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   9 孤高なる闇の護り手

「……ん?」
 疲れきったようにその場に座り込んでいたアヴェルは、ふと気配を感じて顔
を上げた。直後に、その表情が険を帯びる。
 目の前に、黒い霧のような物が漂っている。それはぼんやりと動いて、人の
輪郭を形作った。
『……無様だな』
 人を象った霧から、男の声が響いた。アヴェルは何も言わずに目の前の霧を
睨んでいる。その瞳は、いつになく厳しく見えた。
『そうまでする意義、価値。それがこの歪んだ世界のどこにあるという?』
 静かな問いにアヴェルは何も答えず、ただ霧を睨むのみだった。
『だんまり、か?』
「今更、貴様に何を話す意義がある」
 嘲るような呼びかけに、アヴェルは静かなままこう言いきった。そこには、
いつもの明るさや軽さは全く見受けられない。
『あくまで?』
「同じ事を言わせるな……消えろ」
 淡々と言いきるアヴェルを嘲るように、霧は揺らめいて、消えた。アヴェル
は厳しい表情のまま霧が漂っていた辺りを睨んでいたが、ふと何かに気づいた
ように顔を上げた。
「お……」
 その表情に安堵が浮かぶ。目に入ったのは、降下してくる紺碧の竜の影。そ
れは浜辺の方へふわりと降りて行った。
「……無事か……」
 表情と同様に安堵を込めて呟くと、アヴェルは一つ息を吐く。やがて慌ただ
しく走って来る音が耳に届き、木々の間から金色の輝きがさし込んだ。
「生きてるっ!?」
「はーい、生きてますよー」
 直後に投げかけられた問いにアヴェルは軽くこう返し、この返事に問いかけ
た者――イヴはほっとしたように息を吐いた。
「心配してくれたのかなぁ?」
 その様子ににこにこしながら問うと、
「だ、れ、が!!」
 力いっぱい否定された。きっぱりと言いきられ、アヴェルは苦笑する。
「そこまで言わなくても……」
「うるさいわねっ! それより、傷は?」
 突き放しつつも問いかけてくる言葉に、アヴェルは自然、笑みを浮かべなが
ら右手を上げて見せた。手首からはまだ、真紅のものが滲み出ている。それを
見たイヴは微かに眉を寄せた後、もう! と言って傷口に癒しの光を当てた。
「で、そっちは? まあ、上手く行ったみたいだけど」
「うん……まあね。でも……」
 軽い問いにイヴは小さくため息をつき、その様子にアヴェルは眉を寄せた。
「なんか、あった?」
「なかったら、ため息なんかつかないわよ」
 真理かもしれない。故にアヴェルは確かに、と苦笑するしかできなかった。

 取りあえず、血の臭いの強く漂う場所にはいたくない。そんな意見の一致か
ら、二人は竜たちの待つ浜辺へと戻った。浜辺に戻ったイヴは、不安げに身体
を丸めるシャイレルの傍らにそっと膝をついた。
「……魔竜使いの坊ちゃん、行っちまったワケ?」
 シャイレルの様子から先ほどのため息の理由を察したのか、アヴェルは静か
にこう問いかけてきた。イヴはうん、と頷いて漆黒の羽毛に包まれた身体を撫
でてやる。シャイレルは小さな身体をきゅっと丸めて縮こまっている。カヤト
が行ってしまった事が、相当なショックだったらしい。
「……追いかけるのかな?」
 なだめるように柔らかな羽毛を撫でていると、アヴェルが静かに問いかけて
きた。イヴはそれに、うん、と頷く。二人のやり取りに、シャイレルが僅かに
顔を上げた。
「彼は、行っちゃったけど……でも、このまま終わりにしたくないの。彼が聖
域の守護者ならシャイレルのためにも無視はできないし、それに……」
「……それに?」
「……自分の考えだけが正しいとは言わない。でも、彼の考え方は納得できな
