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   4

「……」
 『最大の厄介事』に挑むべく、ミュリアの部屋の前までやって来たものの、
リューディはそこで気後れしていた。
 必要な事なのは、わかっている。ミュリアを戦場に連れて行く事の危険性は
周囲に指摘されるまでもなく、理解していた。かつての戦い――ヴィズル戦役
の時のミュリアの脅え方を思えば、ここで保護してもらうのが一番妥当で、最
も安全な方法なのだ。
 何より――戦う自分の姿を見せなくてすむ。
 ヴィズル戦役の時、一度だけ返り血を浴びた姿を見せてしまった事がある。
勿論、完全な不可抗力で、だ。あの時は年齢に関わらず戦う事を余儀なくされ
ており、生来の素質故か年齢不相応な戦闘能力を持っていたリューディとレヴ
ィッドは非戦闘員を守るために十二歳で実戦を経験していた。
 戦う事、人を殺める事、それ自体に対する恐怖は克服できていた。状況がそ
れに囚われる余裕を与えてはくれず、また騎士の子として常にその心構えはさ
せられていたから。だから、必要であるならば戦いに気後れなどしなかった。
今でもそうだ。
 だが、あの時の――返り血に濡れた自分を見た時のミュリアの瞳。そこにあ
った、自分に対する脅えの色。その時に感じた痛みは小さな刺のように心に刺
さり、いまだに抜ける素振りも見せない。
 その痛みが辛いのか、ミュリアを脅えさせるのが辛いのかは、自分でもわか
らない。いずれにしろ、多数の生命がぶつかりあい、散っていく『戦場』と言
う場所に連れて行くのは、ミュリアの心に負担をかける事になる。それが嫌だ
から、と自分を納得させつつリューディはドアをノックし、入るぜ、と声をか
けた。
「あ……リューディ」
 ミュリアは窓辺に椅子を寄せてそこに座り、ぼんやりと外を眺めていたが、
リューディを見るとほっとしたように微笑んだ。どことなく生彩を欠いた様子
に、リューディは眉を寄せつつどうした? と問いかける。
「え? どうもしない……うん、大丈夫、よ?」
 問いに、ミュリアは本当に不思議そうに首を傾げた。
「そうか? なんか、顔色悪いし……調子、悪いのか?」
 側に行って問いかけると、ミュリアはううん、と言って首を横に振った。
「そんな事ない……ただ、ちょっと……」
「ただ、ちょっと?」
「……眠れないだけ」
 消え入りそうな言葉にリューディは眉を寄せた。
「眠れないって、なんで?」
「なんでって、えっと……」
「何か、悩み事か?」
 問いを重ねると、ミュリアは何も言わずに目を伏せる。
「何か……話し難い事か?」
 そっと問いかけつつ、リューディは不安を感じていた。ミュリアが抱えてい
る不安が何かおぼろげにわかり、そして自分が伝えようとしている言葉がそれ
を更に高めてしまうような、そんな気がしてならない。
 そんなリューディの不安に気づいた様子もなく、ミュリアはううん、と言っ
て首を横に振った。顔を上げ、こちらに向けられた瞳に宿る不安の陰りはリュ
ーディの不安を大きくする。
「……怖いの」
「怖い?」
「眠って、起きたら……みんな、いなくなっちゃってるんじゃないかって……」
 予感、的中。当たっていたからと言って、嬉しくなどないが。リューディは
軽く唇を噛むと、すがるようにこちらを見つめる瞳から逃げるように視線をそ
らす。そのちょっとした仕種が不安をかき立てたのか、ミュリアは震える声で
リューディ? と呼びかけてきた。
「どうしたの?」
「ミュー……オレ……」
「なに?」
「オレ、アーヴェンに行く」
 早口に告げると、ミュリアはえ? と短く言って瞬いた。
「アーヴェン……に? どうして?」
「アーヴェンのレイリア卿が、オーウェン大寺院、オーリェント魔導院と連携
して、反ゼファーグ同盟を結成するんだ。オレとレヴィッド、あと、リンナた
ちもそれに参加する」
 どうしてもミュリアを直視できなくて目をそらしたまま、リューディは要点
だけを説明する。ミュリアはやや呆然としたままそれを聞いていたが、やがて、
それが意味するものに気づいたらしく大きく身体を震わせた。
「リューディ……行っちゃうの?」
 かすれた問いに、リューディは一つ頷く。
「わ……私……私もっ……」
「ミューはここにいてくれ!」
 ミュリアが何を言うのかはわかっていた。そして、その言葉を受け入れる事
ができないのは、最初からわかっている。だから、言われる前に遮った。聞い
てしまえば、はねつける自信がないから。
「ここにいれば、危険はない。ここは、オーウェン武闘僧兵団と、マレリナ魔
導師団の本陣になる。守りは万全だから、心配ないんだ。
 でも、アーヴェンは違う。戦場になるんだ。そんな危険な場所に、ミューを
連れては行けない」
 平静を装うように努めつつリューディは淡々と言葉を続ける。自分自身戸惑
うくらい、声に感情がこもっていなかった。自分にこんな硬質の声が出せると
