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   誓いのしるし

「……これじゃない……これもダメ……あ〜っ、もうっ!!」
 苛立たしげな叫びと共に、リックは持っていた石を後ろに向かって放り投げ
た。石はてんでばらばらに川面に飛び散り、それぞれがばしゃばしゃという音
と水飛沫を上げる。突然の衝撃にかき乱された川の水が静まると、リックは深
く、深くため息をついてすぐ側の岩塊に腰掛けた。
「……ほんとに、あるのかな……ベックさんは、この辺にいいのがあるって言
うけど、全然みつかんないよ……」
 澄んだ水の流れる川面を見つめて嘆息する。今日でもう一週間、このシェー
ル川に通い詰めているが、未だに目的の物は見つからなかった。
「……あと二日……それまでに、作らなきゃ……」
 低く呟くと、リックは改めて川原の砂利に向き直り、石の一つ一つを拾って
確かめ始めた。探しているのは透き通ったばら色の石。誓いの石とも呼ばれる
フィアナ石だ。漆黒の瞳は真剣に石の一つ一つを見つめている。
「……お〜い、リック!」
 不意に、野太い声が彼を呼んだ。顔を上げると、雑貨屋の主人であるベック
が手を振っている。リックは手にした石が外れであると確かめると、それを川
原に落としてそちらに近づいた。
「こんにちは、ベックさん」
 挨拶と共に、丁寧に頭を下げる。
「おう、相変わらず堅苦しいなあ……どうだ、いいのは見つかったか?」
 軽い問いにリックはいえ、と短く答えた。ベックはそうか、と言いつつ川原
を見やる。
「川原は、大体見たのか?」
「はい……」
「そうなると……川の中の方がいいのかもしれんなあ……」
「川の中?」
 今まで考えもしなかった可能性を提示され、リックは目を見張りつつベック
を見た。
「ああ。川原の目立つのは、ガキどもがオモチャにするのに持ってっちまうか
らな。それに、川原にあるのはくず石が多い。いい物を見つけようと思ったら、
川の中の方がいいかもしれんぞ。とはいえ……」
 ここで、ベックは嘆息するように息を吐いた。これから暑くなり始める季節
とはいえ、水はまだ冷たい。その流れの中で川底から石を探すのは、相当骨が
折れるだろう。
「川の中には、いいのがあるんですね!?」
 ベックに最後まで言わせず、リックは弾んだ声を上げていた。思わぬ言葉に
ベックはは? と言いつつ目を見張るが、その時にはもう、リックは川の方へ
走り出していた。水際で靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくって水の中へ入っていく。
川を流れているのは山頂からの雪解け水だ。それは、切りつけるような冷たさ
で裸足の足を包み込んでくる。その感触にリックは微かに顔をしかめるものの、
川底の石をすくって一つ一つ確かめ始めた。
「……やれやれ……おい! ほどほどで切り上げるんだぞ!」
 これ以上は何を言っても無駄――そう悟ったベックはため息に続けてこう呼
びかけた。リックは顔を上げ、にっこり笑って手を振る。ベックはもう一つた
め息をつくと、街の方へと戻って行った。その姿が見えなくなると、リックは
再び川底に向き合う。
 そして――
「……はあ……」
 夕暮れ時、リックは重いため息をつきつつ、とぼとぼと神殿へ戻って行った。
ずっと川の中にいたためか、身体が冷えているのがよくわかる。
「……シーラに見つかる前に、着替えないとなぁ……」
 ぼやくように呟きつつ、裏の勝手口からそーっと中を覗き込む。取りあえず、
厨房には誰もいない。これなら大丈夫……と安堵しつつ中に入ろうとした時、
「リック? え、どうしたの、そんなに濡れて!」
 真後ろから素っ頓狂な声が上がった。
(……サイアクっ!!)
