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   振り返れば、緋色の闇

 炎が舞う。
 緋色の炎――全てを包み込もうと、緩やかに翻っている。
 美しい、と思った。

 緋と紅。全てをこの色彩に染め上げる事ができたら、どんなに美しいだろう。

 真紅の月光の下、緋色に消えて行くモノを見ながらふとそんな事を考えた。

 ここにあったモノは、もう、ない。自分をワクにはめて解釈していた愚かな
モノは。
 これで、自由だ。

 そう考えたらどうしようもなく可笑しくなって、自然に笑みがもれた。
 これでもう自由、何者にも縛られる必要はない。好きな所に行って、好きな
事をすればいい。『いい子』を演じなくてもいい。
 こんな事を考えながら見上げた夜空には、真紅の月がかかっている。
 血を思わせる真紅の月。
 それは言いようもなく、美しいものに思えた――。

「……イ……レイ」
 不意の呼びかけが、絡みつく緋色の夢を打ち破る。
「……ん……シャオ?」
 その声に引き寄せられるように目を覚ましたレイは、こちらを見つめる蒼氷
色の瞳をぼんやりと見つめつつ、かすれた声で呼びかけてきた者――シャオの
名を呼んだ。
「大丈夫か? うなされていたぞ」
「うん……平気。シャオ、でかけなかったの?」
 いつもなら、もういないのに――そんな事を考えつつ、ゆっくりと起き上が
って問う。この問いに、シャオは呆れたように息をついた。
「明らかにうなされているヤツを見捨てて出かけるほど、薄情ではないつもり
だが?」
 そっとレイを抱き寄せつつ、シャオはどこか呆れたような口調でこう囁く。
レイはおずおずと顔を上げて、心配してくれたの? と問いかけた。
「心配? 心配でなければ、なんだと言うんだ?」
「あ……えっと……」
「冗談だ、間に受けるな」
「……イジワル」
 からかわれていた事に気づいてつい拗ねた声を上げると、シャオは笑いなが
ら怒るな、と囁いて髪を撫でる。心地よい感触に、つい怒りを忘れてしまうレ
イだった。
「で、どうするんだ? バイトに行かなくて、いいのか?」
 心地よさに浸り込んでいると、シャオがそっと尋ねてくる。
「シャオは、どうするの?」
「お前は、どうして欲しい?」
 問い返しに更に問いを返され、レイはしばし逡巡する。とはいえ、あまり外
に出たい気分ではなかった。レイはシャオの身体に腕を回してぎゅっとすがり
付きつつ、わがままを口にする。
「サボりたいから……側にいて」
 子供っぽい願いにシャオは苦笑めいた表情を浮かべ、それから、わかった、
と囁いてくれた。レイはほっと安堵の息をもらしつつ、顔を上げてありがと、
と微笑む。
(でも……どうしてあんな夢、見たんだろ)
 包み込んでくれる温もりに身を委ねつつ、レイはふとこんな事を考える。
 過去の夢。忘れてしまいたい悪夢。もう、ずっと思い出す事などなかったの
に、何故――そんな事を考えていると、シャオが訝るようにどうした? と声
をかけてきた。レイはなんでもない、と呟いて、逞しい胸に顔をうずめる。
「……シャオ」
「ん?」
「あたしのコト、好き?」
 上目遣いに見上げつつ、子供っぽい問いを投げかける。シャオは困ったよう
な笑みを浮かべつつレイを抱き締める腕に力を込め、唇に触れてきた。
 触れられる感触の優しさ、暖かさ。それで、問いの答えは充分過ぎるほどに
得られるが、しかし。
 言葉で言って欲しい。
 それもまた、正直な気持ちだった。

