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   3 失われたもの、失われるもの

 明けて、翌日。島の果樹で簡単な食事をすませると、イヴは再び集落のある
島へと向かった。
「で、集落に行ってどうしようって言うんだい? あのじいさんが、オレらと
話をするとは思えないけどね」
 アヴェルの問いに、イヴは短くわかってる、と応じた。
「わかってて……なんで?」
「人がいるって事は、当然、守護神がいるはずでしょ? 島の人と話せない以
上、守護神に直接事情を聞くしかないじゃない」
「まぁ……それは、そうだろうけど……」
 イヴの説明に、アヴェルは何故か言葉を濁す。歯切れ悪い返事に振り返ると、
魔導師は難しい面持ちで眉を寄せていた。
「……なによ?」
「……果たして、そこまでする意味はあるのかと思ってね」
 思わぬ言葉に、イヴは目を見張った。
「……どういう事?」
「オレたちは彷徨い人……つまりは、通りすがりだ。そのオレたちが口を挟ん
で、それでどうにかできる問題なら、とっくにどうにかなってたんじゃないか
と思ってね」
「……じゃあ、何もするなって言うの? 見なかった事にして、ほっとけって
言う訳!?」
 静かな言葉についムキになって問うと、アヴェルは短く、いや、と答える。
「それじゃ、どうしろって言うのよ!?」
「どうすればいいんだろうな? 正直、それはオレにもわからない。ただ……」
「ただ……何よ?」
 捉え所のない問答に苛立ちながら問うと、
「世の中には、どうにもできない事ってのも、少なからずあるんだよな……や
な話だけど」
 アヴェルは静かにこう答えた。言葉同様、静かな瞳にイヴは反論を封じられ
る。雨音と波音のみが響く静寂が周囲を包み込んだ。
「……それでも……」
 妙に重い沈黙をイヴの低い呟きが破ったのは、昨日の島が視界に入った直後
だった。
「それでもあたし……このまま、何もしないのは、嫌」
 途切れがちに、今の自分の一番素直な思いを口にすると、それと気づいたの
か、アヴェルはため息と共に、わかったよ、と答える。それにありがと、と呟
いて、イヴはシェーリスを島へ降下させた。集落の人々を刺激したくはないの
で、降下場所は島の反対側の小さな浜辺を選んだ。
「さて……で、これからどうするんだい?」
 浜辺に降りると、アヴェルが軽く問いかけてくる。
「とにかく、守護神の聖域を探してみる。そんなに大きな島じゃないから、す
ぐ見つかると思うわ。ティムリィ、一緒においで」
『は〜い』
 例によってのどかな返事をしつつ、輝竜はぱたぱたと飛んでイヴの肩にとま
った。
「じゃ、行って来るから。シャイレルの事、ちゃんと見ててよ?」
「……オレは子守りじゃないんだけどね……あ、そうそう」
 ため息まじりにぼやいた直後に、アヴェルはふと何か思い出したようにぽん、
と手を打ち鳴らした。
「何よ?」
「いや……大した事じゃないんだけど……」 
 にっこり微笑ってこう言ったその次の瞬間、アヴェルはイヴを引き寄せ、何
か言う間も与えずに唇を塞いでいた。久しくなかった事にイヴは一瞬戸惑うも
のの、結局はそのまま身を預けてしまう。
「な、なによ、いきなり……びっくり、するじゃない……」
 唇が離れると、イヴは微かに頬を赤らめつつ目をそらす。
「緊張をほぐすおまじない……なぁ〜んてね♪ 少しは気持ち、楽になったか
い?」
 対するアヴェルは、からかうように言いつつウィンクして見せる。イヴは呟
くように、ばか……と返すが、実際、気持ちは随分と楽になっていた。
「とにかく、気をつけて……あんまり、無茶はしないでくれよ?」
「あんまりは、ね」
 心持ち表情を引き締めたアヴェルにやや冗談めかしてこう返すと、イヴはテ
ィムリィを伴って島の奥へ踏み込んで行く。アヴェルは一つため息をついてそ
れを見送り、それから、突然表情を厳しくしつつ振り返った。
「……お前は……」
 振り返ったアヴェルは、そこに立つ者の姿に微かに眉を寄せる。一体いつの
間に現れたのか、波打ち際にあの魔竜使いの少年が佇み、睨むようにアヴェル
を見つめていた。

