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   紅き月夜の戦乙女

 月の色は、いつも同じとは限らない。
 特にこの街、『異形都市』では。
 時に白く、時に蒼く、そして時々は当たり前の淡い金色。
 その時々で色を違える月は、ある時、鮮烈とさえ言える色彩で街の上に座す。
 地上に、同じ色がある時に。
 美しいまでの、血の真紅に。

 独特過ぎるその臭いは、その気がなくても感覚が捉えてしまう。
(……血の臭いだ……)
 バイトを終えて家路についた矢先に、レイはそれに気づいた。入り組んだ路
地の奥の方で、何かが起きている。この街――『異形都市』で血の臭いが絡む
ものと言えば、一つしかない。
(……異形がいる……)
 異形。空間を渡って現れる謎の存在『異形種』に憑依され、心身を支配され
た人間が転じた者たち。異形となったある者は破壊を、ある者は殺戮をただ繰
り返す。その正体は全くわかってはいないものの、それが街にもたらすのは災
厄でしかない。
 故に、異形に対する者たちがいる。異形狩り、もしくはハンターと呼ばれる
者たちだ。街の権力者たちに認められ、異形に対する力の行使を許された彼ら
は、人的被害を少しでも抑えるために事あればすぐに行動する事を義務付けら
れていた。その義務は全ての異形狩りに共通するものであり、例外はあり得な
い。レイもまた、然りだ。
 レイ――風見鈴。どことなく、あどけない印象を他者に与える華奢な少女。
彼女は現在Aクラス認定されている異形狩りでは最年少であり紅一点、『戦乙
女』の異名で知られるハンターなのだ。
 ゆっくりと、神経を研ぎ澄ませる。血と異形、それぞれの独特とも言える臭
いが感じられた。それをたどり、路地の奥へゆっくりと歩みを進めて行くと、
「……っ!?」
 真紅が、目に入った。
 同じ色の月光に照らされた空間の、いたる所が紅く濡れている。むせ返るよ
うな異臭にレイは思わず顔をしかめた。この臭いにだけは未だに慣れる事がで
きない――いや、慣れたくはない。
 とはいえ、今はそんな悠長な事を言ってはいられないようだった。
 路地の奥、真紅の中心に何かいる。状況からして、それが友好的な相手とは
思えない。レイは警戒しつつゆっくりと奥へ進んだ。奥にいる者もレイに気づ
いたらしく、ゆっくりとこちらを振り返る。
「……うそっ……」
 その姿にレイは目を見張った。奥にいたのは、どことなくあどけない雰囲気
の少年だった。全身血に塗れ、真紅の月下に凄絶な姿を浮かび上がらせている。
そしてその額には、ごく何気ない様子で目が存在していた。正確には、目のよ
うに見える物、だが。額が裂け、憑依している異形種が目さながらに露出して
いるのだ。こうなると、既に憑依という段階は越えている。
(……この子っ……種と、融合してるっ……)
 異形種が目のように露出しているという事。それが意味するのは、種と人が
融合した、最悪の状況に陥っている、という事だ。通常の、乗っ取られて暴走
するケースよりも遥かにタチが悪い。
「あれ、また人が来たあ……お姉さんも、ぼくと遊んでくれるの? こいつら
みたいに」
 立ち尽くすレイに少年が笑いながらこう問いかけてきた。この言葉に我に返
ったレイはちらりと周囲に目を向ける。血溜まりと化した路地には、厳ついな
りの男が数人倒れていた。その内の何人かには見覚えもある。同業者――つま
り、異形狩りだ。この少年を追って、返り討ちにあったのだろう。
(……Aクラスもいる……かなり、手強そうね)
 こんな事を考えつつ、レイは静かに身構えた。表情が引き締まり、異形狩り
