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   銀の月の照らす夜

 常に雨が降り続け、常に水を蓄える森がある。
 『雨降りの森』。古の大魔法によって造り出されたその森を、人々はそう呼
んでいた。
 大規模な旱魃のもたらした砂漠化からの、文字通りの起死回生をかけて行わ
れた幾つもの禁術と、秘術。それらは絶妙に絡み合い、常に天より恵みの雨を
受ける森を生み出した。
 そして、誕生から数百年を経た今も変わらず、森は水を蓄え、周囲を潤し続
けている。
 とはいえ、その営みは自然のままに行われているのではなく、『管理者』と
呼ばれる者によって細やかに制御されていた。

「……ん。一休み、か」
 ふと途切れた雨音に、『雨降りの森』の『管理者』、レーゲン=クラウト=
エーデルシュタインは読んでいた本から窓の方へと視線をずらした。
 降り続けていた雨は止み、雲が切れて月の光がさしている。レーゲンは本に
栞を挟むと机の上に起き、ティカップを手に取った。
「う……冷めてる」
 一口啜った直後に零れるのは、こんな呟き。本に熱中していた時間の長さを
物語るよに、カップの中の茜色はすっかり冷めていた。
「さて、それじゃ見回りに出るか。こういう夜は、イロイロと騒ぐし」
 冷めた紅茶を飲み干し、かちゃり、と音を立ててカップを置くと、レーゲン
はこう言って立ち上がった。傍らに立てかけておいた銀とサファイアの細工で
飾られた黒い杖を手に、漆黒のローブの裾と、長く伸ばして一本に束ねた同じ
色の髪の先を翻して一人暮らしの小屋を出る。
「……お。いい月」
 外に出て空を見上げたなら、目に入るのは見事な銀色の満月。そこから零れ
た光は森に満ちる水の上を跳ね、幻想的な煌めきを織り成す。
 常に雨が降り続く、と言われている森だが、全く絶える事無く降雨している
訳ではない。供給が過剰となり得るなら降り止む事もあるのだ。もっとも、そ
れは大抵深夜の数時間ほどの出来事のため、知る者は少ないのだが。
「ま、止んだら止んだで、危ないしなぁ……」
 ぼやくように呟きつつ、レーゲンは僅かに露出する地面が作る小道を歩き出
した。
 雨音が途絶えても、水の音が絶える事はない。
 せせらぎの音、滴の落ちる音、水棲生物たちの跳ねる音。
 それらは、雨音が途絶えた事でよりはっきりと耳に届いた。
 その響きに耳を傾け、時折り立ち止まって、水の中の営みを見守る。そんな
感じで森の水瓶の一つである小さな湖までやって来たレーゲンは、急に表情を
険しくして足を止めた。
「……月夜、だからなぁ。まして、銀色月だし」
 月の光を受け、美しく煌めく湖面を見つつ小さく呟く。
 光の乱舞する湖面は言いようもなく美しく、つい引き込まれそうになる。し
かし、それは危険な美しさ。魅入られたなら、喪うばかり。
 それと知るが故に、レーゲンは無言で携えていた杖を構え、湖面に映る月を
見つめた。
 月を映した湖面は小波一つなく、ただ、煌めきで己を、そして周囲を飾り立
てる。
 蒼黒い森の中、そこだけ華やかな銀の月光の舞う空間──その内においては、
黒髪に黒衣、そして黒の杖を携えたレーゲンの姿はどこか異質にも見えた。
 緊張が、空間に張り詰めて行く。その変化を感じたのか、つい先ほどまでは
聞こえていた水生生物の営みの音も今は聞こえない。

