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 そして、その夜。
「こぉんなにいい島に立ち寄れるなんて、災難ばっかりじゃないわね♪」
 長の屋敷の広い浴室で、イヴはこんな呟きをもらしていた。前に立ち寄った
島では水があまり豊富ではなく、入浴どころか簡単な水浴びすらできなかった
のだ。それだけに、身体をゆっくり伸ばせる浴槽で好きなだけお湯を使えると
いうのは、何にも増してありがたいもてなしと言えた。
「髪洗うの、何日ぶりかなぁ……」
 独りごちつつ、月光その物を紡いだかのような髪に櫛を通し、丁寧に汚れを
落として濯ぐ。絡みついた埃が落とされると、月光色の髪は前にも増して見事
な輝きを見せた。
 埃から解放され、美しさを取り戻したのは髪ばかりではない。旅の汚れを落
とした肌の白さもまた、言い知れぬ美しさを備えていた。特に今は水気を帯び
ているためか、なんとも言えない艶やかさを織り成している。
 一糸まとわぬ姿になると、その肢体の細さは一層際立った。しかし、細いな
がらもその身体が何らかの訓練で鍛えられ、引き締まっているのははっきりと
見て取れる。胸の膨らみは決して大きくはないが形は良く、細い肢体と相まっ
て控えめな大きさが魅力を損なう点にはならない。
「ふう……ほんと、気持ちいい……」
 髪を濯ぎ終えると、イヴはお湯に身を沈めて小声で呟いた。
「それにしても、守護神のお祭りかぁ……随分久しぶりね……」
 呟く刹那、瞳の碧が微かに陰った。イヴは小さなため息と共に目を閉じ、そ
の色彩を覆い隠す。そのまましばらくお湯の抱擁に身を任せてから、イヴは浴
槽から身体を引き上げた。身体と髪の水気を丹念に拭い、用意しておいた着替
えに身を包む。ここに来るまで着ていた衣類は、レイラ夫人が洗濯するから、
と言って預かってくれていた。
「でも、こんなに気を使ってもらうと、返って気が引けちゃうなぁ……」
 客室に戻ってベッドに腰掛け、事前にレラが差し入れてくれていたアクアナ
ッツで喉を潤しつつ、イヴはこんな事を呟いていた。
「う〜ん……『島の者の子供を産んでくれ』とか言われたらどーしよ……」
 ふと、こんな事も考えてしまう。実際、こう頼まれた事は一度や二度ではな
いだけに笑えないのだ。
「ま、その時はその時ね……」
 ともかくその事はこう割りきって、果汁を飲み干したアクアナッツを縦に割
り、柔らかな果肉をすくい取って口に入れる。わずかに繊維を含むゼリー状の
果肉は、口の中で甘く溶けた。ほどよい甘味にイヴは表情を緩める。
 がたがた……がたがたがた……
 不意に、窓が揺れて音を立てた。風が強くなってきたらしい。イヴはアクア
ナッツの皮とナイフをテーブルに置き、窓辺に寄ってみる。夕暮れ時から降り
出していた雨は風を得てその勢いを増していた。波が荒れているのか、島自体
も揺れているように思えた。
「この調子だと、相当荒れるわね……ほんと、人のいる島に着けて良かった」
 窓の外を見やりつつ、こんな事を呟く。浮島しかないと言っても、人のいる
島は鎖によって海底に固定されているため、波が荒れても揺れは大した事はな
い。しかし、これが鎖のない無人島となるとかなり悲惨な事になるのだ。
 こんこん、こんこん
 ぼんやりとしていると、誰かがドアをノックした。突然の事を訝りつつ、ど
うぞ、と応じるとドアが細く開き、黒い影が滑り込んできた。
「よ、邪魔するぜ」
 部屋に入ってきた黒い影は、きょとん、とするイヴに軽い口調でこう呼びか
けてきた。黒い影と見えたのは、黒衣に漆黒のマントを羽織った黒髪の若い男
だったのだ。夜闇を思わせるマントが、彼が魔導師と呼ばれる者の一人である
事を物語っている。初めて見る顔に、イヴは戸惑いながら問いを投げかけた。
「……あなたは?」
「オレは、アヴェル・ランバート。ここに厄介になってる、流れ者の魔導師だ
……へえ……」
 魔導師――アヴェルは相変わらず軽い口調で名乗ると、しげしげとイヴを見
つめた。
「あ、あの……何か?」
「ん? あ、いや……話に聞いてた以上の別嬪さんだな、と思ってね……見と
れてた」
 その視線に戸惑って問うと、アヴェルはこんな言葉を返してくる。色の濃い
アメジストを思わせる、深く澄んだ紫の瞳には悪戯っぽい光が宿っていた。
「……お世辞言っても、何も出しませんよ」
 からかうような言葉に、イヴは素っ気無い口調でこう切り返す。この反応に、
アヴェルは楽しそうな表情を見せた。
「さすが……女の一人旅で苦労してるみたいだね。半端なおべっか使いは、お
嫌いと見た」
「わかってるなら、下手なお世辞はお止めになってね。あたし、顔の良さと口
の上手さだけが取り柄の男は大っ嫌いですから」