としての顔が現れる。その変化に少年はくすくすと楽しげに笑った。
「やだなぁ、コワイ顔してぇ……ぼく、お姉さんのコト、知ってるよ? 喫茶
店のお姉さんで、それから……」
「それから……なによ?」
「……『ぼくら』と、『同じモノ』……」
 低く問い返すと、少年はさも楽しそうにくすっと笑った。真紅の月光が微か
に映し出す細い影が揺らめき、次の瞬間大きく膨れ上がる。立ち上がった少年
の影は、古い神話に語られる、六本腕の鬼神さながらの姿を形作った。
「さ、あそぼ、お姉さん?」
「……あそぼ、じゃないわよっ!」
 不機嫌に言い放ちつつ、レイはジャケットを脱いで袖で腰に縛りつける。少
年はくすくすと笑いつつ、どうして? と問いかけた。
「そんなコト言わないで、見せてよぉ。興味あるんだぁ、お姉さんの、血の色
彩……」
 言葉の直後に少年の顔から表情が失せた。六本腕の影が大きく震え、鋭い爪
を振りかざして襲いかかってくる。
「……ブリュンヒルド!」
 対するレイはとっさに力を凝らし、黒い柄と銀の穂先の槍を生み出して影を
払いのけた。力の発現に伴い、長く伸ばした髪が月光さながらの淡い金色に、
瞳が真紅にその色を変える。真紅の月下に、それらの色彩は美しく映えた。
「ヘンなモノに、興味持たないでよ!」
 文句を言いつつ、レイは迎撃に専念した。しかし、圧倒的に分が悪い。空間
的な狭さが動きを制限してしまうのだ。巧みな槍さばきで直撃こそ免れている
ものの爪が数回手足をかすめ、肌の上に紅い色を滲ませた。
「あはは、あはははははっ。もっと見せてよ、もっとさぁ」
 滲んだ紅に少年が楽しげな声で笑う。レイはバックジャンプで大きく距離を
開けると、槍を両手で持って身構えた。
 強い。
 直感で、それは感じられる。
 異形種と人間の融合体は、異形と称される者の中でも飛びぬけて厄介なもの
だ。狩人たちに憑依体と呼ばれている半人半獣のものとは比較にならないほど
に高い能力を持ち、それを自らの意思によって行使できる。それだけに、対処
を誤れば簡単に肉塊と化すのだ――自分自身が。
「どうしたの、お姉さん? 動かないと……切り刻んじゃうよ?」
 くすくすと笑いつつ、少年が楽しげな声を上げた。鬼神の影が腕を振りかざ
して襲いかかってくる。レイはとっさの垂直ジャンプでそれをかわし、空中で
翼を開いて更に距離を取った。レイの背に現れた純白の翼に、少年はにこり、
と満足げな笑みを浮かべる。
「キレイな羽だなぁ……まるで、天使だぁ……真っ白で……紅くなったら、き
っともっとキレイ」
 陶酔した言葉と共に影が迫る。しかし、動きを遮るもののない空中において
は、レイを捉えるのは至難の技だ。生来の身軽さを生かした巧みな回避でそれ
を避けつつ、レイはどう対処すべきかの思案を巡らせた。
(融合体なら……確か、まだ……)
 完全に意識を乗っ取られている憑依体とは違い、融合体にはまだ依り代とな
った人本来の意識が残っている。故に、異形種の支配から解放して救う事も不
可能ではないのだ。
 これが異形狩りとして、甘い考えなのはわかっている。
 それでも、レイは異形を、異形種に囚われた者を殺したくはなかった。
 異形種に囚われる事がどれほど苦しいかがわかるから。
 レイ自身が、かつて融合体となり、そして、その呪縛から解放された過去を
持つから。
 それによって失った物は数知れず、望まぬ力も手にはしたものの、しかし、
自分が生きていると言う事実は何物にも変え難いと思うから。
 だから――救いたいのだ。
 その考えが身勝手な傲慢である事に、心の片隅では気づきながら、それでも。

