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   暗き月夜の狂想曲

 ことっ……
 背後で小さな小さな物音がした。その音に少女はびくっと足を止め、一瞬後
には歩調を早める。路地裏に集まる猫か何かよ、と心の中で呟きつつ、それで
もマントの前を合わせる手には力が籠もる。
 夜の街には魔性が踊る──誰かに聞いた言葉がふっと蘇って消えた。夜の街
には魔性が集い、路地裏で躍り狂うのだと。そしてその踊りを見た者は魔性に
捕らわれ、自らも魔性となる、と──
「あんなの、子供を寝かしつけるためのお伽話じゃない」
 自らを鼓舞するように声に出して呟いてみるが、声の震えが内心の恐怖をま
ざまざと物語っていた。
 少女の歩調は段々に早まり、やがて小走りとなり、ついには全力疾走にまで
変化した。夜闇が自分を取り込もうとするかのように、じわじわと深まってく
る。
 早く家に帰りたかった。こんな時間になった事を父は叱るだろうが、例え叱
られても誰か見知った人、家族の側にいたい──そんな思いが少女の心を急か
していた。
 どんっ!
 それからしばらく走ると、突然誰かにぶつかった。危ないじゃないの、と言
いつつ顔を上げた少女は……硬直した。
 夜闇と同じ黒一色の影。顔は見えないが、紅く輝く目だけは、はっきりと見
て取れる。そして、そこに込められた感情は……欲望。
「ひっ……」
 反射的に少女は後ずさっていた。犯される──理由は分からないが、その事
実は、はっきりと感じ取れた。逃げなければならない。だがどこに? 精神が
答えのでない輪に捕まってしまい、身体の動きが鈍った。
 影がニヤリ、と笑う──理屈ではなく、感覚でそれは理解できた。少女はも
う一歩後ずさった。合わせて、影が距離を詰めてくる。
「いや……こないで……」
 首を振りながらこう言って、少女はまた後ずさった。影がゆっくりと手を伸
ばす……。
「い、いやあああ!」
 反射的な悲鳴に一歩遅れて──
 ……斬っ!
 何かか大気を切り裂いた。いや、大気ではない。我に返った少女は目の前に
大きく裂けた黒いマントを見つけた。あの紅い光はどこにも見えない。つまり、
これは今自分を追い詰めていた影の背中という事になる。
「はいはい、こっち、こっち」
 ぽかん、としていると聞き覚えのない声がしてふわっと身体が持ち上がった。
きょとん、として周囲を見回すと、茶目っ気のあるウィンクをした若い男の顔
が目に入った。
「あ、あなたは……?」
「通りすがりの正義の味方ってヤツ」
 表情と同じく、男の口調は軽い。状況を把握できずにいると足が固い物に触
れた。
「大人しくしてな、落ちるから」
 こう言うと、自称・通りすがりの正義の味方は少女がさっきまでいた路地を
覗き込んだ。
 眼下には、二つの人影がある。一つはさっきの影。もう一つはそれと対峙す
る、若い女だった。闇の中にぼおっと、銀色が輝いている──釣られて覗き込
んだ少女がそれが剣と把握するのと同時に、女は優雅に動いていた。
「はっ!」
 短い気合と共に銀の刃が舞う──美しくも危険な舞は禍々しい影をお似合い
の深紅に飾りたてた。鮮やかな太刀筋に男がひゅう、と呑気に口笛を吹く。
「いつ見ても、見事なもんだ」
 その間にも戦いは続き、やがて、黒い影はグオオオ……という絶叫を残して、
消えた。後にはいつもと変わらない、いやいつもより静かな夜闇だけが残され
る。
「片づいたな。どれ、行こか」
 相変わらず、男の口調は軽い。彼は少女の手を取ると、空いた左手をひょい
ひょい、と動かしてからふわっと飛んだ。突然の事に少女は目を丸くし──次
の瞬間にはふわり、と地面に降り立っていた。ぽかん、とする少女の手をそっ
と外して、彼は連れとおぼしき女の方を見やる。
 下では女が剣を鞘に納めている所だった。彼女は降りてきた少女に軽く微笑
