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   ACT−4:清らな水底、冥き影 02

 それからの行程には特にトラブルらしきものもなく、一行は無事、山頂まで
たどり着いた。山越えルートを選んだ理由の一つであるヴェゼリアの大滝で、
フレアが滝に見入って動かなくなった、と言う事態が発生したりしたものの、
トラブルと呼ぶには軽いものだ。
 山頂にはレディルタ湖という湖があり、その畔には旅人が自由に使えるよう
に、と無人の山小屋がいくつか建てられていた。
「でも、どして誰も居ないの?」
 屋根と壁があり、更に藁のマットを敷いただけとは言えベッドが用意されて
いる、という事に一しきり喜んだ後、フレアがこんな疑問を投げかけてきた。
「ああ……ここはね、中立地帯なんだよ」
 暖炉周りの埃を払い、火をおこす準備をしつつ、アキアはのんびりとそれに
答える。
「中立地帯?」
「そう。五年前の、火竜騒動の事は知ってるでしょ?」
 アキアの問いに、レフィンはすぐにはい、と頷くが、フレアはきょとん、と
しつつ首を傾げた。
「……フレア? し、知らないって事は、ないでしょ?」
 その様子にレフィンが恐る恐るこう問いかける。フレアはむっとした表情で
覚えてるもんっ、と言い放つが、きつく寄せられた眉から察するに、状況は言
葉とは裏腹であるらしい。
「今から五年前に、クレストとカジェストの国境……つまり、今居るルガリス
山脈の辺りで暴れ回っていた火竜レディルタ。現クレスト候である、セルシア
ーナ・リム・クレスティアン卿によって討伐されたこの竜のお陰で、この辺り
はめちゃめちゃになってたんだよね」
 そんなフレアの様子に苦笑しつつ、アキアは山小屋の由来を話し始めた。途
端に、フレアはあ! と声を上げて、瞳を輝かせる。
「『ディアレナの騎士』セシア様のお話ね! もう、最初にそう言ってくれれ
ばいいのにぃ」
「……火竜よりも、そっちで覚えてたの、フレア……」
「えと、それで? どうして、ここって中立なの?」
 はしゃいだ声を上げるフレアの様子にレフィンがもらした呟きは、あっさり
と黙殺された。それに妙な悲哀と微笑ましさを感じつつ、アキアは説明を続け
る。
「クレスト候の活躍で火竜は退治されて、その決戦の跡地に水が湧き出てでき
たのが、このレディルタ湖なわけだよね。今のこの場所は、湖ができた後、ク
レストとカジェストの共同事業で街道と一緒に整備された。
 クレストとカジェストは、先代の頃には領地の境界線でもめてたんだけど、
火竜討伐やその後の復興事業で関係がよくなった。それを機会に、両聖騎士候
で話し合って、領有権を主張しあっていたこのレディルタ湖周辺を中立地帯に
する事で、領地問題に決着をつけた、と」
「……それで、中立地帯であるが故に、双方とも人員は置かず、また、行商人
や隊商以外の者の商いも禁じている……だから、無人なんだっけ?」
 アキアの説明を一通り聞いた後、レフィンが独り言のようにこう呟いた。
「はい、その通り。まぁ、おかしな連中が住み着かないように、それぞれの騎
士団が交代で、抜き打ちの見回りはしてるんだけどね」
 その呟きを補足しつつ、アキアは暖炉周りの掃除を終えて立ち上がる。
「さて……それでは、夕飯の材料を調達してきますか。ここなら、ちょっとは
凝った物も作れるからね」
「ほんとっ!? やったぁ、期待してるからね、アキアっ」
 軽い口調の言葉にフレアが早速はしゃいだ声を上げ、素直な反応にアキアは
苦笑し、レフィンは小さくため息をついた。
『あ〜あ、取りあえずは食い気かよ……』
 そして、ヒューイは人知れずこんな呟きをもらし、柄の上の金緑石の上にち