いの。竜使いである事の意義を……『守る』事を否定する考え方は、納得でき
ない。だから……」
「だから、なんでそんな考え方ができるのか確かめたい……ってとこかい?」
 途切れた言葉の先をアヴェルが引き取り、イヴはそれにうん、と頷いた。シ
ャイレルは青い大きな瞳をくりくりと動かしながら二人の話を聞いていたが、
不意にきゅう!と鳴いて飛び上がった。
「シャイレル?」
『カヤトの、ちから……こっちのほう……』
 突然の事を訝りつつ名を呼ぶと、影竜はぽつん、とこう返してきた。この言
葉にイヴとアヴェルは顔を見合わせ、頷き合う。
「んじゃま、今後の方針はそれでいいとして……」
 唐突に言葉が途切れ、アヴェルの身体がふらついた。突然の事に戸惑うイヴ
の前にアヴェルはがくん、と膝をつく。
「ちょ、ちょっと!?」
「さすがに……ちょっと、きつかった……らしい」
「顔面蒼白になってて、何が『ちょっと』なのよっ!」
 この状況にあってもお気楽なアヴェルの物言いに、イヴは思わず声を荒げて
いた。
「いや、実際、ちょっとだし……疲れただけだから……」
「あのねえ……カッコつけるのも、ほどほどにしなさいよねっ!!」
 ポーズを崩そうとしない様子に何故か苛立ちを感じつつ、イヴはアヴェルの
傍らに座って強引に肩を引っ張り、その頭を自分の膝の上に乗せた。
「……へ?」
「寝てなさい!」
「あ、いや、」
「口答えしないの!」
「……はあ」
 突然の事にアヴェルは相当戸惑ったようだが、イヴの剣幕に気圧されたのか、
気の抜けた声で返事をした。紫水晶の瞳には、明らかにそれとわかる困惑が浮
かんでいる。
「……イヴ……」
「……何よ?」
「……ありがと」
 にっこりと、まるで子供のような表情で微笑むと、アヴェルはすっと目を閉
じた。どうやら疲労は相当なものだったらしく、すぐに規則正しい寝息を立て
始める。
「もうっ……人には、無理するなって、いつも言ってて、自分は!」
 眠る直前の笑顔にどきりとしてしまったのを隠すように、イヴは早口で文句
を言った。当然の如くそれへの返事はない。イヴは小さくため息をつくと、ぽ
つりとこんな呟きをもらした。
「……ごめんね、無理させて」
 小さな小さな呟きをかき消そうとするかのように、風がひゅう、と吹き抜け
た。

 ……ざっ!
 蒼天に紺碧の竜翼が広がり、嵐竜の巨躯が舞い上がる。色彩を取り戻した空
に飛び出すと、イヴはまず沈んだ島の跡へと向かった。跡と言っても何かが残
っている訳ではなく、いまだに濁った海の水が島が沈んだという事実の名残を
止めている。
「……考えなきゃ、ダメなのかな……」
 濁った海面を見つめつつ、イヴはふと、こんな呟きをもらしていた。
「考えなきゃって……何を?」
「……島と、竜使いの在り方」
 不思議そうに問うアヴェルに、イヴはため息とともにこう答えた。
「……どういう事さ?」
「五百年前にルディ・リュース……つまり、あたしの先祖が竜使いの技術を確
立して広めて……それからずっと、竜使いは『守り手』として存在してきた。
でも、現実として『守り手』ではなく『破壊者』になってる竜使いも少なから
ずいるのよね」
「ああ、確かに」
「だから……竜使いという『力ある者』は、その力をどう用いればいいのか、
そして、周りの人たちは彼らにどう接すればいいのか……その辺りちゃんと考
えないと、また、こんな事が起きるんじゃないかなって、思ったの」
「……ふむ」
 独り言めいたイヴの話を一通り聞いたアヴェルは、腕組みをして何やら考え
るような素振りを見せた。
「確かに、そいつは重要な命題だけど……でも、少なくとも今、思い詰める事
じゃないね」
 沈黙を経て、アヴェルは静かにこんな事を言う。思わぬ意見にイヴはえ? 
