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「……ルア?」
 どこかとぼけた声で呟きつつ、リーンは声の聞こえてきた方を振り返った。
草地と樹海の境界線に息を切らせたルアが立っている。ルアは蒼い瞳にいつに
なく険しい光を宿し、睨むようにリーンと、その向こうのリィズを見つめてい
た。
「戻れ、死ぬ気か!?」
「え……でも……」
「いいから戻れ!」
「リィーナ……」
「あ……はい……」
 ルアとリィズに同時に呼ばれ、リーンはふらふらと母の方へ行きかける。
「リーンっ!」
 いつになく厳しい響きを帯びたルアの声が、ぼんやりとした意識を揺さぶっ
た。はっとして振り返った直後に、容赦のない平手打ちが左の頬に飛ぶ。
「いったあ……何するんだよ!」
 痛みと衝撃。それが、意識に覚醒を呼び込んだ。突然叩かれた頬を押さえつ
つ、リーンはルアを睨むように見る。しかし、ルアは厳しい様子を崩す事無く、
更に言葉を続けた。
「ばかやろ! 周り、良く見ろ!」
「え……?」
 鋭い声に、ようやくリーンの目は覚めた。瞬きをして周囲を見回したリーン
は、自分が何処にいたのかに気づいて息を飲む。
 一体何がどうなっているのか。いつの間にか、リーンは切り立った崖の縁に
立っていた。目を凝らして良く見ると、崖の下は急流になっている。もしあの
まま進んでいたら、十中八九生命は無かっただろう。
「あらぁ、つまんないわね……もうちょっとだったのに」
 不意に響いた、残念そうな女の声が場の緊張を打ち破る。声の聞こえてきた
方──つまり、先ほどまでリィズの立っていた方を見やれば、優しかった母親
の姿はなく、妖艶という形容詞を当たり前に受け付ける女が一人そこに立って
こちらを見下ろし──もとい、見下していた。
「お……お前は!?」
「紅の魔女モルリア……運が良かったわね、坊や」
「よ、よくも……」
 楽しげに笑いながらのモルリアの名乗りに、琥珀の瞳が怒りの色彩を宿す。
「あら、怒ってるの? 引っかかる方が悪いんじゃなくて?」
「なにを!」
「よせ、リーン! 挑発にのるな!」
 今にも剣を抜いてモルリアに切りかかり兼ねないリーンを、ルアは必死で押
し止めた。
「だけど……だけど、あいつは!」
「落ち着け!」
 いつもと立場が逆転しているが、それと気づく余裕はどちらにもない。
「放せ、ルア! ……放して!」
 そして昂った感情は理性に分類される全ての箍を外してしまい、リーンは声
を作らずにこう叫んでいた。普段の無理に低くした声ではなく、ごく当たり前
の少女の声で。突然の変化にルアは戸惑い、つい手の力が緩んでしまう。
「……っけねっ!」
 その瞬間を逃さず、リーンは束縛を逃れて走り出していた。長剣を抜いて、
モルリアの方へ。魔女は悠然とそれを待ち受け、その刃を受ける。
「なにっ!?」
 刃が触れた途端、魔女の姿が消え失せた。リーンの剣が両断したのは幻影だ
ったのだ。モルリアは既に、反対側に移動している。
「ほーら、こっちよ」
「このっ!」
 リーンはがむしゃらにそれを追い、切りかかって行くが、その度に刃は空を
切るばかりだった。
「もう、止めろって! 無駄だってのが、わからねえのかよ!?」
 幾度目かの空振りの後、ルアはようやくリーンを捕まえた。
「止めないで! お願いだから!」
「落ち着け! このままじゃ向こうの思うつぼだぜ!?」
「だけど……だけど!」
「あら、もう終わり?」
 その様子を、モルリアは実に楽しそうに見下ろしていた表情にも声にも、は
っきりそれとわかる余裕が見受けられる。彼女がこの状況を楽しんでいるのは、
説明されるまでもなく明らかと言えた。
「そ、れ、じゃ。そろそろこちらから行くわよ……」
 天にかざしたモルリアの手に黒い閃光が凝縮し、刺のついた鞭となった。似
合いすぎるぐらいに似合っているのが、妙に怖い。
「ちっ! 勝手な事、言ってんじゃねえよ、性悪年増!」
 いい加減頭に血が上ったのかそれとも意図してなのか、ルアが禁句を口にし
