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   12

 うぎゅうむううう……
 無気味な音が空間に響く。どうやら暗闇から現れたものが発しているらしい。
とはいえ、それのどこに発声器官があるのか、そもそもそんなものが必要なの
かは疑問なのだが。
「……なんなんだ……これは……」
 ずるずると音を立ててにじり寄るその姿に、ラヴェイトが呆然と呟く。乳白
色をした細長い筒状の胴体の先に花弁状に並んだ無数の触手を備えたもの――
下部には木の根状に広がった触手が伸び、うごうごと蠢いている。正直、長時
間の直視は遠慮したい手合いだ。
「……なに……なんなの? これ……生き物?」
「……そのようです。かなり、異常ですが……生命波を感じます」
 呆然としつつもらしたシーラの呟きをラヴェイトが肯定した。とはいえ、当
のラヴェイトも困惑を隠せずにいる。目の前にいるのは、間違いなく有機的な
生物だ。そう称する事に抵抗はあるものの、生命波を放っているので生物に間
違いはない。
(……なんなんだ、一体……この生命波の強さ、異常過ぎる)
 問題なのはそれが放つ生命波の強さだった。生命波というのは、多少の個体
差こそあれ、基本的には一定の強さを保っている。それが強すぎても弱すぎて
も、生命体としては異常なのだ。そして生命波というものは本来、一定の強さ
を越えて強化されるという事はない。少なくとも、フィルスレイムにおける定
義ではそうだ。一応、流派の術の中には意図的に生命波を強化するものもある
が、それによって必要以上の強化を行う事は禁じられていた。過剰な力は生命
を歪め、その存在を捻じ曲げてしまうからだ。
 うぎゅうむむむ……
 異常生物がまた、声を上げる。統制なく空間を彷徨っていた触手の動きが止
まり、その先端が一斉にシーラとラヴェイトの方に向いた。ラヴェイトはシー
ラを守るようにその前に立ち、異常生物を睨むように見る。
「ラヴェイトさん……?」
「……護ります」
 戸惑いがちに名を呼ぶと、ラヴェイトは静かにこう言い切った。思わぬ言葉
にシーラはえ? と言って瞬く。
「ぼくには、彼のように直接戦う力はありません。それでも……それでも、あ
なたを護りたいと思う気持ちで、引けを取るつもりはありません」
「……ラヴェイトさん……」
 言葉に込められた、想い。説明されずとも感じ取れるそれが、言いようもな
く重く感じられる。冗談を言わないラヴェイトの言葉だから、それが真面目な
ものだとわかるから――どうする事もできないのが辛い。
 うぎゅううむううう……
 異常生物の咆哮がほろ苦い感傷を吹き飛ばした。無数の触手が薄墨色の大気
を裂いて唸りを上げる。ラヴェイトは力を集中し、それらへ向けて放った。本
体の放つ生命波はあまりにも強い。下手な干渉は危険と判断したのだ。
『……タスケテ……』
「……っ!?」
 異常生物の生命波に干渉した瞬間、今にも消え入りそうな声がラヴェイトの
意識に響いた。
「……なんだ、一体……っ!!」
 突然の出来事への戸惑いはそのまま隙となり、束縛が遅れた。無数の触手が
ラヴェイトと、その後ろのシーラを狙って繰り出される。
「……しまっ……」
 慌てて束縛するが、全てを押さえきる事はできない。ゼリー状の物質に包ま
れた触手の数本がシーラを捕え――
「……はあああああっ!!」
 なかった。気合と共に走る閃光が触手を切り払ったのだ。
「……あ……」
 シーラの表情を安堵が過る。碧い瞳が見つめる先には、光の剣を携えた黒衣
の少年の姿があった。だが、どこか様子がおかしい。一見してそれとわかる、
激しい苛立ち。これまで感情を見せる事のほとんどなかったゼオが、それを表
に出しているのだ。
「……う……くっ!!」
 ちらり、という感じでシーラを見ると、ゼオは手の甲で口元を押さえ、それ
から巨大生物を睨みつけた。まるでそうする事で、他の事を意識から除外しよ
うとでもしているかのような、鋭い目だ。明らかな異常にシーラもラヴェイト
も戸惑うが、状況はそれを容認しない。
「……ボケっとしてんな! 来るぞ!!」
 うぎゅぎゅううむう!!
 ユーリの怒鳴り声に巨大生物の咆哮が重なった。唸りを上げて迫る触手を、
ラヴェイトは束縛しゼオは切り払う。そして、その場に駆けつけたユーリはラ
ヴェイトの束縛している触手を切り払った。
「ったく、あんの大ウソツキ野郎! なぁにが全部焼いたから大丈夫、だよ!!
