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   5

 突然響き渡った咆哮。それを耳にした瞬間、リューディは強い目眩のような
ものを感じていた。
「なん……だ?」
 言葉だけでは言い表せない重圧感が圧し掛かってくる。それが闇に属する力
であると気づくまで、数秒を要した。
(この感触……負の波動か?)
 自分と同じ闇でありながら、相反する感触を持つその力に、リューディはふ
とこんな事を考える。
 力とは、二つの側面を持つ。正負、陰陽などと称されるその性質は一つの力
を相反する二つのものにわける事ができるのだ。異なる性質を持つ力は、例え
同種の物であっても反発し、相互に影響を与え合うとされていた。
(でも……何だって、こんな力が!? それに……)
 突然感じた力からは、強い怨念のようなものが感じられた。その強い負の力
だけでも異常だと言うのに、更に、闇以外の精霊の力すら感じ取れる。これは、
かなり異様な事だ。
「……まさか……な」
 剣を握り直しつつ、低く呟く。ふと、過ぎった予感。それはできるなら、考
えたくない可能性を孕んでいた。確かめに行かなくては、とは思うもの、その
ためには目の前のレクサをどうにかしなければならない。
「何だってんだ、今の……?」
 当のレクサは踏み込みの途中で足を止め、眉を寄せつつこんな呟きをもらし
ている。こちらも、先ほどの咆哮からは何かを感じているらしい。
「リューディ!」
 どうしたものか、と思案していると、レヴィッドの声が聞こえた。走ってや
って来たレヴィッドは、切り裂かれた革鎧とそこについた紅い色彩に眉を寄せ
る。
「レヴィッド、今の……」
「わーってる。雷の姫様が、様子見に行った」
 短い問いを最後まで言わせずにレヴィッドはこう答え、今度はリューディが
その言葉に眉を寄せた。
「ファミーナが? それって……」
「限りなく、危険度が高いかと思われ」
「なら、先行させるなよ」
「放置するよりは、被害ないって」
 呆れたようなリューディの言葉に、レヴィッドはしれっとこう返す。リュー
ディはお前なぁ、とため息をつき、それからレクサを見る。
「レクサ!」
「ん? あんだよ?」
「絶対文句言うだろうけど、勝負、預けるぞ!」
「んだとぉっ!?」
 あらかじめ予想していた通り、レクサは露骨に不満げな声を上げた。だが、
文句を聞いている余裕はない。リューディとレヴィッドは素早く力を集中する
と、闇渡りを発動してその場から姿を消した。
「あ、てめこらっ! ……ち、行っちまいやんの」
 取り残された形のレクサは露骨にムッとした表情でぶつぶつと文句を言い、
それから、大げさなため息を一つついた。
「ま、気合の抜けた今のリューディとやり合ってても、面白くねーし、いいか。
それに……なんか、気にくわねぇ空気、出てやがるしな」
 呟く刹那、氷の青の瞳には厳しい光が宿っていた。
「兄上!」
 そこにレイナが走りこんで来る。珍しく息を切らした妹の姿に、レクサは更
に眉を寄せた渋面を作った。
「レイナ〜、おま、何やってんだよ?」
「え……何、とは?」
 呆れを帯びた問いに、レイナは不思議そうに瞬く。どうやら、自分がレヴィ
ッドに乗せられていた事に気づいていなかったらしい。レクサはやれやれ、と
ため息をつくと、手にした剣を一振りして鞘に収めた。
「……兄上?」
「破斬のおっさん、こっちに来てんだろ? おっさんの手勢と合流して、一度
下がるぜ」
「後退……ですか」
 大雑把な指示にレイナは眉を寄せ、レクサはばりばりと頭を掻きながら、あ
あ、と気のない声を上げた。
「リューディとの勝負は、仕切り直しだ。今のヤツとやってても面白くもなん
ともねーし、それに、妙な横槍入れてきたヤツがいるらしーからな」
「横槍、ですか?」
 大分落ち着いてきたらしいレイナの問いに一つ頷くと、レクサは真面目な面
持ちになって空を見上げた。
「どこのどいつかは知らねぇが……気にいらねぇ。妙に、ムカついてならねぇ
んだよな」
 低い声でこう呟くと、レクサはばりばりと頭を掻きむしる。妙に苛立ってい
るのが、その仕種から感じられた。
「氷狼一家、後退する! 破斬のおっさんと合流するぜ!」
 一しきり頭を掻くと、レクサは周囲に向けてこう怒鳴る。
 戦いは、ひとまず収束へと向かおうとしていた。

