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   03

 それからの数日は、特に何事もなく過ぎ去った。レイヴィーナは物言いこそ
ややきついものの気のいい女性であり、シーラが彼女と打ち解けるまでさして
時間はかからなかった。ユーリはあれきり戻る様子はなく、リックの消息は途
絶えたまま、一週間が過ぎた。
「ったく、あのバカ一体どこで遊んでんのかしらねぇ」
 戻らないユーリを案ずるシーラに、レイヴィーナは大抵軽くこう答えていた。
どうやら、特に心配はしていないらしい。大雑把とも取れるその態度に、シー
ラは少なからず戸惑っていた。
「あの、レイヴィーナさん……心配じゃないんですか?」
 目を覚ましてから一週間目に、シーラは思い切ってレイヴィーナにこう問い
かけてみた。この問いにレイヴィーナは一瞬きょとん、と目を見張り、それか
ら、なんで? と不思議そうに問い返してきた。
「だって……ユーリさん、一週間も戻らないし……」
「ああ、それ? いつもの事よ、慣れてるわ。大体、一週間なんて、短い方よ
……今までの最長記録なんて、半年よ、半年! それに比べりゃこの位は、カ
ワイイもんね」
 きょとん、とするシーラに、レイヴィーナはこう言って微笑って見せた。納
得していいものかどうか、困惑するシーラの肩を、レイヴィーナはぽん、と優
しく叩く。
「そんなに心配ばっかりしてないで! それより、少し外、歩かない? 気晴
らしになると思うわよ」
「え……でも……」
 レイヴィーナの誘いにシーラは目を伏せた。確かに、ずっと篭りきりで気が
滅入っているのは事実だが、あの襲撃者の事を考えると、やはりためらいが先
行してしまう。
「だぁいじょうぶ! この町で騒ぎを起こすなんてよっぽどのバカだし、あた
しもそれなりに腕には自信があるしね。と、言う訳で決まりね。市場まで行く
わよ!」
 反論の余地を一切与えずに、レイヴィーナはこう言いきってしまう。シーラ
は半ば引きずられるように、それから十分後には薄絹のヴェールを被って外に
出ていた。
「日差しが……強いんですね」
 一週間、いや、場合よってはそれ以上の間遠ざかっていた外に出て、最初に
感じたのはそれだった。シェルナグアの街の穏やかな日差しに慣れた身に、グ
ラルシェの街の日差しはやけに強く感じられた。ふと周囲を見回すと、道行く
人々は皆、マントやヴェールに身を包み、強い日差しを遮っていた。
「まあ、この辺りは昔からこんな感じね。さ、行くわよ」
 そんなシーラにさらりとこう言うと、レイヴィーナはすたすたと歩きだす。
シーラも慌ててそれに続いた。

 それとほぼ同じ頃。
「……さて、なんて説明したもんかね……」
 街の門では、ユーリが腕組みをしつつ、こんな事を呟いていた。眉間にはお
世辞にも似合うとは言い難い皺が寄り、何やら真剣に悩んでいると察する事が
できる。
「……まさか、結局手がかりもなんもなし……とはねえ……シーラ、落ち込む
だろうな……」
 それと考えてしまうと気が重く、これまたらしくもないため息が出てしまう。
そんな自分に嫌気がさし、ため息がため息を呼ぶ。凶悪な悪循環だ。
「……まあ、下手な嘘つくよりは、とにかく前向きに励ましていくしかねぇよ
な……って事で、」
 自己完結した所で、ユーリは声と表情を引き締めた。
「いい加減、そこから出てこようって気にならねぇか? 後ろでこそこそされ
ると、叩き斬りたくなるんだがな」
 それから、こんな物騒な言葉を肩越しに投げかける。静寂が広がり、やがて、
草を踏むかさり、という足音がそれを打ち破った。
「さすがは、旋風のユーリ殿……お見通しでしたか」
 背後の木陰に隠れていた人物は、楽しそうな口調でこんな事を言う。声から
してまだ若い男のようだ。ユーリはゆっくりとそちらに向き直る。右手は、背
中の大剣の柄にかけたままだ。振り返った先には、青と白の長衣と深い藍色の
マントが目を引く、細身の青年が立っている。
「あん? フィルスレイムの治癒術師か?」
