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   17

 そこは、静寂に包まれている。
 数える事すら既に諦めきった長い長い時間、そこには静寂が張り詰めていた
のだ。
 最後に変化が訪れてから、どれだけが過ぎたのだろうか――静寂の只中に立
ち尽しつつ、彼はふとこんな事を考えてみる。自分という存在を時の流れから
切り離して以来のその螺旋と比べれば、その方がまだ数えやすいと思えるから。
 どれだけの時が過ぎたのだろうか、最後の希望を呪縛から解き放ってから。
今、彼が案じている唯一の者たち。それらを思う事は安らぎであり、同時に痛
みでもあった。
「……?」
 不意に、力の波動が感じられた。懐かしさを感じるそれを放つ者が誰か、彼
はすぐさま察知し、そして深くため息をついた。
「やはり、立ち向かう事を選ぶのだな、お前は……」
 声が大気を震わせる。声を出す事も久しぶりで、正直、まだそんな力がある
というのもちょっとした驚きだった。
「だが、それも良かろう。私は、お前たちを待つ。レイフェリア……あの子た
ちが、帰ってくるぞ」
 果てる事などあるとは思えない、頭上の深い闇を見つめつつ、呟く。その声
には、微かな喜びの響きが感じられた。

「あの……ユーリさん」
 ドゥラとの戦いから一夜明けた翌日、シーラはややためらいがちにユーリに
呼びかけた。
「ん? どーした?」
「あの……ラヴェイトさんは……」
 軽い口調の問いに、シーラは奥の水場の方を気にしつつ短く言葉を続ける。
この問いに、ユーリはああ、と言いつつ自分もそちらを見た。
「心配いらねえよ。あいつは、見た目はヤワいが中身はしぶとい。ちゃんと、
立ち直るさ」
 それから、茶目っ気のあるウィンクをしつつ軽い口調でこんな事を言う。シ
ーラははい、と頷くものの、どうにも晴れない気持ちを抱えたまま、なし崩し
にアル、と名づけたアルビノの砂漠ネズミを撫でてやった。アルは嬉しそうに
目を細めつつ、シーラの手に顔を擦り寄せてくる。そんな仕種が、憂鬱な気分
を多少は和らげてくれた。
「……心配か、あのボウズが?」
 突然、ユーリがこんな問いを投げかけてきた。シーラはえ? と言いつつ顔
を上げてユーリを見る。
「えっと、それは……」
「ムリすんなって」
「……ユーリさんは、どうなんですか?」
 逆にこう問い返すと、ユーリは訝るように眉を寄せた。
「……俺が? 何を?」
「あの、ギルって人の事、『レッド』って……レッドさんって、レイヴィーナ
さんのお兄さん……ですよね?」
 問いに、ユーリはああ、と気のない声を上げた。
「心配って言うか……気に、ならないんですか?」
 更に問いを重ねると、ユーリはまぁな、とため息をついた。
「そうは言っても、ここで悩んでたって答え、出ねえだろ? なら、考えねぇ
に限るさ。お前の悩みも、同じだろ?」
「それは……そうですけど」
 軽い言葉にシーラは目を伏せる。シーラとて、理屈の上では今こうして気を
揉むのが無意味と理解している。わかっていても、心配なのだ。ゼオが見せた
明らかな異常は不安を抱かずにはいられないものがあった。リックと呼ぶ事が
ゼオに負担をかける、というギルの言葉も気にかかる。
(リック、どうしちゃったの? ゼオの中にはあなたがいるんだよね……間違
い、ないよね?)
 アルを撫でてやりつつ、シーラは心の中で答えの得られない問いを投げかけ
る。アルは陰った瞳を不安げに見上げ、それから、きゅっ、と甲高い声を上げ
た。直後にがさり、と音を立てて茂みが揺れる。顔を上げて振り返った先には、
ラヴェイトが立っていた。
「ラヴェイトさん……」
 そっと呼びかけると、ラヴェイトは穏やかな笑みでそれに応えた。
「気は、晴れたか?」
 続けてユーリが問うと、ラヴェイトははい、と頷いて腰を下ろす。
「んで? どーする?」
 腰を下ろしたラヴェイトに、ユーリはごく軽い口調でこう問いかけた。この
問いにラヴェイトは不思議そうに首を傾げる。
「どうする? 何を、ですか?」
「ん? だから、これからだよ。ドゥラの件にはある意味決着ついたんだ。こ
れから、どうするんだ?」
 怪訝な問い返しにユーリはどこまでも軽くこう返した。口調こそ軽いが、琥
珀の瞳は厳しい。ラヴェイトはその目を真っ直ぐに見つめ、言った。
「どうするも何も……行きますよ、エデンへ」
 静かに、そして何のためらいもなく、ラヴェイトは言いきる。藍の瞳には、
一片の迷いも見受けられなかった。
「だって、そうでしょう? ぼくはまだ、何も知ってはいない。父さんに何が
あったのか、その理由は何一つ見出してはいないんです。だから……行きます、
古代都市へ」
 瞳と同様、その言葉には迷いは感じられなかった。この宣言にユーリは満足
そうな笑みを浮かべ、
「よっしゃ、良く言った!」
 こう言ってラヴェイトの首をがっしと抱え込んだ。突然の事に、シーラもラ
ヴェイトもきょとん、と目を見張る。
「それでこそあいつの……碧水のドゥラの忘れ形見だぜ! 確かめねぇとな、
なんとしてもよ?」
 静かな言葉に込められた決意。それはシーラとラヴェイト、それぞれにも共
通するものだった。故に、二人はそれぞれの思いを込めてはい、と頷く。
(そう……確かめなきゃ。リックの事も、あたし自身の事も)
 この所、あまりにも目まぐるしく状況が変化していたため、つい忘れそうに
なっていた自分の目的。昨日、戦いを見守りながらギルと交わした言葉は、そ
れを強く再認識させてくれた。不安も強くあるが、ここまで来て逃げたくはな
い。白き翼の『監視者』ライア・リューナという名が意味するもの――それと
向き合おう、という気持ちも芽生えていた。
「さて、んじゃ、明日の朝にはここを発つぞ。今日は、ゆっくり休んどけよ?」
 ラヴェイトを放しながら、ユーリはやや表情を引き締めつつこんな事を言う。
この言葉に、シーラもラヴェイトも表情を引き締めてもう一度頷いた。