 ただ、一箇所を除いて。

 キィンっ!
 鋭い音と共に繰り出した剣が弾かれる。伝わる衝撃に顔をしかめつつ、ファ
ミーナは急上昇で黒い騎士との間に距離を開けた。
「なんて、力……」
 手に残る軽い痺れに、ふとこんな呟きをもらす。飛行騎士であるが故の機動
力のおかげで直撃は免れているものの、あの剣の一撃をまともに受けたなら一
たまりもないだろう。そも、首を一撃で切り落とすという目的で作られた剣な
のだから、その威力は推して知るべし、と言った所なのだが。
「それにしても……あの太刀筋って、どこかで……?」
 空中から黒い騎士の様子を伺いつつ、ファミーナは眉を寄せて呟いた。黒い
騎士の馬上での構えの取り方、剣の振るい方。それらに、何故か見覚えがある
ような気がしてならないのだ。
「まさかよね……」
 短く呟く事で、ファミーナは今過ぎった考えを否定する。どう考えても、そ
れはあり得ないのだから、と。
「ファミーナ!」
 痺れの治まった手で剣を握り直しつつ、次にどう動くかを考え始めた矢先に
誰かが名を呼んできた。はっと声のした辺りを見ると、空間に弾けた黒い光の
中からリューディとレヴィッドが姿を現しているのが目に入る。ファミーナは
黒い騎士の様子を伺いつつ、二人の傍らに降下した。
「ほ〜い、誘導ご苦労サマ♪」
 舞い降りるなり、レヴィッドが軽い口調でこんな言葉を投げかけてくる。フ
ァミーナはそちらを完全に無視してリューディを見、その肩の怪我に気づいて
眉をひそめた。
「レクサにやられたの、それ?」
「他に、オレの間合いに踏み込めそうなおっさんは、リンナの方に行ってるん
だぜ?」
 短い問いにリューディは冗談めかしてこう答え、ファミーナはそれに妙に納
得するものを感じつつ、それもそうね、と肩をすくめた。
「……」
 口調だけは軽く言葉をかわす三人を黒い騎士は無言で見つめ、それから、唐
突に乗っていた馬から降りた。ガシャン……という金属音が重たく響く。騎士
が降りるなり、漆黒の馬は同じ色の渦巻く霧と化し、姿を消した。
「リューディ、今の……」
「ああ……ナイトメアだ」
 奇妙な現象にレヴィッドが微かに眉を寄せ、リューディはいつになく真面目
な面持ちで一つ頷く。
「ナイトメアって?」
 唯一、二人の会話に入れないファミーナが怪訝そうに問う。
「悪夢の馬……夢の精霊の一種さ」
「ま、フツーの人間だったら、乗るなんて絶対できないシロモノだね〜」
 その問いにリューディは低い声で短く答え、レヴィッドが口調だけは軽くそ
れを補足した。
「普通の、人間だったら……つまり……」
「普通の状態の人間じゃ、ないって事だろうな……来るぞ!」
 ファミーナの確かめるような呟きに答えつつ、リューディは鋭い声を上げる。
その声に弾かれるようにファミーナは上へ、リューディとレヴィッドは後ろへ
大きく飛びずさった。それに僅かに遅れるように、それまで三人がいた所を幅
広の剣が薙ぎ払う。
「あの位置から、あの距離で、あの装備で、今の高速攻撃放つってのも、大概
どーかと」
 着地と同時にレヴィッドがぼやく。
「重量が負担にならないなら、どんな動きも理不尽じゃなくなるって事なんだ
ろ!」
 それにこう突っ込みつつ、リューディは剣を両手で構え直した。
「さて、どうするか……」
 相手の様子を伺いながら、低く呟く。
 リューディの剣は切り裂く事に主眼を置いたものであり、この黒い騎士のよ
うに板金鎧で全身を固めた相手には有効な打撃を与え難い。鎧の隙間に切っ先
を突き入れる事ができればそれなりのダメージを与えられるだろうが、そこま
で接近するのも至難の業だ。
「ただ突っ立ってるだけに見えんのに、その実、隙ナシ、っての、やり難いん
よなぁ……」
 槍を構えつつレヴィッドがぼやく。口調は軽いが、その表情には苛立ちめい
たものも覗いていた。
「ね、リューディ……」
 再びリューディの傍らに舞い降りたファミーナが、小声で呼びかける。リュ
ーディは騎士の様子を伺いつつ、何だよ、と短く応じた。
「あの騎士の、構え、とか、動き……覚え、ない?」
 問いかけるファミーナの声は、微かに震えていた。リューディはその問いに
即答せず、ただ、表情を険しくする。
「リューディ?」
「……確かめてみるか」
「え?」
「おい!」
 リューディの短い言葉にファミーナは困惑した声を上げ、レヴィッドが表情
を険しくした。
「もし、オレたちの予想が正しければ……」
 低く呟きつつ、リューディは剣を握る手と精霊の環、それぞれに力を込めた。
(もし、あの人なら……この技を、見切ってくるはず!)
 そうであって欲しくはない。そんな思いを込めつつ、リューディは地を蹴っ
た。
「リューディ!?」
「バカやろ、いくらなんでもリスク高すぎだっ!」
 ファミーナとレヴィッドが叫ぶのは聞こえていたが、止まる事はできなかっ
た。リューディは低い構えを取りつつ黒い騎士へと一気に駆け寄る。相手の間
合いの直前で身体を屈め、勢いをつけて跳躍するのと同時に黒い光が舞い散り、
リューディの姿が二つになった。
「え……なに?」
 リューディの突進を呆然と見つめていたファミーナがとぼけた声を上げる。
「月闇流剣技・幻夢斬。自分の動きと、精霊の力もちょいと借りて、残像分身
を起こして相手を撹乱しながら斬るっつー技」
 その疑問に答えるように、レヴィッドが淡々とこんな説明をつけた。
「精霊に干渉できない状況でも使えなくはないんで、リューディが最初に身に
着けた、アルヴァシア家の独自剣技……あいつのオリジナルアレンジも入って
るから、今までにその動きを見切れたのは……一人しか、いない」
「その、一人って……」
「言わずもがな、でしょ?」
 ファミーナの震える問いに答えるレヴィッドの声は、こちらも微かな震えを
帯びていた。
「……せいっ!」
 一方のリューディは残像の数を二つから三つに増やし、それぞれが異なる方
向から黒い騎士へと刃を向けた。
 大抵の相手は、残像によるフェイントに引っかかって動きが鈍るか、当て推
量の攻撃で体勢を大きく崩す。殺気や闘気と言ったものをたどって攻撃して来
る相手には、闇渡りを併用して瞬時に移動する事で逆に側面や背面を突き、技
の必殺性を高めていた。
「……」
 黒い騎士の兜の奥に紅い光が灯る。その右手が微かに動き、そして。
「っ! リューディっ!!」
 何もない空間に、真紅が鮮やかに舞い散った。

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