第一章目次へ


「……ふう……」
 ラフィアンに案内されて客室に入り、一人になるなり重苦しいため息が口を
ついて飛び出した。急に身体の力が抜けたような気がして、ランディは仰向け
にベッドに倒れ込む。
 きゅう……
 直後にか細い声が上がり、胸の辺りがもぞもぞと動いた。一瞬ぎょっとする
ものの、それがポケットに入れておいたリルティである事を思い出したランデ
ィは、ボタンを外して妖精ネズミを外に出してやった。
 きゅう……きゅうう……
 外に出てくるなり、リルティは心細げにしきりと鳴き声を上げた。小さな瞳
には、不安が色濃く現れている。
「……リルティも、ファリアが心配なんだね」
 きゅう……
「当たり前か……魔道師と使い魔は、精神で結ばれてるんだもんね……」
 きゅう、きゅうきゅう
「……ファリア……」
 呟いて目を閉じると、最後に見た姿──空中の足場の上で、ぐったりとして
いたファリアの姿が浮かび上がる。
「儀式の生贄だなんて……そんな事、絶対にさせない……させて、たまるもん
か……」
 きゅうう……
「大丈夫だよ、リルティ。ファリアは……今まで何度もぼくを……ぼくの心を
助けてくれた。だから、今度は、ぼくがファリアを助ける……助けなきゃいけ
ないんだ」
 きゅう、きゅうきゅうきゅうう……
「え……なに?」
 独り言めいた呟きにリルティは妙に必死になって何事か訴えるが、ランディ
にはその言わんとする所はわからない。
「どうしたの……リルティ? ごめんね……ぼくには、わからないんだ、君の
言葉は……」
 きゅう……きゅうう……
 上手く意思の伝わらないもどかしさからか、リルティは何処か悲しげな鳴き
声を上げた。ランディはそっと、その頭を撫でてやる。
「……そんな悲しそうにしないでよ……なんか、ファリアに泣かれてるみたい
で……困るんだよね……情けないんだけど」
 きゅう?
 自嘲を込めた呟きに、リルティは不思議そうに首を傾げた。
「……自分の気持ちはさ……わかってるんだよね。でも、なんか、言い難くて
……気恥ずかしいって言うか……うん……怖いって言うか……情けないよなあ
……たった、二文字の言葉なんだよ? なのに……言おうとすると、消えちゃ
って……ん……」
 その場にいるのはリルティだけ、という気楽さと、睡魔の襲来で鈍り始めた
判断力が制止をかけないのに任せて、ランディは自分の心情を吐露していた。
「……ほんっと……情けないよね……ほんとは……いつだって……言えたのに
……言えそうな機会はいっぱいあったのに……なぁんで、いつも誤魔化してた
んだろ、ぼくは……騎士の誇り、なんて……カッコつけてさ……バカ、みたい
だ……」
 きゅう……
「……リルティもさ、ぼくの事、バカだって思うよね? 好きなコに、素直に
好きって言えないんだもんね……余計なぼかしかけて……言っちゃえば良かっ
たんだけど……ほんとに……ぼくときたら……」
 ここでランディは組んだ両腕で顔を覆った。
「ぼくときたら……怖がって、さ……笑い飛ばされるのがイヤで……言いもし
ない……ほんと、情けないよね……」
 きゅうん……
「ははっ……こんなコト言っても、君には、わかんないかぁ……ごめんね、リ
ルティ……」
 顔を覆っていた腕を僅かにずらしてそちらを見やると、リルティは怪訝な面
持ちで首を傾げていた。その様子に、ランディは苦笑めいた笑みを浮かべて身
体を起こし、小さな頭を撫でてやる。リルティは眠たげな様子でしきりと顔を
擦っていた。
「……今は、休むのがぼくのやるべき事……か」
 その様子に小声でこう呟くと、ランディは部屋の灯を落としてベッドに潜り
込んだ。
「……お休み、リルティ」
 身体を丸める妖精ネズミにそっと呼びかけてから、自分も目を閉じる。先ほ
どから意識に伸しかかっていた睡魔は直ぐさまその身を覆い尽くし、ランディ
を深い眠りへと誘った。

「…………」
 客室に落ち着いたものの、眠れる気分ではない。故に、ウォルスは窓から庭
に出て、夜空の月を睨むように見つめていた。
 ようやく、巡り会えた仇敵。
 その存在を知らされてから十数年、その生命を自らの手で断つ事だけを考え、
生きてきた。
 初めて目の当たりにしたその姿に、感慨は何らなかった。ただ、部族の中で
は異端であり、忌まれていた黒い髪が父親譲りであった事を改めて知り、それ
に対する苛立ちのようなものは感じていた。
 母の想いを、自分の怒りを、取るに足らぬものとして、嘲ったガレス。自分
はその血を継いでいるのだと、同じ髪の色が無言の内に物語る。それが、言い
ようもなく苛立たしかった。
「……ちっ……」
 苛立ちが苛立ちを呼んでそれを更に高めていく。
(結局、何もできなかった……目の前に、捉えていたというのにっ!)
