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   ACT−2:狭間の街に潜むもの 04

 静かにゆっくりと。ごく何気なく。
 そう心がけながら、アキアはゆっくりと歩みを進める。神官衣に身を包み、
薄絹のヴェールを引き被ったその姿は、誰が見てもフェーディア教の女性神官
だ。勿論、それを装う当人にとっては嬉しくないのだが。
「……?」
 薄暗い路地を歩き出して数分が過ぎた時、アキアはふと人の気配を感じた。
こちらを伺うような気配――それに気づかぬフリをしつつ、アキアはゆっくり
と歩みを進める。
(……かかった、か……?)
 気配が自分を追ってくるのを確かめると、アキアはやや歩調を速めた。外見
的には、いわれのない不安にかられて駆け出した、という感じに見えるだろう。
ついてくる気配もそれに合わせて速度を上げた。どうやら、餌に食いついたら
しい。それと確かめるとアキアは更に足を早め、
「……っ!!」
 唐突に目の前に現れた影に、演技は抜きでぎょっとしつつ足を止めた。その
まま、くずおれるようにその場に座り込む。さし込む月光が目の前の影を微か
に照らし出している。震える様子を装いつつヴェールの陰から伺うと、昨日見
たのと同じ黒服が目に入った。
(……かかった!)
「……声を上げるな」
 手応えを感じた直後に、目の前の黒服が低い声を上げた。アキアはヴェール
を引き被り、恐怖で声も出ない、といわんばかりの様子を作って見せる。そう
こうしている内に、後ろからの気配も追いついてきた。こちらもやはり、前に
立つのと同じ黒服だ。
「……騒がなければ、手荒な真似はしない……大人しく、我が神の下へ……」
(……神だって?)
 棒読みのように一本調子の言葉に疑問を感じた直後に、腕が掴まれた。どう
やら向こうは、アキアが恐怖にすくんでいる、と判断したようだ。二人の黒服
はゆっくりとアキアを立たせ、それから、前に現れた方が懐から何やら取り出
して掲げる。
(……あれは……聖印か?)
 そう考えた矢先に、掲げられたそれが蒼い光を放った。光はくるりとその場
にいる三人を包み込み――そして、三人もろとも、消え失せた。先ほどまでと
変わらぬ静寂が路地を包み込むが、それは唐突に打ち消される。
「……まったく……」
 不意に、呆れ果てたといわんばかりの呟きがこぼれ落ちたのだ。紫色の光が
弾け、そこから滲み出るように黒い人影が姿を見せる。
「お気楽と言うか脳天気と言うか……何を考えているんだか……」
 処置なし、と言わんばかりにこう言うと、黒い人影は夜空を仰いだ。
「不本意だが……今回は、手を出すか……まったく」
 ぶつぶつと文句を言いつつ人影はくるりと踵を返し、紫の光の中へと戻って
行く。光が弾けて消え、今度こそ路地は静かな夜を取り戻したようだった。