とそちらを振り返った。
「島と竜使いの関係ってのは、確かに微妙なもんだけどさ。でも、そのバラン
スはみんな違ってるだろ? 環境や、人間関係によってみんなまちまちなもん
だし。だから、一面的な結果だけ見て思い詰めても仕方ないよ」
「それは……そうかも知れないけど……」
「だぁ〜から、思い詰めない! 君がここで落ち込んでも、何にもならないだ
ろ?」
 目を伏せるイヴに、アヴェルは一転明るい口調でこう言った。顔を上げたイ
ヴにアヴェルは茶目っ気のあるウィンクをして見せる。相変わらずの軽い態度
だが、こんな時はそれが心を静めてくれた。イヴはそうかもね、と呟くともう
一度海面を見、それから、ティムリィの前にちょこなん、と座るシャイレルを
見た。出発してからずっと、シャイレルはカヤトの気配を追い続けているのだ。
「シャイレル、どう?」
『このまま……まっすぐだよ』
「わかった……それじゃ、行くわよ!」
 気持ちを切り替え、手綱を握る手に力を込める。宣言に応えるようにシェー
リスが咆哮し、気流を捉えた嵐竜は滑るように空を翔けて行く。
 晴天を飛ぶ心地よさは、やはり格別のものがあった。心の中のわだかまりや
疑問が一時的に吹き飛び、自分が風と一体化しているような、そんな気持ちに
なってくる。風に属する竜を駆る者だけが味わえる、特権的な心地よさだ。
 そうやって二時間ほど飛び続けただろうか。不意に、シャイレルがきゅう!
と声を上げた。
「どうしたの、シャイレル?」
『あそこ……あの島、いる!』
 問いかけにシャイレルは甲高い声で答えた。前方に、波に揺らめく小さな島
が見える。波のうねりに合わせて動いている所からして、鎖のない無人島だろ
う。イヴは一度アヴェルを振り返り、行くわよ、と告げて島へと降りて行く。
降り立った島は妙にしん……と静まり返っているように思えた。
「さてと、ここからは歩いて探すようね」
 浜辺に降りたイヴの呟きを、続けて降りてきたアヴェルがいや、と短く否定
する。
「どうやら、その必要はなさそうだよ……向こうから出てきてくれた」
 アヴェルの言葉が終わるよりも早く、頭上を漆黒の影がかすめて過ぎた。そ
れはイヴたちからやや離れた所にゆっくりと舞い降りる。着地した影――漆黒
の魔竜の背には、相変わらず無表情な少年の姿があった。
「……まだ、何か用があるのか? 断っておくが、オレにはないぞ」
 表情と同様に淡々とした口調で、カヤトはこう言いきる。
「ま、そうだろうな。でも、こっちにも色々と都合があるんでね」
 それにアヴェルが軽くこう応じた。もっとも、軽いのは口調だけだが。そし
て、この言葉にカヤトはふっ……と冷たい笑みを浮かべる。
「貴様らの都合など預かり知らんが……だが、貴様という『存在』相手となれ
ば、話は別だな……」
「そりゃどうも。でも、オレ自身はお前さんに用はなかったりするんだよな」
 剣呑な響きを帯びた言葉に、アヴェルはひょい、と肩をすくめてこう返す。
「だが、オレもそこの女に用はないぞ」
「そっちにはなくても、あたしにはあるの!」
 妙にそこだけでわかっている二人に戸惑いつつ、イヴはどうにか口を挟んだ。
カヤトはうるさそうにイヴを見、それから改めてアヴェルを見た。
「……口うるさい女だな」
「なんで……そういうネタをオレに振る?」
「いずれにしろ、オレが興味を持っているのは貴様の『力』のみ……甘ったる
い感傷に興味はない」
 冷たく突き放すような物言いに、アヴェルはやれやれと空を仰いで嘆息した。
「結局、行きつく先はそこな訳か……しっかたないなぁ……」
 どことなく嫌そうに言う、その言葉の意を図りかねたイヴはえ? と言いつ
つ瞬いた。
「ど……どう言う事よ?」
「よ〜するに、この坊ちゃんはオレと勝負がしたいってコトさ……そ〜だろ?」
 投げやりな問いに、カヤトは満足げな面持ちで一つ頷く。
「勝負って……なんで、そうなるのよっ!?」
 ただ一人、状況を理解できないイヴは素っ頓狂な声を上げていた。アヴェル
はあはは、と笑うだけで答えない。イヴは困惑しつつカヤトを見るが、魔竜使
