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   1

 ……ヴンっ!
 重たく湿った大気を鈍い音が引き裂き、それを追うように深紅の飛沫が暗く
陰った空を禍々しく飾りたてた。文字通りの瞬間と言う以外にない空白に生命
の炎を消されたその騎士は、驚愕に顔を歪めた首を街道の上に転がし、直後に
その躯ががしゃん、と音を立てて地に伏した。
「そ……そんなのっ……て……」
 たった今目の前で起きた事を認識した時、声にできたのはこんな、呆然とし
た呟きだけだった。呆然と見開かれた目には、今の騎士の生命を奪った敵の姿
が虚ろに映し出されている。
「くっ……くくくっ……弱すぎるなあ……」
 敵――抜き身の大剣を下げた巨漢の戦士は、自分の集まる呆然とした視線の
主たちに嘲りの笑いを投げかけた。
「これが、フレイルーン聖騎士団の実力か? 大陸最強の騎士団ってのは、こ
の程度で名乗れるモンなのかあ、おい?」
「な……なにをっ!?」
 巨漢の挑発にまだ若い騎士たちが色めき立つ。先ほどとは一転、憤怒を帯び
た視線を、巨漢は小気味良さそうに受け止めた。
「違うってのか? なぁら、見せてみろよ、最強の騎士団の実力とやらをよ!」
 言いつつ、巨漢は未だ鈍い紅に濡れる大剣の切っ先をこちらに突き出してき
た。人間らしさの欠落した、一種獣的とも言える殺気と闘気にリンナは背筋が
凍りつくような感触を覚える。
(こ、こいつ……まともじゃない……)
「くっ……おのれ、言わせておけばっ……」
 呆然から抜け出せないリンナのすぐ側から怒声が上がった。声に我に返って
そちらを見たリンナは、怒りに顔を歪めた修行仲間ファディスに気づく。
「言わせておけば、どぉだってんだ? ええ、騎士さんよぉ?」
 対する巨漢は余裕綽々のまま、嘲りを持ってそれに答える。それに怒りをか
き立てられたファディスは剣に手を掛けた。
「……ファディスっ!」
 いけない、とリンナが押し止めるより早く、
「……止めぬか!」
 凛とした声がファディスを一喝した。その場に居合わせた者の視線が一点に
集まり、リンナもまた声の主──兄ランスに目を向けた。
「……紋章から推察するに、ゼファーグの将とお見受けするが?」
 一歩前に進み出たランスは、冷静な口調で巨漢に問いかけた。巨漢は相変わ
らず余裕のまま、それでも心持ち表情を引き締めてランスを見た。
「そうだ……と言ったらどうする?」
「ゼファーグの軍勢が、この地に何用か? 自治都市領が中立区である事、知
らぬ訳ではあるまい。にも関わらず大軍を持って国境を侵した挙げ句にこの狼
藉……ゼファーグは、『安寧の盟約』を破棄しようと言うのか!?」
 詰問口調の問いに対する、巨漢の返答はごく短いものだった。
「……知らんな」
 短い言葉に緊張が一気に高まる。ランスは低く押し殺した声で更に問いを接
いだ。
「知らぬ……だと?」
「頭のデカいお偉方の考えなどオレは知らん。オレはただ、請け負った仕事を
こなすのみ」
 素っ気なく答えつつ、巨漢は何故かリンナを見た。
「請け負った仕事……?」
 訝しげな呟きに巨漢はにやり、と笑い、
「おうよ……自治都市領の、聖騎士侯家の血を絶やす仕事をな!」
 猛々しい叫びと共にリンナに向けて切りかかってきた。
「……わっ!」
 だがその瞬間、巨漢の殺気に怯えた乗馬が棹立ちになり、リンナは地面に投
げ出されていた。直後に振るわれた大剣は馬の身体を叩き斬り、周囲に生温い
飛沫をまき散らす。
 刹那の静寂──それを経て。
「くくくっ……運が良かったな小僧!」
 巨漢の咆哮がその静寂を断ち割った。濡れた刃が高く掲げられるが、突然の
出来事に呆然としているリンナは来るべき一撃への対処がまるでできない。そ
して他の騎士たちも巨漢の振るう大剣の威力に度胆を抜かれ、瞬間、動きが取
れずにいた──一人を除いて。
 ……ガキィィィィィンっ!