た。
「と……言ってくれるじゃないの!」
 直後に、モルリアから余裕が消えた。代わりに、それまでは見えなかった殺
気がその表情を彩る。
「事実を言って、何が悪いんだよ!」
 こう言えば火に油を注ぐのは明らかだが、やはり、ルアも抑えが効かなくな
っているのかきっぱりと言いきった。モルリアの眉がぴくり、と動き、次の瞬
間、お黙りぃ! という絶叫と共に鞭が唸る。ルアはとっさにそれを避けるが、
リーンを抑えたままというのが災いしてか、僅かに避け損ねていた。
「つっ!」
 左の上腕に、痛みが走る。鞭が掠めたのだ。
「……ルア!」
 目の前に飛び散った鮮血に、リーンが悲鳴じみた声を上げた。
「だいじ……このてい……ど……」
 掠れた声で言った途端、ルアはずるり、とその場にくずおれる。傷の状態か
らすると大げさな様子にリーンは戸惑い、それから、傷口を覗き込んではっと
息を飲んだ。
「ルア!? ……これは……毒!?」
 鞭によって引き裂かれた傷口は、どす黒く変色していた。その色は今の一撃
で不自然なもの──恐らくは毒の類を与えられた事を端的に物語っている。
「あーら、刺付きの鞭に毒なんて、基本じゃないの?」
 いつもなら何の基本だ、という突っ込みが飛びそうな所だが、大抵その突っ
込みを飛ばすルアは意識を朦朧とさせている。
「卑劣な……」
「知ってる? それってね、最高のほ・め・こ・と・ば、なのよ?」
 苛立ちを込めたリーンの呟きに、モルリアはにっこりと微笑みながらこう言
いきった。
「……誰が知るか! そんな事より、手当てっ!」
 その態度に付き合いきれない、と感じたリーンは、常に持ち歩いている薬草
の袋を慌ただしく開こうとする。毒の種類によっては、一刻を争う。明らかに
自信過剰型とわかる年増の相手などしている場合ではない──と、考えたのだ
が。
「あら、そんな必要、ないわよ」
 そんなリーンを面白そうに見つつ、モルリアはさらりとこんな事を言った。
「……必要ない?」
「だって、あなたたち、ここから落ちるんですもの」
 思わず振り返ったリーンに、大輪の妖華を思わせる笑みを向けつつ、モルリ
アは左手を天へとかざす。
「ラーヴ・イルト・フェイン……大地よ、裂けよ」
 無造作な詠唱が響き、かざした手に妖しく輝く球体が生まれる。それは数回
揺らめいた後、唐突に地面へと飛び込んだ。その直後に、周囲が激しく振動し
はじめる。
「な……なんだ!?」
「さよーならあ」
 突然の事にリーンはきょろきょろと周囲を見回す。その視界をモルリアがぱ
たぱたと手を振っている姿が掠めた直後、魔女の足元から先の草地が、落ちた。
「え? え、え、え────────っ!?」
 思わず間抜けな声が出てしまう。とはいえ、それ以外の反応はできそうにな
かった。声は反響の尾を引き、様々なものと共に渓谷へと落ちていく。
「運が良ければ、復帰できるでしょ……頑張ってねー」
 崩れ落ちた崖の縁から下を覗き込みつつ無責任な事を言うと、紅の魔女はそ
の場から姿を消した。

「う……ん……」
 落下の衝撃で気を失ったリーンがすぐ側を流れる水音に目を覚ますまで、大
した時間はかからなかった。
「助かったの……かな……」
 草地ごと落ちたのと、思っていたよりは谷が浅かった事とが幸いして、リー
ンは怪我らしい怪我を負ってはいなかった。
「! そうだ、ルア!」
 はた、と思い出して周囲を見回す。ルアは上にいた時と同様、すぐ近くに倒
れていた。こちらも落下による外傷は見受けられないが、モルリアの鞭で受け
た毒が身体に回ってしまったのか、呼吸も脈も絶えだえで弱々しかった。
「ルア!」
 呼びかけても返事はなく、それが不安をかき立てる。リーンはきょろきょろ
と周囲を見回し、
「あった!」
 近くの崖に洞窟を見つけた。ひとまず自分のマントをルアにかけ、洞窟の様
子を見に行く。中にはコウモリが住み着いているだけで、特に危険は無さそう
だった。それと確かめると、リーンは肩を抱え込んで引き摺るようにしてルア