 血の繋がりという、どうする事もできない事実への苛立ちを、ウォルスは先
ほどの状況に対するそれへとすり替えて唇を噛み締めた。
 仮にも魔導王国の宮廷魔道師を勤めている男だ。その実力は、相当なものだ
ろうと予測はしていたが、たった一種類の呪文に翻弄されたという事実は言い
ようもなく腹立たしかった。占術師として多くの技術を学び、納めた事で築い
た実力に対する自信も、微かに揺らいでいる。
 自分一人では、勝てない。
 占うまでもなく、理解できるその事実が苛立ちを高める。
 誰の手も借りずに成し遂げたいと思っていた。これは、自分一人の事だと思
っていたから。ランディを引き込んだのも、結局はその力――『時空の剣』を
ガレスに渡さないためという打算しかなかった。
 だが、今は――
(……あいつの力を借りなければ、勝てない……)
 その事実もまた、占わずとも認識できる。だが、それを認識しているという
のは、奇妙な気がした。
「……人の力なんて……借りるつもりはなかったのにな……」
 ふと、声に出して呟く。自分がやろうとしているのは、復讐。所詮は私闘に
過ぎない。だからこそ、自分一人の手で成さねば……そう、思っていたのだ。
だが、今はそれを一人では成せない事も、ランディやチェスターと力を合わせ
ねばならない事も、ごく自然に受け入れられている。勿論、彼らそれぞれの事
情と彼の事情が交差しただけとも言えるのだが。
 ……みゅう……
 ぼんやりと立ち尽くしていると、か細い声が耳に届いた。甲高い声の主が何
かは、すぐにわかる。声の方を振り返ると、白く小さなカーバンクルが不安げ
な表情で尻尾を振っていた。ウォルスは僅かに表情を緩めてどうした? と問
いかけた。
 ……みゅうううん……
 問いにティアは不安げな鳴き声を上げ、直後にウォルスは人の気配を感じて
顔を上げる。いつの間にやってきたのか、少し離れた所にニーナが立って、こ
ちらを見つめている。碧い瞳は、妙に安堵したような光を宿しているように見
えた。
「……無事……だったんです……ね?」
 確かめるような問いかけに、ウォルスはああ、と素っ気なく答える。ニーナ
は良かった、と呟いてこちらに歩み寄ってきた。沈黙がしばし空間を閉ざし、
やがて、ニーナがあの、と短くそれを取り払う。
「……ランディさんも、無事だったんですってね……でも……ファリアさんが
……姫様も……」
「ああ。まあ、こんな事態になってはいるが、ランディもチェスターも諦めて
はいない……王女の事は任せて、お前はここで、待っていた方がいい」
「……そうは……いきません」
 静かな言葉に、ニーナは短くこう言いきった。
「……何故?」
「私は……私は、ディアーヌ様の近衛騎士です。その私が、姫様の救出に参加
しない訳には、いかないでしょう!」
 叫ぶような答えに、ウォルスはやれやれとため息をついた。
「……まったくどいつもこいつも……騎士ってのは、滅私奉公だけが美徳なの
か? 少しは、自分の事も考えたらどうだ?」
「そんなの、大きなお世話です! 私は……私は、ディアーヌ様の近衛騎士。
それしか、私が私でいられる理由は……ないんだから」
 呆れ果てつつ投げかけた言葉に、ニーナはまた、叫ぶような口調でこう返し
てくる。
「随分と、虚しいもんだな、それは……まあ、オレも似たようなものか……今
は、復讐以外は自分の存在意義がない……そして、この意義を失った時、どう
なるかはまるでわからん」
「……復讐?」
「こっちの事情だ、気にするな」
 怪訝な言葉にウォルスは素っ気なくこう応じた。ニーナもそれきり黙り込み、
再び沈黙が場を支配する。
「……あの……」
 その静寂を打ち破り、ニーナが小声で呼びかけてきた。
「……どうした?」
「……一つ、確かめたい事が、あるんです。姫様を連れ去ったのは……」
「…………」
「それは……宮廷魔導師の、ハイルバーグ卿……なのですね?」
「……ああ」
 短く答えると、ニーナはそう、と言ったきり黙り込んでしまった。俯いて唇