「シーラさん、いいですか?」
 空が色を変え始める頃、奥の泉の辺でぼんやりとしていたシーラは、ラヴェ
イトの呼びかけにふと我に返った。
「どうか、しました?」
 とっさに笑顔を作って問うと、ラヴェイトは微かに眉を寄せた。無理をして
いるのが、わかってしまったのだろうか。
「ええ、ちょっと。古代都市に着くと忙しくなりそうなので、今の内に話して
おきたい事が……隣、失礼しますね?」
 ふと不安を感じるものの、ラヴェイトは特に追求するもなくにこりと微笑み、
ゆっくりと腰を下ろした。清々しい空気の中に薬草の香りがふわりと弾ける。
「話しておきたい事、ですか?」
「ええ……ゼオ君の事で」
 ゼオの名前に、シーラはペンダントのフィアナ石をぎゅっと握り締めて身構
えていた。そんなシーラの様子にラヴェイトは苦笑めいた表情を覗かせ、それ
から表情を引き締める。
「地下遺跡で彼の身体を癒した時に感じたのですが……やはり、彼は生命体と
しては異常です。彼の生命波は、ある物に酷似しています」
「ある物?」
「……『ガーディアン』……でしたか? 以前戦った、鋼の化け物にです」
「……え?」
 静かな言葉の意味をシーラは一瞬理解しあぐね、理解した直後に色を失った。
そんなシーラを、アルが不安げに見つめる。
「落ち着いて下さい、シーラさん。ぼくはゼオ君が彼らと同じとは、結論づけ
ていません」
 そして、ラヴェイトは困ったような表情でこう言った。それにひとまずは安
堵するものの、しかし、ラヴェイトの言わんとする所が掴めないシーラは困惑
した瞳をそちらに向ける。
「どう説明すればいいのかな……彼の中には、二つの生命が存在しているよう
な感じなんです」
「二つの、生命?」
「はい。表層的な物と、その奥にある、根源的な物の二つです」
「え……えっと……?」
 ラヴェイトの説明にシーラは困惑して首を傾げた。何となくわかるような気
がするが、『生命が二つ』というのがどもうピンと来ない。ラヴェイトはです
から、と言いつつ、近くにあった小石を拾い上げた。
「例えば、これがある人の生命だとします。通常はこうして、当たり前に存在
している。これが言わば、ぼくやあなたの状態です」
「あ、はい」
「ですが、ゼオ君の状態は違うんです。なんと言うか……」
 言いつつ、ラヴェイトはポケットからハンカチを取りだし、手の上の小石の
上にふわりと乗せた。
「こういう感じです。彼本来の生命を、擬似的な生命が押さえ込んでいるよう
な……そんな感じを受けました」
「ゼオが……本来の存在を押さえ込んで……それじゃ!」
 ようやくラヴェイトの言わんとする所に気づいたシーラは、思わずはしゃい
だ声を上げていた。そんなシーラの様子に、ラヴェイトはにこりと微笑む。
「ええ。ゼオ君の中にリック君がいる。彼らが、同一の存在であるのは、間違
いないでしょう。ただ、気になる事が……」
 言葉の最後にラヴェイトはふと眉を寄せた。突然の事にシーラは不安を感じ
つつ、なんですか? と先を促す。
「ぼくが、彼本来の生命として認識したもの……とても強い力なのですが、非
常に傷ついているようでした。ここからはぼくの推測なのですが、ゼオ君とし
ての彼の存在は、止血帯のようなものなのかも知れません」
「止血帯って……ゼオが、リックの傷を抑えているって事ですか?」
 今の話を自分なりに整理して問うと、ラヴェイトはええ、と頷いた。
「ですから、今、本来の彼自身を取り戻すのは危険なのかも知れませんね」
「それが、負担になるって事……?」
 ギルの言葉を思い返しつつ、シーラは独り言のように呟く。ゼオがリックと
しての在り方を取り戻すのが危険だと言うなら、リックと呼ぶ事が負担になる、
というのも何となくだが理解できる。
「でも、それじゃ……もう、リックは……」
 それではゼオはこの先ずっとゼオのままなのか、リックに戻る事はないのか。
ふと生じた疑問にシーラは目を伏せる。そんなシーラに、ラヴェイトは穏やか
な口調で大丈夫ですよ、と言いきった。
「でも……」
「大丈夫ですよ、癒えない傷、と言うものはありません。ですから、リック君
を救う方法は必ずあるはずです。それに……」
「……それに?」
 不安を感じつつ先を促すと、ラヴェイトは優しく微笑んだ。
「フィアルの誓いで結んだ絆は、断たれる事はありません。だから……大丈夫
ですよ」
 優しく穏やかだが、同時にどことなく寂しげな表情で、ラヴェイトはこう言
いきった。その寂しさに気づきはしたものの理由を問うのはためらわれ、シー
ラは微かに俯いてフィアナ石をぎゅっと握り締める。
「さ、もう休みましょう。明日からまた、砂漠越えですからね……しっかり体
調を整えなくては」
 そんなシーラの様子に苦笑しつつ、ラヴェイトはゆっくりと立ち上がった。
シーラはこくん、と頷いて立ち上がる。
 立ち上がり、何気なく見上げた空は既に暗いが、月は例によって異様に明る
かった。

