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   01

 ふと気がつくと、周囲に仲間の姿はなく、彼は一人で走っていた。
 前人未到の魔域への挑戦。得られる物よりも、失う物の方が多い事は、ある
程度は予測していた。そして、現実は全くその通りに彼らにのしかかって来た。
ここに至るまでに苦楽を共にしてきた仲間の姿は傍らになく、彼は、ただ一人
で走っていた。
 多くを見てきたつもりだった。多くを知っていたつもりだった。だが、虚無
的な砂漠を越えた先にあった現実は、そんな自信を幼稚な思いあがりとして一
蹴し、若さ故の挑戦を冷たくあざ笑う。その嘲笑に追いたてられるように、彼
は、ひたすら走り続けた。
 そして……。
「……!?」
 砂に埋もれた遺跡の最深部。そこにあるものを見た瞬間、彼は目を疑った。
「……赤ん坊……?」
 呆然とした呟きが口からもれる。その呟きの示す通り、彼の目の前には安ら
かな表情で眠る赤ん坊の姿があった。

 その発見が何を意味するのか、その赤ん坊が何者であるのか。それらの疑問
に答えを出せる者もないまま時は流れ、それから、十六年の歳月が流れた。

 シェルナグアの街。大陸の中央部に広がる魔域・死の砂漠から最も遠く離れ
た街の一つである。周囲を山に囲まれたこの地方は他の地域に比べて緑を多く
残し、また、取り巻く山々が天然の要害の役割を果たす事で、野盗や怪物の襲
撃から守られていた。そんな平和な環境故か、この地に住む人々は温厚な気質
をしており、街には他所ではあまり見られない、孤児たちを引き取って育てる
施設も作られていた。
「……シーラお姉ちゃーん!」
 いつものように畑の作物の世話をしていたシーラは、自分を呼ぶ子供の声に、
ゆっくりと顔を上げてそちらを振り返った。直後に、走って来た子供たちの一
団が周囲を取り囲む。
「どうしたの、みんな?」
「あのね、あのね、ルフォス様がね、すぐに来てって!」
 額の汗を拭きつつ問うと、先頭の子供が元気良く用件を伝えた。
「ルフォス様が……?」
 突然の呼び出しにやや戸惑うものの、ともあれシーラはわかったわ、と頷い
て立ち上がり、収穫したばかりの青菜の籠を抱え上げた。
「みんなはこれからどうするの?」
「あのね、川にね、お魚とりにいくの!」
 問いかけには、まだ幼い少年が舌足らずな口調で応じた。
「そうなの。でも、気をつけてね?」
 はあーい、と元気に答える子供たちを見送ってから、シーラは神殿へと向か
う。柔らかい風が淡い陽光の色の長い髪をふわり、と揺らした。
「……シーラ!」
 神殿の門を潜るとすぐ、少年の声が呼び止めてきた。振り返ると、漆黒の髪
と瞳が目を引く少年が息を切らして立っている。長めに伸ばしたくせの強い前
髪と、その下の鮮やかな空色のバンダナが特に強い印象を与えている。幼馴染
であり、共にこの神殿の孤児院で育ったリックだ。
「リック、どうしたの?」
「ん、ちょっとね……今、ヒマかな?」
「今は、ちょっと……ルフォス様に呼ばれてるから」
 この返事にリックはやや残念そうにそっか、と呟くが、すぐに気を取り直し
て明るい声を上げた。
「それじゃ、司祭様の用が終わったらフィアルの木の丘まで来てくれないかな。
その……ちょっと、話したい事があるんだ」
「話って……神殿でもいいじゃない?」
「それはまあ……そうだけど……」
 突然の事を訝って問うと、リックは何故か困ったように頭を掻いた。
「と、とにかく、待ってるから……それじゃ!」
 それから早口にこう言って走り去ってしまう。らしくないその様子に、シー
ラはきょとん、とまばたいた。
「おかしなリック! 一体、どうしたのかしら?」
 こんな事を呟きつつ厨房に向かい、青菜の籠を置いてから、司祭ルフォスの
