07 ……飛び立った事で、痛みは消えて。 違う痛みは、どこかに残ったような心地はしていたけれど。 それでも、渦中にいた時よりは楽になっていると。 そんな風に思えたのは、それから数年たってからだった。 勿論、そこに至るまでの数年は迷いだらけであったし、何より。 不意に舞い降りた来訪者の言葉は──痛みとはまた違うものを、心のどこか に与えていた。 唐突に響いたのは、羽音。 その音は、森の中の広場でぼんやりとしていたオトフリートを唐突に我に返 らせた。 羽音──と言うよりは、舞い降りたもののまとう力の波動が、というべきや も知れないが。 「……お前……」 舞い降りてきたのは、森の中では一際目立つ白い羽。一度見たならそうは忘 れない、真白の梟だった。 「どうして……ここに?」 『我が主の、最期の命により』 「最期……の?」 短いその言葉、それが何を意味するかは感じられた。 そして、その事への驚きは、余りない。生来病弱で、先は長くなかったと、 先に聞いていたから。ただ、思っていたよりも早かったな、と。ふとそんな事 を考えながら、オトフリートは軽く唇を噛んで目を伏せた。 『そう、最期の命。そして、私はそれに縛られ、それを果たす以外には何もで きぬ身となりました』 目を伏せるオトフリートに、白梟は淡々とこう続ける。その言葉に、オトフ リートはえ? と言いつつ再び白梟を見た。 「それは……一体?」 『言葉どおりの意味ですが』 「はあ……で、それと、俺の所に来た事と、何の関係が?」 『その主命を果たすためには、貴殿と共にあらねばならぬのです』 「……はあ?」 思いも寄らない……というか、全く予想外の一言だった。思わず惚けた声を 上げてしまうものの、白梟は真剣で、オトフリートは自然、居住まいを正す。 「で、それは……いつまで?」 『わかりません』 「いや、わからない、って」 『今日明日終わる……という訳にはゆかぬでしょうが。しかし、いつまでにな るかは皆目見当もつきません』 もしかしたら永遠になるかも、と。白梟は、何でもない事のように、さらり とこう言ってのけた。その言葉に、オトフリートの翠の瞳には自然、険しさが 宿る。 「それは……その意味を、理解した上で?」 『理解しているつもりですが。それが浅い可能性は否定しません』 しかし、それでも、と。白梟は言葉を続ける。 『主の命を果たす事の方が、私には重要ですから』 他に、存在する意義もありませんので、と。どこまでもさらり、と告げる白 梟の様子にオトフリートはため息をつきつつ額に手を当て、前髪をかき上げた。 「ったく……主が主なら、仕えるものも仕えるものだな」 自分の意見、曲げやしない、と。零れ落ちたのは、呆れたような呟きで。し かし、それでも何故か、拒む気にはなれなかった。『縛られ、それを果たす以 外には何もできぬ』という言葉に妙に共感できたからか、それとも他に理由が あるのか、それは自分自身よくわからなかったが。 「……お前、名前は?」 す、と。左の手を差し伸べつつ、静かに問う。 『ヴィンター、と。そう、名づけられました』 「ヴィンター、か。 ……で、何がなんでも主命は果たさんと気がすまない、という事なのかな、 つまりは」 『そうですな』 「……ほんとに、もう……」 処置なし、と。言わんばかりのため息が零れ落ちた。 「ならば、問おうか。 その主命のために、輪転の輪から切り離され、不測の事態で死したなら、た だ虚無へと回帰するのみの生を受け入れる覚悟はあるか? もし、それがある なら……」 表情を引き締めつつ、左の袖をまくる。しばし目を閉じ、開いた瞳は翠と紫 の異眸に。そして、左の腕の一部分に薄く、黒い影が浮かび上がる。 「我が血肉と竜鱗を喰らい、その血を我が身に。血を介し、虚より生じしもの の魂を取り込むがいい。その代わり……」 永遠の運命共同体になってもらうからな、と。