「……レイ!」

 不意に聞こえた鋭い声が、レイを物思いから現実へ引き戻す。同時に身体が
ぐい、と上に引かれ、その直後に目の前を鋭い爪を備えた影が過る。突然の事
に戸惑いつつ振り返ると、冷たい蒼の瞳がこちらを厳しく見つめていた。
 黒衣に身を包んだ黒髪の青年。その背には、レイのそれとは対照的な漆黒の
翼が大きく開いている。
 街で唯一、最高ランクであるSSクラスを有する異形狩りシャオ・ウィン。
かつて融合体となったレイを救い、その力を異形狩りとして生かす道を示した
者。そして今、彼女と共に生きている青年だ。
「……シャオ……」
「ぼんやりしているな。死ぬ気か?」
 小さく名を呼ぶと、シャオは厳しい口調で言いつつ地上の少年に向き直った。
その手には、美しささえ感じさせる漆黒の刃が握られている。久しぶりに見た
シャオの翼の黒に思わず見惚れていたレイは、真紅の月光を受けて煌めくその
刃にはっと我に返った。
「……シャオ!」
「……来るぞ!」
 声を上げた直後に影が襲いかかり、二人は左右に散ってその攻撃を避ける。
シャオは空中で優美なターンを決めて態勢を整えると、一気に距離を詰めて影
の腕を一本切り飛ばした。
「……いったあ!」
 その一撃は本体である少年にも衝撃を与えたらしく、甲高い悲鳴が上がる。
影はしばしゆらゆらと揺らめくものの、すぐさま切られた部分を再生した。
「……所詮、影は影……本体を叩かねばならんか……」
 それを見たシャオが冷静な呟きをもらし、その一言がレイを我に返らせた。
「シャオ、待って!」
 慌てて呼びかけた所に影が襲いかかってきたためレイは言葉の続きを飲み込
み、槍を横に一閃してその手を払いのけた。それから地上の少年に仕掛けよう
と身構えるシャオの傍らへと飛び、その手を掴む。
「……どうした。ぼんやりしていると、やられるぞ」
「わかってる、それは、わかってるけどっ……」
「けど、なんだ? ……まさか、お前……」
 訝しげに言いつつ眉を寄せるシャオに、レイはうん、と頷いて見せた。
「……融合体は……憑依体と違って、救える可能性が高いんだよね……?」
 確かめるように問うと、シャオは元々厳しかった表情を更に険しくした。
「……確かにそうだが……しかし、実際に種から解放された融合体は、数える
ほどしかいない」
「でも、少なくとも、ここに一人いるでしょ? だから……」
「……成功率は、限りなく、ゼロに近い」
 淡々と言いつつ、シャオは手にした剣を振るって襲いかかってきた手を切り
払う。レイも素早く身を翻し、掴みかかってきた手の中央に鋭い突きを入れた。
「でも、ゼロじゃないんなら! ……お願い……」
 振り返って訴えると、シャオは小さくため息をついた。
「……種だけを打ち砕ければ、素体となった人間を救う事はできる。だが、種
の破壊に伴う衝撃に耐えられねば、素体は死ぬだけだ」
「……わかってる。でも……」
「……影は、オレが引き受ける。それと、お前が危険だと判断したら、本体に
容赦はしない。いいな」
「シャオ……」
 素っ気ない言葉に、レイは思わず状況を忘れて微笑んでいた。無茶な願いを
聞いてくれた事、そして、自分の事を第一としてくれる気持ちが言いようもな
く嬉しい。
「急いだ方がいい。時間が立てば、それだけ素体が危険だ」
「……うんっ」
 瞬間、にこりと微笑むと、レイは表情を引き締めて地上の少年を見た。少年
は不機嫌な表情で上空の二人を見つめている。影の攻撃をことごとくあしらわ
れているのが面白くないのだろうが、それが少年自身の感情なのか、それとも
異形種の物なのかは定かではない。いずれにしろ、彼がこの状況に苛立ちを覚
えている事だけがその表情から見て取れた。
「……行くよっ!」
 一つ深呼吸をしてから、レイは地上へ向けて急降下する。レイを捕えようと
掴みかかる影の手は、シャオの手にした刃によってことごとく切り払われた。
着地したレイは一気に少年との距離を詰めるが、
「……お姉さん、甘いよ!」
 近づくレイに少年は余裕の笑みを向けた。直後に少年の足元からもう一つ、
小さ目の影が立ち上がって掴みかかってくる。レイはジャンプしてその攻撃を
避けると、手にした槍を垂直に影に突き刺した。穂先がアスファルトを砕いて
路地にめり込む。レイは勢いをつけて槍を放し、その反動で少年の目の前に着
地した。
「だから、甘いってば! 丸腰で……」
「……クリームヒルト!」
 丸腰でどうするの、という問いを遮り、レイは力を凝らしてもう一つの武器
を作り出す。細身の刀身が特徴的な、レイピアと呼ばれる剣だ。光り輝くその
刃に少年は一瞬怯むものの、すぐにレイの真後ろに新たな影を生み出す。
 それが鋭い爪を振りかざし、振り下ろすのを気配で感じつつ、レイは手にし
た剣の切っ先を真っ直ぐに突き出した。
 少年の額の目が、文字通り見開かれる。

