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   16

「……ぐっ!?」
 青い光に触れた途端、ドゥラは身体を大きく震わせて苦しげに低くうめいた。
ユーリがラヴェイトを振り返る。ラヴェイトは静かにドゥラの生命波をたどり、
そして。
「ふ……ふふっ……ははっ……こんな……こんな事って、あるんですね……」
 突然、乾いた声で笑い出した。
「信じられない……恐らく、フィルスレイムの大導師だって、こんな……こん
な現象はご存知ないでしょうね……こんな……死者に、負の生命波を与えて、
生者の如く振る舞わせるなんてっ……」
 ここでラヴェイトは言葉を切り、鋭い瞳をドゥラに向けた。
「あなたは……あなたは、一体何者なのですか!? いえ……何者であろうと、
この際、関係はありません。あなたが何であれ、これ以上父を……父さんを、
汚させる訳には行きませんっ!!」
 叫ぶように宣言する、藍の瞳は濡れていた。そこにあるのは怒りと、そして
強い決意の光だ。
「死者に……負の生命波? それじゃ……」
 その一方で、シーラは呆然とこんな呟きをもらしていた。
「……そう。即ち、ドゥラ・ヴァスキスという男は十六年前に既に死んでいた、
と言う事だ」
 その呟きに答えるように、ギルがぼそりと呟く。
「でも、どうしてそんな……っ!!」
 どうしてそんな酷い事を、と言いかけて、シーラははっと息を飲む。ドゥラ
は、いや、彼に憑いた何者かは、執拗に自分を狙い続けていた。シェルナグア
の神殿を破壊し、グラルシェでは街の中で攻撃をしかけ、なんとしても自分を
捕えようとしていた。と、言う事は……。
「……言ったはずだ。お前は一つだが、全てではない、と」
 シーラが自分のせい、と結論付けるより先に、ギルは低くそれを遮った。
「でもっ! でも、あたしが……」
「……仮にそうだとしても、彼の地に立ち入らねばこうはならなかった。全て
の業は己に起因するもの。お前という存在は過程と結果の一因だが、全ての元
凶とはなり得ない」
「それじゃ、その元凶って!? 一体、何なんですか!?」
 叫ぶような問いに対する、ギルの答えは簡潔だった。
「お前は、それを自らの目で確かめるために、彼の地を目指すのではないか?」
 確かにそうだ。自分が何者か、一連の異変は何故起きたのか――その答えを
求めて、シーラはここまで来たのだから。
「今は、ただ見届ける事だ。白き翼の『監視者』として、お前は事象の多くの
側面を見、知らねばならぬ」
 諭すような口調でギルは静かにこう言った。表情こそわからないものの、仮
面の奥の瞳は優しい光を宿しているように思える。
「……今は……見届ける……」
「そうだ。正しき道を選び取るために」
 謎かけのような言葉の真意を計る事はできない。しかし、それらの言葉はご
く自然に受け入れる事ができた。シーラはこくん、と頷いて戦いの場を見つめ
る。無意識の内に、祈るように手を組みながら。
「くっくっくっ……ふははははははっ!」
 長い沈黙を経て、突然ドゥラが狂ったように笑い出した。ユーリの表情が引
き締まり、ゼオも、強い警戒を込めた瞳をドゥラに向ける。より正確に言うと、
少年の漆黒の瞳はドゥラの背後の影を睨んでいた。
「私が何者かだと? 愚かな事を言う……私が、ドゥラ・ヴァスキス以外のな
んだというのだ?」
 一しきり笑った後、ドゥラはその笑みを残したまま、こんな問いを投げかけ
てきた。この問いにラヴェイトは小さく息をつく。
「生憎ですが、もう聞きませんよ。あなたは、生命を歪める『在らざるもの』
……このまま、放っておく事はできません……」
 言いつつ、ラヴェイトはドゥラを真っ直ぐに見る。こちらを見つめる藍の瞳
――改めて見たそれは、どことなく虚ろだった。生気と呼べるもののない瞳は、
明らかに生者のものではない。
「父さんを……返してもらいます!」