 その出で立ちにユーリは怪訝な面持ちでこんな呟きをもらしていた。フィル
スレイムというのは、大陸でも最大規模を誇る治癒術の流派の名であり、青年
のまとう長衣とマントは、その術を身に着けた者の証と言えた。
「……俺に、何か用事かい?」
「ええ。ですが、お取り込み中だったようなので、声をかけそびれていました」
 低い問いに、青年は微笑ってこう答える。声と顔には覚えがないが、その言
い回しには微かに覚えがある。いや、良く見ると、顔もどこかで見たような気
がしてきた。ただ、記憶に残る本人とは微妙に違う。ユーリは眉を寄せつつ青
年の顔を見つめた。
「……お前……?」
「最後にお会いしたのは、十六年前でしたね……ラヴェイト・アウルスです」
「……!?」
 静かな名乗りがもつれた記憶を解き、ユーリは思わず息を飲んでいた。

「どう? 少しは、気が晴れたでしょ?」
 市場を一巡りした所で、レイヴィーナは軽い口調でこう問いかけてきた。こ
れにシーラははい、と素直に頷く。
 閉ざされたシェルナグアの街で育ったシーラにとって、交易都市であるグラ
ルシェの市場は、初めて見る物が目白押しとなっていた。最初こそ襲撃者を気
にしてそわそわしていたシーラだったが、何時の間にか露店に並べられた品物
を見るのに夢中になっていた。
「でも……いいんですか? こんなにたくさん、買ってもらって……」
 市場で買ってもらった服やアクセサリーの包みを見ながら問うと、レイヴィ
ーナは手をひらひらさせつつ、いいのいいの、と軽く応じる。
「でも……」
「いいのよ、別に。服は必要な物だし、それに、経費はちゃあーんとユーリか
らぶん取ってあるから、あたしは全然平気♪」
 にっこり微笑って言う、この一言で気持ちが楽になった。思わず笑みをもら
すとレイヴィーナもにっこりと微笑み、直後に表情を厳しく一変させた。
「レイヴィーナ……さん?」
 突然の事に戸惑った声を上げると、レイヴィーナはふう、と息を吐いて豊か
な髪をざっとかきあげた。
「……どこの誰かは知らないけど、随分といい根性してるじゃない。このグラ
ルシェの街で、裏稼業の仕事をするなんてさ?」
 それから、周囲の暗がりへ向けて低い声でこんな問いを投げかける。しばし
の静寂を挟み、暗がりの中から滲み出るように黒衣の者たちが姿を見せた。見
覚えのある姿に、シーラは息を飲んで身を強張らせる。
「こ、この人たち……!!」
 破壊されたシェルナグアの神殿、傷を負っていた司祭ルフォスの姿が脳裏を
掠め、そして、肩から血を流していたリックの姿が蘇った。恐怖が心を押さえ
つけ、身体が震える。シーラは包みを抱きかかえたままその場に立ち尽くして
しまい、そんなシーラの様子にレイヴィーナはため息をつきつつ黒衣の者たち
を見回した。
「あんたたち、どこの誰かは知らないけど。この子を渡す事はできないからね。
わかったら、とっとと帰ってちょうだい。これでも急いでんだからね」
 淡々とした言葉に黒衣の者たちは答えず、無言で手にした物を持ち上げた。
がしゃ……と言う音と共に、銀の刃が陽光を跳ね返す。この返答にレイヴィー
ナは一際大きくため息をついた。
「随分と舐められたもんね……この程度の人数で、このあたしを殺れると思っ
てんなら……大間違いよ」
 言葉と共に、左手が優雅な動きで前へ差し伸べられる。その上に鮮やかな紫
の光の球がふわりと浮かび上がった。合わせて、レイヴィーナの表情が厳しさ
を増す。
「命がいらないってんなら、止めないよ……爆炎のレッドの妹、雷光のレヴィ
の二つ名は伊達じゃないって事、あんたたちの身体に直接教えてやろうじゃな
いのさ!!」
 威勢のいい啖呵を合図に黒衣の者たちが動き出す。
「……おいで、ライトニング! あたしの敵に、遠慮はいらないよ!」
 対するレイヴィーナは鋭くこう言い放ち、それに応じるように紫の光球から
同じ色の雷光が迸った。雷光は意志あるもののように駆け巡り、黒衣の者たち
を打ち据える。数人が燻りながら倒れ伏すものの、彼らは臆した様子も見せず
に淡々と襲いかかってきた。
(……どうして?) 