いは無言で槍を手に取り、竜の背から降りて来るところだった。
「って……ねえってば!」
「うるさいぞ、女。大体、貴様はオレに敗北しているのだ。改めて刃を交える
価値はない」
 浜に降りたカヤトは相変わらず冷淡な口調でこう言いきる。反論の余地のな
い言葉に、イヴは唇を噛んだ。
「やれやれ……オレ、基本的にこーゆー荒事は専門外なんだけどねぇ」
 かりかりと頭を掻きつつアヴェルがぼやく。その左手が天にかざされ、閃光
と共に黒い杖が現れた。
「ま、この場はやらなきゃ治まりそうにないしね……って訳で、ここはオレに
任せて、君は観戦ね?」
 にっこり笑って言う、この一言にイヴは呆気に取られるものの、すぐに立ち
直って、でも! と食い下がった。アヴェルはだいじょぶだいじょぶ、と軽く
言いつつ手にした杖を一振りする。光が弾け、杖は一瞬の内に細身の長剣に姿
を変えた。
「ちょっと、本気なの!?」
「勿論。でなきゃ、こんなもん引っ張り出したりしないよ」
 叫ぶように問うと、アヴェルは軽くこう返してくる。とはいえ、アヴェルと
カヤトが刃を交える必然性が理解できないイヴはそれで納得する事はできない。
それと気づいたのか、アヴェルはため息をついてこんな事を言った。
「理屈の問題じゃ、なくてね。これはある意味、オレとあの坊ちゃんの……存
在上の必然ってヤツなんだ」
「存在上の……必然?」
「そ。ま、理由は……機会があれば話すから。とにかく、ここはオレに任しと
きなって」
 相変わらず軽い、しかし、どこか有無を言わせぬ口調でこう言うと、アヴェ
ルは一歩前に出た。カヤトも魔竜を振り返り、それから一歩前に出る。魔竜は
低い唸り声を上げると、ゆっくりとイヴの隣りに移動してきた。
「……なんのつもり?」
『御心配なく。あなたに害を成すつもりはありません』
 困惑した問いに対する魔竜の唸り声は、静かな言葉として頭の中に響く。
『邪魔をするな、と言うのだな、貴公は』
 シェーリスの問いに魔竜は短く左様、と応じた。それに、イヴがどうして!?
と問いかけた直後に、対峙していた二人が動いた。
 キィィィィンっ!
 繰り出された槍の穂先を、細身の剣がはね返す音が響く。
「何で……どうしてこうなるのよっ!? あたしは別に、戦いを望んで来た訳じ
ゃないのに……」
『承知しております、竜の巫女よ。あなたは他者を傷つける力を是としてはい
ない。無論、我が主にして盟友であるカヤトも、それは同じ事……』
「ならどうして!? 大体、なんであいつと戦う事にあんなに拘るのよ!?」
『それは、私には申し上げられません……ただ、この戦いには相応の意味があ
る事を、御理解願いたい』
「そんなの……わかんないわよ!」
 絶叫が響く傍ら、二人の対決は続いていた。巧みに槍を操るカヤトを相手に、
アヴェルはほぼ互角と言ってもいい戦いを繰り広げている。魔導師らしからぬ、
見事な剣さばきだ。左手に握った剣は優雅に、それでいて鋭く舞い、有効範囲
で遥かに勝る槍を翻弄していた。
「ふん……なりに似合わず中々やるな」
 距離を取りつつカヤトが呟く。物言いも表情も、どことなく楽しげだ。
「早い内にハイレベルの称号なんかもらうとヒマができるんでね……ヒマ潰し
の賜物さ」
 それに答えるアヴェルもどこか楽しげに見える。とはいえ、こちらはやや息
が上がりつつあるようだ。
「余暇の手ずさび……と言う訳か。なるほど、道理で……」
 妙に納得した面持ちで、カヤトはふっ……と笑う。
「……なんだよ?」
「……持久力の低さは、歳のせいだけではないようだな!」
 訝るように眉を寄せるアヴェルに、カヤトは途切れた言葉の続きと共に仕掛
けた。低い構えから、不安定な砂を蹴って一気に距離を詰め、鋭い突きを繰り
出す。アヴェルはとっさのサイドステップでそれを避けるが、カヤトは槍を素
早く横なぎに振るい、穂先が僅かに脇腹を掠めた。
「……っつ! このやろ、これ、この前繕ったばっかなんだぞ!」
 顔をしかめつつ、アヴェルはややピント外れの文句を言う。
「この状況で服の心配か! 余裕だな!」
「はっ! 余裕なくして、人生面白いもんかよ!」
 キィィィィィィンっ! 