きっちり生き残りがいるじゃねーか!!」
 蠢く巨大生物を睨みつつ、ユーリは苛立たしげにこう吐き捨てる。
「……どういう事ですか、ユーリ殿?」
 その剣幕に呆気に取られつつラヴェイトが問うと、ユーリは剣から片手を離
してばりばりと頭を掻いた。
「十六年前にもこいつにでくわして、例によってエライ目に遭ったんだよ。で、
そん時にこいつらの水気を全部抜いて干乾びさせて……その上で、全部焼いた
はずなんだが、なんで生き残りがいやがんだよ!? っとに……おい、ボウズ!」
 ラヴェイトの問いに答えると、ユーリはゼオを呼んだ。
「お前、この手のモン、他には持ってねえのか!?」
 剣の柄の緑の石を示しつつ問うと、ゼオは一瞬、思案顔になった。
「一つ、ある。だが、扱えるのはお前じゃないと、ギルは言っていた」
 それから、途切れがちにこう答える。視線はユーリの先へと向いていた。そ
の先にいるのは、二人の会話を理解できずに戸惑うラヴェイトだ。ゼオの視線
をたどり、それを確かめたユーリは眉を寄せた。
「……って事は……水のコアか……」
「水のコア? なんの事ですか?」
 困惑した問いにユーリは答えず、巨大生物に向き直った。その表情に、シー
ラは迷いのようなものを感じ取る。即断即決という印象の強いユーリらしから
ぬ様子にシーラは戸惑い、
「……っ!?」
 直後に感じた異様な感触に息を飲んだ。突然、足に何かが絡みついてきたの
だ。
「え!? な、なに? なに、これっ!!」
 悲鳴じみた声が口をつく。絡みついているのは、ゼリー状の物質に包まれた
乳白色のものだ。それが先ほどゼオによって切り払われた触手の先端だとユー
リたちが理解するまで、数分かかった。
「本体と切り離されて、それでも生きているのか!? なんて……異常な生命力」
 ラヴェイトが呆然と呟く。あらゆる意味で、この生物は彼の治癒術師として
の常識を超えていた。
「んな事で感心してる場合かっ! さっさと取ってやれっての!!」
 そんなラヴェイトを怒鳴りつけると、ユーリは巨大生物に向き直る。ゼオも
多少は落ち着いた様子で巨大生物を見据えていた。ラヴェイトは取りあえずシ
ーラの足に絡みつく触手を掴み、
「……う、」
 ぐにゃりとした質感となんとも不気味な冷たさに顔をしかめた。しかし、こ
れに絡まれているシーラが感じている悪寒はこの比ではないはず――と、念じ
つつ、ラヴェイトは触手に麻痺の束縛を与え、その力が緩んだ隙に一気に引き
離して投げ捨てる。
「大丈夫ですか?」
 問いにシーラは頷いて答えるが、今感じた悪寒はしばらく忘れられそうにな
かった。元々、ぬるぬるべとべとしたものは苦手なのだから、尚更ショックは
大きい。
「それにしても、あれは一体……」
 シーラの無事を確かめたラヴェイトは改めて巨大生物を見た。ユーリもゼオ
も空間全域に張り巡らされた触手に攻めあぐねているようだ。ただ、向こうも
下手に仕掛けるのが危険と察知したらしく、触手を繰り出そうとはしない。
『……タスケテ……』
 また、声が聞こえた。はっと周囲を見回して見るが、どうやらシーラやゼオ
には聞こえてはいないらしい。唯一、ユーリだけが厳しい面持ちでラヴェイト
を見つめていた。
「……聞こえてんのか?」
 静かな問いに戸惑いつつ、ラヴェイトは一つ頷いた。
「え……何が、ですか?」
 二人のやり取りに困惑したシーラが問うと、ユーリはまた、ばりばりと頭を
掻いた。
「俺とお前に聞こえてシーラに聞こえねぇなら、間違いねぇな……こいつは、
精霊の声だ」
「……精霊? ははっ……まさか。何故、ぼくに!?」
 ユーリの静かな説明に、ラヴェイトは微かに動揺らしきものを示した。
「……精霊の加護ってのはな、その力を使える資質と一緒に遺伝する……昔、
レッドの親父さんがそんな事を言ってたっけな……こういや、わかるだろ?」
 どこまでも穏やかな口調の問いに、ラヴェイトは唇を噛み締めつつ目を伏せ
た。ユーリの言わんとするところは、わかる。かつて碧水の二つ名で呼ばれ、
水の精霊の愛し子とも称された父・ドゥラ。その血を継ぐ唯一の存在である自
分に、精霊の力を使う資質が伝わっているのはある意味で当然の事だろう。し
かし……。
 認めたくない。
 そんな思いが先に立ってしまう。ヴァスキスの名を捨て、母方の姓であるア
ウルスを名乗っているのは関わりを断ちたいからなのだ。否定したところでし
きれるものではないとわかっているが、それでも、自分が『ドゥラ・ヴァスキ
スの息子』である現実と向き合いたくはないから。
「……ぼくは……」
 うぎゅうむむ!