 後ろにいるのが誰かは、振り返って確かめるまでもなくわかる。わかるだけ
に、できれば振り返りたくはないのだが。
「もう……朝早くにでかけたと思ったら、今までどこに行ってたの? 水遊び
には、まだ早いんじゃない?」
 声の主――シーラはそんな事には頓着せず、持っていた籠からタオルを出し
てふわりと肩にかけてくれた。碧い瞳は、心配そうにこちらを見つめている。
「あ、うん……そうなんだけど……ちょっとね」
 何となく目をそらしつつ早口にこう言うと、シーラは不思議そうに首を傾げ
た。
「……とにかく、早く着替えなきゃダメ、風邪引いちゃうわ。温かい飲み物用
意するから、早く着替えて、ね?」
 それから、いつもの笑顔でこう言って、先に厨房に入っていく。追求を免れ
た事に安堵しつつ、リックは自分の部屋へと向かった。
「……はあ……」
 決して広くはないが、きちんと整頓された自室に戻ると、リックはまたため
息をついた。ともあれ、このままでは風邪引きは免れない。そう思って水気を
吸った服を脱ぎ、乾いた服に着替える。乾いた布の感触とその暖かさが、いか
に身体が冷えているかを端的に物語っていた。
「でも、諦めるわけにはいかないんだ」
 声に出して呟く事で、消沈しそうな自分を鼓舞する。水の冷たさ如きで諦め
てなるものか、と。
「そうでなきゃ……ぼくらの『誕生日』に、間に合わないんだから……」
 低い呟きで決意を新たにした時、こんこん、とドアがノックされた。
「リック、着替えた? 入ってもいい?」
 ノックに続けて聞こえてきたシーラの声にリックはうん、と答える。ドアが
開き、入ってきたシーラはぽかぽかと湯気の立つカップを持っていた。
「あ……ごめん、わざわざ持ってきてくれたんだ」
「だって、待ってたら冷めすぎちゃうもの」
 にっこり笑って言う、その言葉にリックは苦笑するしかない。それと共に、
猫舌の自分の適温を知ってくれているシーラへの感謝は絶えなかった。
「それじゃあたし、お夕飯の支度、するね」
 カップを手渡したシーラは、こう言って急ぎ足に部屋を出て行った。数年前
から、神殿のまかないは全てシーラが担当するようになっている。元々料理や
裁縫など、家庭的な事の好きなシーラにとっては、ごく自然な選択と言えるの
だろう。
「……ふう」
 ため息を一つつき、ベッドに腰掛けて受け取ったカップの中身をすする。入
っているのは、果実酒のお湯割りに蜂蜜を混ぜたものだ。この辺りでは風邪の
引き始めに必ず飲まされるもので、すぐに身体を温めてくれる。
「ほんと、気配り上手いよね……」
 絶妙の温度と味加減にふとこんな事を呟く。
 出自の定かではない孤児と言う事実に対して屈託を持たず、いつも明るく振
る舞うシーラ。気配り上手で器量良しの彼女に好意を抱いている男は、シェル
ナグアの街に少なからず存在している。リックとて、例外ではない。いや、正
直言って、それに関しては誰にも負けないという自負もある。
 でも、今まではそれを明確な形にはできなかった。共に育った、兄弟同然の
幼なじみという枠。その枠を、二日後に迫った自分たちの『誕生日』に壊した
くて。そのために一週間、川原に通い詰めたのだ。フィアルの誓いの印となる、
フィアナ石の装身具を自分で作るために。しかし、その計画は肝心のフィアナ
石探しで行き詰まっていた。どうも、満足のいく石が見つからないのだ。
「……取りあえず、まだ少し時間はあるんだし……明日、川の中の方まで見て
みようかな」
 暗くなりがちな気持ちを切り替えてこんな事を呟いた時、
「リック、食事の支度ができたようですよ」
 ドアの向こうから穏やかな声が聞こえてきた。彼らの養父であり、この神殿
の司祭を勤めるルフォスの声だ。リックははい、と答えると、カップに少し残
った果実酒を飲み干して立ち上がった。

 翌日、リックは神殿の朝の勤めと食事を済ませるとすぐ、神殿を出て川へと
向かった。シーラはどこに行くのか聞きたがっていたようだが、ちょうど居合
せたルフォスが話題をそらして出かけさせてくれたのだ。
(ルフォス様は、気づいてるのかな……)
 あるいは、唯一相談を持ちかけたベックが話したのかも知れない。いずれに
しろ、ルフォスが理解してくれているのだとしたら、それはそれで心強いもの
がある。
「さて、頑張って探さなきゃな」
 独り言で気合を入れつつ水際で靴を脱ぎ、ズボンの裾を捲り上げて川の中へ
入っていく。昨日は岸近くしか見なかったので、今日は川の半ばまで入ってみ
る。その辺りまでくると深さもかなりのものだ。リックは服の袖をまくって川
底へ手を差しいれ、石を掬い上げて一つ一つ選別する。効率的にはかなり難が
あるが、他に方法が思いつかないのだ。それに、大きな道具を持ち込んで掻き
回すのは、川に申し訳ないという思いもあった。
「ふう……ここらは、みんな普通の石か……」
 しばらく川底を探り、今いる辺りに見切りをつける。場所を変えよう、と歩
き出した矢先に、足が流れに掬われた。
「……うわっ!!」
 ばしゃあんっ!!