「……あれ?」
 一方、浜辺から続く木立に踏み込んだイヴは困惑していた。
「……おかしいわね……」
 訝しげに呟きつつ周囲を見回す。木立の中はしん……と静まり返り、生きる
ものの気配がほとんど感じられないのだ。
「どうなってるの……? まるで、島自体が死にかけてるみたいじゃない……」
『……左様、その通り……』
 戸惑いながらもらした呟きに、何者かがこう返してきた。ティムリィがきゃ
う! と声を上げ、はっと顔を上げると、目の前に揺らめく影のようなものが
見えた。それが放つ特有の力にイヴは目を見張る。
「あなたは……まさか、守護神!? どうして、こんな所に……?」
 呆然として問うと、守護神はため息をつくように揺らめいた。
『我は、かつてこの島を護りしもの……そして、遠からず消え行くもの。強き
力を持ちし巫女よ、滅び行くこの地に、何用か……?』
「滅び行く……島? どう言う事? 一体、この島に何があったの?」
 消え入りそうな言葉に疑問を感じて問うと、影はまた、揺らめいた。
『始まりは些細な事……竜使いと巫女のささやかな愛。だが、二人の結びつき
を是とせぬ者が無用の争いを引き起こし……多くの想いに押し潰された巫女は、
自らの命を絶った』
「……そんな……どうして? 竜使いと巫女は同じ役割を持つ者。想いを通わ
せれば互いに高め合い、より大きな護りの力を生み出せるのに……」
 守護神の答えにイヴは呆然と呟く。竜使いと巫女が結ばれると言うのは、イ
ヴの感覚からすれば、ごく当たり前の事だった。実際、故郷で何事もなく日々
を過ごしていたならば、イヴは巫女として、竜使いである双子の弟・アークと
結ばれる事が、生まれながらにして定められていたのだから。
『だが……現実としてそれは認められなかった。巫女は力ある者。竜使いもま
た然り。それ故、島を治めるべき者は、巫女を竜使いに奪われる事を無為に恐
れた』
「それって……あの人の事?」
 集落で出会った老人を思い出しつつ問うと、影は肯定するように揺らめいた。
『巫女の死により彼の者と竜使い一族の確執は深まり、やがて、竜使いは島を
離れた。
 島の者は護りが失われる事を恐れ、竜使いとの和解を望んだが、彼の者はそ
れを受け入れず……時を経て、狂気に捕われた彼の者は……我が聖域を、破壊
した。そうする事で……自らを第一と成す為に』
「……え!?」
『聖域を失いし我は……こうして彷徨いつつ、島を護り続けていたが……もは
や……それも叶わぬやも知れぬ……』
「ちょっと待って……あなたの力が失われたら、この島は……!」
 守護神の消滅が意味する事に気づいたイヴが呆然と問うのを遮るように、島
が大きく揺れた。

 イヴが守護神との会話を始めている頃。
「……なんか、用でもあるのかい?」
 浜辺ではアヴェルと魔竜使いの少年が、剣呑な様子で睨み合っていた。
「……貴様は……一体、何だ?」
 口調だけは軽いアヴェルの問いに、少年は低くこう返してくる。奇妙とも言
えるこの問いに、アヴェルは眉をひそめた。
「何だって……そいつはどーゆー意味かな?」
「……不愉快だな、貴様の存在は。『印』もなく、『波動』を感じさせる……
貴様は、一体何者だ?」
 手にした槍の先を突きつけつつ、少年はこう問いかけてくる。真紅の瞳には
鋭い光が宿っていた。そしてこの問いに何故かアヴェルは表情を強張らせ、そ
れから、厳しく引き締めた。
「……オレは……アヴェル・ランバート。彷徨い人の魔導師。それ以外の何者
でもない」
 静かに言いきるアヴェルに、少年は探るような視線を投げかける。突きつけ
た槍の先は寸分揺らがない。冷たく鈍い銀の穂先越しに、アヴェルは真っ向か
ら真紅の瞳を睨み返す。
「もう一度聞く……貴様は、何者だ? そしてこれから先、何者で在り続けよ
うとしている?」
「オレは、オレだ……そして、オレ以外の何者にも変わりはしない!」
 低い問いにアヴェルはきっぱりとこう答え、これに、少年はふ……と冷たい
笑みを浮かべた。
「『波動』を持ちつつ、それを否定する、と言う訳か……虫の言い話だな」
 はっきりそれとわかる嘲りを込めてこう吐き捨てると、少年は槍を担いで背
を向ける。
「……ちょっと待った!」
 そのまま歩き去ろうとする少年を、アヴェルはとっさに呼び止めた。少年は
何だ、と短く問う。
「大した事じゃない。ただ、こっちだけ名乗らされてそっちは名無しのまんま
行かれるってのは、オレの主義にあわねえ。せめて、名乗ってからいきな」
「……何かと思えば……くだらん」
「礼儀と主義は、つまらんもんだ」
 正論かもしれない。胸を張って断言する事ではないが。案の定、少年は呆れ
果てたと言わんばかりのため息をつき、
「……カヤト。カヤト・リオルドだ」
 それからぶっきらぼうに自分の名を告げた。その名を聞いた途端、シェーリ
スの背で不安げにしていたシャイレルがきゅううっ! と甲高い声を上げる。
アヴェルも覚えのある姓に眉をひそめた。
「……リオルド? って事は、お前……」
 言いかけた言葉を遮るように、浜辺が大きく揺れた。波に煽られた、という
揺れではない。島そのものが震えた、という感じの大きな揺れだ。
「な、何だっ!?」
「……そろそろ始まるな」
 動揺するアヴェルとは対照的に、カヤトは落ち着いていた。
「始まるって……何が!?」
「島の崩壊だ」
 淡々とした口調でとんでもない事を言う。あまりの冷淡さに絶句するアヴェ
ルには全く構わず、カヤトは空に向け、ヴェルパード! と呼びかけた。ばさ
あっという音と共に、漆黒の魔竜が舞い降りてくる。
 きゅううううっ!
 不意にシャイレルが甲高い声を上げて飛び上がり、カヤトの行く手を阻んだ。
「……何だ、お前は?」
 突然目の前に飛び出してきたシャイレルを、カヤトはうるさそうに睨みつけ
る。一拍間を置いて、その表情が微かに強張った。が、それも一瞬の事、カヤ
トは短くどけ、と言いつつシャイレルを押し退け、静かに待つ魔竜に跨り雨の
中へと飛び立つ。
 ……きゅうう……
 漆黒の竜を見送りつつ、シャイレルが寂しげな声を上げる。直後に、島がま
た大きく揺れた。
「この震動……まさか、『プレート』が崩れかけてるのか?」
 波に煽られたものとは明らかに異なるその揺れに、アヴェルは戦慄を込めて
低く呟いた。
 浮島世界の島々は、全てが『プレート』と呼ばれる巨大な岩盤の上に乗って
いる。その岩盤から伸びた鎖によって海底に繋がれ、固定されているのだ。独
特な組成を持つ島々に緩やかな砂浜や浅瀬が存在するのは、この『プレート』
の広がりによるものと言える。
 その『プレート』――島を支えるべき存在が崩れるという事は、転じて島そ
のものの崩壊を意味する。どうやら、状況は思っていた以上に悪いようだ。
「……かなり、面倒だぜ、こいつは……」
 ため息とと共にこう呟くと、アヴェルは魔竜の飛び去った方をじっと見つめ
るシャイレルに歩み寄り、小さな頭をそっと撫でてやった。
 ……きゅう……
 振り返った影竜は不安げな声を上げて魔導師の肩に止まり、身体を丸める。
震えるシャイレルをなだめるように撫でてやりつつ、アヴェルは魔竜の消えた
辺りの空に厳しい目を向けた。
「……まさか、今になってあんな事を聞かれるとはね……」
『……あんなこと?』
 小さな呟きを聞きつけたのか、シャイレルが不思議そうな声を上げる。それ
に、アヴェルは苦笑しつつなんでもないよ、と笑って見せた。

