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   05

 死の砂漠。大陸の中央部一帯に広がる砂漠を、人々はこう呼んでいた。人の
立ち入りを頑なに拒むこの地には古代期の遺跡が多く残り、多くの冒険者がこ
の地へと赴き、そして、そのほとんどが帰らぬ者となっていた。運良く生還を
遂げた者も、その大半が土地その物に激しい畏怖を覚え、再度の挑戦する者は
ない。一人を除いて。
「ま、基本的に何度も来るとこじゃあねえわな。正直、面倒の方が多いしよ」
 死の砂漠に幾度となく挑み、その都度生還を果たし続ける男・旋風のユーリ
は、気まぐれと言う以外にない砂漠の気候に戸惑うシーラとラヴェイトに苦笑
めいた面持ちでこう語る。
「なら、どうして何度も何度もここに挑むんです?」
 そんなユーリに、ラヴェイトが至極もっともな疑問を投げかける。この問い
に、ユーリはひょい、と肩をすくめて、言った。
「訳がわからんからさ……だからこそ、冒険屋はここに惹かれるんだよ」
 冗談めかした物言いにラヴェイトは余計わかりませんよ、と反論し、これに、
ユーリはそう言うない、と笑って返していた。
「……ふう……」
 砂漠に入って一週間目の夜、一行はユーリが何度も立ち寄っているというオ
アシスで休息を取った。この先にはゆっくりできる場所はほとんど無いらしく、
ユーリはここでしっかり休むように、と繰り返していたが、何となく寝付けな
いシーラは一人、夜営地を離れてオアシスの水辺に座ってぼんやりとため息を
ついていた。
「何だか……変な感じ……」
 水面に映る月を見やって、ふとこんな呟きをもらす。砂漠に入ってからずっ
と感じていたのだが、とにかく、月がやたらと明るいのだ。満月でもないのに
月の明かりだけで十分に周囲の様子を見て取れるというのは、一種異様なもの
すら感じられる。ユーリに言わせると、そう言う土地、の一言で終わってしま
うのだが……。
(みんな……どうしてるかな……)
 水面の月を見つめつつ、シーラはふとシェルナグアの事を思った。何者とも
知れぬ自分を育んでくれた山間の地。こうして異境に身を置いていると、言い
ようも無く懐かしく感じられる。そして何より、相変わらず消息の知れないリ
ックの事を思うと、気持ちが塞いだ。正直、あの襲撃の一件さえなければ、約
束を信じてグラルシェで待ち続けていたかった。しかしその反面、立ち止まっ
ていては二度と逢えないような、そんな不安も感じていた。だからこそ、こう
して外へと飛び出したのだが、いずれにしろ不安は尽きない。
「……眠れないんですか?」
 何となくため息をついていると、穏やかな問いが投げかけられた。ラヴェイ
トだ。
「ええ……ほんとは、休まなきゃいけないって、わかってるんですけど……」
「こう明るいと、眠れませんよね……隣り、失礼します」
 苦笑めいた面持ちで言いつつ、ラヴェイトはシーラの隣りに腰を下ろす。そ
れに伴い、薬草の香気が周囲に弾けた。薬草の類を常に持ち歩いているという
治癒術師の青年は、いつも爽やかな香気を漂わせているのだ。
「……不安、ですか?」
 しばしの沈黙を経て、ラヴェイトがこんな問いを投げかけてきた。この問い
にシーラははっと顔を上げ、それから、こくん、と一つ頷いた。
「これから先、どうなるのかなって考えると……でも、立ち止まってるのも不
安なんです。少しでも先に進まないと……もう二度と、リックに逢えないよう
な気がして。それは……この先に進んだからって、逢えるかどうかなんてわか
らないけど、でも……」
「それでも……立ち止まっているよりは、気が楽ですよね……わかりますよ、
ぼくもそうですから」
 穏やかな同意に、シーラは気が楽になるのを感じていた。恐らくは人柄から
くるのだろうが、ラヴェイトには人を寛がせる雰囲気がある。一緒にいて安心
できるのだ。この一週間の間に、シーラはラヴェイトに対し、兄のような信頼
感を抱いていた。
「あの、シーラさん……前から、聞こうと思っていたんですが……」
「え?」
「あなたのしているペンダントですが……もしかしてそれはフィアナ石の……
フィアルの誓いの印ですか?」
 突然の問いに戸惑いつつ、確かにその通りなのでシーラは素直にはい、と頷
いた。この返事に、ラヴェイトはやや表情を険しくする。