 派手な水飛沫が上がり、リックは川の中にまともにひっくり返った。
「ったた……あっちゃあ〜……」
 倒れた時に打ちつけた身体の痛みよりも、ずぶ濡れになった、という事実の
方が頭が痛い。二日も続けて濡れて帰ったとなれば、いくら鈍感なシーラでも
自分が何をしているのかに疑問を持つだろう。正直、問い詰められて誤魔化す
自信はリックにはなかった。昔から、シーラに隠し事をするのは苦手なのだ。
「参るなあ、これ……ん?」
 がくん、と肩を落としつつため息をついた時、水の中に何か、光る物が見え
たような気がしてリックはまじまじと川面を見つめた。今、自分がかき乱した
川底の乱れが徐々に静まっていくのを待って、光る物が見えた辺りの石を掬い
上げる。
「……あ……」
 鈍い灰色の石の中に、輝きの源はあった。鳥の翼を思わせる形の、淡いばら
色の石。表面についた砂を洗い落として陽にかざして見ると、それは美しい煌
めきをこぼした。大きさも重さも手頃で、傷や濁りも全くない。
「すごい……綺麗な石だ……これなら……」
 これなら、シーラに似合う物が造れる。そんな確信を覚えつつ、リックは取
りあえず愛用のバンダナを解いてそれでフィアナ石を丁寧に包み込んだ。バン
ダナを外すと長めに伸ばした前髪がやや邪魔になるが、今はそれを気にしてい
る余裕はない。バンダナに包んだ石を腰のポーチにしまい、転ばぬように気を
つけながら立ち上がる。足元に気をつけつつ、どうにか川原まで戻った時。
「……っ!?」
 何か、不思議な気配を感じたような気がして、リックははっと対岸を振り返
った。
「……人?」
 いつの間に現れたのだろうか。対岸に、黒いマントを羽織った人物が佇んで
いた。複雑な紋様を描いた仮面を着けているため、顔は見えない。ただ、仮面
の奥の瞳がじっとこちらを見ている事だけは、はっきりとわかった。リックは
戸惑いながらその仮面を見つめ返す。やがて、仮面の人物はゆっくりときびす
を返し、
「……え!?」
 かき消すように消え失せた。
「……消えた……」
 呆然と呟き、それから目を擦ってみるが、先ほどまでそこにいた黒い姿はど
こにも見えない。幻かとも思ったが、何故か、そうではないという確信めいた
思いが心の中に存在していた。
「……取りあえず……一度、神殿に戻ろう……」
 答えの出ない疑問を打ち切り、現実的問題に向き合うと、リックははあ……
とため息をついた。シーラに見つかったら何を言われるか、と考えると気が重
くなる。しかし、その心配は思わぬ形で杞憂に終わった。
「お帰り、リック。探し物は見つかりましたか?」
 神殿に戻り、門の陰からそーっと中を伺うと、からかうような言葉が投げか
けられた。
「あ……ルフォス様っ……」
 声の主はすぐにわかる。神殿の正面玄関の前で、ルフォスがにこにこと笑い
ながら立っているのだ。
「あ、あの……えっと……」
「心配なくても、シーラは今、でかけていますよ。早く着替えて、ベックさん
の所に行って来なさい」
 思わず口篭もるリックに、ルフォスは穏やかな口調でこう言った。リックは
黒い瞳をきょとん、とさせてルフォスを見る。
「ルフォス様……あの……もしかして……」
「知らないと思っていましたか?」
 知っているんですか、という問いを最後まで言わせず、ルフォスはこう言っ
て微笑む。言葉と同様に穏やかな瞳は、リックの想いを理解していると言外に
物語っているようにも見えた。
「……ありがとう、ございます!」
 その思いに深く頭を下げると、リックはルフォスの横をすり抜けて部屋へと
駆け込む。濡れた服を着替えて再び外に飛び出すと、ルフォスは行ってらっし
ゃい、と微笑って送り出してくれた。リックは行ってきます! と答えて街へ
