目次へ


   ACT−3:決して、交差しないもの 02

「……はっくしゅんっ!」
 何の前触れもなく、可愛らしいくしゃみが響いた。突然の事にアキアはきょ
とん、とフレアを見る。
「……どしたの? 風邪?」
「ん……違うと思うけど……」
 不思議そうに問うと、フレアは首を傾げつつこう答えた。
「まあ、風邪引いてるようには見えないけどね……」
『あ、そりゃ言えた。お嬢が風邪ひくなんてあり得ねぇ』
 アキアの言葉にヒューイがこんな突っ込みを入れ、この言葉にフレアはむー、
と頬を膨らませた。
「それ、どーゆー意味よぉ?」
『どーゆーって……そーゆー意味』
 むっとしたような問いにヒューイはさらっとこう答え、フレアは益々不満げ
にむくれて見せる。アキアはまあまあ、と言いつつその肩をぽんぽん、と叩い
てなだめた。
「ま、もしかしたら誰かが噂してるのかも知れないね……さて、それで、どう
しようか?」
「え? どうしようかって?」
 不思議そうな顔で問い返され、アキアは思わずかくん、とコケる。ヒューイ
も呆れたような光をちらちらと瞬かせた。そんな二人の様子にフレアはきょと
んと瞬き、それからここにやって来た目的を思い出してあ、と声を上げた。
「えっと、そうそう、これからの事、決めなきゃいけないのよね?」
「……そうです……」
「お待たせしましたー♪」
 完全に忘れていた訳ではない事に安堵しつつ、どうにか態勢を戻した所に注
文したお茶とケーキがやって来た。
「わあ、美味しそう〜♪」
 途端にフレアの注意はそちらに向いてしまう。その反応にアキアは深く、ふ
かくため息をつき、それから見るからに幸せそうな様子でイチゴのミルフィー
ユを味わうフレアの様子に苦笑した。
(……幸せそうに食べるよね、ホントに……)
 こんな事を考えつつ、自分は紅茶のシフォンをのんびりとつつく。一見する
と甘い物とは無縁そうに見えるアキアだが、これで意外に甘い物好きの一面も
あるのだ。
『菓子食ってて幸せそうなのは、昔からだっつーに』
 ふと浮かんだ考えにヒューイがぼそり、と突っ込みを入れる。さすがにずっ
とフレアと共に居ただけの事はあり、その物言いには妙な信憑性があった。
「これから……えっと……でも、どこに何があるかわかんないし、決められな
いなぁ」
 ミルフィーユを綺麗に平らげてから、フレアは軽く首を傾げつつこんな呟き
をもらした。半ば予想していたものの、見事に考えていなかったようだ。アキ
アはやれやれ、と苦笑する。
「それじゃ、取りあえずお祭り巡りでもしとこうか?」
「お祭り巡り?」
 アキアの提案にフレアはきょとん、と瞬くが、『祭り』という言葉には興味
を引かれたようだった。アキアはそう、と頷いて、荷物の中から帝国領内の地
図を取り出して広げる。
「今いるのが、ここ。カジェスト侯領のレプシアス。この近辺の祭りはもう終
わってるから……一番近くて、時期的にも間に合いそうなのが、隣りのクレス
ト侯領の水竜祭かな?」
 レプシアスの場所を地図上で確認させてから、祭りが行われる場所を指で示
す。フレアは軽く首を傾げて何やら思案し、それから、あ、と弾んだ声を上げ
た。
「クレストの水竜祭……クレイア湖の、水竜伝説のお祭ね!?」
「そうだよ。知ってたんだ?」
 からかうような口調でこう言うと、フレアはむっとしたように頬を膨らませ
た。
「あたしだって、そのくらい知ってるわよぉ! それに、あたしあの伝説大好
きなんだもんっ。だからね、一回行ってみたかったの!」
 むっとした次の瞬間には、もう瞳をキラキラさせて早口に言い募る。無邪気