「それを渡した人は、行方不明なんでしょう? それでも……信じているんで
すか、その約束を?」
「……はい」
 小声で、しかしはっきりと、シーラは頷いた。この返事に、ラヴェイトは何
故かため息をつく。
「……ラヴェイトさん?」
「……強いんですね、あなたは」
 問いの真意をはかり兼ねて名を呼ぶと、ラヴェイトは微笑いながらこんな事
を言った。ますます戸惑うシーラの肩を、ラヴェイトはぽん、と叩く。
「気にしないで下さい、ちょっと、気にかかる事があったもので……おかしな
事を聞いてしまってすみません」
 言いつつ、ラヴェイトはゆっくりと立ち上がる。妙に表情が寂しげにも見え
るが、はっきりと確かめる間もなく、治癒術師は表情を厳しく引き締めた。
「……ラヴェイトさん?」
「隠れても無駄ですよ……あなた方が人である以上、ぼくをごまかす事は不可
能です」
 訝るように名を呼ぶと、ラヴェイトは静かにこう言った。無論、シーラに対
して、ではない。一拍間を置いて現れた者たちが、その対象だった。夜闇の中
から滲み出るように、黒衣の者たちが姿を見せる。
「……やはり……そういう事ですか……」
 その姿を見るなり、ラヴェイトは低い呟きをもらす。藍色の瞳に微かな陰り
が浮かび、一瞬後には厳しさがそれを飲み込んだ。
「……下がりなさい。この人をあなた方に渡す事はできません。もし、惜しむ
命があるのなら……」
 がしゃ……
 静かな警告を月光に煌めく刃が遮る。以前と変わらぬ対応に、シーラは大き
く身体を震わせた。
「大丈夫ですよ。誰も、死にはしませんから」
 怯えるシーラに、ラヴェイトは静かにこんな言葉を投げかけてきた。思いも
寄らない言葉に、シーラはえ? と言いつつラヴェイトを見る。ラヴェイトは
穏やかな笑みでそれに答え、それから、再び厳しい面持ちを黒衣の者たちに向
ける。
「もう一度言います……下がりなさい。あなた方が人である以上、ぼくに害を
成す事は不可能なのですから」
 静かな言葉に対する黒衣の者たちの反応は、またも以前と変わらなかった。
銀の刃を閃かせて切りかかってくる黒衣の者たちに対し、ラヴェイトはゆっく
りと右手を前に突き出す。淡い青の光がその手に灯り、黒衣の者たちの動きが
止まった。
「癒しの技というのは不思議なものでね……用い方によっては人を操り、死に
至らしめる事もできるんですよ。だからこそ、フィルスレイムは中立を保って
いるんですけどね……ともあれ、あなた方の身体の自由と……生殺与奪権は、
握らせてもらいましたよ」
 何とか前に進もうともがく黒衣の者たちに、ラヴェイトは淡々とこんな言葉
を投げかける。
「手荒な真似は、したくはありません。これ以上、彼女を付け狙わないと言う
のであれば、命は保証します……下がりなさい」
 静かな言葉に対し、黒衣の者たちは何も言わない。そこにあるのは、無言の
拒絶だった。この反応にラヴェイトは眉を寄せてため息をつく。
「そうですか……では、仕方ありません!」
 ため息の直後に、ラヴェイトは鋭い声を上げた。青い光が輝きを増し、ふっ
と消え失せる。それと共に、黒衣の者たちはばたばたとその場に倒れ伏した。
「ラ、ラヴェイトさんっ!?」
 突然の事に上擦った声を上げるシーラに、ラヴェイトはご心配なく、と微笑
って答えた。
「気絶しているだけで、命に別状はありません。さてと、それではユーリ殿を
呼んできて……」
 一転、軽くなった言葉は途中で途切れた。ラヴェイトの表情を驚きと戸惑い
とが過る。気絶していた黒衣の者の一人が猛然と立ち上がり、立ち尽くすシー
ラに向けて突撃してきたのだ。
「きゃあっ!?」
「シーラさんっ!」
 突然の事にシーラもラヴェイトも対処することはできず、一瞬の内に、シー
ラの小柄な身体は黒衣の者に横抱きにされる。
「やっ……放してっ!!」
 捕えられた瞬間に我に返ったシーラは必死の抵抗を試みるが、それによって
バランスが崩れた。黒衣の者がオアシスに向けて大きくよろめく。弾みで力が
抜けたのか、半ば投げ出されるようにシーラは水面へと飛び出した。
「シーラさんっ!」
 ラヴェイトが叫んで手を伸ばすが、到底届く距離ではない。そして、シーラ
自身は呆然と、頭上の月を見つめるしかできなかった。その月を、不意に現れ
た黒い影が遮り、そして――。
 ばしゃあんっ! 
