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   曼珠沙華 血の紅に 繚乱し

 何事もなく、ヒマだった。
 診療所という物はヒマでなんぼ、それが何より……と言うのが信条の彼、呪
術医師・樫村秀一にとって、それは最高の状況……では、あるのだが。
「さすがに、ヒマ過ぎっかこりゃ……」
 がらんと人気のない診療所で、ぽつりとこんな呟きをもらす。相槌を打つ者
もいない、一人きりの空間。人的騒音を嫌う樫村にとっては、これまた最高の
空間なのだが。
「さすがに……なあ」
 ここまで何もする事がないと、逆に息苦しくもなる。
「……絵描きにでも、行くかあ」
 有り余る時間の使い道を定めると、樫村は立ち上がってよれよれの白衣を脱
ぎ、椅子の背に引っ掛けた。奥の自室に入り、着古しのジャケットを羽織る。
本棚の横の箱からA4サイズのスケッチブックと色鉛筆を入れたペンケースを
取り出して抱え、最後に、机の中から眼鏡を出してジャケットの胸ポケットに
入れた。
「シュウせんせ、おでかけなの?」
 診療所を出て戸締りをしていると、可愛らしい声が問いかけてきた。振り返
ると、近所に住む幼い兄妹・将と千鶴がきょとん、とこちらを見つめている。
問いかけてきたのは、妹の千鶴の方だった。
「ああ、ちょっとな。なんかあったら、すぐにケータイに連絡しろよ?」
 兄妹の頭をそれぞれ撫でてやりながら穏やかな口調でこう言うと、二人はは
ーい、と元気良く返事をする。
「でもシュウせんせ、けんが、いっちゃやだよ? おはなし、できないから」
 返事の後に、千鶴がやや不安げにこう付け加えた。
「ちー、『けんがい』だよ」
 舌足らずな妹の言葉を将が補足するのが何とも微笑ましい。思わず口元を綻
ばせつつ、樫村はりょーかい、と言ってもう一度二人の頭を撫でた。
「んーじゃ、行って来るからな」
「はーい、行ってらっしゃーい♪」
 軽く言って歩き出す背に、兄妹が元気良くこう呼びかけてくる。樫村は肩越
しに振り返りつつ、二人に手を振った。
「やれ、やれ……仲がいいやな、あの二人は」
 連れ立って歩き出す姿にふとこんな呟きをもらしつつ、樫村は宛もなくふら
ふらと歩き始めた。そも思いつきの行動なのだから、宛がある訳はないのだが。
「んー……ここらで、いいか」
 一時間ほど歩き回ってから、樫村はススキの生い茂る野原で足を止めた。集
落部からだいぶ離れているためか、人の気配はない。さすがに、ここまで遊び
に来る子供はいないようだ。
「さて、と」
 ススキを掻き分けるようにして奥に進み、手頃な石の上に腰を下ろす。スケ
ッチブックを開き、ペンケースを開けた所でジャケットのポケットに入れてお
いた眼鏡を出してかけた。
 別に、目が悪い訳ではない。視力は両眼共に1.8を下回った事などないの
だから。眼鏡をかけるのは、それとは別の理由でだ。
「……」
 冷たくなってきた風にゆらゆらと揺れるススキの穂を目で追い、色鉛筆でそ
の姿をスケッチブックに写し取って行く。風と、風が草木を揺らす音だけが響
く、涼しげな秋の静寂。その静寂にのめり込むように樫村は色鉛筆を踊らせて
行き――。
「……ん?」
 違和感を覚えた。
「……なんだ?」
 目の前の、ススキの群れ。その奥に、奇妙なものを感じる。一言で言うなら、
妖しのものの気配だ。
「ちっ……験、わりいな……」
 気づかなければそのまま放置しても良かったのだが、気がついてしまった。
それでは仕方ない……と言う訳で、樫村はひとまず色鉛筆を置いて、スケッチ
ブックを閉じる。
 それまで静かだった風が、鋭い唸りを上げたのはその時だった。
「……っ!?」
 シャッ!という音が駆け抜け、それに一瞬遅れて紅い色彩が飛沫を上げる。
「なんだよ、おい……」
 紅い色彩の乱舞に遅れて、左の上腕部に痛みが走った。いつの間にそうなっ
たのかはわからないが、袖の部分が裂けて紅い色彩が滲んでいる。腕が切れて
血が出ている、というのはすぐにわかったのだが。
「かまいたち……? って、こんなとこでかよ?」
 見た目の派手さに比して浅い傷と、すぱっと裂けたその様子に、樫村は冷静
