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   26

「……都市を……破壊する……」
 レイフェリアから告げられた言葉を、シーラはやや呆然と繰り返していた。
リックも微かに困惑している。
『そうです……そのために、わたくしたちはあなたたちを都市から解放したの
です』
 そんな二人に、レイフェリアは静かにこう言った。シーラは俯いて唇を噛み
締める。その横顔を、リックが心配そうに覗き込む。
「……シーラ?」
「都市を、破壊したら……あの、あなたは、どうなるんですか?」
 顔を上げたシーラは、震える問いをレイフェリアに投げかける。碧い瞳には、
不安が色濃く浮かんでいる。そんなシーラに、レイフェリアは寂しげに微笑ん
だ。
『わたくしは、既に都市の一部……言わば、部品に過ぎません。都市と共に、
滅びるのみです……』
 静かに、静かに告げられた言葉にシーラは息を飲む。華奢な身体が大きく震
えるのが、傍目にもはっきりとわかった。
「そん……な……そんなのって!!」
『……』
「そんなのって、ないです! だって……せっかく、会えたのに……なのに、
どうしてっ……」
 いつか会えるのではと、淡い期待を持ち続けていた者。血の繋がった存在。
それと邂逅した直後につき付けられた現実は、あまりにも厳しかった。
『わたくしは……こうして、あなたと会えただけで、充分ですよ……』
「だけど……」
『名は……何と、つけていただいたのですか?』
「……シーラ……です」
『『守護者』よ、あなたは?』
「オレは……リック、です」
『シーラと、リック……』
 二人の名を、レイフェリアは小さく繰り返した。想いの込められた、優しい
声で。直後に筒の中に異変が起きる。その内部に突然、大きな気泡がわき上が
ったのだ。
『……ああ……限界が、来てしまいました』
「限界?」
 短い言葉が、嫌な予感をシーラの胸に過らせた。
『わたくしは、もう、生きた存在ではないのです。五百年前、都市の中枢の一
部となった時……人として、死を迎えました。だから……』
 だから、悲しまないで。こう言って微笑むレイフェリアの表情は、とても穏
やかだった。
「でも……だけどっ……」
『あなたには……辛い思いばかりさせて……ごめんなさい』
 静かな言葉が響く間にも、ごぼごぼと言う音と共に無数の気泡が筒の中にわ
き上がる。その動きがレイフェリアの背の翼から羽を散らしていくのに気づい
たリックははっと息を飲み、シーラをぎゅっと抱き締めた。訪れるであろう残
酷な現実を予測し、それが与える衝撃から少女を護り、支えるために。
『シーラ……リック……どうか……古き呪縛を……妄執に囚われた魂たちを救
って……そして、あなたたち自身の未来を……押し付けの宿命ではない、生き
方を……選び取って……』
「お……おかあ、さ……」
 崩れていく。
 崩れていく。
 それは、時間のもたらす当然の、そして残酷な作用。
 五百年と言う長い時間、不自然に維持されてきた存在が、あるべき姿へと回
帰していく。
「……いっ……」
『シーラ……わたくしの、愛しい娘……』
 消え入りそうな言葉と共に、一際大きな気泡が弾け――
「いやああああああっ!!」
 女神の骸は、溶けて、消えた。

 そして、それは引金となる。

「……レイフェリア!」
 暗闇の中に佇む青年――レイファシスがはっと顔を上げ。

「……消滅したか」
 ギルが小さく呟きをもらす。

 ざわり。
 そして、都市の奥深くに潜むそれがうごめいた。
――『メガミ』ガ――
――ワレラノ『メガミ』ガ――
――ウシナワレタ――
 ざわざわ。ざわざわ。
――シカシ――
――アラタナ『メガミ』ガイル――
――『レデュア・リューナ』レイフェリアヲツグモノ――
――『ライア・リューナ』ニ――
――ケイショウハナサレル――
――イマコソ――
――イマコソ ワレラ――
――メザメン――
――テンクウヘ――
――ラクエンヘ――
――タダシキアリカタヘ!!――
 ざわめきは一つの方向へと集約し、それは大きな思念のうねりとなる。黒い
思念のうねりは一つの大きな力となり、それまで自ら閉ざしていたもの――水
晶の筒の中へと吸い込まれて行く。力の流れを吸い込んだ筒は音を立てて砕け
散り、中にいた者がその翼を広げた。
 闇の中に、不釣合いなほどに美しい、白い翼が広がる。だが、その翼は妙に
作り物めいて見えた。
「刻は、来れり……再び、天空へ」
 筒の中から現れた者――金の髪と青の瞳の青年は、不敵な笑みを浮かべつつ
こう呟いた。彼は頭上の暗闇を見つめつつ目を細め、煌めく翼を羽ばたかせる。