 派手な水音が響く。黒衣の者が水に落ちたのだ。直後に水底から巨大な蛙を
思わせる生物が飛び出し、大きく開いた口にその身を捕えて再び水底へと沈ん
でいく。巨大なヒレが水を打ち据え、派手な水飛沫を立てた。
「なんだ、どうしたっ!?」
 さすがに騒ぎに気づいたらしく、ユーリがばたばたと駆け寄ってくる。だが、
それに答える余裕は誰にも無かった。ラヴェイトは今現れた生物の非常識さに
度肝を抜かれており、そして、シーラは。
「……あ……」
 目に入るものの美しさに、言葉を無くしていた。見事という以外にない、濡
れ羽色の翼が夜蒼色の空へ向けて大きく開いている。それが、自分を抱き上げ
ている者の背から開いている事にシーラが気づくまで、さして時間はかからな
かった。そして、それに気づいた直後にシーラは更に重大な事に気づいて目を
見張る。
「……リック……?」
 呆然とした呟きがもれる。突然飛来してシーラの危機を救った翼ある者の顔
は、行方知れずのリックにそっくりだったのだ。静寂が刹那、空間を支配する。
誰も何も言わず、呆然と目に映るものを見つめていた。ただ一人、突然現れた
漆黒の翼を持つ黒衣の少年を除いて、だが。当の少年はゆっくりと水面を歩い
て岸へと向かう。わずかに遅れて微かな波紋が広がり、消えていった。岸に着
くと少年はそっとシーラを下ろし、そのまま三人に背を向けた。
「あ……待って!」
 我に返ったシーラが慌てて呼び止めると、少年はゆっくりとこちらを振り返
った。漆黒の瞳は静かにシーラを見つめている。静か、と言うよりは無表情と
言うべきかも知れないが。
「……リック……リックでしょ?」
 シーラが震える声で投げかけた問いに対する、少年の答えは簡潔だった。
「オレは……ゼオ」
 瞳と同様、感情の感じられない声で、少年は静かにこう言った。短い返事は、
シーラの心に冷たく響く。
「ゼオ……? 違う……そんなはず、ないっ!」
 冷たい返事にシーラは上擦った声を上げるが、しかし、少年の瞳は無表情な
ままだった。
「オレは、ゼオ。黒き翼の『守護者』、ゼオ・ラーヴァ」
 淡々とこう言い切ると、少年はその背の翼を大きく羽ばたかせた。風圧が水
面を揺らし、直後に漆黒の影が夜蒼色の空へと舞い上がる。
「リック! リック、待って!」
 その瞬間、頭の中が真っ白になっていた。シーラは思わず、飛び立った少年
を追って走り出そうとする。そこがオアシスの辺であり、前方には水が広がっ
ている事は、完全に失念していた。
「シーラさん、危ないっ!」
「落ち着け、シーラっ!」
 ラヴェイトとユーリがそれぞれ叫び、とっさに駆け出したユーリがシーラを
押さえつける。その間に、少年の姿は空の彼方へと消え失せた。
「リック……そんな……どうして……?」
 消え入りそうな問いに、答える者はない。

「はあ……なるほどなぁ……」
 それから十分ほどして、ラヴェイトから今起きた出来事について説明を受け
たユーリは、呆れたような感心したような、妙に気のない声でこう呟いた。
「どうして、そうのんびりと構えていられるんですか!? シーラさんを狙って
いる者たちが、ここまで追ってきたんですよ!? しかも、いつの間にか姿を消
しているし!」
 そんなユーリに、ラヴェイトが苛立たしげに問う。それに、ユーリはため息
をつきつつ、言った。
「んなこた、はなっから読んでたさ……消えたのは予想外だがな。それより問
題なのは、さっきのあいつだろ?」
「それは……そうですけど……」
 言いつつ、ラヴェイトはちらり、という感じでシーラの方を見る。ユーリも
同じように視線を向けた。二人に注目される形になったシーラは、俯いた顔を
上げる。
「シーラ、さっきのあいつ……お前の言ってたリックに、間違いないんだな?」
「間違いなんかないです! 絶対に……リックに、間違いないのに……声も、
顔も……リック……なのに、どうして……」
 無表情な瞳と、冷たい声がふと蘇る。いつも、誰よりも優しく、暖かかった
瞳と声とは大きくかけ離れた冷たい表情――それが、心を塞ぐ。
「でも、彼はゼオと名乗っていましたよ……ゼオ・ラーヴァ、と……」
「でもっ! リックに間違いないんですっ!!」
 ラヴェイトの問いに、シーラは大声で答えていた。
「しかし、彼はそれを否定したんですよ? あなたの呼びかけに、全く異なる
名で応えたんですから」
 それに、ラヴェイトは静かにこう返してくる。論理的な反論に返す言葉を失
ったシーラは、俯いてフィアナ石のペンダントをぎゅっと握り締めた。
「でも……だけど……だけど……」
 何をどう言えばいいのかわからなくなって、シーラは口篭もる。そんなシー
ラの様子に言いすぎたと感じたのか、ラヴェイトはすみません、と呟くように
謝罪した。
「ま、何だな……今、ここで俺たちが論じてても、答えは出ねえよ。今日はも
う休め……黒服どもも、もう出ちゃこねえだろうからな」
 落ち込む二人に、ユーリが静かな言葉を投げかける。シーラは無言で、ラヴ
ェイトはそうですね、と呟きながらそれぞれ頷き、用意しておいた寝床にもぐ
りこんだ。
 二人が寝静まると、ユーリは頭上の月を見上げる。琥珀色の瞳は、いつにな
く厳しい色彩を宿していた。
「黒き翼の『守護者』か……どうやら、あんたの言ってたとおりになってきち
まったようだな、レイファシスの旦那……」
 ため息まじりにこう呟くと、ユーリもまた、眠りの中へと沈んでいく。

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