と走り出す。
「……子供だと思っていましたが……もう、そんな事を考える年になっていた
のですね、あの子たちも……」
 その背を見送りつつ、ルフォスはふとこんな事を呟いていた。
「このまま……あの子たちが何事もなく、生きて行けるならよいのですが……」
 嘆息と共に呟く刹那、ルフォスの瞳には何故か、深い陰りが宿っているよう
にも見えた。
「ベックさん、見つかりました!!」
 街の通りを急ぎ足で駆け抜け、雑貨屋に飛び込むなりリックは思わずこう叫
んでいた。突然の事に、店番をしていたベックの娘・メリアがぎょっとしたよ
うに振り返る。
「あ、リックか……びっくりしたあ……」
「あ、メリア……ベックさん、いる?」
「奥にいるわよ。父さあ〜ん!」
 リックに答えつつ、メリアは奥に向かってこう声をかけた。
「聞こえてらあ! やれやれ……成果はあったのか?」
 奥から出てきたベックの問いに頷いて、リックはポーチからバンダナの包み
を取り出し、中のフィアナ石をベックに手渡した。ベックは受け取ったそれを
しげしげと眺め、ほう、と感心したような声を上げる。
「こいつは、中々の上物だな。まだ、こんなのがあったか」
「はい! あの、それで……」
「ああ、わかってる、わかってる! メリア、オレはリックと奥に行くから、
店番頼むぞ」
「え? あ、うん……」
 二人の会話が理解できずに呆然としていたメリアは、取りあえずこう言って
頷いた。リックはバンダナを縛りなおし、ベックについて奥へと向かう。二人
が行ってしまうと、メリアはきょとん、とまばたいた。
「さっきの石って……フィアナ石……リックが……」
 呆然と呟いた直後に、メリアはそれが意味するもの――リックが誰かに求婚
しようとしている事実に気がついた。とはいえ、リックが誰に思いを寄せてい
るかは、知らない者の方が少ないと言っていい。
「……」
 奥へ続くドアを見つめつつ、メリアは切なげな様子で、唇を噛み締めた。

「……しかし、本当に大丈夫か? 失敗したら、また石探しからだぞ?」
 フィアナ石に鎖を通す穴を開ける加工を自分でやりたい。以前から言ってい
た言葉を確かめるように、ベックは真面目な面持ちでこう問いかけてきた。そ
れに、リックはわかっています、と頷く。黒い瞳には、決して後には引かない、
強い意思が宿っていた。
「そうなったら、また探します。とにかく、これだけは、自分で作り上げたい
んです!」
 きっぱりと言いきると、ベックは肩をすくめてやれやれ、とため息をついた。
「まったく、頑固だなお前さんは……ま、いい。取りあえず、石は固定してあ
るから、穴を開けたい場所をこいつで少しずつ削ってきな。穴が開いたら、こ
れでそこを磨くんだ」
 言いつつ、細い鏨と木槌、鑢を渡してくれる。道具を受け取ると、リックは
一つ深呼吸をしてからフィアナ石が固定された作業台の前の椅子に座った。気
持ちを静めつつ、石に鏨の先を当てて、木槌でこつこつと叩き始める。力を入
れすぎれば、石は簡単に割れてしまう。慎重に慎重に、と自分に言い聞かせつ
つ、リックは作業に集中した。ベックはしばらくその手元を見ていたが、やが
て、心配ない、と判断したらしく、店の方へと戻って行く。
 そうやって作業を始めて、どれくらいすぎたのか。
「……リック?」
 大体半分ぐらいまで穴を穿てた時、誰かがそっと声をかけてきた。リックは
手を止めて声の方を振り返る。
「あ、メリア……」
 振り返った先には、盆を手にしたメリアの姿があった。盆の上にはサンドイ
ッチとカップ二つが乗っている。
「もう、お昼だよ。父さんが一休みしたらって」
 こう言うと、メリアは手近な木箱に盆を置き、自分は椅子を引っ張ってきて