部屋へと向かう。
「お呼びですか、ルフォス様?」
「ああ、シーラ、済まないね仕事をしている時に」
 やって来たシーラに、ルフォスは穏やかに微笑ってこう言った。
「いえ、収穫はほとんど終わっていましたから。それで、何かご用ですか?」
 それに明るくこう答えると、ルフォスは何か、思案するような面持ちでシー
ラを見つめた。その瞳には何故か、迷いとも取れる光が見て取れる。
「……ルフォス様?」
 その光に気づいたシーラは、訝るような声で司祭を呼ぶ。ルフォスは小さな
ため息を一つつくと机の上の小箱を開き、中から腕輪を一つ取り出した。銀製
の輪に大粒のサファイアをあしらった見事な細工だ。
「ルフォス様、それは?」
「あなたがこの神殿にやって来た時に持っていた唯一の物ですよ。あなたもも
う、十六歳……そろそろ、これを渡してもよい年頃だと思いましてね」
「……あたしが……持っていた物……?」
 思いも寄らない言葉に、シーラはルフォスの手にした腕輪を見つめる。そん
なシーラに、司祭はそっと腕輪を手渡した。
「すごく、きれい……ありがとうございます、ルフォス様!」
「良いのですよ。先ほども言ったように、それは元々あなたが持っていた物な
のですから。では、私の話はそれだけです」
「はい、それじゃ、失礼します!」
 弾んだ声で言いつつ一礼すると、シーラは腕輪を両手で持ってルフォスの部
屋を出る。廊下に出て、窓から差し込む光に腕輪をかざして見ると、蒼い宝石
が美しい光をはね返した。思わぬ贈り物にシーラはうきうきとした気分で神殿
を出て、リックの待つフィアルの木の丘へと向かう。
「でも……リック、何の用なのかなぁ……」
 腕輪をひとまずポーチにしまい、町外れの丘へと歩きながらシーラはふとこ
んな疑問を感じていた。待ち合わせ場所の町外れの丘は、幼い頃に良く二人で
遊んだ場所なのだが、ここに立つフィアルの木は街では縁結びの木として知ら
れているのだ。ともあれ、ここで悩んでいても仕方がない……と、考えながら
丘を上っていくと、リックは妙に落ち着かない様子で木の下に座り込んでいた。
「お待たせ、リック」
「え……あ、ああ。ルフォス様、何の用だったの?」
 声をかけると、リックははっと我に返ったように顔を上げ、上ずった声でこ
んな問いを投げかけてきた。
「え? うん、ちょっとね……それより、リックこそどうしたの? わざわざ
こんな所に呼び出すなんて?」
 逆に問い返すと、リックは何故かシーラから目をそらしてかりかりと頬を掻
いた。らしからぬ様子に、シーラはきょとん、とまばたいてその横顔を覗き込
む。そうすると、リックは急にこちらに背を向けてしまった。顔が、妙に赤く
なっている。
「リック……どうしたの、顔、真っ赤よ? もしかして、熱でもあるの?」
 ふと心配になって問いかけると、リックは何故か、大きくため息をついた。
それから、くるり、とこちらを振り返る。漆黒の瞳はいつになく真剣に見え、
その瞳が、幼馴染を妙に男らしく見せていた。真摯な表情に、シーラは思わず
どきりとする。
「……リック?」
「シーラ……君に、渡したい物があるんだ」
「渡したい物? ……なに?」
 問いかけつつ、シーラは急に胸の鼓動が早くなるのを感じていた。リックは
腰につけたポーチを開け、中からペンダントを一つ取り出す。磨いた天然石に
穴を開けて鎖を通しただけの簡素な物だが、使われている石を見たシーラは思
わず目を疑っていた。
(うそ……フィアナ石のペンダント……)
 フィアナ石とは街の近くを流れる川の近くで良く見つかる輝石で、磨くと美
しい虹色の光彩を放つ。宝石としての価値こそ低いものの、この地方ではこの
石で作った装身具には、フィアルの木と同様に特別な意味が込められていた。