 空間に張り詰める静寂──それは、不意に破られた。

 木の葉の上に溜まった滴が、落ちる。
 水と水の触れ合う音、広がる波紋。その広がりを合図とするが如く、湖面の
月が揺らめく。直後、月の向こうに紅い光が二つ、灯った。
「……やっぱ、出るかっ……これだから、銀の満月夜はっ……」
 面倒なんだよ、と。レーゲンが吐き捨てるのと、月が波に飲まれるのとは、
ほぼ同時。急に波立った湖面はその内に秘めていたものを空の月の側へと吐き
出す。飛び散る水飛沫は銀の月光を受け、刹那、宝珠の煌めきを放ってから消
えた。
「わぁ、大物」
 その幻想的な光景の中、レーゲンが上げたのはこんな惚けた声だった。蒼の
瞳は刹那の宝珠ではなく、それを生み出したものへと向けられている。水の中
から飛び足してきたそれ──碧い鱗に覆われた身体に、水晶を思わせる透き通
った翅を持つ尾の長い竜は紅く光る眼で蒼の視線を受け止めた。手足の先の鋭
い鍵爪と、濡れた碧い鱗が銀の月光を跳ね返している。
「っつーか、どっから拾ってきて映すんだろうなぁ、こんな大物の姿とか」
 強大ななる力を持つ、と謳われる竜と対しつつ、しかし、レーゲンには慌て
た様子も臆した風もない。元より感情を表に出すのは稀な気質ではあるのだが、
今回に関しては『わかっているから』というのが理由としては大きいだろう。
 勿論、『わかっているから』こそ、口調と裏腹に蒼の瞳は険しさを強く宿し
ているのだが。
 『雨降りの森』を構築する魔力と、銀色の満月の光がもたらす独特の力の波
動。それらは時折りこうして絡み合い、『水月の魔』と呼ばれる魔性を生み出
す。『水月の魔』は水を素体とし、そこに力を蓄え、自らを形作る。水によっ
て構築されたその仮初の身体は森を離れて外に出た時、初めて実体を得る、と
されていた。
 純粋な力の塊と言える『水月の魔』を狙う者は多く、また、魔の中には衝動
の赴くままに暴走し、破壊に走るものも少なからず現れる。
 森から出すのはあらゆる意味で危険なそれを鎮め、水へと還す。
 それもまた、『雨降りの森』の守人たるレーゲンの重要な役割の一つだった。
「……ま、なんにしたって、このまま外に出す訳にはいかないんだし。還させ
てもらうよっ!」
 言いつつ、レーゲンは手にした杖に力を集中させる。杖の先端を飾る、宝玉
を抱えた銀の竜の細工が煌めき、そこから蒼い光の矢が二筋飛び立った。光の
矢は上昇して避けようとする竜に追いすがり、その尾を掠める。光が弾け、竜
の碧い尾から滴り落ちたのは銀の光の粒子を帯びた水。それは湖へと落ち、複
数の波紋で湖面を揺らした。
 光の矢に傷つけられた竜は、シャッ!と甲高い声を上げてレーゲンを睨む。
紅い眼に浮かぶのは怒りと、そして、問うような色。何故止めるのか、という
疑問。それは、『水月の魔』と対峙する度に必ず向けられるものだった。
「……なんで、って聞かれても、ね」
 その色に返すのは、小さな呟き。答えの代わりに再び光の矢が放たれるが、
今度は竜が動く方が早かった。透明な翅が動き、竜は高速でレーゲンへと迫る。
「わ、とっ!」
 鋭い爪が銀の月光を弾き、その煌めき追うように、紅が夜空に弧を描いた。
レーゲンは紅の源──爪に裂かれた右の上腕を抑えつつ、上空へ飛び上がった
竜を見る。
「ってぇなぁ、もう……おイタすると、本気出すよー?」
 眉を寄せながらこんな事を言うものの、手を抜くつもりは最初から、ない。
その意思は伝わっているのか、竜はぐるるる、と低い唸り声を上げた。こちら
も、引く気はない、と。紅い眼に宿る光ははっきりそう物語っている。
 その光にレーゲンは薄い笑みを浮かべつつ右腕の傷口を見、それから、ゆっ
くりと抑えていた左手を外した。爪の一撃は決して浅くはなく、抑えていた手
のひらにはべっとりと紅い色が残っている。今回は運良くそうはならなかった
が、当たり所によってはその部分を完全に持っていかれるか、でなければ最悪
の事態も十分にあり得るだろう。
「どっちも願い下げって言うか、この怪我だけでも後々ウルサイの目に見えて
るからなぁ……て、訳、で」
 ぼやくような口調で言った後、レーゲンは杖を右手から左手へと持ち替えた。
一瞬だけ緩んだ表情が再び険しさを帯びる。杖の先の銀とサファイアが煌めき、
ぽう、と蒼い光が灯った。
「……あまねく生命潤す水。
 我と、永久なる盟を結びし水。
 それを束ねし数多なる王の一。
 大海統べし滄の竜王。
 我が言に応え給え」
 静かに紡がれる言葉に合わせ、光がその強さを増してゆく。ただならぬ気配
を感じたのか、竜が威嚇するような声を上げた。
「……我は、願う。
