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   ACT−4:清らな水底、冥き影 06

「うわぁ」
「ほぅ、これは中々……」
「すっごい、キレイ! 本物のお嫁さんみたい〜!」
 不本意ながら白いドレスに身を包んだアキアの姿に、レフィンは呆けた声を、
セシアは感心したような声を、フレアははしゃいだ声をそれぞれ上げていた。
アキアは三人に対し、あからさまに不満げな仏頂面を向ける。しかし、それす
らもそこに織り成される美しさの調和を乱す因子とはなり得ないのだから、何
とも言えないものがあった。
「美しいな。まさに、絶世の美女と言ったところか。どうだ、このまま、私の
所に嫁ぐ、というのは?」
 一歩、前に進み出たセシアが笑いながらこんな事を言い、その言葉にアキア
はあのですねぇ、と言ってため息をつく。
「……男装の佳人に女装の麗人……絵的には綺麗だけど……」
「え〜、でも、アキアにセシア様は勿体無いようなぁ……」
 その横では、レフィンがぽそりともらした呟きに、フレアが妙な観点からの
突っ込みを入れていた。
「そこ、論点と突っ込むところが違いますがっ?」
 何ともお気楽なフレアとレフィンに、アキアは更に渋くした顔を向ける。そ
こに妙な色気が生じる事、それ自体が詐欺の領域かも知れない。
「まぁ、そうむくれずに。美人が台無しだぞ?」
 そんなアキアにセシアが笑いながらこう言った。取り成そうとしているのか
茶化しているのか、その言動からは今一つ読み取れない。思わずじとん、とし
た視線を向けるとセシアはにっこりと微笑み、それから表情を引き締めた。そ
の変化に、アキアは自分も表情を引き締める。
「ともあれ、気をつけて欲しい。本来なら無関係の貴殿に、これで何か大事あ
ったとなれば、さすがに寝覚めが悪いからな」
「ご心配なく、候。そのために、腐れ縁の相棒に同行願うわけですから」
 セシアの言葉に、アキアは短剣形態のヒューイを示しつつにっこりと微笑ん
で見せた。それから、アキアはフレアの頭の上にぽん、と手を置く。
「と、言う訳で……お嬢、お目付け役がいないからって、ハメを外さないよう
にね?」
 笑顔のままで言われた言葉に、フレアはむー、と頬を膨らませた。
「わかってるもんっ! もう、子供じゃないんだからねっ!!」
 いつもの反論に苦笑しつつはいはい、と頷くと、アキアはちらりとレフィン
を見る。ほんの一瞬投げた厳しい視線に、レフィンははっとしたような表情で
ぴんっと背筋を伸ばして頷いた。どうやら、こちらの言わんとする所を理解し
たらしい。
(頼むからね、ほんとに)
 心の奥でこんな呟きをもらしつつにこり、と微笑むと、アキアはヒューイを
懐に隠してふわりとヴェールを羽織った。これがまた、よく似合うのだから、
やはり詐欺だ。
「では、行ってみるとしますか」
 呟くように言う、その口調はいつも通りに軽いものの、レースの陰になった
瞳には厳しい光が宿っていた。

 静寂。
 夜のクレスタ湖を包み込む空気は、その一言で表せるようにアキアには思え
た。その静寂を微かな足音で破りつつ、アキアはゆっくりと湖畔を進んでいく。
「……ヒューイ」
『あん?』
「どう思う、この騒動?」
 短い問いに、ヒューイは即答せずにしばし黙り込んだ。
『……そういうお前は、どう考えてんだ?』
「……」
 間を置いて、逆に投げかけられた問いに今度はアキアが沈黙する。
『アキア?』
「できるなら、冗談であってほしい可能性を、考えてるんだが……」
 言いつつ、アキアはクレスタ湖を見やった。夜闇と同じ黒に染まった湖は静
かだが、その静けさが同時に妙な不安をかき立てる。
『てえと……まさか?』
 ヒューイの声に微かな困惑の響きが織り込まれた。アキアはそれに、小さな
ため息で応える。
「あり得ない事じゃない。前例は、なくもないからな。だが……」
『ちょっとマテ。規模が違う、規模が!』
「オレも、そうは思うんだが、な……」
 妙に焦った声を上げるヒューイに疲れたような声で返しつつ、アキアはやや