んでみせる。同性すら見とれさせる美貌が、一瞬閃いた月光に浮かび上がった。
(きれいな人……)
 そんな事を考えていると、耳慣れた声が名を呼ぶのが聞こえた。
「エマリア! 無事か!」
「……お父さん!」
 それが父の声である、と悟った瞬間、少女はそちらへ駆けだしていた。叩か
れるかな、という思いが脳裏を掠めるが、その予想は外れていた。
「良かった……無事なんだな」
 父はその手をぽんっと肩に置いて安堵のため息をもらした。少女は二、三度
瞬きをしてから、ごめんなさい、と小声で呟く。
「……おわかりになりましたか、ヴェザム殿」
 そこに、先程の女が呼びかけてきた。父は苦々しげな表情で一つ、頷く。
「……お父さん?」
 首を傾げて呼びかけると、父はこちらに目を向け、小さくため息をついて見
せた。

 『影の戦乙女』ラシュキタ・ファウネスと『影の魔導師』クロウ・ラーガ。
それが彼らの名前だった。
 彼らは魔狩人と呼ばれる、魔を狩る事を生業とする者である。この魔、とは
様々な存在を含んでおり、一般に人を脅かす妖魔怪物の類から、それらの魔を
操る人間、果ては権勢欲に憑かれた者まで、その内容は多岐にわたる。
 少女が襲われた翌日、彼らはヴェザム邸の応接間で事情の説明を行っていた。
彼らはかなり高位の魔族が少女──町長を勤めるカール・ヴェザムの娘エマリ
アを狙っている、と言うのである。
 ちなみに魔族とは、かつてこことは違う、魔界と呼ばれる世界の住人だった
のだが、何らかの事情こちらに移り住んでいる。元が負の感情から生み出され
た存在だけに、彼らは己の思うままに行動しては人の暮らしをかき回す。それ
を諌め、時に倒すのが魔狩人の仕事だった。
 最初は突然現れた二人の言葉を疑っていたヴェザムも、娘が魔族に襲われて
事態の重大さに気づき始めたようで、最初に応対に出た時の尊大さは影を潜め
ていた。
「ま、オレらも慈善活動でやってる訳じゃないんで、成功したら金はもらいま
すけどね」
 一通り話をすると、クロウは軽い口調でこう言った。その出で立ちから、彼
が魔導師である事は容易に見て取れる。黒一色のシャツとズボンは周囲から万
有物質を取り出し、魔力と変える魔導を行う者が好んで身につける物だ。彼は
その上からばさあっとした、かなり幅の拾い夜蒼色のマントを羽織っている。
これも、魔導師の好むスタイルである。
 一方のラシュキタは言うまでもなく剣士だ。身体にぴったり合った黒い帷子
の上に、やはり黒の革製と思われる鎧を着けている。羽織るマントもブーツも、
おまけに手袋まで黒一色で統一された出で立ちの上で、腰まで延びた蜂蜜色の
髪は一際美しく、目を引いた。
 いや、そもそも黒というのは人を選ぶ色彩なのである。その黒を見事に着こ
なしている彼女が、美しく無いわけはないのだ。実際、目鼻だちの整った容貌
は、美しい、の一言で片づけるのは些か心苦しいのだから。
「それでもま、オレたちは仕事もせずに金だけ貰う、インチキ狩人とは違いま
すんで、仕事済むまでその話はおいときましょうか。
 で、本題に入りましょう……エマリアさん、あーゆー手合いに目を付けられ
るような、心当たりは?」
 クロウに問われて、何とはなしにラシュキタに見とれていたエマリアは慌て
たように居住まいを正した。それから軽く首を傾げて頬に指を添え、懸命に記
憶をたどってみる。
「……わたし自身は、何も……」
 しばらくして返って来た返事に、クロウとラシュキタはちらり、と視線を交
わす。
「では、他の方々は?」
 続けてラシュキタがヴェザムと夫人に問いかけた。二人は顔を見合せ、首を
横に振る。
「……この代じゃないな……ヤツらよっぽどの事がなければ、行き当たりばっ
たりに女は狙わないし……」
「その点、お前よりはマシだな」
 呟くクロウにラシュキタが突っ込む。この突っ込みに、クロウはかくん、と
大げさにコケて見せた。
「って、つまんねえ茶々入れんなよっ! と、なると町長さん、先代様はご健
