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   ACT−1:何もない者たちの交差 01

 目覚めた時には、何もなかった。
 頭の中には一片の記憶もなく、自分が誰か、ここがどこか、自分は何をして
いたのか、そんな一種当たり前の事すらわからなくなっていた。唯一認識でき
たのは、自分が生きていると言う事実、それだけだ。
(……そうか、いきてるんだ、オレ……)
 そう認めた瞬間、急に気持ちが楽になった。同時に、喉が激しい乾きを訴え
る。
(……みず……)
 水が欲しい。切実にそう思った。しかし、周囲に飲めそうな水はない。ない
なら探そう。単純に、そう思った。
「よっ……と……」
 ゆっくりと立ち上がる、その挙動にあわせて鎧ががしゃ……と音を立てる。
身体は重いが、歩けないほどではない。
 慌てずに行けばいいさ――空っぽの頭の中に楽観的な考えが浮かぶ。それは、
中々の妙案に思えた。
 ゆっくりと、ゆっくりと歩き出す。周囲を沈黙と共に押し包む骸の事は、全
く気にならなかった。

 ……剣戟と怒号が追いかけてくる。
 一人きりになってから、ずっと追いかけてくる悪夢だ。そこから逃れて来た
はずなのに、振り返れば真紅の惨状がそこにあるように思えてならない。
 だから、立ち止まれない。振り返るのが怖い。
(……どうして?)
 幾度となく、虚空へと投げかけた問いを繰り返す。全ては不意に始まり、何
ら説明を与える事なく、それまであった存在全てを消し去ってしまった。一人、
取り残された少女は最後に与えられた短い言葉に従い、それに駆り立てられる
ように歩き続けていた。
『生きなさい』
 望む望まざるに関わらず、それは、多くの者の祈りとして託された。生きる
のは構わない、死ぬのは怖いから。ただ、全てを失った今、一体何のために生
きればいいのか、それがわからない。どこへ行って何をすればいいのか、今は
それすらもわからないのだ。
 そんな、文字通りの暗中模索の中、とにかく前へと進めていた足が、不意に
何もない空間をかいた。
(……!?)
 はっと我に返った時には既に遅く、小柄な身体は虚空の只中にある。大きく
見開かれたスミレ色の瞳が眼下に広がるもの――静かに横たわる水の流れを捉
えた直後に、全ては冷たい黒に飲み込まれていた。

 ……ぱしゃあんっ!!
「……ん?」
 そう遠くない所から水音が聞こえてきた。ようやく水を見つけて人心地つい
ていた彼は音のした方を見やり、こちらに流れて来るものに気がついた。
「……あ、ヤバイ。人が流れてくる」
 かなりとぼけた事を大マジメに呟きつつ、彼は川に入って流れてくる小柄な
少女を掬い上げた。長く伸びた金髪と白いドレスの裾からざっと水が流れ落ち
る。一応呼吸も鼓動もしているようなので、命に別状はないらしい。
「……困った」
 取りあえず助けはしたものの、現状ではどうする事もできない。暖を取らせ
ねばならないのだが、その術がないのだ。何より、彼自身の体力も限界が近く、
自分のマントで少女を包んだ所で力が抜けた。座り込む挙動が、がしゃん……
という金属音を立てる。全身を覆う金属鎧は、やたら重く感じられた。
「なぁんでオレ、こんなん着てんだろ……重いよなぁ……コレ」
 とぼけきった呟きの直後に、意識が途絶えた。

「……あれ?」
 漆黒の空白が途絶え、再び色彩が戻った時、周囲は一変していた。薄暗い森
の川辺から、こじんまりとした部屋のベッドの中へ移動していたのだ。やたら
と重かった鎧も、いつの間にか外されている。
「……ここって、一体……」
 呟いて考えてみるが、どうにも上手くまとまらない。そも、自分の事からし
て全くわからないのだ。それも自分の詳細だけがさっぱりで、それ以外の日常
的な部分は概ね理解できている。
「まいるよなぁ、こ〜ゆ〜のも」
 ぼやくように呟いた時、部屋のドアが開いた。人の気配に振り返ると、冷た
く澄んだ蒼色の瞳と目が合う。やけに鋭い瞳をきょとん、と見つめ返すと、入
ってきた男は訝るように眉を寄せた。
「目が覚めたようだな。気分はどうだ?」
 場に立ち込めた間の悪い空気をため息で取り払うと、男は静かに問いかけて
きた。
「ん、まぁ……悪くはないけど……」
「けど、なんだ?」
「頭の中、すっきりしすぎててさ。自分が誰かわからない」
 他に言いようがないので取りあえず笑いながらこう言うと、男はは? と言
って目を見張った。
「自分が誰か……わからない?」
 呆然とした問いにうん、と頷く。他に言いようがないのだから仕方ないが。
「では、何故あの場に倒れていたのかも……?」
「川辺にいたのは、水が欲しかったから。でも、その前の事は、さっぱり」
「そうなると……」
「あ、オレといたコはね、流れて来たの拾っただけ。誰かは知らない」
 聞かれそうな気がしたので先にこう言うと、男はまたため息をついた。
「記憶がない、とはな……それにしては落ち着いているな」
「騒いでも仕方なさそうだからね。ええと……」
「シュラ。シュラ・アスカ……この村の居候だ」
 呼びかけに困って言葉を切ると、男はため息まじりに自分の名を告げる。
「それで? 取りあえずお前の事はなんと呼べばいい?」
「え? そ〜だね」
 言いつつ何気なく周囲を見回すと、部屋の隅に置かれた剣と鎧が目に付いた。
「ん、じゃあ……ソードでいいや」
 それからあっけらかん、とこう言うと、シュラは一瞬、呆気に取られたよう
だった。
「で、いいや、とはまた随分いい加減だな」
「悩んだって、仕方ないと思うけど? よっと……」
 軽く言いつつ、ベッドから起き上がる。気だるさは残っているが、動けなく
はない。
「んでさ、シュラさん」
「シュラで構わん。それで、なんだ?」
「拾ってもらっといてこんな事言うのもなんなんだけど……何か、食わしても
らえないかなぁ?」
 乾いた笑いと共にこう言うと、シュラは一瞬目を見張り、それから、やれや
れという感じのため息をついた。