 鋭い音と共に銀の刃と穂先がお互いを捉え、一気に離れる。カヤトはまだ余
裕の態だが、アヴェルは肩で息をしている。先ほどのダメージの影響が少なか
らずあるらしい。
(ダメ……このままじゃ……)
 このまま長期戦になれば、アヴェルの不利は明らかだ。どう考えても基礎体
力に差がある以上、戦いが長引けば体力で勝る方、つまりカヤトに分があるの
は自明の理なのだから。
『……巫女殿、どうか……』
 魔竜の静かな言葉が意識に響く。イヴはそちらを振り返り、睨むように真紅
の瞳を見た。
「わかんないわよ……あなたたちにとって、この戦いは大切な……意味のある
事なのかも知れない。でも……でもね、あたしには違う。あたしにとっては、
この戦いには何の意味もない……ただの無駄なの! あたしだけじゃない……
この子にとっても」
 言いつつ、イヴは不安げに対決を見つめるシャイレルを抱き上げた。影竜は
きゅうう、とか細い声を上げて魔竜を見る。
『……祖竜……シェルヴェス……』
『ちがう、シャイレル』
 魔竜の呼んだ古い竜の名を、シャイレルは短く否定した。
『今のなまえ、シャイレル……イヴ、つけてくれたの』
『シャイレル……』
『ね、ヴェルパード、どして? どして、カヤト、アヴェルとたたかうの? 
シャイレル、やだよ。カヤトとアヴェル、ケンカするの、やだ』
 その無邪気さ故に切実に響く問いに、魔竜はしばし沈黙する。
『……越えねば、ならぬのです……』
「……越える?」
 空白を経て、魔竜が返した言葉にイヴは眉を寄せた。
「越えるって……一体、何を?」
『イヴ、大変っ!!』
 問いかけに魔竜が答えるのを遮るように、ティムリィが大声を上げた。直後
に響いた一際大きな金属音に、イヴははっと戦いの場に目を向け、息を飲む。
目に入ったのは剣を弾かれたアヴェルと、不敵な笑みを浮かべたカヤトの姿だ
った。カヤトは軽く身体を屈めると勢いをつけて跳躍し、降下の勢いを交えた
突きを繰り出してくる。アヴェルはとっさにそれを避けようとして、
「っと、とととっ!?」
 砂に足を取られてバランスを崩していた。一応、降下点からはそれたものの、
次の一撃を凌げる可能性は……限りなく、低い。
「ちっ! ドジったぜ……」
「ふ……もらった!」
 苛立たしげな呟きと、勝利を確信した言葉が交錯する――そして。
「あ……ダメえっ!」
 瞬間、頭の中が真っ白になった。一切の理屈が頭の中から消え、イヴは感情
の赴くままに走り出す。
『イヴ!』
『巫女殿っ!』
 竜たちの声が響くが、止まれる余裕は心にない。イヴは対峙する二人の間に
飛び込むように割って入っていた。
「……イヴっ!?」
 アヴェルが動揺した声を上げる。そして、カヤトは。
「っ!? ……ミィナ!?」
 動揺を帯びた声で、誰かの名前を呼んでいた。そしてその動揺は手元を狂わ
せ、必殺を狙った突きはイヴの腕を掠めるに止まる。
「くっ……」
 掠めた、と言っても勢いをつけた一撃である。激痛と共に真紅が飛沫き、イ
ヴはアヴェルの方へと倒れ込んだ。
「イヴっ! バカ……なんて、無茶を……」
 倒れたイヴを受け止めたアヴェルは苛立たしげにこう吐き捨て、きっと顔を
上げてカヤトを見た。
「おい! 勝負はひとまずお預けだ、ちょっと待ってろ!」
「……その必要はない」
 早口の言葉にカヤトは静かにこう返す。この返事にアヴェルはなにっ!? と
気色ばむが、カヤトは至って冷静なまま、こう続けた。
「この勝負、オレの負けだ……煮るなり焼くなり好きにするがいい」
「……へ?」
「早く、手当てをしてやれ。用とやらは、それから聞いてやる」
 ぽかん、としているアヴェルにこう言うと、カヤトは少し離れた所にある岩
場へ向かい、岩塊の上に腰を下ろした。
「な……一体、どうして?」
 突然の変化に戸惑い、こんな呟きをもらしていると、暖かい感触が傷に触れ
た。アヴェルが癒しの光で傷を照らしているのだ。
「……まったく、無茶してくれて。心臓にいいったらない」
 傷が塞がると、アヴェルは憮然とした面持ちでこんな事を言う。
「そんなの、お互い様じゃないの」
 何となく目をそらしつつ、イヴは拗ねた口調でこう返していた。