は思わなかった。それも、ミュリアを相手にして。
「リューディ……」
 ミュリアが震える声を上げる。短い呼びかけだけでも、その困惑ははっきり
と感じられた。だが、その困惑を取り払う術をリューディは持たない。だから
目をそらしたまま、唇を噛んで何も言わなかった。言えない、と言うべきかも
知れないが。
「いや……」
 重苦しい沈黙を、ミュリアの掠れた声が打ち破る。
「そんなの……リューディと離れるの……絶対、いや!」
 叫ぶようにこう言うと、ミュリアはばっと立ち上がってリューディに抱きつ
いてきた。突然の事にリューディはまともによろめき、ちょうど真後ろにあっ
たベッドに尻餅をつく。
「ミュー……」
「言ったじゃない!」
「え?」
「どこにも行かないって、側にいるって、言ったじゃない!」
「あ……」
 ミュリアの言葉が胸に刺さる。ファミアスにたどり着いた夜に交わした言葉
――決して、忘れていた訳ではないのだが。
(今は、そんな事、言ってられない……そういう状況なんだよ!)
 今感じた痛みを、リューディはこう考える事で強引に押さえ込もうとする。
しかし、痛みは消えるどころか更に強くなり、こちらをじっと見つめるミュリ
アの視線も突き刺さるような心地がした。
 痛くて、苦しくて、でもその痛みを消す方法がわからなくて、リューディは
ぎゅっと唇を噛み締めた。
「……リューディ」
 小さな声でミュリアが名を呼ぶ。少女がどんな表情をしていのーるのか、ど
んな瞳を向けているのか――それは見なくても察しがついた。それだけに、見
るのが辛い。『不安』という言葉で端的に表される顔を見たくない。それを見
てしまったら、自分にだけ都合のいい言葉を言ってしまいそうで怖いのだ。
「リューディ……私……邪魔?」
 リューディの沈黙に耐えかねたのか、ミュリアが震える声でこんな問いを投
げかけてきた。全く思いも寄らなかった問いにリューディははっとする。
「邪魔、なの? 役に、たたないから?」
「なっ……そんな訳、あるか!」
「だったら、どうして一緒じゃダメなの!?」
「だから、それはっ……」
 ミューは戦えないから、と言いかけて、リューディは言葉に詰まった。戦え
ないから連れて行けない、という理由は、役に立たないから邪魔、という言葉
を肯定する事になる。だが、それは理由にならないはずなのだ。少なくとも、
リューディにとっては。
(だとしたら? オレは、どうして?)
 戦いを見せたくない、戦いの側に置きたくないというのが大きな理由と言え
ばそうなのだが、それは妙に曖昧で希薄にも思える。
「……それは……なに?」
 理由を見つけ出せずに口篭もっていると、ミュリアが言葉の続きを求めてき
た。しかし、返すべき答えが見つからない。『邪魔ではないが連れて行けない』
という矛盾を矛盾にしない理由が、どうしても見つけ出せない。
「リューディ……」
 ミュリアはじっと、答えを待っている。真っ直ぐなその瞳に見つめられるの
が何故か辛く、その辛さに心が音を上げた。リューディはミュリアの肩に手を
置くと、目をそらしたまま少女を自分から引き離す。拒絶の動作に、ミュリア
は呆然とリューディを見つめた。
「リューディ……」
「と、とにかく」
 震える呼びかけには応えず、リューディ立ち上がってミュリアに背を向けた。
「もう、決まった事だから。オレは、アーヴェンに行く。ミューは、ここにい
るんだ。ここなら、安全だから」
 硬質の声で事務的にこう言うと、リューディは足早に部屋を出る。これ以上、
ここに居たくなかった。ここに居る事で感じる痛みから、逃れたかった。
 それが――その逃避が、ミュリアの心をより深く傷つけると感じつつ、それ
でも。
「リューディ!」
 すがるようなミュリアの声をドアを閉める音で打ち消すと、リューディはだ
っと走り出す。
 閉めた直後に部屋の中から聞こえてきた泣き声から逃げるように。
 傷つけてしまった現実から逃げるように。
「……ちっきしょお!」
 自分の部屋に飛び込んだリューディは、宛もなくこう叫んでいた。
 最良を願った言葉が最悪をもたらしてしまった事と、そんな結果にしてしま
った自分への苛立ち。それらをはらんだ叫びは虚しく響き、そして、消えた。
「……」
 リューディはしばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがて、ゆっくりと動
き始めた。
 立ち止まれない。自分は、戦う事を選んだのだから。ミュリアの心を深く傷
つけてまで。
「……くっ……」
 こみ上げる苛立ちを唇を噛み締める事で押さえ込みつつ、リューディはわず
かな私物をまとめていく。

 機械的な作業が終わるのと前後して、噛み破られた唇から、紅い色彩が一筋、
こぼれ落ちた。

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