 命を顧みる素振りさえ見せないその様子に、シーラは強い疑問を感じていた。
何故そんな事ができるのか、何故そうまでして自分を捕らえようとするのか、
そして何より、自分にそれだけの意味があるのか――ふと浮かんだ疑問が心を
捕らえ、シーラはその場に座り込む。
(どうしてなの……どうして? あたしの……あたしのせいで、人が傷つけあ
ってる……どうして? そんなの……そんなの、あたし、嫌なのに……)
 こんなシーラの思いには構わず、戦いは続いている。黒衣の者は淡々と攻撃
を続け、レイヴィーナは雷光を巧みに操り、それを迎撃している。だが、数的
な面から見てもこちらの不利は否めなかった。
(もう嫌……お願いだから、もうやめて……もう、戦わないで……こんなの、
嫌……嫌よ!)
「くっ……ちょっと、まずいわね……」
 さすがに疲労が高まってきたのか、レイヴィーナが低く呟いた。雷光はまだ
まだ健在だが、心なしか動きが鈍いようにも思える。
(どうしよう……このままじゃレイヴィーナさんが……)
 このままでは危険なのだが、仮にその危険から逃れるためにここでシーラが
彼らと共に行くと言っても、レイヴィーナは承知しないだろう。とはいえ、自
分にはどうする事もできない。無力さが心を打ちのめし、シーラはきつく唇を
噛んだ。
(もう、嫌……もう嫌よ! あたしのために誰かが傷つくのは嫌……もう、絶
対に、嫌!!)
 訳もわからぬまま、自分のために他者を傷つけたくない――その瞬間、こん
な思いが心の中で大きく膨れ上がった。そしてその思いは、シーラの中に眠っ
ていた何かを大きく揺さぶる。衝撃を受けたそれは突如鳴動し、そして、強い
輝きを放った。
「……シーラ……?」
 ただならぬ気配を感じたレイヴィーナがはっと振り返る。直後に、白い閃光
が薄暗い路地を埋め尽くした。

「……で? 央都の偉いさんとこのボンボンが、田舎の冒険屋に何の用だ?」
 戸惑いから立ち直るなり、ユーリはラヴェイトに辛辣な口調で問いを投げか
けていた。この言葉にラヴェイトはむっとしたように眉を寄せる。
「あの人の話はしないで下さい。今は……何の関係もありません」
 この一言に、ユーリはふうん、と言いつつ目を細める。どうやら、かつて冒
険を共にした男とその息子の関係は、良好とは言えないらしい。
(ま、ああも人が変わりゃ、無理もねぇな)
 それからふと、こんな事を考える。ユーリはばりばりと頭を掻きつつ息をつ
き、やや表情を和らげた。
「そいつは悪かったな。で、真面目な話、何の用だ?」
「……あなたに、お願いしたい事があって来ました」
 問いに、ラヴェイトは表情を引き締めてこう答える。
「頼み? 俺にか?」
 訝るように問うと、ラヴェイトははい、と頷く。ユーリはしばし目の前の青
年を見つめ、それから、やれやれ、と天を仰いで嘆息した。
「どうやら、込み入った事情がありそうだな……ま、立ち話ってのもなんだ、
ついて来な。俺のねぐらで、そのお願いとやらを聞かせてもらうからよ」
 軽い口調でこう言うと、ラヴェイトはほっとしたように息をつき、それから、
はい、と頷いた。
「そういや、お袋さんは元気か?」
 家へと向かう道すがら、ユーリはふと思いついてこう問いかけた。これに、
ラヴェイトはいえ、と応じる。
「母は……胸の病で。もう、十年になります」
「シェラーナが!? そうか……悪いな」
 低い答えにユーリは思わず大声を上げ、それから短く謝罪した。ラヴェイト
は小声でいえ、と応じるが、藍色の瞳には深い陰りが見て取れる。重苦しい空
気が立ち込め、それに耐えかねたユーリが話題を変えようとした時、突然、前
方から眩い光が差した。
「なんっ……」
「な、何ですか、これっ!?」
 予想外の事に二人はそれぞれ困惑した声を上げる。とはいえ、当然の如く答
える者はない。二人は顔を見合わせると、ほぼ同時に走り出した。
(この光……覚えがある。まさか、シーラが……?)