らちらと光を瞬かせた。

 そして、その夜。
 ビュッ!という低い唸りと共に大気が揺れる。静かな夜気を力のこもった突
きと蹴りが引き裂き、それと共に銀糸さながらの髪が揺れた。
「……はっ!」
 低い気合と共に鋭い蹴りが虚空に放たれ、夜気を裂く。
 フレアとレフィンが疲れから寝静まるのを見計らい、外に出たアキアは湖の
畔で黙々と武術の鍛錬に励んでいた。月光の下で繰り広げられるそれは、猛々
しくも美しい乱舞とも見え、時折り飛び散る汗の珠が艶やかさのようなものを
添えていた。
「……ふう」
 一しきり身体を動かすと、アキアは息を吐きながら額の汗を拭い、ゆっくり
と腰を下ろした。そのままぼんやりと、今は黒い水面を見つめる。水面はさざ
波一つ立てる事無く、静かに天上の月を映し出していた。
「……」
 水面に揺らぐ月、それを見つめる瞳が陰りを帯びる。
「いつまで……知らないままにしておけるかな」
 直後に、かすれた呟きが唇から零れ落ちた。
 これまでは話をそらしたり誤魔化したりする事で、様々な事情をぼやかす事
ができた。だが、それにも限界が近いように思える。ファヴィスとシルヴェル、
二人の封印師が姿を見せた事と、二人のフレアに対する態度。それらが、わず
かながらフレアの中にアキアに対する疑問を生じさせているのは間違いないか
らだ。
(いつかは、教えないとならないが……感情の暴走で、あれだけ大きな力を解
放できるというのは、危険すぎる)
 レフィンが冥魔を生じさせた際に、フレアが放った力。あの時はどうにか制
御してレフィンを救う力とできたが、解放された力の規模によってはそれもま
まならない可能性が高い。いや、今の自分に抑えきる事ができるとは、正直思
えなかった。
「何とか、持ってくれればいいんだが……」
 低く呟いて、右腕に巻かれた包帯を撫でる。
 あの時、自らつけた傷はまだ完全には癒えていない。その治癒の遅さは、ア
キアにある事実を強く思い知らせていた。
「やっぱり、ここ数年は無理が過ぎたか……一気に限界に近づいちまってる、
な」
 ため息と共にこんな言葉を吐き出した、丁度その時。
 ……ぱしゃん……
 微かな水音が響き、風もないのに水面が波打った。波は水面の月をかき乱し、
アキアを我に返らせる。
「なんだ?」
 低い呟きをもらすのとほぼ同時に、水の中から黒い影が飛び出してアキアに
飛びかかってきた。
「なにっ!?」
 思わぬ事態に対処が遅れ、黒い影が圧倒的な重量と共に圧し掛かってくる。
アキアはそれに逆らわず、むしろその勢いを利用して相手を投げ飛ばした。
「何だって言うんですか、っとにもう!」
 文句を言いつつ、弾みをつけて身体を起こし身構える。投げ飛ばされた影は、
グルルルル……という低い唸りをもらしつつ、こちらも体勢を整えている所だ
った。
「……古の盟約において、『封印師』の一族が汝に命ずる……」
 相手の様子を伺いつつ、アキアは低い呟きをもらす。
「微かなる『光』、一時集いて灯火となれ!」
 呪文に応じて髪留めの蛍石が光を放ち、それが光球となってふわりと舞い上
がった。光球は舞い上がりながらその輝きを増し、周囲を照らし出す。
「……っ!? こいつは……」
 光球に照らされた襲撃者の姿に、アキアは形の良い眉をきつく寄せた。
 湖の中から現れたのは、奇妙な四足の獣だった。全体的な体型は獅子などの
獣に近いが、その身体は青く滑る鱗に覆われている。低い唸りを上げる頭部は
縦長で、その形は容易に竜を思わせた。鋭い爪を供えた足には水かきがあり、
この獣が水中に暮らすものである事を伺わせる。
「……竜の眷属か? 何故、こんな連中が地上に……」
 グァウルゥゥっ!!