な様子が微笑ましく、アキアは地図を片付けつつ笑みをもらす。
「じゃ、取りあえずはそれで決まりだね。とはいえ……」
 思わせぶりに言葉を切ると、フレアはえ? と言ってきょとん、と瞬いた。
「祭りに間に合うようにするには、途中、急がなきゃならない場合もあるだろ
うからね。あんまり、わがまま言わないようにね?」
 にっこり笑ってこう言うと、フレアはまた、むー、と頬を膨らませた。
「そのくらい、わかってるもんっ」
『とかゆーて、次の日には野宿はイヤだのなんの言うんだよなぁ……』
 拗ねた言葉にヒューイがぼそっと突っ込みを入れる。フレアはきゅっと眉を
寄せつつ、言わないもんっ、と言ってヒューイの柄をぎゅっと握り締めた。そ
んな、いつもと変わらないやり取りにアキアは低い笑いをもらす。
(どうやら、思ったほどは気にしてないみたいだな)
 その笑みの影で、アキアはこんな事を考えていた。
 アイルグレスの地下神殿での一件、特にファヴィスから向けられた冷たい視
線と言葉は、フレアにとってはショックだったはずだ。自分の全く知らない所
で、自分の存在が否定されていたのだから。
 今、こうして他愛ない話に一喜一憂している姿からは、不安らしきものは感
じられない。もっとも、この明るさそのものが不安を吹き飛ばすための虚勢で
ある可能性は否めないが。
(しかし、ああやって出てきたと言う事は、これからも突っかかってくるって
意思表示だからな。気は、抜けないな)
 冷たい決意を宿した青と緑の瞳を思い返してふとため息をつくと、フレアが
不思議そうにアキア? と呼びかけてきた。アキアはとっさに笑顔に戻り、な
に? と問い返す。
「なに、ぼんやりしてたの?」
「え? ああ、ちょっとね」
「だから、そのちょっと、って?」
 軽くはぐらかすとフレアは更にこう言い募る。アキアは苦笑しつつ、ぽん、
とフレアの頭に手を乗せた。
「ちょっとはちょっと、です。それより、そろそろ行こうか? クレストまで
の旅の準備、しないとね」
 にっこり笑って現実的問題を定義する。ここから目的地として定めたクレイ
ア湖までは、街道沿いに行っても徒歩では一月近くかかる。しかもその間、ま
ともに泊まれる宿場は数えるほどしかない。しっかりと準備をしておくに越し
た事はないのだ。
「そっかあ、そうよね。あ、でも……」
 アキアの言葉にフレア何事か思案するように眉を寄せた。
「でも、なにかな?」
「この後って、あんまりケーキとか食べられないよね?」
 やや上目遣いになって問いかけてくる、この言葉にアキアは嫌な予感を覚え
つつそうだね、と頷いた。肯定の返事にフレアは会心の笑みを浮かべる。
「それじゃあ……もう一つ、食べてからでもいいよね? しばらく食べられな
いんだから、いいでしょ?」
「あのねぇ……」
『や〜れやれ』
 有無を言わせぬ天使の笑顔にアキアは嘆息し、ヒューイは呆れ果てた呟きを
もらした。フレアはにこにこしながらウェイトレスを呼び止めてケーキの追加
を注文する。アキアは苦笑しつつ通りの方を見やり、
「……っ!?」
 息を飲んだ。
 国境の往来が可能になり、人通りの多くなった大通りの一角に、白い人影が
佇んでいる。真白のマントに見を包んだ細身の人影。マントのフードを引き被
っているので顔を見る事はできないが、その視線は明らかにこちらに――アキ
アに向けられていた。
「……」
 端正な横顔を厳しいものが過る。だがそれもわずかな時間の事、白い人影が
行き交う人の流れに飲み込まれて消え失せるのと同時にその厳しさは失せ、代
わりに、どことなく疲れたような表情が浮かんだ。