腰を下ろした。
「もう、そんな時間なんだ……」
「うん。あ、良かったら食べてよ。シーラの程じゃないけどね」
 冗談めかして言いつつ、メリアはカップの一つを手に取る。リックはありが
と、と答えて木槌と鏨を下ろし、豪快な作りのサンドイッチを手に取る。
「時間なんて、全然気にしてなかったよ。言われてみれば、お腹空いてた……
いただきます」
 一礼してから食べ始めると、メリアは物言いたげにじっとこちらを見つめた。
取りあえず一つ目を食べ終えた所でそれに気づいたリックは、きょとん、
としつつ、なに? と問う。
「……お味は?」
「え? ああ……おいしいよ。これ、メリアが作ったんでしょ? メリアも、
料理上手だよね」
 気軽に答えつつ、二つ目を頬張る。
「……じゃ、シーラが作ったのと、どっちがおいしい?」
「……え!?」
 それを飲み込んだ直後の、思いも寄らない問いにリックは絶句していた。メ
リアはやや上目遣いになって、問いの答えを待っている。とはいうものの。
「そんな事、いきなり聞かれても……比べようがないよ……」
 それが正直なところなので素直にこう答えると、メリアははあ、とやや大げ
さなため息をついた。
「……メリア?」
「……聞いたあたしがバカだったわ……今の、気にしないでね」
「……え〜と……」
 いきなりこう言われても、正直困るのだが。ともあれ、リックはサンドイッ
チを平らげると、ごちそうさま、と一礼してお茶のカップを手に取った。時間
を置いたため、お茶はいい具合に冷めている。
「……リックって、熱いのダメなんだっけ?」
 その様子に、ふと気づいたようにメリアが問いかけてきた。リックはうん、
と答えて適温に冷めたお茶を味わう。
「でも……神殿のお茶会の時って、普通に飲んでなかった?」
「ああ、あれはね、シーラがぼくが飲めるように冷ましてから出してくれてる
から。でないと、ちょっと厳しいかな」
 苦笑しつつこう言うと、メリアはそっか、と呟いて作業台の方を見た。やや
間を置いて、メリアはねえ、とまた声をかけてくる。
「なに?」
「あのフィアナ石……シーラに、あげるの?」
 小声の問いに、リックはえ、と目を見張り、それからうん、と頷いた。
「……明日の『誕生日』に、間に合わせようと思って」
「あ……そっか、そうだったわね……」
 不意に、沈黙が訪れた。リックもメリアも何も言わずにお茶のカップを傾け
る。それぞれのカップが空になると、またメリアがねえ、と呼びかけてきた。
「もし……もしもよ。もしも、シーラが、それ、受け取らなかったら……リッ
ク、どうするの?」
 メリアの問いは、リックがあえて考えずにいた可能性だった。シーラにとっ
て、自分が幼なじみの領域から出ない存在だとしたら……正直、それは考えた
くはなかったのだが。
「……そう……だね。でも、多分、諦めはしないと思う」
 やや間を置いて、リックは静かに問いに答えた。
「……諦めない?」
「だって、別に、一度断られたらもうダメって訳でもないんだし……もし、今
のぼくが、シーラが自分を任せるには頼りないって言うなら、ぼくが変われば
いい。シーラが安心して自分を任せられるように、強くなればいいんだから。
だから……諦めるつもりはないよ。だって……」
「だって……なに?」
「ぼくは、シーラを護らなきゃならない。理屈じゃなくて……ずっと、そう思
ってるから。ぼくが、シーラを護るんだって、ずっと……」
「……リック……」
 独り言のように言う刹那、漆黒の瞳は言いようもなく真剣だった。シーラへ
の想いの強さは、それだけで充分に推し量る事ができる。その瞳にメリアはそ
う、と呟いて目を伏せ、それから、殊更に明るい口調でだぁいじょうぶよ! 