「レ〜イ〜さ〜ん! もー、連絡ヌキでサボるのはなしっすよー!」
 翌日、バイト先であるゲーム喫茶『ハウリング・ムーン』に顔を出すなり、
バイト仲間のカツミが挨拶もそこそこに文句を言ってきた。これに、レイはご
めんね〜、と明るく言いつつ頭を下げて見せる。
「ま、カツ坊、そう怒らないでやんなって」
 の〜んびりと新聞をめくりつつ、マスターが笑いながらこんな事を言った。
「わ〜い、マスター、ありがとございます♪」
「いいよいいよ、昨日の分はカツ坊にプラスしとくだけだから」
「……はあーい」
 浮かれた直後に釘を刺され、レイは返す言葉を失う。自業自得なのはわかっ
ているので、反論のしようがない。
「でもま、レイさん、昨日いなくて良かったかも」
 開店の前の掃除中、カツミが突然こんな事を言った。
「え? どうしてよ」
「いや……昨日、ヘンなヤツが来たんですよねー」
 きょとん、としつつ問うと、カツミはやや大げさな感じのため息をつく。レ
イは微かに眉を寄せつつ、何それ? と問いを接いだ。
「うーん、なんつか……あれって、一種のストーカーなんすかねー? いきな
り駆けこんで来て、エライ剣幕で『スズコはどこだっ!?』って騒ぎ出して、い
やうるさいのウザイのって、ヒドかったっすよー」
「……え?」
 ごく軽いカツミの言葉に、レイは息を飲んだ。まさか、と何故、が心を過る。
「そ、それで……」
「え?」
「だから、それで、どうしたの? その……ストーカーモドキ」
 落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて。
 何度となくこう繰り返し、平静を保とうとするが、声と表情が強張るのは押
さえきれなかった。異変に気づいたのか、カツミは微かに眉を寄せる。
「レイさん? 大丈夫っすか、顔色、悪いっすよ?」
「平気。平気だから教えて」
 確かめるのは怖い。でも、確かめなくてはいけない。
 言葉に込められた思いに気づいたのかどうかは定かではないが、カツミはは
あ、と言って頭を掻きつつ、話を続けた。
「平気ならいいんすけど。あー、ちなみにそいつ、レイさんに会えなくて落ち
込んでたファクトリーの連中の逆鱗に触れて、店外強制送還っす。しばらくは
騒いでたんすけど、最後はマスターの必殺技で、退散」
 説明の最後に、カツミはにかっと笑って見せた。マスターの必殺技、という
言葉に、レイは微かに表情を緩める。
 『ハウリング・ムーン』のある辺りは、都市の中でも治安レベルが低い地区
だ。このため、この地区で商売をする者には自衛権としていくつかの特権が与
えられていた。
 極端な例になるが、「悪質な営業妨害を受けた」と言えば、相手を殺してし
まっても軽い罰金で済んでしまう。その特権と、のほほん、とした外見からは
想像もつかないマスターの射撃の腕は、これまでに幾つもの騒動を未然に防い
でいた。
「そう、なんだ……それじゃ、寄りつきはしない……よね」
 半ば独り言のように呟く事で、自分自身を納得させる。そうでもしないと、
立っていられないような心地がしていた。
(考えない。考えても仕方のない事)
 掃除を終え、いつものサンドイッチ作りに取りかかりつつ、レイは心の中で
こう呟いていた。
(もう、ないんだから。あの日から前の事は、もう無かった事。だから、気に
しない)
 何度となくこう繰り返す事でひとまず気は鎮まり、開店時には、常連客にい
つもの笑顔を向ける余裕も取り戻せていた。
 それでも――心の奥底がざわめくのだけは、止められなかったが。