「こいつはまた……手厳しいな」
 ぴしゃり、と投げつけた言葉にアヴェルは苦笑する。
「とはいえ、オレはそれだけが取り柄ってワケじゃないけどね」
「……それと、自信過剰も嫌い」
「あらま、そーまで言い切るかぁ」
 イヴの言葉はどんどんつっけんどんになるが、アヴェルはそれに動じた様子
もない。むしろイヴとの会話を楽しんでいるような、そんな余裕さえ感じられ
た。それに半ば呆れつつ、イヴはベッドに腰掛けてこう問いかける。
「それで、何の御用?」
「ん? いや……一応ね、挨拶をしとこうと思って。君も、祭りまでは滞在す
るんだろ? だから、同じ居候としてご挨拶参りってワケさ。それと……」
 ここで、アヴェルはやや表情を引き締めた。
「彷徨い人である君に、聞きたい事もある……一応、真面目な話だよ。ま、取
りあえず、ここ、座らせてもらうぜ」
 こう言うと、アヴェルはイヴの返事も待たずにベッドの空きスペースに腰を
下ろした。
「……真面目な……話?」
「そ。ま、大した事じゃないって言えば、大した事じゃないんだけどね」
「???」
 要領を得ない言い回しに、イヴはきょとん、と瞬く。
「ええと……あ、ところで、君の名前をまだ聞いてないな」
「えっ!? あ……あたしは、イヴ」
「じゃあ、イヴちゃん」
「……皮肉ってるんですか?」
 ちゃん、と呼ばれるのが不当な子供扱いのように思えて、イヴはつい不機嫌
な声を上げていた。
「え? いや、別に……いきなり呼び捨てはマズイかなって思って、取りあえ
ずちゃん付けてみただけだけど……もしかして、気に障ったかな?」
 軽い問いかけにイヴは露骨に不機嫌な一瞥で答えた。その様子にアヴェルは
くくっと笑みをもらす。
「そう怒りなさんな、せっかくの美人が台無しだぜ? ま、冗談はさておき、
ちゃん付けが気に入らないなら呼び捨てにさせてもらうけど、それでいいのか
な?」
「さん、とか、くん、とかって選択肢は出てこないんですか?」
「ガラじゃないね」
 あっさりと言われて、イヴは小さくため息をついた。
「……ちゃん付けでいいです……それで、聞きたい事っていうのは?」
「ん……その前にもう一つ。ムリに、敬語調で話さなくてもいいよ。聞いてる
方も疲れるから、ふつーに、ふつーに♪」
 どこまでも軽いノリで、アヴェルははぐらかすようにこんな事を言う。その
マイペースぶりに、イヴは内心舌を巻いていた。
(なんだか、凄い人ね……こんな調子のいい魔導師、初めて見た)
 同時に、ふとこんな事も考える。魔導師、というのは、世界を構築する最小
単位と言われる万有物質に魔力で干渉し、様々な魔術を行う者の総称で、その
大半は『魔導師の谷』と呼ばれる隠れ里の中での知識探求に一生を費やしてい
る。稀に谷を出て旅暮らしに生きる者も現れるのだが、少なくともイヴが今ま
でに会った魔導師たちは皆堅物で、アヴェルのようにノリの軽い魔導師を見た
のはこれが初めてだった。
「お〜い、イヴちゃん、聞いてるかい?」
 そんな事を考えていると、アヴェルが声をかけてきた。
「え? あ……ごめんなさい。それで、聞きたい事ってなんなの?」
「ああ……じゃあ、尋ねるけど、君はこの世界……浮島だらけの世界を、どう
思ってる?」
「……え?」
 全く予想外の問いに、イヴはまた、きょとん、と瞬いた。
「どういう意味?」
「なんて言うか……不自然だとか、違和感があるとかって……思わないか?」
「……どうして?」
 問いの真意が全く掴めずこう問いを返すと、アヴェルはうーんと言いつつ頭
を掻いた。
「『魔導師の谷』には、禁書扱いの本がかなりある。で、だ。それによると、
昔は島々にちゃんとした根っこがあったらしい」
「……え?」
 突拍子もないアヴェルの話に、イヴは大きく目を見開いた。
「島に根って……まさか」
「まあ、トボけた禁書に書いてあった事だから、多少は眉唾物だけどさ……に
しても、だ。何故、島々は鎖で海底に繋がれてるんだ?」
「何故って……鎖がなかったら、島が潮で流されるし……今日みたいな日には
揺れてとんでもない事になるじゃない。それじゃ困るから、誰かが鎖を作った
んでしょ?」
「誰かって、誰?」
 定義された疑問に戸惑いながら答えると、アヴェルは真面目な面持ちのまま、
更に問いを継いだ。とはいえ、そんな事を聞かれても答えようはなく、イヴは
それをそのまま答えとする。
「誰がって……そんな事、あたしに聞かれても……」
「わからないよな。君に限らず、それは誰にもわからない……だから、オレは
それが腑に落ちない」
「……どうして?」
「島を鎖で固定するだけの技術があるんなら、何故、浮島自体にもっとしっか
りした根を作らなかったのかってのが、どうも引っかかる。で、それを突っ込