「君の行動は、意表突き過ぎなんだよ! っとに……勘弁してくれよ」
 それに、アヴェルはため息を交えてこう切り返す。イヴは大きなお世話、と
言いつつ立ち上がった。
「……話してくるのかい?」
「うん」
「そ。じゃ、オレはここで待ってるよ」
 一緒に来るのかと思いきや、アヴェルはこう言って海の方を見やる。意外な
ものを感じつつ、イヴはシャイレルを連れてカヤトの居る岩場へと向かった。
「……傷は、いいのか?」
 やって来たイヴに、カヤトは振り返りもせずに問いかけてくる。それに、イ
ヴはええ、と頷いた。
「それで? 何を聞きたいと言うんだ?」
「……何故、あなたは彷徨い人になったの?」
「その答えは、お前が抱えていると思うが」
 半ば予想通りの答えに、イヴは腕の中の影竜を見る。
「でも、聖域は失われていないんでしょう?」
「島はな。だが……聖域は汚された」
「……え?」
「守護者であるが故に、我がリオルドの父祖は道を誤った。己が在り方に固執
し、逆にそれを見失った」
 戸惑うイヴに、カヤトは静かに語り始めた。
「闇の祖竜シェルヴェスの死と転生……それにより、聖域は主を失った。オレ
たちリオルド一族はいつか来る新たな祖竜を迎えるため、聖域を守り続けてい
た。
 それは、確かに空虚な日々だったかも知れん……だが、耐えねばならなかっ
た。耐えて、貫き通さねばならなかった……」
 ここで、カヤトは一度言葉を切る。イヴは黙ってカヤトが再び話すのを待っ
た。
「……ある時、島を訪れた者たちがいた。島を失い、漂泊していた者たち……
新たな居場所を求めていたそいつらを、リオルドの民は受け入れた。空虚の守
護に耐えかねていた父祖は、目に見える、守るべき者を欲していたのだ。
 だが、それが過ちの始まりだった。確かに、人として生きる以上、同族婚が
招く衰退は問題だった。一族の存続のためにも、外部の者との接触は必要だっ
た……だが、その放浪者の中に……禍の種が潜んでいた」
「……禍の種?」
「……破滅をもたらすだけの力を秘めた存在、とでも思っておけば間違いはな
い。種が種のまま朽ちたなら、何ら問題はなかった。だが……時を経て、その
種は芽吹いた」
 ここで、カヤトは再び言葉を切る。重苦しい沈黙が、しばし周囲に立ちこめ
た。

「……なんか、言いだけだね、お前さん」
 その頃、浜辺ではアヴェルが自分を見つめる魔竜にこんな言葉を投げかけて
いた。魔竜は唸り声一つ上げず、静かにアヴェルを見つめ続けている。
「前にお前さんの主に言ったはずだぜ。オレは、オレだって。そりゃま、色々
抱えちゃいるけどな」
 グゥウウ……
「わかってるさ、言いたい事は。でも、オレはオレのままでいる……取りあえ
ずはな」
 静かな言葉に、魔竜は微かに頷いたようにも見えた。

「それで……それから、どうなったの?」
 その場を塞ぐ重い沈黙を、イヴは短い問いで取り払う。カヤトは小さくため
息をつき、再び口を開いた。
「芽吹いた種は、力を求めて封じられた聖域に侵入した。もっとも、聖域には
力のカケラも残っていなかったがな。だが、その行いは他の守護者たちの怒り
を買った」
「他の守護者って……従属獣の事?」
「ふ……さすがに詳しいな」
「……ひょっとして、バカにしてる?」
 妙にわざとらしい物言いに憮然として問うと、カヤトはふっと笑ってさてな、
とはぐらかした。
 従属獣とは、守人の一族と共に聖域を護る存在であり、祖竜の眷族とされて
いるものたちだ。滅多に姿を見せる事はないが、皆強大な力を備えている。そ
の怒りを買ったとあれば、ただではすまないだろう。
「禍の種が聖域に侵入した事に怒った従属獣たちは、漂泊者の集落を襲うよう
になった。そして、ここでも一族は過ちを犯した。禍の種を、守るという、な。
形のない存在ではなく、目に見えるものを選んだ事で……一族は、本来の在り
方を放棄する形になった」
 淡々と語られる言葉に、イヴは眉を寄せた。
 島の護り手としては当然の行為。だが、それが聖域の守護者としては過ちと
なる。そんな状況になり得る事、それ自体がイヴには意外だった。
(大体、主がいないって言っても、聖域に入り込めるなんて……どういうもの
なのよ?)
