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 それから五分ほどすると、リーンは目を覚ました。二人は周囲を警戒しつつ
本殿に向かうが、どうやらさっきのドゥーム・ワイバーンが召喚された連中の
司令塔の役目を果たしていたらしく、二人の邪魔をするのは悪戯好きの小鬼の、
その中でも根性の座った連中程度だった。
 結果的に妨害らしい妨害はなく、二人は本殿の扉を開けて中に入り──絶句
した。
 本殿の中には大理石の祭壇が設置され、その前に栗色の髪の少年が倒れてい
る。司祭の法衣を身に着けているところからして、彼がマルトだろう。それは
いい。それは、いいのだが。
「あ、あれは……女神ラーラ?」
 リーンが呆然と呟く。
 祭壇の奥には通常、主神である大地の女神ラーラの神像がある。が、今そこ
には神像の姿はなく、代わりに神像と寸分違わぬ姿の女性が一人、祭壇の上に
座っていた。女性は二人に気づくと、穏やかな表情で微笑みかけてきた。
「ようこそ、剣匠ルア。そして騎士リーンよ」
「あ……あなたは? 女神、ラーラ、様?」
 恐る恐る、という感じでリーンが問うと、女性は一つ頷いてそれを肯定した。
「ふうん……で、女神様がオレたちになんの用だ?」
 動転しているリーンとは対照的に、ぶっきらぼうな態度でルアが問う。その
物言いにリーンはぎょっとしたようだが、元よりそんなものはお構いなしのル
アである。
「魔王、いえ、妖魔導師ライヴォルの討伐に行くのでしょう?」
「ああ」
「……彼は、人間たちが生み出した一つの混沌。掟により、彼の討伐に直接の
手助けをするのは、わたくしにはできません」
「なら、どうしてここにお出でになられたのですか?」
 不思議そうなリーンの問いに、女神は眠り込む少年に優しい瞳を向けた。
「この子が熱心に祈ってくれたから……純粋な信仰の力はわたくしたちを活か
す最大の力。それを捧げてくれた者には報います。
 そしてこの子は王国の平和を純粋に願っている……その願いに直接応える事
はできませんが、あの者に挑むあなたがたに僅かばかりの力を与える事で間接
的に祈りに報いようと思い、聖域の神像に仮の宿りを定めたのです」
「僅かばかりの、力……悪いが、そんなもんはいらない」
 静かな女神の言葉に対し、ルアはきっぱりとこう言い切った。蒼氷色の瞳に
は、厳しい決意が顔を覗かせている。
「オレは、オレの力だけで、奴を倒す。でなきゃオレの十三年間は無駄になる。
だから、悪いが手助け無用だ」
 きっぱりと言い切る、その姿に揺らいだ様子はない。それが、この言葉がル
アの本心である事を何よりもはっきりと物語っていた。
「あなたはきっと、そう言うと思いましたよ、剣匠ルア」
 そんなルアに微笑みかけつつ、女神はあくまで穏やかに言葉を綴る。
「では、騎士リーン。あなたにこれを授けましょう……」
 言いつつ、女神は優雅な仕種で右手を前へと差し伸べた。その手の上に温か
い金色の光が溢れ、一つに固まり、小さなペンダントを形作る。細い銀鎖に女
神の紋章を刻んだ涙滴型の蒼い石をつけた、ごくシンプルな物だ。それは女神
が軽く手を振るとふわりと飛び立ち、リーンの手に納まった。
「……これは?」
「いずれ、あなたの助けとなります。お持ちなさい」
 困惑しつつ問うリーンに、女神は静かにそれだけを告げる。ぼかした物言い
に戸惑いつつ、リーンはありがとうございます、と礼をしてペンダントを首に
かけた。紋章を刻んだ石は、服の中に隠しておく。
「女神。一つ、聞いておきたい」
 リーンがペンダントを身に着けるのを横目に見つつ、ルアは低く、女神に呼
びかけた。
「なんですか、剣匠ルア?」
「妖魔導師の事だ。なぜ、あんな厄介なもんをのさばらせとくんだ?」
 ストレートな問いに、女神は切れ長の目を心持ち曇らせた。
「……先ほども触れましたが、神族には神族の掟があるのです。人間が自ら生
み出した混沌は、人間の手で制さなくてはならない……このような手助けも、
掟の許すぎりぎりの範囲なのですから。人を生かすのは神ではありません……
人を生かすのは人、また滅ぼすのも人……」
 憂いを帯びた言葉に、ルアは一つ、ため息をついた。
「つまり、てめーらの厄介事の始末はてめーらでつけろ、と?」
 それから、やや投げやりにこう問いかける。大雑把な結論に、女神は一つ頷
いた。
「……そういう事です。それが悠久の過去より続く、世界の掟……」
 どことなく寂しげな様子で、女神は微笑った。それから表情を引き締めて言
葉を続ける。
「古の森と疾風の峠。そこであなたがたは協力者を得ます……彼らの助力を受