な分析を巡らせる。だが、悠長に構えている場合では、なかった。
 ヴヴンっ!!
 再び風が鋭く鳴った。それが何を意味するのかは、説明を要求するまでもな
い。今、樫村の左腕を切り裂いたものが再び発生する合図だ。
「やってらんねえっ……! 風符!」
 無事な右手で愛用の札をどうにか抜き取り、風を発生させて襲いかかる風を
強引に相殺する。この反撃は相手にとっては予想外だったらしく、それがわず
かな隙を生じさせる。その隙をつくように、樫村はスケッチブックとペンケー
スを拾ってそこから駆け出した。どう対処するにしても、まずは態勢を整えな
くてはならないからだ。
「……取りあえず……向こうの縄張りは抜けたか……」
 しばらく走ってススキの野原を出ると、周囲の雰囲気が一変した。変わった、
というよりは、当たり前の空間に出た、というべきかも知れないが。樫村は一
つ息を吐くと、いつも持ち歩いている包帯をポケットから引っ張り出す。
「あー、めんどーな……」
 自分の利き腕を縛る事ほど面倒な事はないが、このままにもしておけない。
ぶつぶつと文句を言いつつジャケットを脱ぎ、口も使って傷口を強引に縛ると、
樫村は空を見上げて嘆息した。
「さって、どうしたもんか……」
「どうしたも何も、放置するなど言語道断ですよ」
 何気なくもらした呟きに、何者かがこんな突っ込みを入れてきた。その声に
危機感を覚えた樫村はばっと後ろを振り返り、
「でええっ!? 妖怪ババア、なんでここにっ!!」
 そこに立つ者の姿に思わずこんな声を上げていた。この言葉に背後に立って
いた者――真紅の小袖に身を包んだ女性は、形の良い眉を寄せる。見た感じの
年齢は三十代半ば、『ババア』というほどの年齢とは思い難いのだが。
「妖怪ババア、とはなんです。まったく、相変わらず口の利き方がなっていま
せんね、あなたは」
「やかましい! 二十五年前、いや、それ以前からそのまんまのナリしてんの
が、妖怪ババアでなくてなんなんだよ!」
 妙に声を上擦らせつつ、樫村はこう反論する。それに対し、女性は妙にわざ
とらしいため息をついた。
「わたくしが妖怪なら、あなたは何なんです、秀明?」
「……そっちの名前で呼ぶな」
「では、わたくしのことも妖怪などとは言わぬように」
 一転、渋い顔になった樫村に、女性はにこりと微笑んでこう言った。その笑
顔に敗北を悟った樫村は、ため息をついてばりばりと頭を掻く。
「わーったよ……んで? 桂木の宗主、煌宮サマが、オレに何か用なワケ?」
 投げやりな問いに女性――煌宮はその表情を微かに引き締めた。
 桂木煌宮。彼女は桂木一族と呼ばれる、ある特殊な一族の頂点に立つ存在で
あり、樫村に力の使い方を教えた師とは旧知の仲であるらしい。
 樫村が煌宮に初めて会ったのは二十五年前、四歳の時なのだが、その時から
彼女の容貌には変化らしいものがなかった。樫村が煌宮を『妖怪ババア』と呼
ぶのはこの変わらない容貌と、その秘めた力故の事だった。
「昔張った結界が、綻んだようなので様子を見に来たのですよ。どうやら、奥
にいたものが目覚めたようですわねえ……」
 何気ない口調で言いつつ、目が怖い。どうやら、樫村がこのススキの野原に
入る際に無意識に結界を破ったと、責めているようだ。
「結界を張り直すんなら、原因を取り除くぜ。ここらにも宅地が広がるかも知
れねーからな」
 煌宮の言わんとする所に気づいた樫村は、深く、深くため息をつきつつこう
言った。
「そうしてもらえると、助かりますわねえ……では、これを返しておきましょ
う」
 一転、明るい笑顔でこう言うと、煌宮は手にした包みを樫村に握らせた。布
で丁寧に包まれたそれは、どうやら刀剣の類らしい。そしてそれが何か、樫村
は見るまでもなく理解したようだった。
「……おい」
「健闘を、祈りますよ」
 渋い顔で睨みつつの低い言葉を笑顔で受け流すと、煌宮はゆっくりと踵を返
した。長く伸ばした黒髪がさらりと揺れ、立ち込め始めた夜の闇の中にその姿
が消える。
「妖怪ババアめっ……厄介事だけ押し付けやがって!」
 包みを握り締めつつ吐き捨てた、その直後。
 ぐわんっ!
 無空間から何の前触れもなく落ちてきた金ダライが樫村の頭を打ち据え、鈍
い金属音を響かせた。