「……っ!」
 唐突に響いた金属音がリンナを、そして騎士たちを我に返らせる。はっとし
て目の焦点を合わせたリンナは、目の前に翻る鮮やかな真紅に目を見張った。
「リンナ、いつまでぼんやりしている!? 早く立てっ!」
 色彩を認識した直後にランスの鋭い声が響き、その一喝がリンナを完全に我
に返らせた。落馬の際に打ちつけた身体の痛みを堪えつつ立ち上がったリンナ
は、巨漢と剣を打ち合わせた兄の姿に息を飲む。目の前に翻った真紅は、とっ
さに巨漢の前に立ちはだかったランスのマントの色彩だったのだ。
「ふん……いい腕だな」
 必殺を狙った一撃を止められた巨漢は忌々しげな、しかし、どことなく楽し
げな面持ちで鼻を鳴らした。
「しかしな……こちとら、生憎と傍系に用事は……」
 巨漢の口元が、笑みの形に歪む。
「……ねえんだよっ!」
 罵声と共に、巨漢はランスの腹部に蹴りを叩き込んだ。完全に不意を突かれ
たランスはまともに吹っ飛ぶ。
「兄上!」
「くっ……案ずるな、大事はない……」
 傍らに膝を突いたリンナに、ランスは口元を拭いつつ静かに答えた。
「……リンナ」
 真紅の瞳で巨漢を見据えつつ、ランスは低く弟を呼ぶ。
「はい」
「我々が、奴を食い止めている間に、ラファティアへ戻れ」
「兄上!?」
 静かな言葉にリンナは耳を疑った。ランスは真剣な面持ちのまま、静かに言
葉を接ぐ。
「レヴァーサの脚であれば、夜明け前には街に戻れるはず……街へ戻り、皆に
この事を伝えるのだ」
「で、でも! でも、それでは、兄上が……」
「案ずるな、むざむざとやられはしない……行け!」
 戸惑うリンナにランスは力強くこう告げるが、しかし、リンナは走り出す事
が出来なかった。謂われのない不安が足枷となり、動く事を阻んでいた。
「兄上……」
「ぼやぼやするな……時が限られているのはわかるだろう!?」
「……だけどっ……」
「さっきの奴の言葉は聞いたはずだ。奴の狙いは聖騎士侯家直系の者、つまり
はお前だ。と、なれば奴の……ゼファーグの思惑がどうであれ、この場はお前
の安全を確保するのが最も重要と言えるはず……わかるな?」
 厳しい言葉に、リンナは一つ頷いた。
「ならば、行け! 街へと戻り、リューディ……リューディスと共に、他の聖
騎士侯にこの事を伝えるのだ、いいな?」
 鋭くこう言い切ると、ランスはマントを翻して立ち上がった。鮮やかな真紅
が白銀の鎧と相まって鮮やかな色彩を織りなす。リンナも立ち上がり、兄の乗
馬であるレヴァーサとの距離を測った。
「内緒話はもう終いか?」
 立ち上がった二人に巨漢が相変わらずの余裕の体でこう問いかけてきた。こ
の問いにランスはすっと身構える事で答える。静かな気迫に、巨漢は何処か楽
しげに口元を歪めた。
「……我が名はランス・ザム・フレイルーン。十二聖騎士侯・火のフレイルー
ン家当主にして、フレイルーン聖騎士団団長を勤める者。ゼファーグの将よ、
名を名乗られよ!」
「……傭兵騎士ラグロウス。ゼファーグの客将だ」
 ランスの名乗りに巨漢──ラグロウスは低くこう応じた。その目はランスと、
そしてリンナとの距離を冷静に測っている。リンナは深く息を吸うと、レヴァ
ーサの方へ半歩足を踏み出した。ラグロウスの剣の切っ先が微かに動く──そ
れが、均衡を破る合図となった。
「……リンナ、行けっ!」
 ランスの鋭い声が静寂を引き裂く。その声に弾かれるようにリンナと、そし
てラグロウスが動いた。
「逃がすかよっ!」
 レヴァーサに飛び乗ったリンナへ向けてラグロウスが走る。その眼前にラン
スが立ちはだかり、振るわれた一撃を受け止めた。
「兄上っ!」
 暴れるレヴァーサの手綱を繰りつつ、リンナは兄を振り返る。ランスはラグ
ロウスと押し合いつつ、肩ごしにリンナを振り返った。
「構うな、行けっ!」
 振り返ったランスは鋭くこう怒鳴り、直後にふっと表情を緩めて、言った。
「リンナ……死ぬなよ」
 ごく短い、しかし、強い思いの籠もった言葉──それにリンナが何事か答え
るよりも早く、ファディスがレヴァーサに笞を当てた。突然の衝撃に驚いたレ
ヴァーサは嘶きを上げて走り出し、リンナはその制御に意識を集中せざるをえ
なくなる。
(兄上……みんな)
 背後から響く剣戟に、リンナはぎゅっと唇を噛みしめた。この剣戟がラグロ
ウス率いるゼファーグ神聖騎士団とランス率いるフレイルーン聖騎士団の戦い
を意味しているのは間違いない。そして数において圧倒的に劣る聖騎士団が勝
利する見込みは皆無と言えるだろう。
 しかし──立ち止まる事はできない、引き返す事は許されない。今はラファ
ティアへと急がなくてはならない。この事態を他の聖騎士侯に伝え、早急に対
処方を講じなければ、ようやくかつての大戦の傷を癒したばかりのこの大陸は
どうなるかわからないのだから。
 理屈はわかっている。現実も、一応は認識しているつもりだった。しかし、
感情は──心は現実と正反対へ向かってしまう。戻りたい、兄やみんなと共に
戦いたい──そう、心が絶叫している。そんな思いを強引に押さえ込みつつ、
リンナは街を目指して懸命に手綱を繰った。
「……っ!?」
 不意に、不自然な衝撃が全身を突き抜けた。レヴァーサが、何かに足をとら
れたらしい。突然の事にリンナは態勢を崩し、地面に投げ出されていた。銀の
鎧ががしゃん、とけたたましい音を立てる。
「……くっ……ダメだ、こんな所で……」
 もたついてはいられない、と立ち上がろうとするが、そうすると全身を激痛
が貫いた。落馬のショックで肋が数本、折れたらしい。
「……くっ……」
 歯を食いしばり、何とか立ち上がろうとするものの、軽く力を入れただけで
激しく痛む身体はそれを思うようにいかせない。
「くっ……ダメだ……行かなきゃ……」
 念じれば念じるほど痛みは高まり、動きを阻む。その内、意識も朦朧として
きた。頭の中に霞がかかり、気が遠のいていく……。
「ダメ……だ……リューディ……に……」
 声に出して呟いた所で、限界が訪れた。直後に降りだした雨が気を失ったリ
ンナを冷たく打ち据え、レヴァーサが不安げにその顔を覗き込んでいた。

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