「ち、ちょっと、一体何なのよ!?」
 突然の揺れにバランスを崩したイヴは、上擦った声を上げて周囲を見回した。
ティムリィも不安げにきょろきょろしている。そして、影は一際大きく揺らめ
いた。
『……我が……力の……限界……島が……崩れる……』
「なっ……ちょっと待って、そんな事になったら!」
 島の崩壊がそこに住む者に何をもたらすかは言葉を尽くすまでもない。即ち、
全滅だ。
「ねえ、どうしようもないの!? 何か、崩壊を止める方法は……」
『……我の消滅と共に、島は、海に沈み行こう……しかし、それもまた、定め』
 叫ぶように問うイヴに、守護神は淡々とこう告げた。
「定めって……それで、納得していいの? 島の人たちはどうなるのよっ!?」
『……だが、汝であればわかろう、竜の巫女よ。護り手を失い、聖域すら無く
した我の無力さは』
 イヴの問いかけに守護神は淡々とこう返してきた。その言わんとする所はわ
かる。聖域は、守護神の力が蓄積される場所。そこを失った守護神は徐々に力
を失い、やがては消滅してしまうのだ。
 まして、この島は護り手である巫女も竜使いも失っている。恐らくは力の均
衡を失い、極度の不安定に陥ってるのだろう。それは理解できるのだが。
「だからって……このまま諦めていい訳、ないじゃない! 島には、人が暮ら
してるのよっ!?」
 ストレートな言葉に守護神はやや戸惑ったようだった。影が微かに揺らめき、
動揺らしきものを伝えてくる。
『しかし……せめて竜使いが戻らねば、我の力は戻らぬ。我が力戻らねば、島
は我と共に消え行くのみ』
「なら、あたしが彼を説得する! だからお願い、諦めないで!!」
『……汝は……強い。そして、美しい……無垢なる心と力……では、それを信
じてしばし、耐え忍ばん』
「あ……ありがとう……」
 静かな言葉に、イヴはほっとして安堵の笑みをもらしていた。
『だが、長くは持たぬ……島の行く末……汝に託させてもらう、竜の巫女よ』
 そんなイヴの様子に微かに笑うように揺らめくと、守護神はこんな言葉を残
してすっと消え失せた。後にはまた、生命の感じられない静寂が立ち込める。
「……やって見せるわ……このままには、しておけないもの……」
『……イヴ……』
 決意を込めて呟くイヴに、ティムリィがそっと呼びかける。どことなく不安
げな輝竜に、イヴは大丈夫よ、と微笑んで見せた。
「さて……じゃ、一度戻りましょう。急いで、彼を説得しないとね……」
 きっ、と空を見上げて呟く。その横顔にははっきりそれとわかる、強い決意
が浮かんでいた。

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