 いつもの時間にバイトから上がると、レイは真っ直ぐ帰途にはつかずに寄り
道をしていた。
 向かった先は、地区の外れにある高台の公園。ほとんど人の立ち入らないこ
の場所からは、都市の中心部が一望できるのだ。『ハウリング・ムーン』でバ
イトをするようになってからというもの、レイは気が晴れない時にはここに立
ち寄り、茜色に染まる都市をぼんやりと見つめていた。
「よいしょっと」
 掛け声と共に公園を囲む柵の上に飛び乗り、ぼんやりと街を見つめる。何事
もない時の街は、ほんの少し忙しげなだけで特異な所は見られない。
 強いて言うなら、都市の支配者階級がいると言われている都市中央の巨大な
塔――『セントラル・タワー』と呼ばれるそれが、周囲に異様な影を落として
はいるが。
 穏やかな風が、ポニーテールに結い上げた長い髪にじゃれ付き、過ぎていく。
静寂と、その風の心地よさが、大分気を鎮めてくれた――のだが。
「……鈴子?」
 それはどうやら、嵐の前の静けさだったらしい。唐突な呼びかけにレイはは
っと我に返り、身を強張らせる。
「……鈴子……鈴子だろ?」
 振り返りたくない。振り返って、そこに立つ者の姿を見たくない。わかって
しまうから。そこにいるのが、誰なのか。忘れたはずなのに、忘れていなくて
はならないはずなのに、覚えている自分を認めたくないから。
「鈴子……」
 声が、近づいて来る。振り返らない訳にはいかない。立ち向かうにしろ逃げ
出すにしろ、振り向かなくては行動を起こせないからだ。
 ゆっくりと、ゆっくりと振り返る。振り返った先には立っているのは、同い
年くらいの若い男だ。真新しいジャケットとジーンズの小奇麗ないでたちは、
彼がこの辺り、俗に下街と呼ばれる地域の者ではない事を物語っている。
「鈴子!」
 ゆっくりと振り返ったレイの顔を見て、男は声を弾ませた。幼い頃からまる
で変わらないその表情が、彼が誰であるかをはっきりと理解させる。
(……浩平……くん)
 心の奥で、声には出さずに名を呼んだ。声に出す事は、今の自分にはできな
いからだ。
 都築浩平。レイがまだ、異形種に憑依される以前に隣家に住んでいた幼なじ
みの少年は、そんなレイの心情に気づいた様子もなく、キラキラと目を輝かせ
ている。
 変わっていない。
 最初に感じたのがそれだった。
「鈴子……やっと見つけた。オレ、ずっと捜してたんだ!」
 はしゃいだ言葉にレイは何も言わなかった。
 捜さないで欲しかった。会いたくなどなかった。今の自分は、彼が呼ぶ名の
少女ではないから。だが、それをどう説明すればいいのか――それがわからず、
レイは浩平から目をそらした。
「……鈴子?」
「……あたしは……」
 どう言えばいいんだろう、どう説明すればわかってくれるんだろう。今の自
分はレイ――風見鈴であって、それ以外の何者でもないのだ。
(なんで……なんで、今頃出てくるのよっ!)
 こんな苛立ちも心に浮かび、レイはぎゅっと唇を噛み締めた。そんなレイを
浩平はやや眉を寄せた怪訝な表情で見つめ、それから、そっと手を差し伸べて
きた。
「とにかく、鈴子、一緒に帰ろうぜ。みんな鈴子の事心配してるんだ」
(みんな……? みんなって、誰の事よ……)
 自分にはもう、家族はいない。二年前に、死んでしまったのだから。いや、
家族だけではない。彼が捜している少女――『鈴子』も、もう死んでしまった
も同然なのだ。
「……鈴子?」
「……!」
 そっと近づいて来る手を、レイはとっさに払いのけていた。突然の事に驚い
たらしく、浩平はぎょっとしたように目を見張る。
「な……どうしたんだよ、すず……」
「あたしは、鈴子じゃない!」
 とにかく言わなくては、と思っていた言葉が、ようやく口をついてくれた。
この言葉に浩平はえ? ととぼけた声を上げる。
「あたしは、レイ。あなたの捜してる鈴子じゃない」
「何言ってんだよ、鈴子!」
 感情を押し殺して言い放つが、浩平はそれを受け入れなかった。
「鈴子は鈴子だ! それ以外の、一体なんだってんだよ!?」
「あたしは、鈴子じゃない! 確かに、そんな名前の女の子がいたかも知れな
い……でも、それはあたしじゃない!」
 早口で言い募る浩平に怒鳴るように言い返すと、レイは睨むような視線を向
けた。厳しい目つきに浩平はやや戸惑う。
「……鈴子……」
 再び、手が差し延べられるが、
「! 触んないで!」
 レイは再びそれを払いのけていた。
 触れないで、近づかないで、構わないで。
 叫びたい言葉が渦を巻くが、それは何故か言葉にならなかった。言葉の代わ
りにただ睨むような瞳を向けると、浩平は困惑しきった様子でその視線を受け
止めた。 
「……あ、いたいた! レイさ〜ん!」
 張り詰めた空気を、お気楽な声が打ち破った。はっと顔を上げて声の方を見
ると、バイクのメットを被ったカツミが公園の入り口で手を振っていた。
「……カツミくん……」
「こんなとこにいたんすか、っとにもー。早く戻らないと、マスターに怒られ
ますよー?」
 ぽかんとしている浩平を完全に無視して、カツミはこいこい、と手招きをす
る。一瞬戸惑うものの、レイはすぐにカツミの意図を察した。
「あ、ごっめんねー。すぐに行くからっ!」
 殊更に明るい声を上げつつ、ぴょん、と飛んでカツミの方に駆け寄る。浩平
が何か言いかけるが、聞いている余裕はなかった。カツミは持っていたメット
をレイに渡し、急いで、と小声で促す。レイはありがと、と言いつつメットを
被って下の道へ続く階段を一気に駆け下りた。
「……鈴子、待てよ!」
 我に返った浩平が慌てて追いかけてくるが、その時にはもう、レイはカツミ
のバイクの後ろに飛び乗っていた。レイが乗るとすぐ、カツミはバイクを走ら
せる。
「……鈴子!!」
 浩平の絶叫が、バイクの排気音に紛れて微かに耳に届いた。