 静寂。
 その瞬間、そこにあったのはそれだけだった。薄暗闇と共に空間に張り詰め
ていたそれは、不意にかき消される。ブウン……という鈍い音と共に人影が現
れたのだ。黒服に身を包んだ二人の男と、彼らに捕えられた、一見すると美貌
の女性神官――アキアが現れると、それを待ち受けていたかのようにさあっと
暗闇が退いた。
「………………」
 周囲が明るくなると、アキアはヴェールの陰から様子を伺った。目に入るの
は荒削りな岩壁と、そこに掛けられた蒼白い灯火だけだ。神がどうのと言って
いたわりに宗教的な雰囲気は微塵も感じられず、それが妙に気にかかった。
(この雰囲気……まさかな……)
 ふと過る嫌な予感に、アキアは微かに眉を寄せる。かつて見た、ここと良く
似た雰囲気の場所がそれを更にかき立てた。
「……ついて来い」
 周囲を観察していると、男がぼそりと呟いて歩き出した。アキアは怯えた様
子を装いつつ、それについて行く。最初に現れた部屋と同じく荒削りな岩壁の
続く廊下をしばらく歩いて行くと、蒼い光に満たされた空間に出た。今までと
は明らかに異なる雰囲気にアキアは僅かに顔を上げて周囲を見回し、
「……っ!?」
 息を飲んだ。
 今まで通ってきた廊下と同じ、荒削りな岩壁を持つ天井の高いホール。天井
の高さから察するに、ここがまだアイルグレスだとすると相当な地下のようだ。
ホールの奥には階段状の祭壇らしきものが設えられ、段ごとに蒼い火が灯され
ている。
 アキアを絶句させたのはその祭壇の奥にある、奇妙な像だった。岩壁から直
接削り出した巨大な彫像は、どうやら何かの神を象っているらしい。人や動物
など、それぞれ形状が異なる八本の腕と、鳥と蝙蝠の翼を備えたその姿は明ら
かに創世神話の女神とは違うものだ。そしてその姿に、アキアははっきりとし
た見覚えがあった。
(……予想通り、という事か……)
 ヴェールの下で表情が厳しさを帯びる。できれば当たっていて欲しくなかっ
た予想だけに、苛立ちも大きい。
「……新たなる『力』を、お持ちいたしました」
 そんなアキアの様子に気づく事なく、男の一人が祭壇に向けて淡々と告げた。
それに応じるように祭壇の上に黒い影が揺らめき、司祭らしき男が姿を見せ、
ご苦労、と短く答える。微かに覚えのある声にアキアは祭壇の上へと視線を向
けた。男たちと同じ黒一色の法衣に身を包んだ司祭らしき人物がそこに立って
いる。覆面付きのマントを羽織っているため顔は見えないが、声から察するに
男なのは間違いなかった。
(今の声は……まさか?)
 疑問を感じていると、祭壇の上の司祭がこちらに目を向けた。アキアはとっ
さに目を伏せて視線を合わせるのを避ける。その態度を、どうやら向こうは恐
怖による萎縮と受け取ったようだった。
「……ご苦労であった。では、『儀式』の時まで、控えさせておくように」
 どことなく満足げにこう言うと、司祭は現れた時と同様、揺らめくように姿
を消す。男たちは恭しげな礼をしてそれを見送ると、再びアキアを促して歩き
出した。今度は祭壇の間の横合いに開いた廊下へと進む。しばらく進むと、幾
つもの扉が並ぶ空間に出た。男の一人が扉の一つを開け、もう一人が押し込む
ようにアキアを部屋の中に入れる。
 扉が閉まり、鍵がかかるがしゃん、という音が響くとアキアはふう、と息を
ついた。一度扉に張りついて外の気配を伺うが、どうやら男たちは立ち去って
しまったらしい。それと確かめるとアキアはもう一度、今度はより深くため息
をついてから室内を見回した。
 簡素なベッドと、テーブルと椅子が一組あるだけの小さな部屋だ。室内を照
らしているのはここに来るまでにあったのと同じ蒼白い灯火で、それは何とも
言えない不気味さを醸し出している。
「さて……潜入には成功したわけだけど……」
 取りあえずベッドに腰を下ろしつつ、アキアはふとこんな呟きをもらした。
「これからどうするか、だな……」
 呟きの直後にまたため息が出る。祭壇の間で見た奇妙な神像は、できれば考
えたくなかった可能性を現実としてしまった。とはいえ、それを嘆いている暇
はないだろう。
 あの男たちは、アキアの事を新たなる『力』と称していた。それが何を意味
するかは、状況から容易に推し量れる。恐らくは、彼らの『神』への捧げ物と
言った所だろう。今まで行方不明になった神官たちも、そのためにここに捕わ
れていると見て間違いはない。
「それはそれとして、だ……問題は……」
 現状で問題と言えるのは、あの司祭の事だ。覆面でくぐもってはいたものの、
あの声には聞き覚えがある。
「……まさかとは、思うがな……生きていたってのか……? しぶとい」
 苛立ちと呆れとをこめつつ嘆息すると、アキアはポケットに忍ばせておいた
愛用の髪留めを取り出した。それから、細工の中央の見事な螢石に向けて意識
を集中する。
「……悠久の盟約において、『封印師』の一族が汝に命じる……」
 低い呟きに応じて、螢石が淡い光を零した。
「『地』に属す者よ。この深き地の底に在りし事象を我に示せ……」
 続く呟きにその光は弾け、周囲の壁や床へと飛び散って消える。しばし間を
置いて、頭の中にこの地下空間の様子が伝わってきた。アキアの求めに応じ、
地の精霊ノームたちが情報を伝えてきたのだ。
 祭壇の間の天井の高さから予測していたが、ここはかなり地下深い所にある
らしい。構成は最初に現れた部屋と、祭壇の間。そしてアキアが今いる小部屋
の集中した空間と、雑多な物置。人間の生活空間と呼べる場所はこの小部屋の
集まりだけらしい。そして、ここにはアキアの他にも数人が捕われているよう
だった。皆、フェーディア神殿の神官衣を着ている。行方知れずになった神官
たちだろう。どうやら全員、無事のようだ。
「さて……どうやって、潰すかな」
 場所の構成を把握すると、アキアは低く呟いた。最初は潰すだけ潰して、あ
とは神殿に任せるつもりでいた。しかし、どうやらそうも行かないらしい。見
過ごす訳にはいかないのだ、八本腕の神像を崇める者だけは。そしてその存在
を広く世に知らしめる事もできない。となれば全力で、跡形もなく潰さなくて
はならないのだ。
「まったく……大人しくしていればいいものを……」
 ため息まじりに呟きつつ、アキアはゆっくりと立ち上がった。髪留めをポケ
ットにしまい込み、ゆっくりと扉に近づく。鍵はかかっているが、人の気配は
ない。どうやら、逃げ出す可能性など考えてはいないようだ。
(余裕なんだか、読みが甘いんだか……)
 どちらにしても好都合には違いない。アキアは一つ深呼吸をすると、扉の取
っ手に手をかざした。かざした手に淡い蒼の光が灯り、次の瞬間、それは短い
気合と共に撃ち出されて鍵を打ち砕く。音を立てないように気をつけながら扉
を開け、蒼白い灯火に照らされた広間に出る。
「さて……これから、どうするかな?」
 他の神官たちを先に助けるか、それとも頭を潰すか……そんな思案を巡らせ
ていると、背後の大気が不自然に揺らめいた。

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