フィアルの木の下で、フィアナ石を贈る。それが意味するのはただ一つ、相手
に対する求婚である。
「……リック……」
 何をどう言えばいいのかわからず、シーラは困惑した声を上げる。リックは
完全に腹を決めたらしく、動じた様子は見えなかった。
「シーラのために、作ったんだ。だから……シーラに、受け取って欲しい」
「で、でも……あたし……」
「……ぼくじゃ……ダメかな?」
 突然の事に対する戸惑いからつい口篭もると、リックはやや自信無さげに問
いかけてくる。それに、シーラはそんな事ないっ! と大声で答えていた。
「そんな事ない……そんなのじゃないの……全然……ただ……ただね、突然で、
びっくりして、それで……」
 それで、の後の言葉がうまく見つからなかった。そもそも、声その物が上手
く出て来ない。急に涙腺が緩んでしまい、涙が溢れ出してしまう。この突然の
涙に、リックはさすがにぎょっとしたようだった。
「シーラ? どうして、泣くのさ?」
「ごめんね……だって……だって、嬉しくて……」
「嬉しいって……それじゃ!」
 どうにか今の気持ちを声に出すと、リックの声は一転して弾んだ物になる。
シーラは何とか泣き笑いの笑顔を作り、うん、と頷いた。
「あたしでいいなら……ううん……他の誰にも、それ、渡してほしくない……」
「シーラ……ありがとう……」
 ほっと安堵の息をつくとリックは表情を引き締め、手にしたペンダントをそ
っとシーラの首にかけた。きれいに磨かれたフィアナ石がきらり、と輝きを放
つ。二人はしばし見つめ合い……それから、どちらからともなく、声を上げて
笑い出した。ひとしきり笑った所で、二人はそっと身を寄せ合う。
「……今まで、ずっと、一緒だったんだよね、あたしたち」
「ああ……これからも、ずっと一緒だよ。何があっても」
「うん……そうだよね」
 力強い宣言が、言いようもなく心地よかった。シーラは目を閉じて、リック
の暖かさを全身で感じ取る。だが、喜びに浸っていられる時間は、思いの外短
かった。
 ……どおんっ!!
 突然響いた激しい爆発音が、二人を我に返らせたのだ。
「え……なに?」
 一体何が起きたのか、すぐにはわからなかった。シーラは思わずリックにし
がみつきながら周囲を見回し、リックもシーラを支えつつ、同じように周囲を
見回した。そして、二人はほぼ同時に、今の爆発音の元に気づく。
「……街が……」
 呆然とした呟きが口からもれる。街の、神殿のある辺りから黒い煙が立ち上
っているのだ。
「どうして……どうなってるの!?」
「わからない……とにかく、街に戻ろう!」
 動転するシーラに対し、リックは多少声を上擦らせているものの、冷静さを
保ったままこう言った。シーラは戸惑いながらもうん、と頷く。とにかく今は、
ルフォスたちの安否を確かめなければならないだろう。それとわかっていても、
立ち上がるには相当な勇気が必要だった。
「……大丈夫だよ、シーラ。一緒に行こう!」
 ためらっていると、リックが力強い口調でこう言ってくれた。その言葉と、
支えてくれる腕の暖かさが立ち上がる力を与えてくれる。シーラはゆっくりと
立ち上がり、リックと手を繋いで丘を駆け下りた。
 二人が下りて行って間もなく、ヴンっという鈍い音と共に、丘の上に黒い光
が弾けた。光は集約し、人の形を作り出す。漆黒に銀糸の刺繍を散らしたマン
トを羽織り、奇妙な紋様の描かれた仮面を着けた人物だ。
「……ついに、始まったようだな……」
 低い声が仮面の下から漏れる。ややくぐもってはいるが、声からするに男性
らしい。
「……古き螺旋……幾度と無く巡るもの……此度の螺旋は、如何なる結末を選
ぶか……」
 ここで仮面の男は言葉を切り、ゆっくりと空を見上げた。つい先ほどまで晴
れ渡っていた空は急に雲をまとい、重たい色を立ち込めさせている。そしてそ