 それに対する疑問は尽きないが、今は置いておく。今はカヤトの話を聞きた
いし、何故か、それを追求する事にはためらいのようなものも感じられた。
「無論、それは許される事ではない。だが、それと気づいた時には、後戻りは
できなくなっていた。そして……今から三年前、か。従属獣たちは力を結集し
て精霊獣となり、最後の攻勢に出た。
 当代のリオルドの当主……つまり、オレの父は最後の選択を迫られた。本来
の在り方に戻るか、歪んだ道を貫くのか。そして父は、後者を選んだ」
「……」
「愚かな話だな……報われもせんのに……全てを捨てて。挙げ句……父は狂気
に囚われ、邪獣となった」
「邪獣って、あの……」
 イヴの脳裏を狂気に囚われた雷竜使いが過る。カヤトはそうだ、と頷いた。
「邪獣となった父は無差別破壊を始め……島で最後の竜使いとなったオレは父
と戦い、倒した。他に、父を救う術はなかったからな。
 だがいざ戦い、勝ってみればどうだ……漂泊者どもは当たり前のように父や
従属獣たちを非難し始めた。自分たちの愚かさなど棚に上げてな。オレは……
それが、許せなかった。
 確かに、一族の父祖は過ちを犯した。父もまた、己の在り方を見誤った。だ
が、それを行わせたのは、道を誤らせたのはヤツらだ。本来、不要でありなが
ら要のように振るまい、静寂を乱した者たち……一族の罪が要と不要を取り違
えた事に始まったのなら、その不要を取り除く以外、罪を贖う術はない。
 だから、オレは、全ての不要を取り除いた」
 ここで、カヤトはまたため息をついた。真紅の瞳は微かに陰りを帯びている
ようにも見える。
「別に、その事を悔いるつもりも恥じるつもりもない。本来の在り方を取り戻
したに過ぎんのだからな……結果として、リヴェルリュースという島は、死ん
だも同然だがな」
 毅然たる意思と、そして、自嘲を込めてこう言うと、カヤトは小さくため息
をついた。イヴは何も言わずにその横顔を見つめる。
 何故カヤトが邪獣に対して厳しい態度を取り続けたのか、一切の妥協を許そ
うとなかったのか。こうして話をする事で、それが理解できたような気がした。
 邪獣という存在は、彼に全てを失わせたもの。
 父を手にかけさせ、多くの血を流させたものだから、その存在を許せなかっ
たのだろう。
「島が死んだから……だから、彷徨い人になったの?」
 沈黙を経て、イヴはそっとこう問いかける。それに、カヤトはまぁな、と頷
いた。
「それだけではないが……そう思っておけば、概ね間違いはない」
「……そう」
「……それで?」
「え?」
 突然の問いに、イヴは思わずとぼけた声を上げていた。
「『え?』ではなかろうが……お前、オレに何かをやらせたいのではなかった
のか?」
 きょとん、としているイヴにカヤトは呆れ果てた、と言わんばかりに問いを
接ぐ。この問いにイヴはあ、と間の抜けた声を上げた。
「そう言えば、そうだった……えっと、結局、リオルド一族はあなたしか残っ
ていないんでしょ?」
「ああ」
「……本来の役目に……聖域の守り手に戻る意思はあるの?」
「今更、そんな事が許されるものか……バカバカしい」
「そうかしら? 少なくともこの子は……新たな闇の祖竜は、あなたの事を守
人と認めてるわよ?」
 言いつつ、イヴはシャイレルを岩の上に下ろす。影竜はちょこちょことカヤ
トに歩み寄り、きゅう、と鳴いてその膝の上に飛び乗った。
「……罪人である我が一族を、守人と認めるというのか、新たな祖竜よ」
『リオルドのたみ、ずっとねむるとこ、まもってくれたから……』
「留守を、守れなかったのだぞ?」
『かえれなかったシャイレルもいけないから……おんなじ』