歩みを速めた。湖の方から、こちらを窺う気配を感じたのだ。どうやら、何か
が引っかかったらしい。それはそれで、狙い通りではあるのだが。
「どうやら、当たってるらしいな」
 こちらを窺う気配が放つ独特の力に、アキアはヴェールの下で表情を険しく
する。
『やめれってな〜、おい』
 同じく力を感じたのか、ヒューイが露骨に嫌そうな声を上げた。
 つい先ほどまで静かだった水面が、ざわざわとざわめいている。そのざわめ
く黒の奥に、禍々しい輝きを放つ紅い光が見て取れた。
「……最悪だな!」
『っとにな!』
 短く吐き捨てつつ、アキアはだっと走り出す。今いる場所は、街に近すぎる。
もう少し距離を開けなくては、これから起こり得る事態に落ち着いて対処する
のは難しいだろう、と判断したのだ。幸い、湖の気配はそれを恐怖によるもの
と勘違いしたらしく、並走するようにアキアを追いかけてきた。
『んで、どーするんだよっ!?』
 怒鳴るようなヒューイの問いに、
「どうするもこうするも……永封するしかないでしょう、冥魔を!」
 アキアはこちらも怒鳴り声でこう返す。
 クレスタ湖の水面は、いつか、不気味な青白い光を放っていた。その光が何
を示しているのか、アキアには嫌というほどによくわかる。独特とも言うべき
冷たい波動。それは、そこに冥魔がいる、と端的に物語っていた。
 とはいうものの。
『っとに、冗談じゃねーぞっ!? なんだってヒト以外の、それも、あんなどで
かいモンが、冥魔のモトになるんだよっ!?』
「それこそ、オレが知るかっ!」
 ヒューイの絶叫にアキアが怒鳴り返すのと前後して、水面が泡立ち始めた。
追撃者が出て来ようとしているらしい。周囲を見回して街から距離を取れたと
確認すると、アキアは水辺から距離を開けて身構えた。
「ただ、一つ言える事として……」
 勢いを増して泡立つ水面を睨むように見つつ、アキアは低い声で呟く。
『あん? なんだよ!?』
「それだけ、大きな軋みが、どこかに生じているって事は、言いきれる」
『……嬉しくねぇよっ!』
「オレだって、楽しくない!」
 ……グギシェエエエっ!!
 漫才のようなやり取りを遮るように、水の中から咆哮が響いた。それに続け
て、青い光に包まれた影が水中から躍り出る。
「……水竜、クレルディス……」
 紺碧の鱗に包まれたその姿に、アキアは低く竜の名を呟く。水竜はグルルル
……と低く唸りつつアキアを見下ろした。禍々しいとさえ感じる真紅の瞳がそ
の異常──冥魔を生じさせ、それに憑かれている、という事実を端的に物語っ
ている。
『……重傷だな』
「ああ」
『大丈夫か?』
「……恐らくは、な」
 短い問いにこちらも短く返すと、アキアはだっと走り出した。さすがにこの
行動は予想外だったらしく、水竜はわずかに困惑する。そこに生じた隙を突き、
アキアは勢い良く地を蹴って跳んだ。
「せいっ!!」
 低い気合と共に、鮮やかな飛翔蹴りが水竜の眉間に決まる。蹴りを決めたア
キアはその反動を生かして岸に着地するが、やはり動きが思うように行かない。
その原因は、言うまでもなく。
「……っとに、こんな格好してると、動き難いだけなんだってのに!」
 純白の花嫁衣裳、それに他ならない。大立ち回りのための服ではないのだか
ら、当たり前ではあるのだが。
 とは言うものの、アキアとて何の備えもしていなかった訳ではない。女物の
装いが自分の動きを大きく遮る事は以前の事でわかっているのだから、尚更だ。
 着地したアキアは水竜を睨むように見つつ、左手を右の肩にかける。何かあ
った時のためにと、この花嫁衣裳にはちょっとした細工が施してあった。右肩
のリボンと腰の飾り帯を解く事で、簡単に脱げるようになっているのだ。
 グゥウウ……
 水竜が警戒するような声を上げる。さすがにと言うか、今の飛翔蹴りはただ
事ではない、という認識を与えたようだ。ある意味、当然だが。
 アキア、水竜、共にその動きを止めた事で湖畔には静寂と緊張が張り詰める。
その緊張に先に耐えかねたのは水竜の方だった。キシャっ、という鋭い声を上