 翌日から再び砂漠越えが始まった。が、ある程度予測していた通り砂嵐に遭
遇する事はなく、また、先に進むのを阻もうとする者もなかった。
「やって来てくれ、と言わんばかりだな」
 この状況にユーリがふともらした呟きは、あながち冗談でもなさそうだった。
実際の所、シーラは既にそう確信している。古代都市にいる何者か、それが自
分たち――というか自分を待っているような、そんな気がしてならないのだ。
 唯一問題なのは、それが何者か全くわからない、という事なのだが。
 そうして何ら妨害もないままで精霊のオアシスを出てから五日が過ぎ――そ
れは、唐突に視界に飛び込んできた。
「……え?」
 それが何なのか、シーラは最初わからなかった。砂の中から唐突に、柱のよ
うなものが何本も突き出しているのだ。
「ユーリ殿、あれは……」
 同じ物に気づいたラヴェイトがユーリに問う。ユーリはああ、と言って一つ
息を吐いた。
「十六年前と、全然変わってやしねえ……古代都市エデンだよ」
 静かな言葉が否が応にも緊張を高める。シーラはやや強い風が乱す髪を押さ
えつつ、改めて前方にそびえる物を見た。柱のように見えるそれらは、どうや
ら塔か何からしい。水晶の柱を思わせるその姿は、砂漠の風の中、墓標のよう
に静かにそこにあった。
「行くぞ。少し行くと傾斜になるから、足元に気ぃつけろよ」
 立ち尽くすシーラの肩にぽん、と手を置いてこう言うと、ユーリはゆっくり
と歩き出した。シーラとラヴェイトもそれに続く。前に進むにつれて、目指す
場所の大きさが伝わってくる。それと共に緊張感も高まった。
 きゅう……
 シーラの不安を感じたのだろうか、ポケットの中のアルが不安げな声で鳴い
た。シーラは大丈夫よ、と小声で呟く。それはアルに向けてと言うよりは、自
分自身への言葉と言えた。
 しばらく進んだ所でユーリが足を止めた。そこからは先ほどの彼の言葉通り、
下へ向かう緩やかな傾斜が続いている。巨大なすり鉢状のくぼ地ができている
らしい。そしてその中央に、それはあった。
「……っ!」
 半ば砂に埋もれているものの、それが巨大な都市であるのは充分に見て取れ
た。中央に水晶の柱のような尖塔が何本もそびえ立ち、そこから放射状に街路
が広がっている。所々が崩れ落ち、砂に埋没した所も多々あるものの、かつて
は整然とした都市であった事は疑うべくもない。
「……これが……エデン……」
 場に立ち込めた静寂を、シーラの低い呟きが取り払う。それに、ユーリがあ
あ、と頷いた。ラヴェイトは言葉もないのか、じっと風に吹かれる都市を見つ
めている。
「さて……それじゃ、行くとするか?」
 口調だけはいつも通りに軽いノリでユーリがこう言うと、シーラとラヴェイ
トははっと我に返って頷いた。
(ここが、エデン……あたしの、いた所……)
 目指していた場所へ少しずつ近づきつつ、シーラはふとこんな事を考える。
生まれた場所へ近づいているにも関わらず懐かしさや感慨はなく、むしろ、不
安だけが心に募るような、そんな気がしていた。

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