「……ありがとね、カツミくん」
 大通りに出る直前の信号待ちの途中で、レイはようやく落ち着きを取り戻し
てこう呟いた。
「いえいえ、いいんすよ、オレはマスターに頼まれただけっすから」
 それに、カツミは軽い口調でこう答える。
「そうなんだ、マスターが……」
「はい。このまま、マンションまで送りますよ。んでもって、有給にするから、
落ち着くまでウチで大人しくしてろって、マスターからの伝言です」
「うん……ほんと、ありがと」
「そう思うんなら、復帰する時にケーキでも焼いてくださいねっ」
「……うん」
 マスターの心配りと、カツミの気遣いに感謝しつつ、レイは微かに笑みを浮
かべた。マスターもカツミも、それなりの過去を持って下街暮らしをしている
者たちだ。だからこそ余計な事を聞かず、また、こちらを気遣ってくれる。そ
れが、純粋に嬉しく思えるレイだった。
(でも……このままで済むのかな……?)
 ふと、不安が過る。このまま、何事もないまま浩平が諦めてくれればいい。
そう願う反面、言葉で彼を納得させる事はできないのでは、という懸念が拭え
ない。
(……ほんとに……どうして、出てきたのよっ……今になって)
 巡り巡った思いは最終的にそこにたどり着き、苛立ちをかき立てるばかりだ
った。