「……目覚めたか……」
 近づく気配に、レイファシスは低く呟いた。端正な横顔にあるのは、強い苛
立ちだ。
「……っ!」
 呟きの直後に足元に震動が伝わり、レイファシスはとっさにその場から飛び
ずさる。それに僅かに遅れて、それまでレイファシスの立っていた床が爆音と
共に吹き飛んだ。
「相変わらず、逃げるのは上手いようだな……白き翼の『制御者』よ」
 立ち上る煙の中から、嘲るような声が響く。レイファシスは静かに、煙の向
こうにいる者の名を呼んだ。
「……ガルベルク……」
 煙が鎮まり、姿を見せた者――金髪に青い瞳の青年は、口元を笑みの形に歪
めて見せた。
「新たな女神が生まれる」
「……」
「貴様の血を引いているというのは気に食わんが、それでも、我が最愛の姉の
忘れ形見だ。新たな象徴として、これほど相応しい者はない」
「貴様は、それが……レイフェリアの望みであると思うのか!?」
 低い問いに、青年は笑うだけで答えない。整ったその容貌は容易にレイフェ
リアを――レイファシスにとって最愛の存在である女性を思い起こさせる。だ
が、そこに浮かぶのは彼女の暖かな微笑とは似ても似つかぬ冷たい嘲笑であり、
瞳には慈愛ではなく、狂気が伺える。
「我らは天空より地上を統べる者。天空へ帰るは必然」
「それは古き妄執に過ぎん。翼の民は過去の存在、この都市もまた、然り!」
「ならば何故、地上の民はレイフェリアを神と見なし、崇め続けている?」
 青年の問いに、レイファシスは一瞬、言葉に詰まった。
「地上の民には、拠り所が必要なのだ。決して届かぬ高みから、見守られねば
生きては行けぬのだよ」
「だからと言って、それを貴様が成さねばならぬ必然などない。我らは過去の
亡霊、滅び行くべき存在なのだ!」
 レイファシスの言葉に、青年は不満げに眉を寄せた。
「愚かなり、『制御者』」
「愚昧と言うべきは貴様だ、ガルベルク。他者の妄執に踊らされ、真理より目
をそらし続ける。レイフェリアの想いを、理解せずに!」
「下賎なる灰翼の者と謀り、姉上を惑わせた者が……ぬけぬけと!」
「惑わされているのが自らであると、何故に気づかん、ガルベルク!」
 叫ぶようなレイファシスの言葉に、青年から表情が消えた。
「やはり、平行線か……貴様とは、言葉を交わすだけ無為である事に変わりは
ないようだ」
 感情らしきものの感じられない声で言いつつ、青年は軽く左手を振った。鈍
い金色に輝く光が空間に灯り、それは鋭い矢となってレイファシスへと飛ぶ。
光の矢はとっさに避けようとしたレイファシスに追いすがり、その脇腹をかす
めた。
 無機質な床の上に、真紅が滴り落ちる。
「ふん……一撃で楽になっておけば良いものを」
 その場に膝をついたレイファシスに、青年は嘲りを込めてこう言い放った。
「……ガルベルクっ……」