口調だけは、冗談めかして告 げる。白梟は丸い瞳でじっとオトフリートを──時空の竜を見つめ。 『了解した。主命果たすために必要とあらば、私に躊躇う理由はなき故に』 静かに、しずかにこう返し。 そして、紅の雫が、零れ落ちた。 ……それから、いくつもの刻の螺旋を積み重ね。 二度と、他者を自身の領域に踏み込ませまい、と。 そう、決めていたはずなのに。 それを自ら覆した理由を問われたなら、返答には困る。 痛みへの恐れは決して消える事はなく。 孤独であるための喪失はやはり恐ろしくて。 求める事はすまいと、そう、思っていた。 だから──全てが終わったなら、また、離れねば、と。 そう、思い定めようと、していたのに。 「……在り方に拘るのもよいが……もう少し、柔軟な考えはできんのか、お前 は」 機鋼竜の守り手としての任を終え、戻ってきた竜郷。『機鋼の砦』を辞し、 一人になるのを望んで向かった『螢火の丘』──影竜王の領域で。その場所の 主はオトフリートの姿を見るなり、呆れたような、でも、どこか面白がってい るような、そんな響きの声をかけてきた。 「出会い頭に、何を仰いますかと……」 「挨拶から始めたら、お前は私を無視するからな」 くつり、と。どこまでも楽しげに、影竜王は笑って見せる。 「無視したくなるような話題ばっかり、振るからでしょうに」 「無視させたくないから、そのような話題を向けているのだろうに」 「……あのですねぇ」 「そう、むくれるな」 「別に、むくれてやしませんが」 はあ、と。やや大げさなため息をついて額に手を当て、前髪をかき上げる。 そんなオトフリートの様子に、影竜王はまた、くつりと笑った。 「そんな所だけは、いつまでもかわらんな……ま、それはいいが」 笑いながら言いつつ、影竜王はオトフリートの肩にぽん、と手を置く。 「……お前の行く先は、お前にしか定められぬ。だがな。 なくす事をただ、恐れていては……何も手にはできぬもの。少しくらい、足 掻いてみろ……己が在り方に対して」 「……っ……」 軽い口調で投げかけられた言葉に、オトフリートは思わず息を飲む。その様 子に、影竜王はどこか穏やかな笑みを掠めさせ。そして、紫黒の髪を風になび かせつつ、その場から歩き去る。 「……っとに。揃いも揃って、人事だと思って……」 勝手言いやがる、と吐き捨てつつ、オトフリートはゆっくりと丘を登った。 周囲を取り巻き、揺れる螢火。 その揺らめきは自身の心の内にも似ているような、そんな事を考えつつ──。 「……とりあえず、一段落、か」 丘の上に一人佇み、小さく呟く。 「セレスは機竜卿のとこに戻って……これにて御役御免、か」 『御役後免』。短い言葉が、妙に重い。 「……終わり……なん、だよな。これで」 その重さに揺らぐ心に言い聞かせるように、再度呟くものの。 無限鎖から聞こえた声と、感じた気配に。 揺らぎは一際大きくなり──そして。 (在り方に対して……足掻く、か) ふと蘇ったのは、つい先ほどの影竜王の言葉。それは、これまでは考えもし なかった事。 (……それも……悪かない、かな) 二百年。彼にとっては、決して長くもない時間ではあるけれど。 その間に安らぎと支えをくれた温もりは、かけがえないと。 それを誰よりもはっきりとわかっているのは、自分自身なのだから。 (望めるなら。望むのを赦されるなら) 手を、伸ばしてみようか、と。そんな風に思えたのは、きっと。 今、抱えている揺らぎの源が何であるか、わかっているから。 それは、いつからか、抱えていた想い。 こちらに近づき、そして、不安げに問うひとを。 対ならざる対の属を持つ、優しき麒麟を。 愛しい、と。 そう、想うが故であると。 (あれだけ偉そうな事言って、俺がいつまでも逃げ回ってたら、怒られちまう からな) 過去に出会った者たちの事を思い、ふと、こんな事を考えつつ──。 螢火漂う静かな丘で。 そう、と手は、伸ばされた。 |