勝かね?」
「いえ……」
「……む……じゃあ、何か、先祖から伝わる、古い記録とかは?」
「それならば書庫に……しかし、それが、何だというのです? あの化け物は
一体何故、エマリアを?」
 ヴェザムの問いに、クロウはぼさぼさの黒髪をばりばりとかき回した。
「先祖の誰かさんが、子孫にツケを回して、高位の魔族に力を借りる事がある
んですよ。当人と周りに覚えが無いときゃ、その可能性が高いんです」
「そんな事が?」
 クロウの説明に、夫人が不安げに夫を見やった。
「もしそうなら、それなりに対処法ってのがある。早めに押さえときゃ有利に
事を運べますからね。町長さん、書庫はどこに?」
 問われたヴェザムはゆっくりとソファから腰を上げた。
「ご案内しましょう。こちらです」
 ヴェザムは軽く娘を見やると、こう言って応接間を出て行った。クロウもそ
れに続こうとして──ふと、不安げな視線を、申し訳なさげに投げかけている
夫人に気づいた。さっきのラシュキタの茶々に、こちらの品性に疑問を抱いた
らしい。クロウは一つ咳払いをすると、ラシュキタに声をかけた。
「……おい、ラシュ」
「なんだ?」
 優雅な仕種でカップを手にし、紅茶を味わっていたラシュキタはそちらを見
ようともせずに応じる。
「さっきのつまんねえ茶々だけどな、訂正するぞ……オレは、お前一筋だ」
「なっ!? 何をいっ……!」
 何を言うんだ、このバカ。ラシュキタはいつもの癖でそう怒鳴ろうとし、飲
みかけの紅茶にまともにむせる。その様子にしてやったり、とばかりににやり
と笑うと、クロウは扉の向こうに消えた。
(あの男……いつか殺す、絶対殺す!)
 けほけほと咳き込みつつ、ラシュキタは端整な顔に殺気を浮かべてこう心に
決めていた。

 その日から、エマリアはまんじりともせずに夜を過ごす事が多くなった。し
かしあれ以来魔族は鳴りを潜め、表面上の平穏は保たれていた。
 エマリアの側には常にラシュキタが控えている。クールな外見から取っつき
にくそうに見える彼女だが、戦い以外ではややきつい程度の普通の女性である
らしい。二人は守護者と守護対象という枠を越え、女同士意気投合しているよ
うだった。
 一方のクロウはと言えば、昼間は書庫に入り浸り、夜になるとふらりと何処
かに出掛け、明け方戻ってきて二時間ほど眠る、という生活を続けていた。夜
いなくなるのは魔族の足取りを追っているためらしい。
「でも、魔族はあの時、ラシュキタさんが倒しちゃってるんでしょ? どうし
て今更……」
 昼間、時々庭にやって来てはテラスの日陰でへたばるクロウに、エマリアは
ずっと燻っていた疑問をぶつけてみた。
「あんね、エマちゃん。ランクの高い連中は、自分の影を切り離して、分身作
れんの。しかもそれとは自在に入れ代われるっつー、ご都合主義な能力付きで
ね。ラシュがあん時たたっ切ったのは、その分身」
 返ってきた答えにエマリアはため息をつく。友達の家に遊びに行けるように
なるまでは、まだかかりそうだった。
「しかし、どうなんだ、クロウ? 何か手掛かりは掴めたのか?」
 続けてラシュキタが問いかける。
「掴めたら、動いてマス。今町長さんと交渉してんの、開かずの箱を開けさせ
てくれって」
 この問いにもクロウは妙に気の抜けた声で応じた。
「開かずの箱? あの御先祖様が、開けちゃだめだって言って残した箱の事?」
 クロウの言葉にエマリアが不思議そうな声を上げる。
「ああ。あの手には十中八九、ロクでもないもんが入ってる……契約の証とか
な。ただ、開けてもし中身がそうじゃなかったらって……そんで、渋ってるら
し……ん?」
 途中で言葉を切ると、クロウははっと頭上を振り仰いだ。ラシュキタの顔が、
戦士のそれへと引き締まる。クロウも気合を入れて身構えた。
「おいおい、マジかよっ! 真っ昼間っから仕かけて来たあ!?」
 頭上には先ほどまでの青空は見られず、ただ、重苦しい暗雲だけが立ち込め