「まあいい。貴様の始末などに手間をかけてはいられぬからな。新たなる女神
に、都市を再生してもらわねばならぬ……」
 どことなく勝ち誇ったような響きを込めて言いつつ、青年は闇に包まれるよ
うに姿を消した。一人、残されたレイファシスは苛立たしげな視線を前へと投
げかける。
「くっ……このままではっ……」
 言葉を遮るように、喉の奥からこみ上げてくるものがあった。言葉の代わり
に吐き出されたそれは、重たい色彩の花を床に描き出す。
「……限界が来ていた所に、この傷か……厳しいな」
 どことなく自嘲的に呟いた時、
「『制御者』!」
 この十六年間に唯一語りかけてきた声が聞こえた。顔を上げたレイファシス
は見慣れた仮面と、微かに覚えのある男の顔を見つけて力なく微笑む。
「……『調律者』……すまぬ、抑えきれなかった」
「『調和者』が、消滅したな?」
 短い謝罪にギルは何も言わず、確かめるような問いを投げかけた。
「そうだ……」
「……ヤツは、『中枢』へ向かったのか?」
「他に何処へ行くと言うのだ?」
 再び投げかけられた問いに、レイファシスはどことなく投げやりに問いで返
す。直後にまた血を吐いたため、周囲にはその臭いがむせ返るように立ち込め
た。
「だ、大丈夫ですか!?」
 おびただしい出血に、ラヴェイトが上擦った声で問いかける。レイファシス
は短く、大丈夫だ、と応じた。
「しかし、その傷では……」
「……既に死した者のために、時を失してはいけない!」
 なおも言い募るラヴェイトを、レイファシスは厳しく遮った。顔を上げたそ
の瞳は厳しく、その厳しさにユーリが一つ息を吐く。
「どうやら、のんびりしてるワケにゃいかねーようだな。んで? オレらは何
をすりゃいい?」
 投げやりとも取れる問いかけに対する、レイファシスの答えは簡潔だった。
「子供たちに、力を。あの子たちが妄執に屈せぬように」
「はいよ、りょーかい。じゃ、行くとしよーぜ」
 それに、ユーリは迷う事なくこう言いきる。この返事に、レイファシスは微
かに笑んだ。
「子供たちを、頼む」
「十六年前にも、最後にそう言ったっけな」
 苦笑めいた面持ちでこう言うと、ユーリはギルを見た。ギルはレイファシス
を見やり、レイファシスは一つ、頷いて見せる。
「……『中枢』へ向かう。そこに、全てが集る」
 短い言葉と共に、ギルは翼を広げた。その手に灯った紅い光がふわりと広が
り、次の瞬間、それは粒子となって弾け飛ぶ。光が消えた後にはユーリたち三
人の姿はなく、レイファシスは再び、暗闇に一人きりとなった。
「……余力を……残しておかねば、な……」
 また血を吐いた後、レイファシスは小さくこう呟いた。
「終末を導くのはあの子たちでも……見届けるのは、私の役目なのだから」
 誰一人聞く事のないその呟きには、強い決意が込められているようだった。