 先を急ぎつつ、ユーリは不安にも似た思いを強く感じる。かつてある場所で
見た光を思い起こさせる輝きが、その不安を更に強めていた。

「な……何? 何なのよ……」
 それと同じ頃、レイヴィーナは困惑しきっていた。周囲を取り巻く黒衣の者
たちも、一応は動転しているらしい。そして、彼らの動揺の原因は、
「……もう、やめて……」
 今にも泣きそうな声を上げつつゆっくりと立ち上がっていた。華奢な身体が
白い光に包まれ、その光からは言いようも無く強い力が感じられる。
(何よ、この力は……魔力? ううん、違うわね……でも、だったら何だって
のよ!?)
 レイヴィーナ自身、自らの魔力によって精霊の力を行使する魔導師ではある
が、その彼女にとってもシーラの放つ力は異質に感じられた。ただ、その力の
強大さと、シーラ自身がそれを制御できていない事だけは容易に察せられる。
「……やばいわね……」
 低く呟いた、その直後に黒衣の者たちが動いた。どうやらレイヴィーナの攻
勢が止んだ隙に、シーラを奪取しようとでも考えたらしい。
「あ、ちょっと! 今は、止しなさいって……」
 慌てて静止するものの、止まるような連中ではない。警告は見事に素通りし、
そして。
「……消えて!」
 悲鳴じみた叫びが大気を震わせる。シーラを包む白い光が一際強く輝き、ば
さあっ!という音と共に白が弾けた。
「なっ……翼……?」
 少女の華奢な背に、不意に現れたもの――純白の翼に、レイヴィーナが呆然
と呟く。一点の汚れも無い、無垢な白が美しい。だが、黒衣の者たちがその美
しさに見入る余裕は無かっただろう。シーラの絶叫から、翼が出現するまでの
ほんの僅かの間に、黒衣の者たちは一人残らず消え失せていたのだから。レイ
ヴィーナがその事実を認識するのとほぼ同時に白い輝きは消え、突然現れた翼
も姿を消した。一拍間を置いて、シーラがその場にくずおれる。その物音がレ
イヴィーナを我に返らせ、直後に聞こえた声が心に安堵を呼び込んだ。
「……レヴィ、無事か!」
 耳に馴染んだ声に、レイヴィーナはほっと息をつく。振り返った先には息を
切らせたユーリの姿があった。
「……バカ……来るのが遅いわよ!」
 つっけんどんに言い放つレイヴィーナに、ユーリはすまん、と頭を下げてそ
の肩を抱く。一歩遅れてやって来たラヴェイトは周囲を見回し、倒れたシーラ
に歩み寄ってそっと少女を抱き起こした。別に何か思惑があった訳ではなく、
治癒術師としての義務感の成せる技だった。
(へえ……綺麗な子だな……)
 そんな事を考えつつ、ラヴェイトはシーラを抱き上げて立ち上がる。ユーリ
もレイヴィーナを支えつつ立ち上がった。
「取りあえず、どこかゆっくりできる所へ行きましょう。ここでは、疲れを取
るための治癒もままなりませんから」
「ま、それが妥当だな」
 ラヴェイトの提案に、ユーリはため息まじりにこう言って頷く。その傍らで
は、レイヴィーナが怪訝な面持ちでラヴェイトを見ていた。
「あんたは? なんっか、どっかで見たような気がするんだけど……」
 この言葉にラヴェイトは複雑な面持ちで目を伏せる。レイヴィーナの見覚え
が彼自身ではなく彼の父にある事、それが彼が父親に似ているという事実につ
ながるのが苦々しいのだろう。それと察したユーリは小声でこう囁いた。
「あんまりそれ、言ってやるな……ドゥラの息子だよ」
「え? あ……そう……」
 短い言葉からラヴェイトの思いを察したらしく、レイヴィーナは心持ち眉を
寄せてこう呟いた。
「ま、いいわ……とにかく、帰りましょ……あたしもう、訳がわかんなくなっ
てきたわ」
 重いため息を伴った呟きに、異を唱える者はなかった。

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