「おんなじ、か……ふ……」
 呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべつつ、カヤトはこ
う呟いた。
「……良かろう。いずれにしろ、勝負に負けたオレに選択の余地はない。お前
たちに従おう」
「負けたって……でも、勝ってたのはあなたじゃない?」
 ずっと引っかかっていた疑問を投げかけると、カヤトはやたら大げさなため
息をついた。
「無論、技量では劣っているつもりはない。オレが負けたと言っているのは、
それ以外の部分だ」
「……技量、以外の部分?」
「見を挺して庇いに来るような、そんな厄介なおまけつきと、まともに戦える
か、バカバカしい」
「え? あ……あ、あははっ」
 苛立ちを込めて吐き捨てられた言葉に、イヴは笑うしかなかった。正直、ど
うしてあんな行動をとったのか……落ち着いてしまうと、良くわからない。乾
いた声で笑うイヴをカヤトは呆れたように見ていたが、不意に真面目な面持ち
でおい、と呼びかけてきた。
「え……な、なによ?」
「お前……ヤツに惚れているのか?」
「なっ……じょ、冗談じゃないわよっ!! 誰が、あんなヤツ……」
 大真面目な問いについ大声で答えると、カヤトは意外にあっさり、そうか、
と納得した。淡白な反応に、イヴは拍子抜けして何なのよ、と問いかける。
「気にするな。ヤツがヤツのままであるなら……特に、問題はないのだからな」
 それに対するカヤトの返事は多分に独り言めいており、イヴに答える、と言
うよりは、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。

「……で、結局、こいつも一緒に来る訳ね」
 浜辺に戻り、到達した結論を伝えると、アヴェルは大げさなため息と共にこ
う言った。
「あら、別にムリして一緒に来い、とは言ってないわよ?」
 それに、イヴはさらりとこう返す。この切り返しに、アヴェルはったく、と
言いつつ頭を掻いた。
「まぁた、そーゆー心にもない事を……ま、いいけどね」
「で、これからどこに行くつもりだ?」
 ぼやくアヴェルを完全に無視して、カヤトが問いかけてくる。
「取りあえず、地、水、火、風と光の祖竜の聖域を回らなきゃならないんだけ
ど……」
「……場所がわからん、などと言うつもりではあるまいな?」
「……え? あ……あははっ♪」
 ずばり核心を突かれてしまい、イヴは笑って誤魔化していた。
 風の聖域のある島は、問われるまでもなくわかる。だが、あの地に戻るには、
まだ心の整理が必要なのだ。だがそうなると、行くあてというものが全くない
のである。
 カヤトは笑うイヴを呆れたように見ていたが、やがて、はーっと大きくため
息をついた。
「まったく、情けない……貴様それでもリュースの一族か!?」
「そんな事言われても……」
 聞いた事がないのだから仕方がない、と口にこそ出さなかったものの、カヤ
トの方はそれと察したらしかった。魔竜使いは一際大きくため息をつくと、自
分の竜にひらりと跨る。
「何をしている、早く支度しろ」
「え……?」
「地の祖竜ダルシェーヌの聖域、グラドリュース島なら、ここから近い。案内
してやるからさっさと準備をしろ!」
 素っ気無い言葉にイヴはアヴェルと顔を見合わせ、それからうん、と頷いて
シェーリスに飛び乗った。アヴェルがやや大儀そうにそれに続く。二頭の竜の
声が大気を震わせ、直後に紺碧と漆黒の巨躯が舞い上がった。

 先の見えない旅は――まだ、続く。

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