 低い呟きをかき消すように、獣が咆えた。鱗に覆われた足がびしゃり、とい
う音を立てて地を蹴り、巨躯がアキア目がけて突進してくる。アキアは横っ飛
びにそれを避けつつ、ぐるりと周囲を見回した。
 取りあえず、見える範囲には他の獣の姿はなく、新手が出てきそうな気配も
ない。どうやら、この一匹に集中して挑む事ができるようだ。
(小屋の方の守りは、ヒューイに任せて大丈夫だしな。とはいえ……)
 水棲の魔獣と水辺で戦うのは、不利と言わざるをえない。最悪向こうのフィ
ールド、つまり水中に引き込まれる可能性もあるからだ。魔獣の方もそれはわ
かっているようで、突進攻撃に失敗した後、勢いで突っ込んだ水辺から離れよ
うとはしなかった。
「小賢しいと言うか、何と言うか……」
 呆れと苛立ちを込めて吐き捨てつつ、アキアは魔獣との距離を測る。この勝
負、どう考えてもアキアの方が分が悪い。相手を全力攻撃で倒してしまっても
いい、というなら何の問題もないのだが、この魔獣相手ではそうも行かない理
由があった。
 この魔獣は、その特徴的な頭部が物語るように竜と深い関わりを持つ。強大
な力を持つが故に、基本的には人間たちと関わりを持とうとしない彼らだが、
時折り、何かを伝える目的で自分たちから干渉してくる事があるのだ。そして、
その先駆けという形で現れるのが竜の眷属と呼ばれるこの魔獣たちだ。
 とはいうものの。
「この様子だと、単なる暴走、という可能性も否めない、か……」
 低く唸ってこちらを威嚇する魔獣の様子からは、何かを伝えたい、という意
図は感じられない。何かの弾みで暴走し、無作為に暴れている、と言った方が
良さそうだ。勿論、それはそれで大問題なのだが。
「さて、どうするか……」
 呟きながら、足を前に進める。その動きに魔獣がぴくり、と反応した。両者
の間に緊張が張り詰め、そして、魔獣の咆哮がそれを打ち破る。その咆哮を追
うように魔獣の口から激しい水流が噴き出し、アキア目がけて飛んだ。アキア
はそれを軽いジャンプで避け、着地と同時に背後から響いてきた何かが倒れる
音に、ぎょっとしつつ振り返った。
「なんっ……」
 目に入ったのは、ほぼ真ん中から二つに折れて倒れた立ち木だった。折れた、
というよりは、伐られた、と言った方が正しいかもしれない。光球に照らされ
る断面は真っ直ぐで、通常では考えられない鋭利さと力で持て切り落とされた
事を物語っている。それを成したのが何であるかは、余り考えたくはなかった。
もっとも、考えるまでもなく、答えは一つしかないのだが。
「中々、やってくれますねぇ……」
 例によって、口調だけはごく軽く呟く。が、魔獣を睨むように見る藍と紫の
瞳は真剣そのものだ。
(正面から仕掛けるのは、危険だな。さすがに、今のをまともに食らったら、
再起不能だ)
 決して細くはない木を容易く切り倒す威力を秘めた水のブレスをまともに食
らえば、人の身体など粉々に砕け散るであろう事は想像に難くない。相手の攻
撃を食らわず、かつ殺してしまう事無く倒す、というのは、中々にハードな条
件に思えた。
「ま、やらなきゃならないんだから、グチを言っても仕方がない、か」
 ため息混じりに呟いた直後に、アキアは動いていた。銀色の髪がふわりと揺
れ、黒衣に包まれた長身が躍動する。その動きに反応して放たれた水流をジャ
ンプで避けつつ、アキアは魔獣との距離を詰めた。
「……っ!? おっと!」
 距離を詰めていざ攻撃を、と思ったその時、背後に何かが迫るのが感じられ
た。アキアはとっさの判断で横へ飛び退き、それに僅かに遅れて、水流がそれ
までアキアのいた辺りの地面をえぐる。
「……おいおい」
 それが先にジャンプでかわした水流であり、自分の動きを追尾してきた、と
理解するまで数分かかった。
「中々、器用な事で……」
 微かに眉を寄せて呟く。魔獣が一度放った水流をどの程度の時間維持できる
のかはわからないが、こちらを追尾できる、というのはかなり厄介だ。避けた
つもりで不意打ちを食らう、というのは、正直ご免被りたい。
「まぁ、それならそれで……」
 とはいえ、脅威と言えるのが水流のブレスだけであるなら、それを使わせな
ければいい、とも言える。魔獣は水辺にいる事でその力を吸収し、それによっ
てこちらを攻撃しているのだから、水から引き離してしまえばブレスは使えな
くなるはずだ。
 しかし、水辺にいる事の有利を熟知しているであろう魔獣をそこから誘い出
す、というのは簡単な事ではない。力ずくで引きずり出すにしても、近づけば
水中に引き込まれる可能性と、何より魔獣自体の重量を思えば不可能に近い。
一般的な手段では、魔獣を水から引き離すのは不可能だろう。一般的な手段、
に限れば。
「……『白銀の封印師』ヴェラキアの名において、今、ここに封じの力を生み
出さん……」
 呟くような言葉と共に、虹の光彩を放つ光がアキアの手の上に灯った。その
光に、魔獣はグルッ、と警戒するような唸りを上げる。爛々と輝いてこちらを
睨む黄色の眼に、艶やかさすら窺わせる笑みを映しつつ、アキアはゆっくりと
足を前に進めた。
 その動きに反応するように、魔獣が水流のブレスを放つ──それとほぼ同時
に、アキアは集中した力を解放した。
「流水隔絶! 清らなる流水の恵み、その全ての道筋を汝より絶たん!」
 鋭い声に応じて虹色の光が弾け飛び、光の帯となって魔獣の周囲を取り巻い
た。その帯が作り出す輪の内側、つまり魔獣の周囲から水が消え失せる。噴き
出したブレスも、煌めく粒子となって飛び散った。
 グァウルルっ!?