 そして、翌日。
「……」
 シャオは例によって出かけてしまい、レイは一人、ぼんやりとベッドに寝転
んでいた。何もする気になれない。しかし、何もせずにぼんやりとしていると
意識が浩平の事に向かってしまう。考えなければいい、とわかっていても、ど
うしてもそちらに向かってしまうのだ。
 会いたくなかった。
 自分が変わってしまった、と認識して、今の生き方を選んだ時に最初に忘れ
ようとしたのが浩平の事だった。あの頃抱いていた、淡い想いと共に。
 その想いは、既に自分の中にはない。あるのは、シャオへの激しい想いだけ。
だから、患わされる必然はない……どこにもないはずなのだ。
 なのに。自分は今、患わされている。
 ないはずのものが騒いでいる。
 振り切る方法はわかっている。今の自分が鈴子では――いや、人でないとい
う事実を教えればいい。二年前、異形種に憑依された自分がした事を教えてや
ればいいのだ。そうすれば、浩平の抱えている淡い夢は打ち砕かれ、彼は姿を
消すだろう。
 そして、それが最善である事も、わかっている。
 浩平は都市の表側の住人だ。裏側の住人である異形狩りのレイと関わるべき
ではない。
 それとわかっていても……それが選べない。
「……っく……ヤダっ……もう、こんなのって……なんでよ? なんで、今に
なって!?」
 何故、今になってこんな事に患わされなければならないのか。そう考えると
苦しくて仕方がなくなる。こんな時こそ側にいて欲しいのに、シャオはここに
はいない。それが、苦しさを助長する。レイは枕を抱え込むと、それにすがる
ようにしてベッドに突っ伏した。