けねば、先には進めぬでしょう……虚無の迷宮は、心の迷宮……その入口は出
口となります。覚えておきなさい。それと……」
「……それと?」
 突然途切れた言葉を訝って先を促すと、女神はまた、穏やかに微笑んだ。
「この子を、マルトを必ず連れてお行きなさい。この子の力は、あなたがたの
助けとなります……」
 ふっと、女神の姿が揺らいだ。暖かい光が本殿を満たし、二人はとっさに目
を覆う。光が消えた後には女神の姿はなく、祭壇の奥には大理石を刻んだ女神
像が静かに佇んでいた。
「ん……ふあぁ〜あ……」
 突然、無邪気な欠伸が響いてその場の沈黙と緊張をぶち壊した。いつの間に
目を覚ましたのか祭壇の前に倒れていた栗色の髪の少年が上身を起こし、髪と
同じ色の瞳をとろん、とさせてしきりに目を擦っていた。
「ふにゃ……いけない……祈願の途中で眠っちゃった……」
 しきりと目を擦りながら少年──マルトは呟いた。その様子にルアとリーン
は顔を見合せ、次いでほぼ同時に吹き出した。それでようやくマルトは二人の
存在に気づき、きょとん、とした瞳を二人に向けた。
「あなた方は? どうして本殿に……」
 とぼけた問いかけには、どうにか笑いを押さえたリーンが簡単に説明をする。
聖域が一時的に魔界の者に占拠された、と聞いてもマルトは落ち着いていた。
案外、大物かも知れない。
「そうですか、それで騒がしかったんですね……ところで、お二人は……」
「え?」
「剣匠ルア様に、騎士リーン様では……?」
「確かに、そうだけど……どうしてそれを?」
 リーンの問いに、マルトはにっこりと微笑んだ。
「夢の中で、女神のお声を聞いたのです。では貴方が、勇者の称号を拒まれた
ルア様」
 それから、満面の微笑みのまま、さらりとこう言って退ける。この言葉に、
ルアは思わず眉を寄せていた。
「……どーゆう表現だよ? 当たってっけど」
 それが事実ではあるものの、こういう風に言われると何やら物悲しいものが
ある。
「では、改めて自己紹介をいたします。ボクは、司祭マルト・ランデーム。聖
域を清めて下さって、有り難うございます」
 こう言うと、マルトはぴょこん、と頭を下げる。
「とにかく、参道の所まで戻ろう。みんな、君を心配しているよ」
 リーンの言葉に、マルトは顔を上げてそうですね、と頷いた。

「おお、マルト!」
 三人が参道の門まで戻ってくるや否や、司祭たちが集まってきてマルトを取
り巻いた。
「ご心配、おかけしました」
「ケガはないのだね?」
「はい!」
 年長の司祭の問いにマルトは元気良く頷いた。その司祭はルアの方に向き直
ると、深々と頭を下げる。
「剣士殿、どうもありがとうございました。なんとお礼を申してよいか……」
「礼言われるこたしてねえよ……」
 自分よりも遙かに年長の司祭に深々と頭を下げられて、ルアは表情に困る。
年配者に頭を下げられると、こそばゆくていけないのだ。
 司祭から目をそらすと、悪戯っぽい笑みを浮かべたリーンと目があった。そ
ちらと目を合わせるのも何やらためらわわれ、結果、ルアは人群れに背を向け
て門の方に目をやった。
 門に刻まれた逆五芒星は、ルアがドゥーム・ワイバーンに止めを刺したのと、
大体同じ時間に消え失せたという。司祭の一人から扉から落ちたナイフを受け
取ると、ルアはリーンに行くぞ、と声をかけた。
「もういいだろ? ラドニアに戻るぞ」
「あ、ちょっと! お待ち下さい!」
 それを聞きつけたらしく、マルトが大声を上げた。ルアは何事かとそちらを
振り返る。
「明日にでも、ラドニアの神殿にお出で下さい! お礼をいたします……」
「悪いが、長逗留をするつもりはねえんだ。気持ちだけ、もらっとく。行くぞ、
リーン」
 こう言うと、ルアはさっさと歩きだしてしまう。リーンは済まなそうな表情
で軽く会釈をすると、慌ててその後を追った。
「別に断らなくても良かったんじゃないか? どうせ、日にちの余裕あるんだ
ろ?」
「ばーかやろ。誰のために言ってると思ってんだ?」
 追いついてきたリーンの言葉に、ルアは振り返りもせずに素っ気なくこう言
った。
「誰のって……誰のためさ?」
 事情が飲み込めないらしく、リーンはきょとん、としている。
「無理に身体動かすな。ドゥーム・ワイバーンの尻尾は後からじわじわきいて
くるぜ」
「え……ぼくの、ため?」
 どうやら実感がないらしく、リーンはまだ、きょとんとしていた。
「オレも、一発食らった事があるからな……宿についたらおとなしくしてろよ。
いいな?」
 有無を言わせぬルアの言葉に、リーンは半信半疑、といった様子で頷いてい
た。

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