 さすがにこれには驚いたのか、魔獣が困惑を交えた声を上げた。
「己が領域へ還れ、水竜の眷属よ……ここは、お前の在るべき地ではない!」
 厳しい口調で言い放つ、その言葉に応じるように光の帯が間隔を狭めた。帯
は球体に転じ、魔獣を包みこむ。
「水竜の護りし地へ」
 右手を天へと向けつつアキアが言うと、光球はぶるっと大きく震えてからふ
っと消え失せた。光球が消えた後には何もない円形の空間が一瞬だけ残される
ものの、直後に現れた水が何事も無かったかのようにその空間を埋め尽くす。
湖の周囲は静寂に包まれ、ただ、不自然に切り倒された木だけが、異変の名残
を僅かに留めていた。
「……やれやれ」
 他に動くものの気配がないと確かめると、アキアは小さくため息をついた。
直後に、右腕の傷がずきりと痛む。思わぬ痛みにアキアはその場に膝を突いて
いた。
「おいおい、勘弁してくれよ。永封の類を使った訳じゃ、ないんだから……」
 痛みに顔をしかめつつ、こんな言葉を吐き出す。魔獣と水の力を切り離すた
めに用いたごく簡単な封印の技。本来ならば負担にもなり得ないようなそれは、
予想外のダメージをアキアの身体に与えていた。
「まったく、情けないな……」
 痛みが鎮まると、アキアはこう呟いて深く息を吐いた。それからゆっくりと
立ち上がり、先ほど生み出した光球を消す。
「……くっ……」
 言いようも無く、気だるい。考えたくはないが、顔色は見れたものではない
だろう。それを思うと、小屋に戻りたくはなかった。戻ったが最後、この状態
についてヒューイに質問攻めにされるのは目に見えているから、というのもあ
るが。
「……仕方ない……少し、自然の気をもらうか」
 低く呟くと、アキアはゆっくりと湖畔を歩いて小屋とは反対側の岸へと向か
った。周囲を見回し、他に動くものがない事を確かめたアキアは唐突に着てい
る物を脱ぎ始める。一見すると華奢で女性的な印象を与えがちな容姿からは想
像もつかない、鍛え抜かれた身体が微かな月明かりの下に晒された。
 均整の取れた肢体には一見、非の打ち所などないように見える。だがそれに
は一箇所だけ、文字通りの玉に瑕とでも言えそうな部分があった。背中に、斜
め十文字の傷跡のようなものがあるのだ。その傷は髪留めが外された事で解放
された長い髪によって覆い隠され、直後にアキアの姿そのものが水音と共に消
え失せる。湖に飛び込んだのだ。
 水に入ったアキアは湖底まで潜り、身体を丸めるようにして動かなくなる。
程なく、水中に微かな光が瞬き始め、それがアキアを包み込んだ。
(しばらくは、これで持たせられる、か……とはいうものの……)
 それが一時凌ぎに過ぎない事は、他ならぬアキア自身が最もよく理解してい
ると言えた。
(まったく、つぎはぎだらけだな、この身体は)
 自嘲しつつ、アキアは水の中で目を閉じる。
 蒼黒い水底は、言いようもなく心地良い静寂で持て、その身体を包み込んで
いた。

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