んでくと、なんでこの世界には浮島しかないんだって疑問に行きつくのさ。
 そう考えると、オレたちが生活しているこの当たり前の世界に、妙な違和感
を感じるようになる……何かが、違うんじゃないかってね」
 アヴェルの言葉にイヴはしばし考え込んだ。それから、自分の思ったままの
ストレートな意見を口に出す。
「でも……生活するのには、何の問題もないじゃない。それは、島によっては
水が少なかったりして、大変な場所もあるけど、でも、あたしたちはここで生
きてる……この世界のありのままを受け入れて生きてるんだから、それでいい
んじゃないの?」
「んー……なるほどね。そういう考え方もある、か……」
 イヴの言葉に、アヴェルは思案顔のままこんな事を呟いた。
「それでも、ね……やっぱり、気になるよ。鎖があるのが『当たり前』なら、
それが人の暮らしている島にしかつけられていないってのは、どうもね……」
「人の住んでない島に鎖ついてても、意味がないからじゃないの?」
「誰が、それを判断したのさ?」
「え……? それは……」
「わからない。わからないけど、多分に人為的なものを感じる……だからオレ
はそれが気になってて、そいつを知るために流れ者なんかやってるんだけどね」
 口篭もったイヴの言葉の先を引きとって、アヴェルはこう話を結んだ。イヴ
はややためらってから、ふと浮かんだ疑問を投げかける。
「……知って……どうするの?」
「どうもしないさ。ただ、自分の知的欲求を満たしたいってだけだからな……
流れ者の魔導師が考えてるのは、大抵それだけさ」
「自分の知的欲求を満たすだけって……呆れた。それだけのために、ふらふら
流れてるの、魔導師って?」
「おんや? じゃあ、彷徨い人の竜使いはそれ以外に何か目的持ってるの?」
 呆れ果ててもらした言葉にアヴェルは楽しげな口調でこう切り返してきた。
問われたイヴは言葉に詰まる。
「それは……普通の竜使いは島から出ないし……他の彷徨い人たちは、竜の血
の衰退を防ぐとか、色々目的あるみたいだけど……」
 やや間を置いて、イヴは細々と呟く。
「へえ……じゃあ、君は?」
「あたしは……目的なんか、ない。ただ、宛もなく彷徨ってるだけの、ほんと
の彷徨い人だから……」
 アヴェルの軽い問いにイヴは相変わらず小さな声でこう答えた。この返事に、
アヴェルはえ? と怪訝そうな声を上げる。
「……宛もなければ、目的もない旅?」
 どことなく呆れたような問いにこくん、と頷くと、イヴは膝を抱え込み、そ
の抱えた膝に上半身をもたれかけさせた。月色の髪がさらりと流れ、ヴェール
のように少女を包み込む。
「……なんだってまた、そんな旅を?」
 アヴェルはしばし、呆れたようにイヴを見ていたが、やがて気を取り直した
ようにこんな問いを投げかけてきた。
「……なんでって……あたしには、何もないんだもん」
「……は?」
 曖昧なイヴの答えに疑問を大きくしたらしく、アヴェルはとぼけた声を上げ
る。ぽかん、とした表情が、整った容貌と不釣合いで、妙に可笑しい。何気な
くそちらを見やったイヴは、そのアンバランスさに思わずくすっと笑みをもら
していた。
「……な……なんだよ、いきなり?」
 突然の笑みに戸惑いながら問いかける顔も、どことなく間が抜けていて可笑
しい。
「あ……ごめんなさい。だって今の顔、可笑しくて……ふふっ……」
 楽しげにくすくすと笑うイヴを、アヴェルは困ったような呆れたような、何
ともいい難い表情で見つめた。
「やれやれ……放浪始めてから随分たつが、そういう理由で女の子に笑われた
のは、初めてだなオレも」
 それから、大げさなため息と共にこんな言葉を吐き出す。どことなく芝居が
かった仕種が可笑しくて、イヴは声を上げて笑った。その内、アヴェルもつら
れるように苦笑を浮かべ、前髪をかき上げる。
「……まったく……面白いコだね、君は」
 それから、アヴェルは嘆息するような口調でこんな事を言った。イヴはやや
首を傾げて、そう? と返す。
「ああ。さっきはあんなに人の事、警戒してたのに。今は、全く無防備なんだ
もんな……ほら」
「え……あっ……」
 軽い口調で言いつつ、アヴェルはひょい、とイヴの手を取って自分の方へと
引き寄せた。完全に虚を突かれる形になったイヴは抵抗する間もなく、なんと
も呆気なくアヴェルの腕の中に捕われていた。
「あ、あのっ、ちょっと!」
 突然の事にイヴは完全に動転していた。慌てて逃れようとするものの、気持
ちの動転と意外に強い腕の力にそれもままならない。そうこうしている間に、
アヴェルの手が頬に触れ――
「……っ!」
 呆気なく、唇を奪われた。

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