 そんな経緯はともかくとして。
「……ま、ほっとけねえのは確かだからな」
 こんな理屈で強引に自分を納得させつつ、樫村は再びススキの野原に踏み込
んだ。ゆっくりと、警戒しつつ歩みを進めるが、取りあえずかまいたちが襲っ
てくる気配はない。
 やがて、先ほど絵を描いていた場所まで戻って来ると、樫村はずっとかけて
いた眼鏡をゆっくりと外し、目を閉じて深呼吸をした。
 樫村がかけていたのは、普通の眼鏡ではない。霊的なもの、妖しのもの、そ
んなものの存在を遮る特殊な霊鏡だ。いつもは意識して力を押さえ、そういっ
たものを無闇に見ないようにしているのだが、絵描きに集中するとそのセーブ
が効かなくなってしまう。そして、制御できない感覚のままに通常は見えない
ものを描いてしまう事が多々ある。
 それを避けるために絵を描く時は霊鏡を必ずかけているのだが、今回はそれ
が裏目に出て、ここにいる妖しのものに気づく事ができなかったのだ。
「……」
 目を開けて、感覚が解放された視界に入ったのは紅い色彩。血を思わせる、
鮮烈な真紅の花だった。緑の鮮やかな真っ直ぐな茎の先に、幾つもの花が群が
って咲いている。独特とも言えるその形は、容易にその名を思い出させた。
「……曼珠沙華か?」
 彼岸花、あるいは曼珠沙華と呼ばれるそれは、秋に咲く花として知られてい
る。だが、今そこにあるそれは明らかに自然の物ではない。花びらの紅は鮮烈
に過ぎ、それが放つ光が夜闇を不自然に押し退けている。
「……これじゃ、別名の方がしっくり来るな……死人花ってか!」
 叫び様、手にした包みを解き、現れた刀を抜刀して横なぎに払う。抜き放た
れた白刃が、襲いかかってきたかまいたちを叩き切った。煌宮から渡されたそ
れは、普通の刀ではない。『霊刀』と呼ばれる類の物だ。その秘めた力故に、
自然ならざるものに干渉する事ができる。
 緋色の柄糸の鮮やかな刀を手に、樫村は咲き乱れる曼珠沙華の中に踏み込ん
だ。
『……来ないで!』
 直後に、甲高い声が周囲に響き渡る。どことなく幼い、少女の声だ。
「……げ、女かよ……」
 その声に樫村は露骨に嫌そうにこう呟いていた。生来、女嫌いを自称してい
る彼だが、こういう土地や物に縛られるタイプは特に苦手なのだ。
「ちきしょ、ビンボークジ引かされたぜっ……」
 そう言う問題でもないと思われるのだが。
『来ないで、来ないでったら!』
 文句を言いつつも前に進む樫村に、声は更に訴えかける。
「あー、うるせー! 先にケンカ売ってきたのはそっちだろうが! 今更来る
なっつわれても、そうはいかねーんだよ!」
 それに、樫村は露骨に苛立った口調でこう怒鳴り返した。
『来ないで! ここにいなきゃ、いけないんだから!!』
「はあ?」
『約束したんだから! ここで待ってるって! 約束してくれたんだから!! 
必ず、迎えに来るって!!』
「……」
 声の訴えに、樫村の様子が一変した。露骨な苛立ちが失せ、感情らしきもの
が表情から消え失せる。それに伴い、重苦しい沈黙が場に立ち込めた。
「……バカか、お前は」
 淡々とした言葉が、その沈黙を取り払う。
「迎えに来るって約束してくれた? ……だったら、なんで、お前はここにい
るんだよ?」
『だって、待ってるって、約束したから!』
「冷静になれ。その『約束』から、どんだけ時間が過ぎてんだよ?」
『時間なんてたってない! 約束の花がまだ、咲いてないもの!!』
「……約束の花?」
『そうよ! 曼珠沙華が咲いたら、迎えに来てくれるんだから!』
 絶叫にも似た言葉に、樫村は周囲を見回した。周囲には、血のように紅い曼
珠沙華が咲き乱れ、美しくも妖しい光景を織り成している。
「……この、満開になってるのは、なんなんだよ?」
『それは、古い花だもの! 約束した時に、咲いてた花だもの! 約束の花は、
まだ、咲いていない……蕾のままだもの!』
 声の訴えに、樫村は冷静に分析を巡らせた。
 血のように紅い曼珠沙華。それが暗示しているのは、かつてこの場であった
であろう流血。それと、交わされたという約束から、大体の事情は察する事が
できた。
 この声の主は、相当古い時代の者なのだろう。肉弾戦が主の、戦乱がまかり
通っていた時代までさかのぼれるのではなかろうか。
 そして、この地が戦場になった際に、恐らくは戦いに行く恋人か何かと、再
会の約束を交わし――そして、それは果たされなかったのだろう。恋人が生命
を落としたのか、それともこの少女がここで生命を散らしたのか、それは定か
ではないが。
 いずれにしても、その果たされる事がなかった約束が少女をこの地に縛りつ
けているのは、間違いなかった。そしてこの地を離れまい、とする意思が近づ
く者に無差別の攻撃を仕掛けたため、煌宮はここを封じた……というのが、大
体の顛末だろう。
「とっとと祓っちまえばいいだろうに……くだらねえ情け、かけてんじゃねえ
よ、妖怪ババア……」
 低く呟くと、樫村は手にした刀をすっと前へ向けた。
「オレは、お前に情けをかける謂れはねえ。だから、はっきり言うぞ……その
約束は、はたされねえ。だから、さっさと成仏しちまえ」
 容赦ない言葉に、周囲の大気が揺れた。
「どう考えたって、その約束した相手、死んじまってんぜ? ま、勿論お前も
だけどな。だから、ここにいたってどうにもならねえんだ。とっとと上がって、
輪廻の輪に入っちまえ。その方が……」
 その方がまだ、巡り会える可能性がある――という言葉は、最後まで言えな
かった。
『そんな……そんな事、ないっ!!』
 絶叫と共に周囲の大気が揺れ、無数の大気の刃が襲いかかってきたのだ。
「ちっ……だから、女はメンドくせえんだってんだよ!」
 苛立ちを感じつつ、樫村は刀を両手で持って振りかぶり、大上段から振り下
ろした。瞬間、白刃がその長さを伸ばして荒れ狂う風の刃を強引に叩き切る。
刀はそのまま、前方に群生するススキをも真っ二つに叩き切っていた。
 風の中に断ち切られたススキの穂や葉が舞い、道が開く。ススキの茂みの奥
にも、血の色の曼珠沙華が咲き乱れていた。
 鮮やか過ぎる繚乱。そこには、美しさと共に言い知れぬ重苦しさが立ち込め
ている。そしてその中心に一株だけ、蕾を硬く閉ざした曼珠沙華があった。
「それが、依り代か!」
 低く呟いて、樫村は走り出す。
『やめて! やめてよ!』
 少女が再び絶叫するが、樫村はためらう事なく、手にした刀を蕾の曼珠沙華
へと振り下ろし――。