 それから、どれだけ時間が過ぎたのか、自分でもわからない。

「……っ!」
 異様な気配を感じて、レイははっと顔を上げた。ベッドの上に起き上がり、
窓越しの空を見上げる。
「……蒼い月……」
 夜空にかかる月。それはその色彩によって、都市の在り方を映し出す鏡。真
紅は流血を、純白は消滅を、そして、この蒼ざめたような色彩は、発生を示し
ている、と言われている。
「……異形種が……出てきた」
 低く呟くと、レイはベッドから起き出してバスルームに向かった。熱いシャ
ワーを浴びて顔についた跡を洗い流し、気持ちを切り替えようと試みる。
 異形種が出てきたからには、私情に捕われてはいられない。それが、異形狩
りの取り決めだ。外に出たくはないが、発生に気づいて放置するわけには行か
なかった。
 髪をざっと乾かして結い上げ、いつもの装いに身を包む。ドアに手をかける
時、ほんの一瞬、ためらいが過った。レイは首を左右に振ってそれを振り捨て、
ドアを開ける。戸締りをして外に駆け出すと、ひやりと冷たい大気が身体を包
んだ。
(……どこにいる……?)
 深呼吸をして、気配をたどる。どうやら、そう遠くはないようだ。それと確
かめるとレイは足早に気配を感じる方へと向かい――。
(なんでっ!?)
 行きついた先と、そこにいた者に息を飲んでいた。
 ビルとビルの間の細い路地。そこは下街への入り口の一つだ。その途中に、
ジャケット姿の男が佇んでいる。昨日見た時に比べてくたびれているようだが、
その姿は見間違いようがなかった。
「……あ……鈴子!」
 気配に気づいたのか、男――浩平がこちらを振り返り、弾んだ声を上げた。
その頭上に、銀色の光がぼうっと浮かび上がる。
(異形種!)
 それがなんであるか、そして何をしようとしてるのかは、説明されるまでも
ない。そして、この状況で自分が何をすべきか、それは考えるまでもなかった。
「……こっち!」
 だっと駆け寄り、浩平の手を掴んで走り出す。当然と言うか、向かうのは下
街の方だ。突然の事に浩平は戸惑ったようだが、構っている余裕はない。
 入り組んだ路地を抜け、廃墟の並ぶ地区へと向かう。街の只中に残る、かつ
ての大戦の爪痕たちは、狩人たちにとっては都合のいい戦闘場所だった。
「な、なんだよ、一体!? どうしたんだよ、すず……」
「黙って!」
 問いかける浩平を一言で黙らせると、レイはジャケットを脱いで腰に縛りつ
ける。その目の前に銀色の光の球がふわりと舞い降りた。
「……なっ……あ、あれって……」
 浩平が上擦った声を上げる。レイは一つ、深呼吸をして身構えた。
 今は、余計な事は考えない。
 ただ、異形狩りとしての――今の自分の正しい在り方に従うだけ。
 浩平の前で戦う事へのためらいを、レイはこう考える事で強引に押さえ込ん
だ。もちろん全てを割りきれてなどはいないが、しかし、それをやらなければ
浩平が異形に囚われる事になるのだ。
 そして、そうなったら――浩平を、手にかけねばならない。
 かつて両親と妹を殺したように、異形種から得た力で殺さなくてはならなく
なる。
 それだけは、嫌だった。
 だから――。
「シグルーン!」
 異形種が光を放ち、それが転じた無数の鋭い光の矢をシールドを発生させて
弾き飛ばす。その瞬間、髪が金色の輝きを放ち、瞳が鮮やかな真紅に染まった。
「……っ!?」
 突然空間に現れた黒い盾と、金色に変わった髪に浩平が息を飲むのが気配で
わかる。
 レイは盾を空間に固定すると種の出方を伺った。攻撃を弾かれた異形種は憤
るように震えると、光を放って膨張した。
 キエエエエエエエっ!
 甲高い鳴き声のようなものが響き、異形種は銀色の羽毛に包まれた巨大な鳥
に形を変える。巨鳥は奇声を上げつつ宙に舞い、激しく翼を羽ばたかせた。翼
の巻き起こした突風が砂を巻上げ、瞬間、視界を閉ざす。
「このっ……ブリュンヒルド!」
 苛立ちを感じつつ愛用の槍を生み出し、砂塵となった風を強引に薙ぎ払う。
だが、晴れた視界に巨鳥の姿はない。レイはとっさに頭上を振り仰ぎ、そこに、
不自然な銀色の影を見つけた。
「空中戦で、あたしとやろってワケ?」
 低く呟くと、レイは翼を開いた。Tシャツが裂け、純白の翼が音を立てて夜
空へと開く。
「……!?」
 一連の事態に呆然としていた浩平が、その翼に一際大きく震えたのが感じら
れた。本来、人の身体に存在し得ないものがある。下街に生きる者や狩人たち
にとっては取りたてて騒ぎ立てるほどの事でもないが、都市の表側で、かつて
の大戦以前とさして変わらぬ生活をしている者にとって、それは『異常』ある
いは『異質』以外の何物でもない。
「なんなんだよ……一体、なんだってんだよぉ……こんなのって……鈴子……
あれじゃ、まるで……」
 混乱した浩平がもらした呟きに、答える余裕はない。レイは槍を携えて地を
蹴り、一気に異形獣との距離を詰めた。
 槍の一閃を掻い潜り、刃の如き羽を飛ばして攻撃してくる異形獣を追い、動
きを読んで槍を繰り出す。その動きに合わせ、今は金色に染まった髪が美しく
月光を弾いた。