――ぼくは『彼女』ほど甘くはない――

 別れ際のファヴィスの言葉がふと過る。それが意味するものを考えていなか
った訳ではなかったのだが。
(動き出したのか、あいつも……)
 いざ、それと認識すると緊張せざるをえない。アキアはごく小さなため息を
ついてからテーブルの方に視線を戻し、
「美味しい〜♪」
 幸せそのものといった様子でケーキを味わうフレアの様子に、毒気を抜かれ
てまたため息をついた。
(っとに、この子は……)
『緊迫感、ねーよなぁ』
 声には出さずにもらした呟きに、ヒューイがさらりと真理で応えた。

 それから三十分後、アキアはケーキに名残を惜しむフレアを説き伏せて店を
出た。ちょうど通りかかった女性にこえをかけ、食料品を安く買える店を教え
てもらう。時に迷惑や厄介事を呼び込む容貌だが、こういう時には何よりも役
に立つ。それが本意かどうかはさておくとして。
 教えてもらった店で旅の食料を買い込み――ここの店主相手には、フレアの
『見た目は天使』の笑顔が猛威を振るった――、不足していた消耗品を補充し
た頃には日は大分高く昇っていた。そろそろ、昼時だ。
「さて、どうしようか」
 取りあえず大通りまで戻ってくると、アキアは独り言のように呟いた。すぐ
に発つか、それとも今日はゆっくりして明日の早朝に発つか、時間的に中途半
端なのだ。ただ、ここで昼食をとるとなると、一泊は必然となるだろうが。
「お嬢、どうする?」
 何はともあれ、フレアにこう問いかける。行動の主導権はアキアにあるが、
決定権は基本的にフレアにあるのだ。勿論、フレアに問いかけた時点でその選
択肢は決定したも同然なのだが。
(ま、出発は明日になるだろうけどね……)
 アキアのこんな考えなど知る由もなく、フレアは小首を傾げて思案している。
可愛らしい仕種が周囲の注目を集めるのは、まるで気にしていない。目立つの
を気にしていたらアキアとはいられない、というのがその持論らしいが、それ
はそれで妙な説得力がある。
「えと、それじゃあね……」
 考えをまとめたフレアが口を開いた、ちょうどその時。
「フレイアリスっ!!」
 人通りのざわめきすら制する大声が響き渡った。フレアは続く言葉を飲み込
んで、え? と間抜けな声を上げ、アキアは声の聞こえてきた方を振り返る。
 ずっと走り続けてでもいたかのように息を切らした人物が、そこに立ってい
る。マントのフードを引き被っているので顔はわからないが、フレアにはそれ
が誰だかわかったらしかった。
「……なんでぇ〜?」
 驚いた――と言うよりは、呆れ果てた、と言わんばかりの呟きが可愛らしい
口からもれる。そうこうしている間にマントの人物はこちらに駆けより、マン
トのフードをばっと跳ね上げた。見事な金髪が陽光を弾く。歳は大体十七、八
歳の、どことなく幼い印象を与える若者だ。エメラルドを思わせる緑の瞳が、
安堵を湛えてフレアを見つめている。
 しかし、当のフレアは碧い瞳に露骨に不機嫌な光を浮かべてその瞳を睨み返
す。なんとも対称的な二人の様子を、アキアはのんびりと見比べた。
(……どこかで見たような顔だな、この子?)
 金と緑という色彩とその顔立ちにこんな事を考えていると、
「なんで、レフィン様が、ここに居るんですかあ?」
 フレアが低い声で若者にこう問いかけた。いつも明るい声は瞳と同様に不機
嫌そのものだ。その様子にレフィンと呼ばれた若者は気圧される。
「なんでって……キミを捜しに来たに決まってるだろう!?」
「あたし、捜して下さい、なんて言ってません!」
「未来の妻が行方知れずになれば、捜そうとするのは当然だろう!?」
「誰が、誰の未来の妻なんですかあっ!?」
「キミが、ぼくの、だ!」
「あたし、承諾してませんっ!!」
「なんなんですか、これは」
 痴話ゲンカとしか言えない二人の口論に。アキアはぽつんとこう呟いた。道
行く人々は皆、どんどん声の大きくなって行く二人とその横のアキアに困惑と
好奇の視線を向けつつ、距離を開けて行き過ぎる。
(やれやれ……)
 このままでは往来の邪魔、ただの迷惑でしかない。こう考えたアキアは取り
あえず二人の間に入る事にした。
「あー、はいはい、取りあえずどっちも落ち着こうよ、ね?」
「アキアは黙ってて!!」
 にこにこと笑いつつ双方に呼びかけると、フレアがすぐにこう返してきた。
一方のレフィンはようやくアキアの存在に気づいたらしくはっと顔を上げ、そ
れから、きっと睨みつけてくる。
「お前が、誘拐犯かっ!?」
「……はあ?」
 語気鋭い言葉の意味を掴みあぐね、アキアは思わず呆けた声を上げた。
「誘拐って……オレが、ですか?」
「他に、誰がいるんだっ! 王族略取は、極刑ものの重罪だぞ!!」
「……なんか、思いっきり、勘違いしてないですかー?」
「言い逃れするつもりかっ!」
「……あのねぇ……」
 どうやら、レフィンはアキアがフレアを誘拐した、と思い込んでいるらしい。
それと気づいたアキアはやれやれ、とため息をついた。
(レオンとフランツには、ヴァシスから連絡が行ってるだろうから……この子
の勘違い、かな?)
『おそらくそだろ。この王子さん、思い込むとそれしか見ねえし』
 呑気に考えていると、ヒューイがぼそりとこう言った。
(王子? ああ、じゃあ、やっぱり彼は……)
『お嬢の婚約者サマ。クライズのレフィルネス王子殿下だよ』
 投げやりな説明にアキアはなるほどね、と呟いた。それならば納得が行くの
だ、彼に見覚えがある事も、思い込んだら一直線な気質にも。勿論、納得した
からと言ってこの騒ぎは収拾できない。どうしたものか、と思案を巡らせてい
ると、
「レフィン様の……レフィン様の、ばかあっ!! 大っ嫌い!!」
 唐突にフレアが叫んだ。フレアは碧い瞳できっとレフィンを睨むと、行こ!
と言ってアキアの腕を引っ張る。突然の事に戸惑いつつ、フレアが本気で怒っ
ているのは見てわかるため、アキアはそれに従った。フレアは振り返る事なく
どんどん歩いて行く。どうやらこのまま、街を出る事になるらしい――などと
思いつつちらっと振り返ると、レフィンは呆然としたままそこに立ち尽くして
いた。どうやら、フレアに言われた言葉が相当深く刺さったらしい。
(……ご愁傷様)
 完全に硬直しているレフィンに向けて、アキアは心の中でこう呟いた。

← BACK 目次へ NEXT →