感が、周囲に張り詰めるようになっていた。
「……聖域は、無事らしいな」
 大気の変化を感じたのか、アヴェルがこんな呟きをもらす。そして、イヴは
その大気の緊張に懐かしさに似たものを感じていた。
(……この感じ……リュースの谷に似てる)
 数年前に飛び出してきた生まれ故郷の地と、今向かっている聖域を包む雰囲
気は、どことなく似ているように思えるのだ。
(でも……ある意味、当たり前か。リュースの谷は、エルナリュースのほんと
の聖域でもあったんだしね……)
 こんな結論で納得しつつ、イヴは山の中腹に見える開けた空間にシェーリス
を向かわせた。ゆっくりと高度を調整して籠を地面に近づける。籠の底が地面
に触れるか触れないか、という所まで下りるとアヴェルがシェーリスから飛び
降り、レナが籠から降りるのを手伝った。二人が距離を取ったのを確認してか
ら、イヴはシェーリスを着地させ、自分も竜の背から降りた。
「大丈夫ですか、巫女殿?」
「はい、私は……それにしても……」
 イヴの問いに、レナはどことなくはしゃいだ様子で答え、シェーリスの方を
見た。
「空を飛ぶ……というのは、その、不思議な感じですね。怖いような、でも、
胸が躍るような……」
「え? あ……はあ……」
 楽しげなレナの言葉に、イヴはまたも面食らっていた。対照的な様子にアヴ
ェルが笑みを浮かべるが、二人はそれに気がつかない。
「では、祭壇へ向かいましょう。何事もなければ良いのですけれど……」
「あ……そうですね。行きましょう」
 イヴはしばらくぽかん、としていたが、レナの言葉にここに来た目的を思い
出して居住まいを正した。
「シェーリスは、ここで待っててね。ティムリィ、おいで!」
 この指示に嵐竜は低い唸り声で答え、輝竜はきゃう、と鳴いてイヴの肩に飛
び乗った。一行は周囲を警戒しつつ、細い山道を守護神の祭壇へと向かう。幸
いにと言うか、こちらには妖魔の気配もなく、一行は難なく守護神オーヴルの
祭壇へとたどり着いていた。
「良かった、聖域は無事だったのですね……」
 静寂に包まれた祭壇の様子にレナが安堵の息をもらす。
「それでは、私はこれからオーヴル様に事の次第をお伺いします。お二人は、
少し離れて待っていて下さいまし」
 こう言うとレナは表情を引き締めて祭壇へと向かい、その前に跪いた。イヴ
は祭壇からやや離れた崖の縁に腰を下ろし、アヴェルは岩壁に寄りかかる。程
なく、低い祈りの声が周囲に響き始めた。
(守護神の聖域……か。まさか、こんな場所に来る事になるなんてね……)
 眼下に広がる深い森を見つめつつ、イヴはふとこんな事を考えていた。守護
神の聖域、巫女の領域──出来るならば二度と関わりを持ちたくない場所。イ
ヴにとって、これらの場所は二度と思い出したくない過去と深い関わりを持っ
ているのだ。
 きゃうう?
 思わずもらしたため息を訝るように、ティムリィが声を上げた。イヴは何で
もないわ、と微笑いかけるが、ティムリィは不安げな眼差しでイヴを見つめて
いた。自分を気づかうその様子に、イヴは鬱々とした気持ちが晴れるのを感じ
つつ、柔らかな羽毛に包まれた頭を撫でてやった。それから、何気なく下に広
がる森を覗き込む。カイルの話では島の奥には湖竜の住む湖があるらしいが、
ここからではそれらしいものは見えない。
(この真下辺りにあるのかな……?)
 ふと、そんな事を考えつつ、イヴは何気なく下を覗き込むが、見える範囲に
それらしいものはない。もう少し近くかな、などと思いつつ身を乗り出した途
端にバランスが崩れ、何もない空間に身体が泳いだ。
「きゃっ……」
「おっと!」
 思わず声を上げた次の瞬間、強い力が身体を支えた。はっと肩ごしに振り返
ると、呆れたようなアメジストの瞳が目に入る。アヴェルがとっさに身体を支
えてくれたのはすぐにわかったが、しかし。
「……あ、の、ねぇ……」
 抱え上げられ、足が地面につくと、イヴは低い声を上げる。
「ん? 何?」
「……助けてもらっといて何だけど……一体、いつまで握ってるつもりなワケ
……?」
 震える声で問うと、アヴェルは乾いた声であはは〜、と笑った。アヴェルは
両腕を身体に回して抱き抱える形でイヴを支えており、偶然なのか故意なのか、
その手はしっかりとイヴの胸を掴んでいたのだ。しかも、両手で。
「いやまあ、これはねえ……」
「……いいから放しなさいよ、このスケベ!」
「あ、それはないだろー、事故だよ事故!」
「言い訳……無用!」
 こう言うなり、イヴはアヴェルの腕を振りほどき、振り返りざまに平手打ち
をお見舞いしていた。ぱっし────ん……という乾いた音が周囲に響く。
「いってえなあ……ここまで見事に恩を仇で返さなくてもいいだろー?」
「うーるさいっ! ……って、あれ? ティムリィ?」
 恨みがましくこちらを見つめるアヴェルに冷たく言い放ったところで、イヴ
は輝竜の異変に気がついた。ティムリィはどことなく困惑したような面持ちで、
祭壇の方をじっと見つめている。
「どうしたの、ティムリィ?」
 きゅうう……