 静かな空間に、しゃくりあげる声が響く。今はただ、どんよりと濁った液体
をたたえるだけの筒の前で、シーラはリックにすがって泣きじゃくっていた。
「……シーラ」
 柔らかな陽光色の髪を撫でつつ、リックはシーラに呼びかける。
「シーラ、もう泣かないで」
 呼びかけに、シーラは答える事ができない。今、目の前で起きた事に与えら
れた衝撃が、正常な思考をどこかへ追いやっていた。
「シーラ、いつまでも泣いてちゃダメだ。オレたち、やらなきゃ」
 ひたすら泣きじゃくる様子からそれと察したのか、リックはシーラの肩に手
を置いて、その身体を強く揺さぶった。
「でもっ……でも、だけどっ……」
「しっかりして、シーラ」
「……リック……」
「行かなきゃ。そして、果たさなきゃ、オレたちの役目。終わりにしなきゃい
けないんだよ、オレたち。終わりにして、始めなきゃ」
「終わりにして……始める?」
 戸惑いを込めて問うシーラに、リックはそう、と頷く。
「シーラのお母さんが言ってたじゃないか。古い呪縛を破って、オレたちの未
来を選び取ってって。そのためにも、まず終わりにしなゃ。そのためにも……
行かなきゃ」
 夜闇を思わせる漆黒の瞳に強い決意を浮かべて、リックはこう言いきった。
シーラはお母さん、と呟いて目を伏せる。
「……会えて嬉しいって、言ってくれたじゃないか。シーラだけじゃなく、オ
レの事まであんなに想ってくれてた……その想いに、応えようよ。そうすれば、
きっと喜んでくれるし、それに……」
「……それに?」
「……それに、そうすれば、報いられる気がするんだ……オレたちのために生
命をかけたっていう……オレの、父さんに」
 途切れた言葉の先を促すと、リックはどことなく寂しげな笑みと共にこう続
けた。その言葉にシーラははっと息を飲む。
 先代の黒き翼の『守護者』ゼオ・ラーヴァ・リーヴェリオス。自分たちを都
市から脱出させようと試みて、生命を落としたという、リックの父。
「リック……」
 結末はともかく、自分は、自分の母に会えた。触れ合う事はできなくとも、
声を聞き、言葉を交わせた。だが、リックにはそれすらできないのだ。どんな
に望んでも、会いたいと願う人は五百年と言う時間を隔てた過去に命を落とし
ている。それが辛い事なのは、言葉を尽くすまでもないはずだ。
「ごめん……ごめんね、あたし……自分ばっかり」
 途切れがちの謝罪にリックはいいよ、と微笑み、それから表情を引き締めた。
「シーラ、オレ、もう離れないから。側にいて、君を護るから。だから……立
ち向かってみよう、逃げないで」
 静かな言葉に、シーラはうん、と頷いた。
「行きましょう……お母さんの願いを、果たすために」
 小声で、しかし、はっきりこう言いきると、それを待ち受けていたかのよう
に白い光球たちが周囲に舞い降りてきた。
――みこさま――
――しろのみこさま――
――ぼくら――
――ぼくらね――
――おあずかりしてるの――
――ひめさまのこころ――
――みこさまにおつたえするちしき――
――みこさまにおわたしする――
――それがさいごのおいいつけ――
――みこさま――
――みこさま おねがい――
――みんなをたすけて――
 舞い降りてきた光球たちは、ちらちらと瞬きつつこう訴えてきた。
「みんなを、助ける?」
――このばしょから――
――とべないまちから――
――だしてあげて――
――ほんとは みんな とべるの――
――じぶんで かえれるの――
――そらにかえれるって おしえてあげて――
――ぼくらのおねがい――
――ひめさまのおねがい――
――だから……みこさま――
「わかったわ」
 何がどこまでできるのか、正直自信はないが、シーラはこう言って頷いてい
た。理屈ではなく、それが自分の成すべき事、自分と言う存在に託された祈り
であると、そう感じていた。
(頑張れる……一人じゃ、ないから)
 今は、一人ではない。一番大切な人が側にいる。その事実は何よりも大きな
心の支えとなり、華奢な少女を支えていた。シーラはリックと頷き合い、ゆっ
くりと立ち上がる。
――それじゃ――
――それじゃ――
――ひめさまのさいごのおいいつけ――
――こころをおわたしするのと――
――みこさまたちを――
――みこさまたちを『ちゅうすう』へ!――
 『中枢』へ――その言葉の直後に、光球たちはこれまでで最も強い輝きを放
った。その光はシーラとリックをふわりと包み込み、シーラの内側へと染み込
んでいく。それに伴い、シーラは自分の中に無数の知識が刻まれていくのを感
じていた。それらは今までも断片的に認識していた知識の欠けた部分を埋め、
都市の『監視者』として要求される全てのものを短時間の内に少女に与える。
「……っ!」
 急激に与えられた情報の多さに目眩を感じつつ、それでもシーラはそれを受
け入れた。ふらつく身体をリックが支えてくれているのがわかり、シーラはぎ
ゅっとその胸にすがりつく。
 やがて衝撃はゆっくりと鎮まり、直後に、足元の質量が消え失せるのが感じ
られた。一瞬の浮遊感を経て、足元に金属性らしい冷たい床の感触が広がる。
それと認識するのと同時に周囲を取り巻いていた光がすっと消え失せた。
「ここは……」
「ここが、『中枢』?」
 薄暗い周囲を見回しつつ、二人はこんな呟きをもらし、
「ようこそ、新たなる女神よ」
 呼びかけてきた男の声に、はっと身構えた。

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