を噛み締めるその姿に、ウォルスは微かに眉を寄せる。
「……どうしたんだ?」
 ただならぬものを感じたウォルスはそっとその顔を覗き込み、絶句した。ニ
ーナはぎゅっと唇を噛み締めたまま、濡れた瞳で庭に咲き乱れる花を見つめて
いる。必死で嗚咽を堪えている――そんな感じだ。
「お……おい?」
「……どうして……」
 呼びかけると、ニーナはかすれた声でこう呟いた。
「え?」
「どうして、いつも……あの人は、人の大切な存在を……いくつ、奪い取れば
……気が済むのよ……」
「……何の事だ?」
「もうこれ以上、誰も悲しませないでほしいのに……どうして……どうしてな
の……?」
 押し殺した呟きに疑問を覚えて問いかけても、ニーナは震える声でこう呟く
だけだった。ウォルスはそっと、その肩に手を触れる──その瞬間、ニーナは
ウォルスの胸に飛び込み、声を上げて泣きじゃくった。
「……なっ……ど、どうしたんだよ、いきなり?」
 突然の事に危うくバランスを崩しかけるものの、ウォルスはどうにか持ち直
してニーナに呼びかける。が、ニーナは幼い子供のように泣きじゃくり、とて
も答えられそうにない。ウォルスは困惑しつつ、そのままニーナを泣かせてや
る事にする。それ以外に、どうする事もできないからだ。
「……くっ……」
 だが、力なく泣きじゃくる姿は、容易にあるものを思い起こさせた。誰にも
気づかれぬよう、一人、隠れて泣いていた母の姿――幼い頃、偶然垣間見たそ
の姿は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
 苦しかった。母の悲しみを、どうする事もできない、もしかしたら助長する
だけかも知れない存在の自分が許せなくて悔しかった。
 その時に感じた無力さがわき上がる。何もできない自分へのもどかしさが心
を乱す。冷静に考えればニーナが泣く姿にウォルスが患わされる必要はないは
ずだが、その「いつもの皮肉っぽい冷静さ」はどこかに飛んでいた。
 ……みゅう……
 ティアがか細い声を上げる。それが、きっかけになったようだった。ニーナ
の肩に乗せられていた手がすっと滑るように落ち、背中に回される。突然の事
に戸惑ったのか、ニーナが微かに身体を震わせる。その震えが一瞬、ためらい
を呼び込むものの、その次の瞬間にはウォルスはきつく、ニーナを抱き締めて
いた。唐突な出来事にニーナは相当戸惑ったようだが、結局はそのまま身を預
けて泣きじゃくる。
 天空の月と、小さな妖精だけが、その様子を静かに、優しく見守っていた。

 眠りに就いたのが夜も更けきってからと言う事もあり、翌日、ランディはま
ともに寝過ごしていた。いつもなら日の出前には目覚めているのに、今日に限
っては昼近くまで眠り込んでいたのである。
「……ん……ああ……なんか、寝過ごしちゃったな……」
 ぼんやりと呟いて身体を起こす。ゆっくりと眠ったお蔭か、身体の疲れは大
分癒えていた。腕を上げて身体を伸ばし、枕の横を見やると、白い妖精ネズミ
はまだ身体を丸めていた。ランディはリルティを起こさないように立ち上がる
と、部屋に備えつけられていた水瓶で顔を洗う。
 こんこん こんこん
 顔を洗い終えるのと同時に、ドアがノックされた。それにどうぞ、と応える
と失礼します、という声と共に料理の乗った盆を持ったラフィアンが入ってき
て一礼する。
「おはようございます……と言うには、やや遅いとは思いますが……昨夜は、
良くお休みになれましたか?」
 顔を上げたラフィアンは微笑いながらこんな事を言い、ランディはそれには
い、と素直に頷いた。
「そうですか……お食事をお持ちしましたので、どうぞ。済みましたら、昨夜
の居間においで下さい、マスターがお待ちしております」
「わかりました」
「では、失礼いたします」
 相変わらず丁寧な礼をして、ラフィアンは部屋を出て行く。それを見送った
ランディはベッドの方を振り返り、眠たげな様子で顔を擦っているリルティの
姿に口元を綻ばせた。
「おいで、リルティ。ご飯食べよう」
 きゅう!