 宣言と共に生まれた青い光が舞う。それは曇天下の砂漠を美しく照らしつつ、
ドゥラへと飛んだ。ドゥラは黒い光の矢を生み出して青い光へ向けて飛ばすが、
「……っせい!」
 それより一瞬早く飛来した風の刃が光の矢を撃ち落とす。それを放ったのは
言うまでもなくユーリだ。ドゥラは憎々しげにユーリを睨み、生じた一瞬の隙
を突くように青い光がその身を捕えた。
「うぐっ!?」
 光に捕えられたドゥラが低くうめく。背後に揺らめく影が大きく震えた。ラ
ヴェイトは光を操り、波動をたどる。今のドゥラの状態は、屍人とほぼ同じと
言っていい。違うのは、ドゥラ本来の生命波が失われ、在らざる負の生命波が
満ちている事だ。なら、それが宿る場所を見つけて切り離せば、ドゥラを救う
事ができる。
「……ぐっ……お、おの、れ……」
 黒い影が苦しげに震えている。そちらが本体であるのは、最早誰の目にも明
らかだ。黒い影は悶えるような収縮を繰り返し、そして、弾けるように広がり、
奇妙な姿を形作った。
「……鳥?」
 シーラが首を傾げて呟く。だが、それを鳥と称するのはかなり無理があるだ
ろう。確かに、そのシルエットは鳥を思わせるのだが、翼に当る部分には骨格
しか見えない。翼から、羽を全て毟り取られた鳥――こう言えば、しっくりく
るだろうか。
 ……キエエエエエエっ!!
 影が奇声を上げ、羽のない翼を羽ばたかせる。それは思いがけず突風を巻き
起こし、ユーリたち三人を吹き飛ばした。バランスを崩した弾みに集中が途切
れ、ドゥラを捕える青い光が周囲に飛び散る。
「……ちぃっ……なんつー、厄介なモンに憑かれてんだ、あいつ……」
 態勢を整えつつユーリがぼやく。周囲を見回し、他の者の無事を確かめたユ
ーリは、俯くラヴェイトに気づいて眉を寄せた。
「……どうした?」
「……見つけたんです……」
 声をかけると、ラヴェイトはかすれた声でこう答えた。声が、微かに震えて
いる。
「見つけた?」
「父さんを捕えている、負の生命波が宿る場所を……そこを破壊すれば、論理
上、父さんは解放されます……でもっ……」
 ここでラヴェイトは言葉を切り、唇を噛み締めた。ユーリは眉を寄せつつ、
でもなんだ? と先を促す。ラヴェイトは深く息を吐き、それから、自分の左
胸に手を当てた。
「……生命波の……生命の源というのは、確かにここに象徴されます……だけ
どっ……何も、こんな……よりによって、心臓なんかに宿らなくてもっ……」
 振り絞るような言葉にユーリは眉を寄せ、それから、嘆息するようにそうか、
と呟いた。静かな声にラヴェイトははっと顔を上げてユーリを見る。困惑した
藍の瞳を、ユーリは静かな表情で受け止めた。
「さっき、言ったろ? ヤツに引導渡すのは……俺の役目なんだよ」
 静かな表情で紡がれる、静かな言葉。そこにあるのは、自ら進んで業を背負
おうとする、強い意思。薄っぺらな自己満足や陶酔感などはなく、ただ、自ら
の成すべき事を果たそうとする思いだけがはっきりと感じられた。
「……ユーリ殿……」
「援護は、頼むぜ。俺は、突っ込むだけだからよ?」
 ラヴェイトの言葉を軽く遮ると、ユーリは剣を構えてドゥラに向き直った。
ラヴェイトの集中が乱れた事で束縛が緩んだためか、ドゥラは多少、余裕を取
り戻しているようにも見える。
「ボウズ、お前さんも頼むぜ。取りあえず、俺は突っ込むからよ?」
 距離と間合いを測りつつ、ユーリはゼオに声をかけた。ゼオは例によって勝
手にしろ、と素っ気なく答えるだけだが、ユーリの意思はそれなりに理解して
いるようだった。
 クキェエエエエエっ!!
 影が奇声を上げる。それが合図となり、ユーリとゼオが動き出した。影が羽
ばたいて起こした突風はユーリが風の精霊の力で打ち消し、続けて放たれた光
の矢は、直後に跳躍したゼオが光の剣で叩き斬った。ゼオはそのまま翼を開き、
黒い影へと斬りかかる。
 ギェエエエエっ!!