と言いきった。
「シーラだって、リック以外の男はぜんぜん目に入ってないもの。革細工工房
のとこのティムなんて、必死にアプローチしてるのにてんで理解されてないし
ね。だから、大丈夫よ。あの子の親友のあたしが保証してあげるわ」
 にっこり笑って言う、この言葉にリックは素直にうん、と頷いた。
「ありがと、メリア。少し、気が楽になったよ」
「どういたしまして♪ それじゃ、いつまでも邪魔しちゃ悪いし、あたし、行
くね」
 明るい表情でこう言うと、メリアはカップを乗せた盆を持って立ち上がった。
リックは鏨と木槌を手に、再びフィアナ石に向き合う。立ち去り際にメリアが
投げかけた、切なさを帯びた視線にはついぞ気づかぬままに。

 鏨による穴あけは、どうにか無事に終わった。どうやら余計な傷やひびは入
らずに済んだらしい。リックはふう、と安堵の息をつくと、石を台から外して
今あけた穴を鑢で丁寧に磨いた。一通り作業が済んだ石は、布を使って丁寧に
磨く。磨き上げられたフィアナ石は、作業場を照らすランプの光を弾いて美し
く輝いた。
「お、どうやら仕上がったらしいな」
 美しい光につい見入っていると、ベックの声が聞こえた。リックはそちらを
振り返り、はい、と元気良く頷くと、ベックにフィアナ石を手渡した。
「ほほう……初めてにしちゃ、上出来だな。傷もないし、ひびも入ってない。
執念の賜物だな、こりゃ……」
「は、はあ……」
 気合を込めていたのは確かだが、執念、とまで言われるとは思ってはいなか
った。何となく複雑な気分になっていると、ベックはフィアナ石をこちらに返
し、脇に挟んでいた小さな木箱を開けた。中には、金具のついた金や銀の細い
鎖が丁寧に納められている。ベックはその中から、銀色の鎖を取り出した。
「あとは、これを通せば完成だな」
「はい……あ、えっと、その鎖のお代なんですけど……」
 ふと思い出してこう言うと、ベックはにやっと笑って気にすんな、と答えた。
「え……でも……」
「いいっていいって。なにせここんとこ、作ってくれって頼むヤツはいたが、
作らせてくれ、なんて言ってきたのはお前だけだったからな。その心意気に免
じて、お代はチャラにしてやるよ」
「ベックさん……」
「なに、気になるようなら、あとでウチの店の手伝いしてくれりゃあいいさ!
ほれ、それより、完成させちまえよ!」
 豪快に笑いつつ、ベックは鎖をリックの手に乗せる。リックは金具の繋ぎ目
を外すと、フィアナ石の穴にそれを滑らせ、また繋ぎ目を閉じた。
「……できた……」
 ようやく作り上げる事ができた感慨を込めて、呟く。ベックはおめでとさん、
と言ってぽん、とリックの頭に手を乗せた。
「で、渡すのは明日か? しっかりやれよ!」
「あ、はい……色々、ありがとうございましたベックさん!」
 精一杯の感謝を込めてこう言うと、リックはフィアナ石のペンダントを布で
丁寧に包んでポーチに入れた。もう一度ベックに頭を下げ、店の片付けをして
いたメリアにじゃあね、と声をかけてから出た外は、既に日が暮れていた。
「……何とか、間に合ったな……」
 薄墨色に染まっていく空を見上げつつ、呟く。明日はリックとシーラの十六
回目の『誕生日』。とはいえ、もちろん正確なものではない。出自の定かでな
い二人のために、ルフォスがシーラが神殿に引き取られた日をそう定めてくれ
たのだ。リックが神殿に引き取られたのはシーラの三日後なのだが、二人一緒
の方がいいでしょう、とルフォスは同じ日に定めていた。
「さて、と……急いで帰らないとマズイな……」
 ともあれ、感慨に浸り込んでいる場合ではない。夕飯に遅れては、シーラだ
けではなくルフォスにも小言を言われてしまうからだ。事情をわかっていると
はいえ、それを秘密にしている事を考えれば、ルフォスが味方してくれる可能
性はかなり低いだろう。
 薄墨色に染まっていく大気の中、リックは神殿へと走り出す。
 この先に待ち受ける事件、そして自分に降り掛かる出来事など、夢にも思わ
ぬままに。

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