ていた。
「ラ、ラシュキタさん、クロウさん!」
 異変に気づいた夫人がまろびながら駆け寄ってくる。その姿に狩人たちは舌
打ちした。足手まといが増えた、と思ったのだ。
「完全に向こうの策にはまっちまうっての、これじゃっ!」
 苛立たしげに吐き捨てるクロウの言葉が終わらぬ内に、天から黒い雷が庭へ
と落ちた。ラシュキタが剣を抜き放ち、クロウは慌てたように夫人をテラスに
引っ張ってくる。
 雷光が消えた後には一人の男が立っている。長身痩躯、黒髪と紅い瞳──見
た目は、魔族が好むタイプの美丈夫だ。
「迎えに来たぞ……」
 冷たい声音で魔族はエマリアに呼びかけた。それを聞いた少女の身体がびく
ん、と震える。
「お前は、わたしの物だ……こちらに来い」
 再び、魔族が呼びかける。エマリアの瞳は焦点があっていなかった。魔族の
目を見てしまい、術をかけられたのだろう。エマリアはふらふらと魔族の方へ
歩き出す。
「エマリア! 行ってはダメ!」
 その瞬間、呆然とその場に座り込んでいた夫人が物凄い勢いで立ち上がり、
ふらふらと歩くエマリアを抱きとめた。
「……行ってはダメよ、エマリア! しっかりしなさい! エマリア!」
 ふくよかな腕でしっかりと娘を抱きかかえ、夫人は何度もこう呼びかける。
視線が遮られ、エマリアははっと我に返った。
「お母さん……あたし……」
「いいぞ、そのまま抱いててやるんだ!」
 夫人の行動で懸念が無くなった、と判断した狩人たちは攻勢に出る。クロウ
の指示に夫人はしっかりと頷き、エマリアも母にしっかりとしがみついた。
「……邪魔をするな」
「こちとら、それが商売なんだよ!」
 叫びざま、クロウは魔力の光弾を魔族目掛けて放つ。魔族はそれを苦もなく
消滅させるが、その一瞬に生じた隙を側面を取ったラシュキタが突く。舞踊っ
た銀の閃きは見事に魔族の右腕を切り落とすが、魔族は特に衝撃を受けた様子
もなく、うるさそうにラシュキタの方を見ただけだった。ラシュキタは反射的
に剣を垂直に立てる。
 ラシュキタの剣は守護の剣と呼ばれる魔導の産物で念を送る事により、強力
な魔法の楯を作りだして使用者を護る事ができるのだ。
 剣が立った瞬間、クロウは魔族が余裕の笑みを浮かべている事に気がついた。
そしてその周囲に力が集まっている事にも。
「ラシュ、遅い! 避け……」
 言葉よりも早く、魔族の術は完成していた。
 ドンッ!
 派手な爆発音が響く。母子は互いをきつく抱きしめ、クロウは絶叫していた。
「ラシュぅっ!!」
 爆発の衝撃が収まった後には、一目でそれとわかる、傷ついたラシュキタが
倒れていた。
「て……てっめえ!! よくもオレの女を!!」
 言っている事はいつもと変わらないが、瞳は真剣だった。しかし魔族はその
怒りを鼻先で笑い飛ばしてエマリアに目を向ける。少女は反射的に母の胸に顔
を埋めた。
「……夜半に、また来る」
 相変わらず冷たくこう言い放つと、魔族はばさり、とマントを翻し、黒い閃
光となって消えた。あわせて空の暗雲も散らばっていく。
「…………ただじゃ、すまねえぞ…………」
 ぐったりとしたラシュキタを抱き上げつつ、クロウは真剣な表情でこう呟い
ていた。

 騒動の後、クロウは迎撃準備と称して件の開かずの箱を無理やり開けた。中
には予想通り、血によってサインされた古びた皮紙が入っている。それを確認
すると家の者に沈黙を守らせ、自分はラシュキタにあてがわれた部屋に籠もっ
てしまった。
「……ん……」
 夕方になってラシュキタは目を覚ました。魔導による治療を行ったため、回
復は早い。それまでベッドサイドの椅子に座って青い花を弄んでいたクロウは
だっとばかりにそちらに駆け寄った。
「大丈夫か、ラシュ?」
「クロウ……奴は?」
「一度戻ったよ。夜中に再戦だ」
「そうか……」
 低く呟くと、ラシュキタは予想通り身を起こそうとする。それから、自分が