 金色の髪。真紅の瞳。そして純白の翼。
 一つ一つは美しいが、しかし、それは空間との間に大きな違和感を生み出し
てもいる。
 華奢な両手に黒と銀の槍を携えて戦う、翼を持った少女。絵としてはこの上
なく美しいが――現実と考えると、それは異様な姿だった。
 少なくとも、浩平にとっては。
「……はあっ!」
 気合と共に繰り出した槍が、異形獣の眉間に当たる部分を捉えた。月光色の
光が槍から迸る。
 グギェェェェェェっ!!
 絶叫が響き、それを追うように銀色の光が溢れ出した。レイは翼を羽ばたか
せて距離を取り、弾け飛んだ月色の光が銀色の光を包み込んで消し去るのを待
つ。
「……はっ!」
 低い気合が再び響き、澄んだ破壊音がそれに続いた。槍の銀色の穂先が異形
種を捉え、打ち砕く。種の中から現れた核を空中で受け止めると、レイはふわ
りと地上に降りた。
「……」
 重苦しい静寂が、場に舞い降りる。レイは静かに座り込む浩平を見つめ、浩
平は呆然とレイを見つめていた。その瞳と表情には、はっきりそれとわかる怯
えが浮かんでいる。
「……帰って。あなたは、あなたの現実へ」
 重たくのしかかる沈黙を破って、レイは静かにこう告げた。
「げ……現実……?」
「今ので、わかったでしょ? あたしの現実と、あなたの現実はね、かけ離れ
てるの。世界が違うのよ……だから」
「だ……だから……?」
 恐る恐る、と言う感じで、浩平は言葉の続きを促す。
「だから、あなたの幻想をあたしに押し付けないで。あたしはレイ……風見鈴。
あなたの捜している、春日鈴子、じゃないの」
「……すず……」
「納得できないなら、こう言ってあげるわ。
『春日鈴子は死にました。化け物に取り憑かれて両親と妹を手にかけた挙げ句、
その化け物と一緒に死んでしまいました、もういません』」
 わざと感情を込めず、淡々と言ってのける。そうする事で、自分自身にも改
めてそれを納得させるように。浩平は呆然とレイを見つめている。何を言えば
いいのかわからない――そんな感じだ。
「……ここは、あなたたち表側の人間がいるべき場所じゃない……帰って、あ
なたのいるべき場所へ」
 静かに、静かにこう言い放つと、レイは髪を縛っていたリボンを解いてその
場に投げ捨てた。
 それは、ずっと捨てるに捨てられずにいたもの。浩平が『鈴子』に贈った誕
生日のプレゼントだった。
 いつか捨てなくては――そう思いながら、それでも何故かずっと持っていた
ものだった。
 投げ捨てられたそれが何か、浩平はすぐに気づいたらしくほんの一瞬表情を
強張らせた。レイは槍と翼を消し、ずっと浩平を護らせていたシールドも拡散
させると、ゆっくりと浩平に背を向けた。
「……あ……すず……」
 その背に向けられた呼びかけは、途中で途切れた。レイは静かに歩き出す。
一歩踏み出すごとに、心の中から何かが消えていくような、そんな気がした。
しかし、それはとうの昔に消えていなくてはならないはずのものだったから、
気にする事なく歩き続けた。
「……レイ」
 マンション横の路地の真ん中辺りで、静かな声が呼びかけてきた。レイはと
っさに駆け出して、声をかけてきた者――シャオの腕の中に飛び込む。シャオ
は何も言わずにレイを受け止めてくれた。
「……種は……狩ったのか」
「うん」
「そうか……すまない」
 短い謝罪に、レイはううん、と言いつつシャオの胸に顔を埋める。身を預け
慣れたその場所の暖かさは、今、何かを消して空になった部分を優しく埋めて
くれるような、そんな心地がしていた。
「かわいそう、だよね……」
「かわいそう?」
 突然もらした呟きはさすがに唐突だったようで、シャオは訝るような声を上
げた。
「だから、鈴子ちゃん。完全に死んじゃったから。今までは、大好きな浩平く
んの中で生きてられたのに……もう、どこにも生きてない」
「……レイ……」
「いいの。あたしは、風見鈴だから。だから、なんにも気にしないの」
 シャオに、そして自分自身に向けてこう言うと、レイはすがりつく手に力を
込めた。シャオはそうか、と言って髪を撫でてくれる。
「……明日、休めるか?」
 それから、ふと何か思いついたようにこんな問いを投げかけてくる。突然の
事に、レイはえ? と言いつつ顔を上げた。
「休めるって、バイト? うん……落ち着くまで有給にしてくれるって、マス
ター、言ってたから」
「そうか。それじゃ、買い物に行くとするか」
「……買い物?」
 きょとん、と首を傾げると、シャオはいつになく優しく微笑んだ。
「新しいリボンが、必要だろうと思ってな」
「あ……うんっ!」
 静かな言葉が嬉しくて、レイははしゃいだ声を上げる。

 もう振り返らない。振り返る必要はない。
 振り返ってもどうせ、見えるのは緋色と真紅に染まった闇だけ。
 だから……前を見ていたい。

 ほんの一瞬だけ後ろを振り向こうとした心をこう戒めて、レイはゆっくりと
歩き出した。
 自分のいるべき場所へ帰るために。


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