げつつ、水竜はその鋭い牙にアキアを捕らえようとする。アキアはそれを優雅
とも言える動きで掻い潜り、花嫁衣裳とヴェールを脱ぎ捨てた。
 柔らかな純白の下から、漆黒の装いと銀の長い髪が現れる。
 着地したアキアは花嫁衣裳を脱いだ時に空中に飛び出したヒューイを左手で
受け止め、金緑石をあしらった短剣はその手の中で長剣へと転じた。アキアは
鞘を払ったヒューイを静かに構えつつ、水竜を見据える。
「水の均衡の一翼を担いし、強大なる者。何に惑い、魂を囚われる!」
 静かな、それでいて鋭い問いに水竜は低く唸るだけで答えない。その反応に、
アキアは形の良い眉をきつく寄せた。
『そうっとう、深く侵食されてんな、ありゃ』
 ヒューイが低く呟くのにらしいな、と返しつつ、アキアはゆっくりと力を集
中した。
『……おい、大丈夫かぁ?』
 妙に不安げな口調でヒューイが問うのに、アキアはああ、と頷く。
『ああ、ってよ……』
「いずれにしろ、ここにはオレたちしかいない。やるしか、ないでしょう!」
 不安げなまま更に言葉を続けるヒューイに答えつつ、アキアは地を蹴って跳
躍する。僅かに遅れて、それまでアキアがいた場所を青い物体が薙ぎ払った。
水竜が、その尾を繰り出してきたのだ。
『ま、確かにそうだけどよ!』
「わかってるなら、文句言わない!」
『……てめーがマトモな状態なら、んなこたぁ言わんわ、ボケっ!』
「……それも、今は言いっこなし!」
 ヒューイの突っ込みにほんの一瞬言葉に詰まるものの、アキアはこう言って
それを受け流した。着地したアキアは、ヒューイの切っ先を水竜へと向ける。
「古の盟約において、『封印師』の一族が命ずる……『光』と『闇』、対を成
して螺旋を織り成すもの、その螺旋を縛鎖と変えて、彼の者を捕らえよ!」
 鋭い声に応じて、白と黒の光が弾けた。弾けたそれらは絡み合いながら伸び、
水竜の身体へと絡みつく。二色の光が織り成す鎖はやがて、水竜を捕らえる縛
となってその動きを封じた。
「……さて、問題は、と……」
 水竜の動きを完全に押さえ込めたと確かめたアキアは、低い呟きをもらす。
あとは隔絶を用いて水竜から冥魔を切り離し、永封を行えばいいのだが。
「本気を出さないと、厳しいかな、これは」
 竜という力ある存在から生じた冥魔となれば、相当な力を秘めていると見て
間違いない。恐らく今出せる全力を持って当たらなければ永封は勿論、隔絶す
ら難しいだろう。
『ま、そーだろーけどよ。でも……』
「心配御無用、ヒューイくん。あと一回、本気を出した程度で、即崩壊するほ
ど、ヤワじゃないつもり」
 ヒューイの言葉を遮ると、アキアは深呼吸をして表情を引き締める。ヒュー
イは勝手にしろ、と言い放ってそれきり沈黙した。それでもアキアのやろうと
している事をサポートしよう、という意図は伝わる力の波動から感じられる。
アキアはさんきゅ、と小さく呟いて、水竜を見据えた。
「……『白銀の封印師』ヴェラキアの名において、今、ここに封じの力を生み
出さん……」
 いつになく低い声が、力を導く言葉を紡ぐ。ヒューイの柄の金緑石がきらり
と煌めき、虹色の光がその刀身を包んだ。
「冥魔、隔絶! 汝が宿りし依り代より、疾く、出でよ!」
 言葉と共に振るわれた刃から虹色の光が飛び立ち、それは光の縛と共に水竜
に絡みついた。
 グギゲエエエっ!!
 奇怪な絶叫が水竜の口から迸る。竜の咆哮とは大きくかけ離れたそれは、切
り離される事を拒む冥魔のものらしい。あらかじめ予想していた事だがその抵
抗は激しく、隔絶は中々進まなかった。その様子にアキアは仕方ない、と小さ
く呟き、すっと右手を前に伸ばした。
「我、『天煌』の号を継ぎし者。その号に依りてここに宣する。冥き深淵より
生じしもの、汝、我に抗うは、叶わず!」
 静かな言葉と共に、伸ばした右手の上に光が舞い降りる。アキアはそれを、
優雅な仕種で虹色の光に取り巻かれる水竜へと投げた。淡い白に輝くその光球
が虹色の光に触れた瞬間、色とりどりの鮮やかな光が弾けて周囲の闇を彩った。
 グォオオオオっ!