傷口に包帯を巻いただけの半裸である事に気づいて微かに頬を赤らめた。
「わたしの鎧は……?」
「寝てろ」
「しかし……」
「口答えすんな!」
 有無を言わせぬ口調で言って、クロウはラシュキタをベッドに押し戻す。
「クロウ……」
「心配してんだよ。分かれ」
「…………」
 ラシュキタ、何故か目をそらしてしまう。気恥ずかしいのだ。
「お前、本気で信じてないな? オレは……まあいいや、ところで……」
 こう言うとクロウはひょい、とさっきまで弄んでいた花を見せた。
「なんだ?」
「テトカ草って名前の、催眠効果のある花。これをこうひて……」
 言いつつ、茎の部分をひょい、と口にくわえる。
「ふこひかむで……で、こうするとだな」
 これまたひょい、と花を外すと、きょとん、としているラシュキタに完全に
不意打ちの口づけをする。最初、僅かに抵抗するものの、結局ラシュキタはさ
れるに任せた。心の何処かが喜びに震えているのが否定できない。
「クロウ……」
 唇が離れると、ラシュキタはかすれた声を上げる。と、同時に強烈な眠気を
感じて気だるげに瞬いた。その様子に、クロウはにっと笑う。どう見てもそれ
は、会心の笑みだ。
「こいつの催眠成分な、茎にあるんだ。こうでもしないとお前、休まないから
な」
 この言葉にラシュキタは今の口づけが一服盛るためのものと悟る。眠りを誘
う成分を口移しに飲まされたのだ。
「こ、この……」
「じゃあな、ちゃんと休めよ!」
 いつもの茶目っ気ある表情でこう言うと、クロウはテトカ草をラシュキタの
髪に刺してベッドを離れた。
(やっぱり……あの男……殺す……)
 降りてくる眠りの帳に包まれつつ、再び決意を固めるラシュキタであった。

 夜半の庭にはクロウ以外に人影無く、家の明かりも全て落とされている。空
を再び暗雲が多い、月光さえも遮られていた。
 ヴヴン……
 低い音が重苦しい沈黙を破って響いた。魔族が現れたのだ。魔族はそこに立
つクロウを認めると心持ち身構える。正確には、彼の手にした契約書に、だが。
「見つけたか……破棄するつもりなのか?」
「甘い、もうとっくにしてる。エマちゃんが欲しいんなら、オレを倒しな」
 こう言うとクロウはひょい、と契約書を投げ上げ、手にした剣で細かく切り
刻んだ。帯剣を禁忌とされるはずの魔導師の手には、蒼氷色の刃を持つ剣が握
られていたのだ。
「……貴様……何者だ?」
 魔族が警戒して問いかけるのに、クロウはふっ、と笑うだけで答えない。
「貴様……同属か?」
「そうだ、と言ったら?」
 低い問いに答える刹那、クロウの表情がこれ以上はない、という位に厳しく
引き締まった。魔族は半歩後ずさり、すっと身構える。
「同属であるなら、何故、我を阻む?」
「……同属であるからこそ。貴様らの暴走を見過ごす事はできん!」
 問いに答えつつ、クロウはだっと地を蹴った。そのまま、尋常ならざるスピ
ードで一気に距離を詰め、手にした剣を繰り出す。魔族はとっさに魔力の障壁
を張り、その攻撃を弾こうと試みるが、
「なっ……何!?」
 クロウの手にした刃は障壁を易々と切り裂き、予想外の事に呆然とする魔族
の腕を切り落とした。傷口から溢れだすどす黒い血を優雅なステップでかわし
つつ、クロウは立ち尽くす魔族の真後ろを取った。
「くっ!」
 魔族も素早く身を翻して距離を取ろうと試みるが、動きは圧倒的にクロウの
方が早かった。尋常ならざる瞬発力は、魔族と同属──即ち、彼自身も魔族で
あるが故か。一気に距離を詰めたクロウは魔族の左腕を切り落とし、再び距離
を取った。
「お……おのれ……」
 両腕を失った魔族は、黒い血を流す傷口に力を集めようと試みる。力を集め、
腕を再生するつもりだったのだが。
「な……なに?」
 どれほど意識を凝らし、念を高めても、一向に力は集まらなかった。傷口は
再生する素振りも見せず、血を流し続けている。
「な……何だ? 一体、どうなって……!?」