 光の剣に切り裂かれた影は絶叫し、ドゥラの態勢が大きく崩れた。それを好
機とユーリは一気に距離を詰めるが、直後にドゥラの口元が笑みの形に歪んだ。
後ろに引いた手には、禍々しい輝きを放つ黒い光球がある。その用途は、説明
を求めるまでもなく明らかだ。
「っ!! いけないっ!!」
 瞬間、迷いが途切れた。ユーリを死なせる訳にはいかない、という思い、そ
して、悪意ある者にこれ以上父の手を汚させたくはないという思い――それら
が迷いを押し退けていた。ラヴェイトはまだ微かにドゥラの周囲に残っていた
青い光に意識を集中し、光球が放たれる直前にドゥラの身体を束縛した。
 銀煌が走り――空気が、揺れた。だが、真紅のものが飛沫く事はない。ただ、
深いふかいため息だけが、こぼれ落ちた。
「……ふ……私も……ここまで……か……」
 どこか寂しげで自嘲的な呟きが、それを追ってこぼれる。
「……っ!? ……ドゥラ……?」
 ユーリが眉を寄せつつドゥラを見る。ドゥラの藍の瞳は天を見つめていた。
虚ろで冷たかった瞳には、はっきりそれとわかる、暖かさが見て取れる。
「……すまないな……シェラ……ライ……帰る事は……できそうに、ない……」
「……っ!!」
 ラヴェイトが息を飲んで目を見張る。懐かしい呼び方と、穏やかな声。記憶
の中の面影と、それは容易に合致する。
「……どうなってるの?」
「……解放だ」
 困惑するシーラにギルがぼそりとこう呟く。シーラはえ? と言いつつギル
を見た。
「解放……って?」
「ヤツは……ドゥラという存在は十六年前に命を落とし、その骸は第三者によ
って存在を捻じ曲げられていた。その束縛から解放された事で、十六年間止ま
っていた、ヤツ本来の時間が動き出したのだ……本来迎えるべき、最期へ向け
てな」
 シーラの疑問にギルは淡々とこう答えた。直後に、シーラは言い知れぬ悪寒
を感じ取る。その源はドゥラの背後にある、鳥の影だ。ほぼ全員の注意がそれ
たその瞬間を待ち受けていたかのごとく、影は、大きく膨れ上がった。
「……っ!? おい、動けっ!!」
 上空に止まっていたゼオが叫ぶが、ユーリもラヴェイトも呆然としたまま動
かない。ゼオは舌打ちするとざっと降下し、剣を突き出したまま立ち尽くすユ
ーリの背に思いっきり蹴りを入れた。衝撃で我に返ったユーリは目の前に広が
る影に気づき、剣を引き抜いて後ろに下がる。ゼオはまだ呆然としているラヴ
ェイトの所まで飛びずさり、その肩を揺すった。それでラヴェイトも我に返る
ものの、影は既に三人の目の前に迫っている。
「ユーリさん、ラヴェイトさんっ! ……リック!!」
 危機感から、シーラは数歩前に駆け出していた。影に飲まれるとどうなるか
はわからない。だが、その危険性ははっきりと感じていた。意味合いに多少の
差異こそあれ、三人はシーラにとって『大切な存在』と言えた。その彼らが危
険に晒されるのは――認められない。許せない。
「……だめえええっ!!」
 その思いを最も端的に表す言葉が絶叫となって迸る。それに呼応するかのよ
うに碧い煌めきがこぼれ、白い閃光が膨れ上がった。光は少女の背に翼を開き、
そして、広がる影を遮るようにその前に立ちはだかった。影は怯むように大き
く震え、目を思わせる真紅の光が怯えるように揺らめきつつシーラを見る。シ
ーラは睨むようにそれを見つめ返した。
「……白き翼の『監視者』ライア・リューナの名において……あなたに、命じ
ます。その人を解放して、ここから立ち去りなさい!」
 何故、そんな言葉が出てきたのかはわからない。だが、言わなければならな
いような気がしていた。それが自分にできる唯一の事であり、同時に、自分に
しかできない事だと感じていたから。
 クキェエエエ……
 影が声を上げて首を横に振る。何かを訴えるような素振りだが、シーラは毅
然とした態度を崩しはしない。
「もう一度、言います……その人を、解放しなさい!!」
 一歩前に出て繰り返すが、影は怯えるように揺らめくばかりでドゥラから離
れようとしない。シーラは軽く唇を噛むと、静かに目を閉じた。『天空の瞳』
が碧い光を放ち、壁になっていた白い光が大きく揺らめく。光は大きく広がり、
黒い影を包み込んだ。
 クキェエエエエ……クェェェェェェっ!!