 パキィィィィィン……

 澄んだ音の直後に、真紅の月に向けて鮮血が花弁を色鮮やかに開く。それは
純白の翼を、そぐわない真紅に染め上げた。
「……レイっ!!」
 シャオの叫びを遠くに聞きつつ、レイは身体の力の抜けるままにくずおれた。
「……負けちゃ……ダメだよ……」
 呆然とこちらを見つめる少年に、精一杯微笑みかけながら。

 それから、どれだけ時間がたったのかはわからない。
「……あ……あれ?」
 ふと気がついた時、レイは見慣れた場所にいた。見慣れた部屋の、いつも寝
ているベッドの中に。
「……あたし……一体……」
「気がついたか」
 呆然と呟いていると、どことなく不機嫌な声が聞こえた。声の方を振り返る
と、これまた露骨に不機嫌な蒼氷色の瞳が目に入る。シャオだ。
「……シャオ? あたし……」
「……異形種の破壊と同時に、ヤツの最後の攻撃を受けたんだ。まったく……
大事には至らなかったからいいものの……もう少し、自分を大事にしろ、と言
っているだろうが」
「……あ……ごめん……」
 怒ったような言葉に、レイはこう返すのが精一杯だった。この返事にシャオ
は一つ息を吐き、表情を和らげてそっとレイの髪を撫でる。心地よいその感触
に浸りつつ、レイはふと気づいてあ、と声を上げた。
「……なんだ?」
「あの子……どうなったの?」
 恐る恐る問いかけると、シャオはまた、ふう、と息を吐いた。
「……種の束縛からは逃れたが……まあ、どうなるかは、お前が一番よくわか
っているはずだ」
「……」
 静かな言葉にレイは目を伏せる。彼もまた、生命と共に望まぬ力を得てしま
ったのだろう。
「……どうした?」
「今更だけど……あたし、正しかったのかな……」
 訝しげな呼びかけにぽつりとこう答えると、シャオはさあな、と肩をすくめ
た。
「それを決めるのは、あいつ自身だ、お前は気にするな……」
 優しい口調でこう言うと、シャオはゆっくりと立ち上がる。
「……どこか、行くの?」
「ああ、ちょっとな。日付が変わる前には戻る。だから、安心して寝ていろ」
 不安を感じて問うと、シャオはこう言ってジャケットを羽織った。一応、う
ん、と頷きはするが、力を使い過ぎて消耗していると自分でもわかっているだ
けに取り残される事への不安が消えない。
 そんなレイの様子に、シャオは苦笑しつつ、心配するな、と言ってそっとレ
イの唇に触れた。優しい口付けが多少気持ちを落ち着け、レイはうん、と素直
に頷く。シャオはいい子だ、と囁いて静かに部屋を出て行った。一人、取り残
された形のレイはころん、と寝返りを打って窓の方に向き直る。
 窓の向こうの夜空には、何気ない様子で月がかかっている。その色は、当た
り前の淡い金色だ。取りあえず今は、街は平和と言えるのだろう。
 月の色彩が無言の内に示す事実に安堵を覚えつつ、レイは静かに眠りの中へ
と沈んで行く。

 眠りに落ちる戦乙女を、月は、静かに見守っていた。

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あとがき その2へ
この作品はこちらの企画に参加しております。
突発性企画「月夜」