 困惑しつつ、それでも魔族は力の集中を試みる。その様子にクロウは冷たい
嘲笑を浮かべつつ、無駄だよ、と言い放った。
「な……何だと?」
「闇は最早、貴様に力を与えはしない。何者も、貴様の力とは成りえない……」
 静かに言いつつ、クロウはゆっくりと魔族との距離を詰めた。
「ば、馬鹿な! その様な事が……」
「ある。現実に起きている。お前には、最早闇の加護はない……何故なら……」
 ここでクロウは言葉を切り、足を止めた。
「何故なら……オレがそう定めた。貴様は、闇の加護を受けるに値しないとな」
「なっ……ま、まさか、貴様は……あ……貴方様はっ!?」
 ここに至り、魔族はようやくある事に気づいてじりっと後ずさった。即ち、
自分が何を相手にしていたのか、に。しかし、既に遅い。
「ただでさえ、悪習引きずってるうっとおしいヤツだと思ってたよ、てめえは
……でもな一応、情けはあるつもりだったんだぜ、一応」
 後ずさる魔族に、クロウは淡々とこう言い放った。
「な、ならば……」
「だけど、な……貴様はラシュキタを、オレの宝を傷つけた。それだけで、万
死に値する」
 クロウがゆっくりと剣を上げる──その間、魔族は様々に交錯する思考に捕
らわれていた。何故だ、嫌だ、許してくれ消えたくない……そんな思いがごち
ゃ混ぜになっていた。
「消えな……てめえみたいなのがいるから、オレは苦労してるんだよ」
 蒼い剣を振りかぶったクロウが踏み込み、魔族の身体を苦もなく両断した。
その一瞬だけ、黒いはずのクロウの髪が蒼く染まる。剣の光の照り返しかも知
れないが、確かめる間もなくその色彩は失せてしまった。
「お……お許しを……」
「滅びし魔界の王、グロウフィス・ラファイアの名において、貴様を永劫の虚
無に封ず」
 短い言葉のやり取りを経て、
 グギャアアアっ!
 魔族の断末魔の叫びが夜闇を引き裂いた。
 漆黒の光が爆発し、やがて、何事もなかったかのように消え失せる。
 暗雲も失せ、後には剣を携えたクロウが一人、静寂に包まれていた。
「国を持たない魔界の王の名……か……」
 呟く瞳には何か、言葉で言い尽くせない寂寥感が溢れていたが、それは剣の
突然の消滅と共に、瞳の紫水晶の色彩に埋もれていった。

 ラシュキタの完治を待って、狩人たちは再び宛のない旅へと向かった。予想
していた以上の報酬にクロウの足取りは軽いが、魔族退治に参加できなかった
ためか他に理由があるのか、ラシュキタはご機嫌ななめである。
「何だよ何だよ、シケた顔してさ」
 街を出てしばらく行った所で、クロウが仏頂面のラシュキタに声をかけた。
ラシュキタは周囲に人がいないのを見て取ると、やおらクロウから距離を取り、
守護の剣を抜き放った。
「この際だ、はっきり言わせてもらう!」
「はあ」
 突然の事について行けないのか、クロウの返事は気が抜けきっていた。
「いいか、良く聞け……お前のような外道には、いつか必ず、わたしが引導を
渡してやる! 覚悟しておけ!」
 ここまで言うと、ラシュキタは剣を収めた。
「しかし、今は……お前ほど有能な魔導師はいないからな。取りあえず、生命
をあずけておいてやる! わかったな!」
 言うだけ言うとラシュキタは再び歩き始める。クロウは頭を掻きつつ立ちつ
くしていたが、やがてふっ、と笑って、言った。
「本望だよ、お前に殺されるんならな」
「なっ……!? 何……だと?」
「だから、お前に殺されるんなら、オレは本望だよ」
 予想外の返事に立ちつくすラシュキタの唇を素早く奪うと、クロウは再び歩
きだした。
「こっこの……懲りる、という事を知らないのか!?」
 突然の事に頬を赤らめつつ、ラシュキタはまた決意を固める。

 それが孤独な魔界の王の、切実な願いそのままであるとは、ついぞ気づかぬ
ままに。

おまけのキャラデータ
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