 声をかけるとティムリィは不安げな鳴き声を上げてイヴを見、それから、と
ととととっと祭壇の方へと走り出した。
「あ、こら! ダメよ、ティムリィ!」
 突然の事に戸惑いつつ、イヴはその後を追う。守護神と交信中の巫女は強い
精神集中状態に入っている。このため交信中の巫女に不用意に近づくと巫女の
集中が乱れ、近づいた者か巫女の何方か、或いは両方が精神に強い衝撃を受け
るのだ。
「ティムリィ、待ちなさいっ!」
 語気を強めて言ったもののやや遅く、ティムリィは祭壇のある岩屋へと走り
込む。イヴは舌打ちをしてそっと岩屋の中を覗き込んだ。
「……あ、イヴ様」
 岩屋の中を覗き込むと、レナが困惑した声を上げてこちらを振り返る。声も
挙動もしっかりしており、ティムリィの乱入に集中を破られた、という様子は
ない。
「え……守護神と、交信をしてたんじゃ……」
「ええ、そうなのですけど……」
 きょとん、としたイヴの言葉に、レナは微かに眉を寄せた。
「まさか、守護神の声が聞こえないとか?」
 一歩遅れで岩屋にやって来たアヴェルが問うと、レナはいいえ、と言いつつ
首を横に振った。
「オーヴル様の声は、確かに聞こえます……でも、それは、私に向けられた言
葉ではない……いえ、そもそも人間に向けての言葉ではないようなのです」
「人間に向けての言葉では……ない?」
 レナの説明にイヴは眉を寄せて岩屋の中を見回し、祭壇の前にちょこなん、
と座るティムリィに気づいた。ティムリィは相変わらずどこか不安そうな様子
で祭壇を見つめている。その姿に、イヴはふとある事に気がついた。
「もしかして……守護神は、竜に向けて言葉を送っているの?」
 そう考えれば、ティムリィの突然の行動の意味にも理由がつく。イヴはしば
しためらい、それから、ティムリィの後ろに膝を突いた。
「……イヴ様?」
「ちょっと、確かめてみます」
「……確かめる?」
 不思議そうに問うレナに、イヴは表情を引き締めて一つ頷いた。
「守護神が竜に向けて言葉を送っているのなら、竜と交信する事で、その言葉
を聞けるかも知れない……それを、確かめてみます」
「大丈夫なのか?」
「……やってみなきゃ、わかんないわよ」
 アヴェルの問いにやや素っ気なく答えると、イヴは一つ深呼吸をしてティム
リィの身体に両手を当て、意識を集中させた。ティムリィの意識に触れると、
輝竜の感じている不安がこちらに伝わってくる。それを認識した直後に、頭の
中に重々しい声が響いた。
『……汝の訪れを待っていた……竜の巫女の血を受け継ぎし者よ』
(……!?)
 全く聞き覚えのない、男の声だった。突然の呼びかけに困惑しつつ、イヴは
その声に向けて問いを投げかける。
(あなたは誰? もしかして、守護神?)
『左様。我が名はオーヴル……イシュファの均衡を保つ事を定められし者……
竜の巫女ルディの血を継ぐ、新たな竜の巫女……汝の訪れを待っていた』
(あたしを……待っていた? 何故?)
 呼びかける声の持つ圧倒的な力に押されつつ、イヴはどうにかこう問いかけ
た。
『狂いし力に、正しき道標を示すために』
(狂いし……力? それって、もしかして、神殿島にいる何かの事?)
『左様……彼の地には、標を無くした力が眠っている……それに、新たなる標
を与えうるは汝のみ』
(あたしだけが標を与えられる……? それじゃ、神殿島にいるのは……竜な
の?)
 困惑しつつ投げかけた問いに守護神が答えるのを遮るように、手に激しい震
えが伝わった。ティムリィの身体が震えているのだ。
(ティムリィ……? っ! いけない!)
 その震えが意味する所はすぐにわかった。強大な力を持つ守護神とイヴの交
信の媒体となっているティムリィそのものに、限界が来ているのだ。輝竜は他
の竜に比べ、身体的な能力で劣る分、精神的なキャパシティが高いのだが、ま
だ幼いティムリィには今のこの状況は相当な負担なのだ。
(いけないっ!)
 このままではティムリィの精神がもたない──そう感じた瞬間、頭の中が真
っ白になった。イヴはとっさにティムリィを抱き抱えてこう叫ぶ。
「もうダメ! これ以上言葉を送らないで! ティムリィが……ティムリィが
死んじゃう!」
 叫びつつ、イヴは半ば無意識の内に自分の力を解放していた。忌まわしい思
い出と共にずっと封じていた力──その力でティムリィの意識に障壁を張りめ
ぐらせる。そうなると守護神の力は直接イヴに向けられる事となり、激しい衝
撃が意識を揺さぶる。
『巫女よ……古竜……の……元……へ』
 その衝撃と共に、こんな声が微かに聞こえたような気がしたが、それを確か
める事は出来なかった。激しい衝撃を受けた意識は己を維持できず、イヴはテ
ィムリィを抱きしめたまま、その場に倒れ臥してしまう。
「イヴちゃん!」
「……イヴ様!」
 意識を失う直前、アヴェルとレナが自分の事を呼んでいるのが微かに聞こえ
た──ような気がした。

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