 再び水竜の口から咆哮が迸り、それを追うように黒い塊のようなものが滲み
出てきた。水竜の身体を包んでいた虹色の光が素早くそれに追いすがり、一片
も逃すまいとするかのように包み込む。
『でかいな、おい』
「……そりゃ、そうだろ……一気に、決める!」
『おう!』
 空中に形成された巨大な塊にヒューイが呆れたような声を上げ、アキアはそ
れにため息混じりに答えた後、凛とした声で宣言した。それに力強い返事を寄
こすヒューイを握り直しつつ、アキアは光に囚われた冥魔を見据える。
「冥魔、永封……今ここに、『無光の封印』をなさしめん!」
 力を帯びた言葉と共に、銀の刃が横一文字に闇を切り裂いた。
 虹色の閃光が一際美しく夜闇に閃き、直後に、それは煌めく粒子となって夜
空と水面を飾り立てる。

「……また一つ、力ある存在が消されましたか……」
 漆黒の夜空を美しく飾る光の粒子を離れた所で見やりつつ、こんな呟きをも
らす影があった。黒いマントに身を包み、フードを目深に引き被っているため
容姿などは全くわからないが、その声から女性である事は推察できる。
「まったく、あれほどの力の持ち主であれば、今の世界の必然性の有無など、
周知の事でしょうに……何故に、ああも抗うのか」
 呆れたように呟くと、マントの女性はクレスタの街並みへと目を向けた。そ
の中で一際目立つ聖騎士候の館を見やりつつ、女性はふふ、と楽しげな笑い声
をもらす。
「しかし、此度の『巫女』の力……なんと素晴らしき事でしょうか。有意義に、
用いなくては」
 楽しそうに、楽しそうにこう呟くと、女性はその場から姿を消す。

「……やった……か?」
 光の粒子の乱舞が鎮まると、アキアはかすれた声でこんな呟きをもらしてい
た。
 呼吸が荒い。心拍も、かなり上がっているのがわかる。身体が震えて立って
いるのも辛くなってきたアキアは、その場にがくん、と膝を突いた。
『お、おい!? おい、アキア!』
 突然の事に驚いたのか、ヒューイが上ずった声を上げる。
「……大声、上げるなって……だいじょう、ぶ……」
『そのがくがくした様子のどこが、『大丈夫』なんじゃボケええええ!』
「……お前、最近、言葉遣いがおかしいぞ……」
 絶叫するヒューイにピントのずれた突っ込みを入れつつ、アキアは湖を見る。
湖面では、水竜がゆっくりと首を持ち上げているところだった。先ほどまでそ
の身を取り巻いていた青白い光は消え、真紅に爛々と輝いていた眼も穏やかな
蒼色に変わっている。どうやら、自我を取り戻したらしい。
『これは……我は、一体……』
 困惑を帯びた声が意識に響く。水竜クレルディスの声だ。
「己を、取り戻したか……湖の……まもり……て……」
 安堵を交えた言葉は途中で途切れた。膝を突いた姿勢を維持する事すら辛く
なったアキアは、崩れるようにその場に座り込む。水竜はゆっくりとアキアに
顔を近づけ、蒼い瞳でじっとその姿を見つめた。
『貴殿は……『クロウディアス一族』の……『宗主』殿、か?』
「……その名は……公式には……継いでいないが……ね」
 困惑を帯びた問いに、アキアは切れ切れにこう答える。そろそろ、喋るのも
辛くなってきていた。
『一体何が……いや、まずは、我が領域へ。貴殿には、緊急に『力』の補充が
必要のようだ』
 こちらの限界が近いと悟ったらしい水竜の言葉に、アキアは短く、すまない、
と呟く。
『いや……どうやら、我が世話をかけたらしい故に……では、参られよ』
 それに水竜は穏やかにこう返し、直後に、蒼い光がふわりとアキアを包み込
んだ。光は光球となり、ふわりと舞い上がって湖の中へと消える。それを追う
ように水竜も身を翻し、湖の中へと消えた。

 そして、湖畔にはごく当たり前の夜の闇と、静寂がだけ残された。

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