『いやあああああああっ!!』

 絶叫と共に、真紅が弾けた。

――約束、するから――
――この花が咲く頃には、きっと――
――きっと、迎えに来るから――
――だから……待っていて――

 蕾の曼珠沙華を断ち切った瞬間、微かな声が聞こえた。それは、蕾の中に閉
ざされていた約束の言葉だったのだろうか――。

「……できもしねえ約束、するんじゃねえよ……バカが」
 微かな苛立ちを込めて吐き捨てつつ、樫村は刀を一振りしてから鞘に収めた。
その目の前に、小さな紅い光が舞い降りる。依り代を無くした少女の、思念の
残滓だ。樫村はポケットの中から無地の札を一枚取りだし、その光にかざす。
札は光を吸収し、何も描かれていなかったその表面に真紅の曼珠沙華が浮かび
あがった。
「……仕方ねえ、後で、瑞穂に供養頼むか……」
 ため息まじりに呟きつつ、樫村は札をポケットに押し込み、周囲を見回した。
ススキの野原は何事も無いように穏やかに広がり、真紅の曼珠沙華ももうどこ
にも見えない。
「曼珠沙華なんて、約束の印にしてんじゃねーよっとに……」
 ぶつぶつと文句を言いつつ、ススキの野原を出る。置き去りにしていたスケ
ッチブックとペンケースを拾い上げた樫村は、ふとある事を思いついた。札を
一枚取りだし、それで小さな光の球を作り出して明かりを確保し、スケッチブ
ックを開く。開いたのは、先ほどススキの野原を描いていたページだ。続けて
ペンケースの中から緑と赤の色鉛筆を取りだし、ほぼ完成していた絵に何やら
描き加える。
「……ま、こんなもんか」
 それから五分ほどして、樫村はこんな呟きと共に手を止めた。ススキの根元
に、色彩鮮やかに花弁を広げた曼珠沙華が一株、描き加えられている。
「さって、遅くなっちまったな。そろそろ帰らねーと、チビどもに心配かけち
まう」
 何事もなかったようにこう言うと、樫村はスケッチブックを閉じた。色鉛筆
を片付け、刀を元のように布で包み込んだ樫村は、ゆっくりと歩き出す。

 涼しい夜風が吹きぬけ、群生するススキをざわり、と揺らした。

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突発性企画「紅」