の鈍い色は、シーラとリックの心に、言い知れぬ不安を呼び起こしていた。
(一体なに? すごく嫌な予感がする……)
 そんな不安に苛まれつつたどり着いた神殿には、既に街の人々が集まってい
た。建物からは黒煙は上がっているが、火の出ている気配は無い。二人は人の
間をすり抜けて奥へと急ぐ。一体何があったのか神殿は半壊しており、特に司
祭の部屋の近辺は瓦礫の山と化していた。
「ルフォス様!」
「ご無事ですか!?」
 その瓦礫の山の前に座り込むルフォスの姿に気づいた二人は、それぞれ声を
かけつつそちらに駆け寄る。ルフォスは腕を押さえて顔をしかめていたが、こ
の呼びかけに顔を上げ、何故か安堵したように息をついた。
「シーラ! 良かった……無事だったのですね」
「え……?」
 突然の言葉に困惑するシーラには答えず、ルフォスは腕を押さえながら立ち
上がる。痛みによろけるその身体を、リックが慌てて支えた。
「ルフォス様、動いたら……傷の手当てをしないと」
「いいえ、そんな時間はありません……彼らはすぐに戻って来るでしょう……
シーラ、急いで街を出るのです!」
 思いも寄らない言葉だった。故に、シーラもリックもルフォスの言葉の意味
を計りかねて更に困惑する。そんな二人に対し、ルフォスは真剣な面持ちで言
葉を続けた。
「今は、説明している時間はありません……シーラ、あなたはすぐに街を出る
のです。北の、ファシャーム山の洞窟を抜けた先にあるグラルシェの街へ行き
なさい。そして、そこに住むユーリという男を訪ねなさい。彼ならば、あなた
を守ってくれます」
「そんな……いきなりそんな事、言われても……」
 突然の事に、シーラはどう答えていいかわからずに口篭もる。正直、いきな
りこんな話をされてもどうしていいか、すぐには思いつかなかった。
「……リック、シーラを。彼女をグラルシェの街まで連れて行って下さい」
 戸惑うシーラに埒が開かないと思ったのか、ルフォスは自分を支えるリック
に向けて静かに言った。
「ルフォス様……でも、どうして……」
「説明している時間はないと言ったはずです。彼らが戻ってくれば、シーラが
危険な目にあうのです……わかって下さい」
「ルフォス様……わかりました」
 司祭の真摯な瞳に、リックはそれ以上の問いを飲み込んでこう頷いた。司祭
は穏やかな笑みを浮かべて頷き、奇跡的に破壊を免れたクローゼットを指差す。
「旅に必要な物は、ほんの少しですがそこに入っています。グラルシェまでな
ら、何とかたどり着けるでしょう」
「……ルフォス様……」
 静かな言葉に、シーラはどうしていいかますますわからずに不安げな声を上
げた。一体何がどうなっているのか、まるで理解できなかったのだ。ただ、十
六年間過ごした地から離れねばならない事だけははっきりとわかる。しかし、
物事の理解と事実の容認とは、基本的に別問題なのだ。
「シーラ、行こう」
 どうしていいかわからずに座り込んでいると、リックが短くこう言った。振
り返ると、リックは既にクローゼットから旅支度を引っ張り出していた。
「リック、でも……でも、あたし……」
「いいから、立って! 急いで行こう!」
 こう言うとリックはシーラの手を引いて半ば強引に立たせ、手にしたマント
を着せかけた。ルフォスは静かな瞳で二人を見つめている。
「ルフォス様……」
「行って下さい……二人に、精霊神の加護のあらん事を」
 こう言うと、ルフォスはにっこりと微笑んで見せた。見慣れた優しい笑顔だ
が、今はそれを見るのが言いようも無く辛い。だが感傷に浸る暇はなく、シー
ラは不安と困惑を抱えたまま、リックに手を引かれて走り出した。

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