 影が絶叫し、激しく揺らめく様は一瞬だけ見て取れた。シーラは祈るように
手を組み、ゆっくりと翼を羽ばたかせる。鈴を鳴らすような涼やかな音が響き、
煌めく光の粒子がそこから飛び立った。光の粒子は影を包み込んだ白い光へと
舞い降り、次の瞬間、融合した二つの光は白く輝く柱となり、再び響いた鈴の
音を思わせる響きと共に弾けて消えた。
 そして――。
「……ライ……」
 一連の事態をやや呆然と見つめていたラヴェイトは、突然の呼びかけにはっ
と我に返った。穏やかな、藍の瞳がじっとこちらを見つめている。忘れたつも
りで、でも忘れる事のできなかった優しい眼差し。それが、向けられていた。
「……父……さ、ん……?」
 かすれた声で呼びかけると、ドゥラは微かに微笑んだようだった。直後に、
残酷な現実がそこに舞い降りる。ラヴェイトが次の言葉を言おうとするより一
瞬早く、ドゥラの身体は黒い塵と化し、崩れ落ちていた。
「……っ!? ……あ……」
 言葉が、途切れた。ラヴェイトは呆然と、つい先ほどまでドゥラが立ってい
た場所を見つめる。これが現実、と呟く冷めた理性と、その容認を拒む感情と
がせめぎあう。
「……あ……あはは……こんなのって……こんな……こ、とっ……ぼくは……
ぼく、は……う……く……うわあああああああああっ!!」
 混濁した二つの意識は、絶叫という形で十六年分の想いを暴発させた。ユー
リは無言でその姿を見つめ、それから、ため息をついて天を仰ぐ。
「……さっさと、行ってやれってんだ……バカヤロウが、寂しがりをほっとき
やがって……」
 呟いて、剣を収める。やる瀬ないような、そんな想いが一瞬だけ琥珀の瞳を
彩り、
「……くっ……」
 直後に聞こえたうめくような声がそれを打ち消した。一連の事態を例によっ
て興味ナシ、といった様子で見ていたゼオが、突然口元を押さえてよろめいた
のだ。
「!? おい、ボウズ!」
 大丈夫か、と問うより早く少年の身体が大きく揺らぎ、ほぼ同時にギルが姿
を消す。消えた、と思った直後にその姿はゼオの背後に現れ、少年の身体を受
け止めた。ギルはそのまま、気を失っているらしいゼオの身体を両腕で抱え上
げる。
「……リック!」
「今は、その名で呼ぶな。それが、ゼオの存在に負荷をかける」
 慌てて駆け寄ったシーラに、ギルは静かな口調でこう言った。思わぬ言葉に、
シーラはえ? と瞬く。
「今は……? それじゃ、やっぱりゼオは……」
「今は、それを論じる時ではない……今は、それを紐解く時ではなく、その場
所でもない。想いを先走らせるな、『監視者』」
 戸惑いながら発した問いにギルは諭すような口調でこう答えた。仮面の奥か
らこちらを見つめる瞳には、厳しいものがあるように思える。
「……全ての答えは、この先にある。そう……『堕ちた聖域』にな」
 静かにこう言うと、ギルはゆっくりとシーラたちに背を向けた。
「ちょっと待てよ! そいつは、確かなんだろうな?」
 その背に向けて、ユーリが厳しい口調で問いを投げかける。
「エデンにつけば、答えは出るのか? バルクやドゥラが……お前が、そんな
になっちまった理由が、全部わかるのかよ……レッド!」
 叫ぶような問いに、ギルは答えなかった。灰褐色の翼が開き、その姿は一瞬
で空の彼方へと消えてしまう。
「……リック……」
 二人が消えた辺りを見つめつつ、シーラはかすれた声で呟く。
 不自然に空を覆っていた雲が切れ、砂漠には日差しが戻り始めていた。

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