 『変化』司りし水の力。
 それを破の力となし。
 ここに、集わせん事を……!」
 紡がれてゆくのは、水の力を司る竜王への祈願。世界を構築する様々な力の
流れ司り、正しき在り方を保たせる強大なる存在へ直接呼びかけられる者はそ
うはいない。力あるが故に、過剰な干渉を嫌う竜王たちは、自らが認め、盟を
結んだ者以外にはその力を貸し与えようとはしないのだ。
 その竜王への呼びかけを行っている、という事。それは、レーゲンの力の程
を何よりも端的に表していると言えた。
「……さて、と」
 祈願の詞を唱え終えると、レーゲンは改めて湖上に浮かぶ竜を見た。竜はレ
ーゲンの周囲に渦巻く力を警戒しているのか、低く唸るだけで仕掛けては来な
い。
「『水月の魔』……ホント、悪いんだけど外に出してやる訳には行かないんだ
よね」
 低い声で呼びかけつつ、レーゲンは今は全体が蒼く輝く杖を、両手で持って
水平に構えた。
「それが……オレの、守人としての役目だし……それに」
 杖から零れた光が周囲の水へと落ちてゆく。水は蒼の光を取り込み、その表
面を波立たせた。
 水音が、少しずつ大きくなりながら森に、そして、空へと広がっていく。
 その音の中、竜は前に向けて軽く、身体を丸めるような仕種を見せた。透明
な翅が、小刻みに震えている。
「……それに、オレは。護らないと、ならないんで……ねっ!」
 言葉と同時、レーゲンはくるり、と杖を回転させた。その動きに合わせるよ
に、蒼の光を取りこんだ水が渦巻く水柱となって空へと立ち上る。それとほぼ
同時に、竜が丸めていた身体を伸ばして口を大きく開いた。真紅の口腔、その
奥から勢いよく水が噴き出しレーゲンへと向かう。レーゲンは舌打ちをすると
杖を軽く前へと振り、水柱の一つを迫り来る水流へと叩きつけた。
 水と、水とのぶつかり合い。辺りに飛沫が散り、無数の波紋を生み出す。飛
び散る水が全身を濡らすのも構わず、レーゲンは水流と押し合う水柱へ、更に
力をかけた。
 蒼の輝きが湖面を、そして森を染め上げ、銀月の煌めきをかき消す。
 銀の月光が薄れたためかそれとも他に理由があるのか、その瞬間、水流の勢
いは明らかに弱まった。力の均衡が崩れ、渦巻く水柱は水流を取り込みながら
竜へと向かって行く。それにやや遅れて残る水柱が竜の周囲をぐるりと取り巻
き、一斉に押し寄せた。蒼く輝く水柱は竜を中心としてぶつかり合い、一つの
大きな水竜巻へと自らを変化させて行く。
「『水月の魔』……銀月の妖しなる波動を散らし、静謐なる水へと還り行け!」
 水竜巻の立てる音、それをも制して鋭い声が響く。
 レーゲンは左手に握った杖を頭上高く掲げ、水竜巻の内に込めた力を解放し
た。
 蒼い輝きが膨れ上がるよに広がり、刹那、全ての色を飲み込む。その広がり
に重なるよに、竜が一声、咆えた。断末魔のそれはどこか哀しげな響きを帯び
ていたものの、レーゲンは表情を変える事無く、竜が自らを構築する力を放出
して水竜巻に飲まれてゆくのを蒼の瞳で見届けた。
 碧の竜を飲み込み、その身に秘めた銀月の力を食らい尽くすと水竜巻はその
うねりを止め、形を失って湖へと崩れていく。それが立てる波がしばし湖面を
かき乱し、その波が静まると、森の中の湖はしばし静寂に包まれた。
「……はあ……やれやれ」
 その静寂を、やや大げさなため息が打ち破る。レーゲンはかざしていた杖を
下ろすと、やや伏せた目で湖面に映る銀月を見た。
「……外に、出たいって気持ちは……わかんなくもないんだけどね」
 零れ落ちるのは、ごく小さな呟き。伏した蒼の瞳には微かな翳りが浮かんで
いたものの、それはすぐに閉じた目蓋に覆い隠され──
「しっかし、まいったなぁ。この怪我見られたら、絶対ウルサイよなぁ……」
 次に目を開き、こんなぼやきを漏らす頃には翳りなどどこにも見えはしなか
った。濡れてはり付く髪を押しやりつつ、レーゲンは傷口を見て、またため息
をつく。何度も水飛沫を浴びて一時は洗い流されていた傷口には、再び紅が滲
んでいた。
「ま、さすがに今夜はもう何も出やしないだろうし……降り出す前に、戻るか。
ローブも、繕わないとなんないしなぁ」
 やれ面倒な、と。そう言わんばかりの口調で言いつつ、レーゲンは空の月を
見る。銀色の月は今の騒動など知らぬよに、静かな光を放っていた。
 その輝きに僅かに目を細めた後、レーゲンは月に背を向け歩き出す。
 それとほぼ同時に、どこからともなく零れた滴が湖面の月へと落ち、波紋を
広げてその姿を揺らした。


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『突発性競作企画:再・月夜』