 微笑いながら声をかけると、妖精ネズミは嬉しそうな声を上げた。

 食事を終えたランディは、胸ポケットにリルティを入れ、居間へと向かった。
居間ではアーヴェルドとウォルス、スラッシュがそれぞれ椅子に座っている。
「よ、起きたか」
 居間に入ったランディに、スラッシュが軽い口調でこう呼びかけてきた。そ
れにうん、と答えてから、ランディはアーヴェルドに一礼して昨日と同じ椅子
に腰を下ろした。
「良く、眠れたかの?」
 アーヴェルドの問いに、ランディははい、と頷く。それから、居間の一画に
並べられた物に気づいてあれ? と不思議そうな声を上げた。ディアーヌの離
宮に置いてきてしまったはずの荷物が、そこに並んでいたのだ。
「あそこにあるのは……ぼくの、鎧? でも、どうして、ここに?」
 戸惑いながら問いかけると、アーヴェルドがほっほっほ、と笑い声を上げた。
「あのまま放っておくと、近衛隊の連中に押収されてしまうからの。ラフィア
ンに回収させておいたのじゃよ。これから、必要になるもんでもあるからな」
 楽しげな説明に納得しつつ、もう一度そちらを見やったランディは、見慣れ
ない鎧に気づいてきょとん、と瞬いた。ランディと同じ簡易鎧なのだが、全体
的にほっそりとした造りの、どうやら女性用の物らしい。その傍らにはすっき
りとしたデザインの細剣が置かれていた。
「あの剣と鎧は……」
 誰の物かと問おうとするのを遮って、
「私の武具です」
 静かな声が響いた。振り返れば居間のドアの所にニーナと、そしてチェスタ
ーの姿がある。ニーナが神聖魔法で治癒を行ったのか、チェスターの身体を覆
っていた包帯は全て解かれていた。
「……あくまで、騎士である事を貫く、と?」
 ウォルスが静かに問うのに、ニーナはええ、と頷いた。ウォルスは処置なし、
という感じで肩をすくめる。
「ま、それはそれで、有り難し。なんせこのメンツと来たら、傷の回復はでき
ても、防御魔法は不足しまくってるからなー」
 スラッシュが軽い口調で言うと、アーヴェルドも確かにの、と言って笑った。
この二人、妙に息が合っている。
「それで、グラシオス卿……」
 笑いが一息つくのを見計らってチェスターが声をかけると、アーヴェルドは
露骨に嫌そうに顔をしかめてみせた。
「すまんが、『卿』などとは呼ばんでくれい。わしゃもう、カティスの宮廷魔
導師ではないんじゃからな。もっと気楽に、名前で呼んでくれんかの?」
「え……はぁ、では、アーヴェルド殿」
 大げさな物言いに毒気を抜かれつつ、チェスターは律儀にこう訂正した。
「うむ、なんだね?」
「姫の救出についてですが、どのような策をお持ちなのですか?」
 静かな問いに室内の空気が一気に張り詰め、スラッシュを除く全員が老魔導
師に注目した。
「状況が状況で、時間的余裕はない。ここは多少無謀でも正面攻勢しかあるま
いな」
 注目する一同に対し、老魔導師は厳かな口調でこう答えた。
「……随分とあっさりした策だな」
 ストレートな言葉に、ウォルスが呆れたような声を上げる。
「でもな、それっきゃないんよ。搦手で行ってもねぇ……あの女がいるからな」
 それに、スラッシュが淡白な口調でこう返した。あの女、とは言うまでもな
く、イレーヌの事であろう。
「でも……それならそれで、ぶつかるだけだよ。絶対……諦められないんだか
ら」
 そして、ランディは静かにこう言い切る。この言葉に、ウォルスが確かにな、
と呟いた。
「さすがは、あのヴォルフの孫じゃの。直線的じゃ」
「……それ、褒めてるつもりだな?」
 にこにこと笑いながら言うアーヴェルドにスラッシュが突っ込み、老魔導師
はほっほっほ、と笑って誤魔化した。とぼけたやり取りに刹那、部屋の中の緊
張が緩む。
「さて、では皆、支度を整えなさい。空間転移で、昨日の部屋に直接乗り込ま
せてやるからの。そうなるとわしは行く事はできんが、何とかなるじゃろう?」
「しなきゃならんのなら、するだけさ」
 からかうような問いに答えるウォルスの言葉は、全員に共通する思いと言え
た。
「あ、そうそう。オレも、ちょい別口で動くからな。用が済んだら、そっち合
流すっけど、なるべく早く終わりにしてくれや」
 突然、スラッシュがぽんっと手を叩きつつこんな事を言って注目を集めた。
「別口でって……一緒に行かないの?」
「いや、そりゃ、行きゃするけど、オレはまずオレの仕事をね、片づける必要
があんのよ。なんせ……」
「……『宮仕えだから』か?」
 きょとん、とするランディへの返事の先を引き取ってウォルスが問うと、ス
ラッシュは明るくご名答〜、と応じる。その様子にウォルスはやれやれ、と肩
をすくめ、ランディはまた、きょとん、と瞬いた。
「仕事って……あの人?」
「さぁね? ま、とにかく、ヤボ用さ♪」
 探るような問いにも、スラッシュはどこまでもペースを崩さずにウィンクし
て見せた。
「……ランディ」
 スラッシュの軽さに毒気を抜かれていると、アーヴェルドが静かに呼びかけ
てきた。
「あ、はい」
「……しっかりな。決して、諦めてはならんぞ、良いな?」
「……はい」
 静かな言葉に、ランディは表情を引き締めて、一つ頷いた。

← BACK 第一章目次へ NEXT →