 感傷に浸る間を与えまいとするかの如く、巨大生物が咆えた。ユーリは素早
くそちらに向き直り、剣を両手で構えて深呼吸する。
「そらよっ!!」
 ……ヴンっ!!
 剣の柄にはめた石――精霊の力の象徴とされるエレメント・コアが美しい光
を放ち、振るった剣の奇跡を追うように風の刃が駆け抜けた。刃は巨大生物を
打ち据え、一瞬その動きが止まる。しかし生物の本体を切り裂くには到らない。
「……ちっ……やっぱり、弾かれるな。あのやろ、どーやら精霊本体を取り込
んで、力を利用してるらしい」
「そんな事、できるんですか?」
 苛立たしげに分析するユーリの言葉に、シーラは目を見張る。
「できるできない以前に、現にああやって水の精霊の力でこっちの干渉を止め
てやがんだ。取りあえず、そうなってる事は認めねぇ訳にゃ行くまいよ」
 それをさらりと受け流し、ユーリは巨大生物を睨みつけた。
「どーしたもんかね……おい、ボウズ!」
 ぼやくように呟き、ゼオを呼ぶ。ゼオは振り返りもせずになんだ、と応じた。
「取りあえず、水のコアをこっちによこせや。使いこなせはしねえが、全く使
えねえ訳じゃねえ」
 軽い言葉にゼオは一瞬思案するような素振りを見せ、それから飛びずさるよ
うにユーリの隣に移動し、ポケットから青く透き通る石を取り出して渡した。
「……どうするんですか?」
「こいつの力を使って、向こうの力を相殺する。本体に斬り込んでかねぇと、
ラチあかねえからな、あの化けモンは」
 シーラの問いに、ユーリは青いエレメント・コアを握り締めつつこう答えた。
「そんな訳で、だ。ボウズ、斬り込みは任すぞ。はしっこいお前さんの方が向
いてるからな」
「……オレは、ボウズじゃない」
 何度も呼ばれてさすがに気に障ったのか、ゼオは憮然としつつこう言って、
それから巨大生物に向き直る。
「へいへい、そうですかっと……さて」
 子供っぽい訂正に苦笑した後、ユーリは表情を引き締めた。琥珀の瞳に厳し
さが浮かぶ。わかっているからだ。今、自分が軽い口調で言った事が、どれだ
け危険であるのかが。風の精霊の力を用いるのならばまだしも、本来は相互に
干渉を持たない水の精霊の力を使うのだから、そこには障害や危険が当然のよ
うに存在するのだ。
 しかし、それでも。
(やらねぇ訳にゃ、いかねえしな)
 こう思い定めたからにはやり通す。それが、旋風のユーリという男だった。
それがもたらすリスクなどは、取りあえず横に積んでしまう。もちろん、この
状況では問題が多々あるのだが。
「……ユーリ殿……」
 そんなユーリの様子にラヴェイトは唇を噛む。わかっているのだ。自分なら、
さほど危険もなくできるのだと。自然を多く残したフィルスレイム総本山での
修行の日々にも、精霊たちは幾度となく彼に呼びかけてきた。しかし、ラヴェ
イトはそれを受け入れる事を拒んでいた。
 それが、父から引き継いだ力によるものと感じていたから、それを認めたく
なかったから……。
「……ラヴェイトさん?」
 逡巡するラヴェイトにシーラがそっと呼びかける。それではっと我に返った
ラヴェイトはそちらを振り返り、不安を宿した碧い瞳に胸を突かれたような心
地になる。シーラの瞳には、不安と共にラヴェイトを案じるような、そんな色
彩も見受けられたのだ。
 傷つけてしまったのは、ほんの数分前の事だというのに。感情に流されて苦
しめてしまったばかりだというのに。なのに、この少女は自分を案じてくれて
いる。
 護りたい、と。その瞬間、痛切にそう思った。彼女を護るのは黒衣の少年の
役目なのかも知れない。しかし、それでも。
(……護りたい気持ちで、引けを取っているつもりはないんだ)
 先ほどシーラに告げた言葉に偽りはない。なら、それを実行するための最善
手を選ばない訳にはいかないだろう。
「……ユーリ殿!」
 全ての迷いを一時、横に押し退けて、ラヴェイトはユーリを呼んだ。
「……それを……エレメント・コアを、ぼくに下さい。ぼくが……やります」
 言い切る刹那、藍の瞳には強い決意が浮かんでいた。
 
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