を洞窟に運び込み、改めて薬草の袋を開けた。
「ええっと……一応これをあてといて……」
 毒を吸い出す効果のある薬草を粉にして、汲んできた水と混ぜて布に塗り付
け、傷口にあてがう。ルアが万一の事を考えて、二人の荷物を持ってきていた
のが幸いした。リーンはてきぱきと薬草を混ぜ合わせ、解毒剤を調合する。そ
れは、古森妖精の所に滞在している間に教えられたものだった。
「本当は、ラトキア石があればいいんだけど……」
 小さく呟いて、ため息をつく。
 薬石ラトキア。それは、魔法的な力を蓄積した魔法鉱物の一種で、強い解毒
効果を持つ。しかしその産出量は極端に少なく、薬師たちの間で珍重されてい
た。
「でも、仕方ないか、ない物ねだりしても……」
 小さく呟きつつ、ともあれ、手持ちのものでなんとかしなくては、と思った
時ふと、視界の隅を青い色が掠めた。以前、聖域で女神ラーラから授かったペ
ンダントだ。
「……」
 女神に祈って奇跡を起こす力は、自分にはない。それとわかっていても、そ
の時はふと、女神にすがりたいような、そんな気分になっていたのだろうか。
リーンはペンダントの青い石をぎゅっと握って女神に短い祈りを捧げ──それ
から何気なく石を見やり、きょとん、と瞬いた。
「これ……この石、もしかして……」
 今まではさして気にしていなかったのだが、改めて手にしたペンダントの石
は奇妙にざらりとした手触りで。それに違和感を感じたリーンはカンテラを手
元に寄せて、改めて意思を見つめた。
「これ……ラトキア石!」
 よくよく観察してみれば、それは今、手元にあればと願ったもの──薬石ラ
トキアだった。それと確かめたリーンはぎゅ、と石を握り締める。
「女神ラーラ……感謝します!」
 早口にこう言うと、リーンは薬湯を沸かす小さな鍋に水を汲んできて、ペン
ダントの石だけが触れるように浸して火にかけた。火種は、古森妖精たちに分
けてもらった炎石──石炭の様な物──だ。そちらが煮立つまでの間に、別の
薬を混ぜ合わせ、傷口に当てた布を何度も取り替える。
「ルア……死なないでね……」
 何度も何度も、リーンはこの言葉を繰り返していた。
 やがてラトキア石を浸した湯が沸きはじめた。紋章を刻んだ部分から成分が
流れ、湯の色彩が淡いブルーに染まったところで石を取り出し、更に幾つかの
薬草の粉末を混ぜ合わせて少し冷ましておく。
 薬湯が冷めるまでの間に、ルアの服を上半身だけ脱がせておく。薄暗い光の
輪の中に浮かび上がる、無駄なく引き締まった身体には幾つもの傷跡があり、
その傷がルアの一人旅の過酷さを物語っていた。
「しっかりしなきゃ……このくらい、なんだって言うの!」
 適温に冷めた薬湯を飲ませる時にはさすがに躊躇いがあったが、リーンはこ
う自分を叱咤して、口移しに薬を飲ませた。触れ合わせた唇は冷たく、乾いて
いる。薬を飲ませると、リーンはため息をついてルアから離れた。後は、薬が
効くのを待つしかない。
「……そうか、布がいるんだっけ……」
 ふと思い出して荷物袋を探すが、この場で使えそうな物はない。とはいえ、
この後ルアは薬の効果でかなりの汗をかく事になる。それを拭くには、手持ち
の物だけでは到底足りないだろう。
「布……? 布ならここにあるじゃない」
 そう、布ならある。それを思い出したリーンは、直ぐさま鎧を外して上に着
ている物を脱いだ。そして体型を誤魔化すために巻き付けていた布を解き、上
着を肩に引っかけ短剣を抜いてそれを適当な大きさに切りわける。できた布束
を手元に置いて、リーンはルアの身体に浮かんだ汗の玉を拭き取った。汗は身
体に回った毒素を含んで黒ずんでいる。
「死なないで……」
 この言葉を呪文の様に繰り返しつつ、リーンは毒を含んだ汗をかいがいしく
拭い続けた。

 その切実な祈りは、どうやら天上の女神の元まで届いたらしかった。

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