 取りあえず村長への挨拶と簡単な事情の説明を済ませると、シュラはソード
を長の館の食堂へ連れて行った。
「あ、」
 食堂まで来た所で、ソードはふとある事に思い至って声を上げる。
「……どうした?」
「そーいやオレ、金、持ってないよな」
「それが?」
「いや……やっぱタダ食いはまずいかな、と」
「気にするな。飯を食ったら薪を割ればいい。何か、仕事をすればいいだけの
事だ」
 ソードの疑問にシュラはさらりとこう答え、単純な理屈にソードはぽん、と
手を打った。
「それならちょっと安心かな」
「安心するのはいいが、ほどほどにしろ」
 ほっと息をつくソードに、シュラが呆れたように言う。
「なんで?」
「あまり張り切られると私の仕事がなくなる。そうなると、私が食えん」
「……そりゃ、ごもっとも」
 妙に説得力のある一言に、ソードは乾いた声で笑うのみ、だった。
「まぁま、そんな心配しなくても大丈夫ですよ、シュラさん」
 そんな二人に甲高い声が楽しげに呼びかけてきた。振り返ると、料理を乗せ
た盆を持った見るからに人のいい女性が立っている。きょとん、とするソード
に、村長の奥方だ、とシュラが耳打ちした。
「家の旦那様は力仕事のできない方ですからね。殿方にお願いしたい仕事なら、
いくらでもありますから。だから、そんな心配はご無用ですよ?」
 にこにこと笑いながら言われても、正直、喜んでいいものか悩む言葉だった。
ともあれ、ソードはそうなんですかぁ、ととぼけた返事をする。
「ええ、そうですとも。ええと……」
「あ、ソードって呼んでください。取りあえず、名前が思い出せないんで」
 眉を寄せて言葉を切る夫人に、ソードはあっけらかん、とこう答える。さす
がに夫人はこの言葉に目を見張るが、盆を気にするソードに気づいてテーブル
に料理を並べ、食事を勧めてくれた。ソードは一礼して椅子に座り、食事を取
り始める。確信はないが、こうして普通の食事をするのは随分久しぶりに思え
た。
「ん〜、美味い! 生き返るぅ〜♪」
「……がっつくな。子供かお前は」
 つい食べるのに夢中になると、すぱあんっ!という音と共に後頭部に痛みが
走った。シュラが突っ込みのついでに、懐から出した扇子で叩いてきたのだ。
ソードは恨みがましくそちらを睨むが、シュラは取り合わない。夫人の方はソ
ードの食べっぷりが気に入ったらしく、にこにことしたまま二人の様子を見て
いたが。
「……ふ〜、美味かったぁ……ごちそーさんでした!」
 空っぽの胃袋の要求を満たすと、ソードは満面の笑顔で夫人に一礼する。夫
人はどういたしまして、と微笑みつつ、食後のお茶を出してくれた。
「ところで奥方、もう一人の方はどうしていますか?」
 ふと思い出したようにシュラが問うと、夫人はそれがねぇ、とため息をつい
た。
「身体の方は何ともないようなんですけど……何を聞いても黙り込んだままな
んです」
「ありゃりゃ、それは大変だな」
 夫人の答えにソードはあっけらかん、とこう言い、シュラは微かに眉を寄せ
た。
「でもあのコ、かなり大変なメにあったみたいだし。ショックが抜けてないだ
けじゃないかなぁ?」
「……そう言うお前はどうなんだ?」
「え?」
 シュラの問いに、ソードはきょとん、と瞬いた。
「何も思い出せん理由だ」
「あ、それ? ん〜なんだろなぁ、頭ぶつけたって感じでもないし……気がつ
いたとこって平地っぽかったから、落ちたって感じでもないし……」
 妙に真剣な表情の問いに、ソードはそちらとは対照的にお気楽な様子で答え
つつお茶のカップを傾ける。
「ま、今は考えても仕方ないかな〜、なんて思ってるけどね。さて、それじゃ
メシの分働かせてもらいますか! 何、やります?」
 空のカップを置きつつ屈託のない笑顔で夫人に問う。何ともお気楽なその様
子に、シュラがやれやれ、とため息をついた。

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