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   紅き月下に思うモノ

『多分、一筋縄では行かないだろうね』

 紅い月の照らす夜を見つめつつ、彼女はいつもこう呟いていた。

『でも、下がる後ろはない……あの子たちは、生きているのだから』

 独り言のような呟きには、いつも自嘲の響きがあったような気がする。

『だから、蝉。あたしに何かあった時は……頼むよ?』

 どことなく寂しげな呟きと共に、『知の塊』でしかなかった自分に存在意義
を与えてくれた女性はにこりと微笑んだ。

 彼女と交わしたのは、誓い。
 空と海の色を託された少年と、海の名を託された少女を護るという。
 それが彼女の与えてくれたモノに報いる、唯一の術だから。

 いつからか、それだけではなくなっていたのだけど。

「……ん……蝉!」
 突然耳元で名を呼ばれ、ぼんやりとしたまま紅い月に見入っていた蝉ははっ
と我に返った。
「あ……ああ、秋斗。どうか、したのかな?」
 一拍間を置いてとぼけた問いを投げかけると、秋斗はあのな、と言いつつ眉
を寄せる。蒼い瞳には、微かな険が浮かんでいた。
「どうかもなんも……月見ながら、ぼーっとして。そっちこそどうかしたのか
よ?」
 睨むようにこちらを見つつ投げかけられた問いに、蝉は苦笑する。
 月を見ているとついぼんやりと見入ってしまい、時間が立つのを忘れてしま
う。それは蝉の癖というか、軽い発作のようなものなのだ。より正確に言うな
らば、クリーチャーと呼ばれる者たちの中でも特に強い能力『組み込まれた』
者たちに、それと共に与えられたもの、だが。
 勿論秋斗もそういった発作は持っているし、これが蝉の発作である事も知っ
ているはずなのだが。
「どうもしないよ、いつもの事。それより、美海様は?」
 投げかけられた問いに微笑みながら答え、逆に問いを返すと、秋斗は投げや
りな口調で風呂、と返してきた。
「っとに、訳わかんねぇっ……二、三日風呂入んなくたって、死にゃしねーだ
ろーにっ……」
 鮮やかな蒼い髪をばりばりと掻き毟りつつグチる秋斗に、蝉はまた苦笑する。
 二人と共に旅する少女、美海。彼女はクリエイターと呼ばれる側の者であり、
彼らと出会うまでは完璧な衛生管理のなされた施設で暮らしていた。そのため
か、潔癖症とまではいかないものの、汚れにやけに過敏に反応する傾向にある
のだ。それはこまめな入浴の要求という形で示され、それを叶えるために秋斗
は日々の夜営場所の選択に頭を悩まされていた。
 美海の要求を叶える事、それ自体は実は難しくはない。放置されたクリエイ
ターの施設を利用して休息すれば充分に事足りるからだ。
 クリーチャーたちの最初の反抗以前、クリエイターたちは各地に観測施設や
研究所を建てて活動していた。クリエイターたちが軒並み壁の向こうの都市に
閉じこもっている現状、それらの施設は利用する者もなく放置されているのだ
が、そのほとんどは機能が生きたままなのだ。
 それらの施設の居住設備を利用すれば美海の要求に応えつつかつ安全に夜営
ができるのだが、そんな施設が毎日見つかるはずもないので、已む無く野宿を
する時には大騒ぎになるのだが。
「そう、文句ばかり言わないで。仕方ないよ、女の子なんだから」
「カンケーあんのかよ、それっ!?」
 苦笑したまま、なだめるように言うと秋斗はすぐさまこう返してくる。その
様子に、蝉はくす、と笑んだ。
(また、始まった)
 そんな思いがふと過ぎる。
 この反応は、秋斗のヤキモチが始まった合図なのだ。理由の全てを教えてい
ないせいもあるが、秋斗は蝉が美海に様をつけて呼び、特別扱いする事に不満
を抱いている。元々、クリエイターという存在に強い嫌悪感を持っていた秋斗
にしてみれば、面白くないのも無理はないのだろうが。
「……なに、笑ってんだよ?」
 ついにこにことしていると、秋斗が低い声で問いかけてきた。その声と、上
目遣いの蒼い瞳が、秋斗が拗ねている事を端的に物語っている。
「何、って……」
「何だよっ!?」
 意味ありげに言葉を濁すと、秋斗はますます向きになる。その反応を可愛ら
しいな、と思いつつ、蝉は秋斗を引き寄せて触れるだけの口付けを落とした。
「……蝉……」
 唇が離れると、秋斗はそれまでとは一転、不安げな面持ちで名を呼んでくる。
「ん?」
「今の……発作?」
 短い問いに、蝉は僅かに微笑んで見せた。
「秋斗は、どっちだと思うかな?」
「わかったら、聞くかよっ!」
 冗談めかした問いに秋斗はむっとしたようにこう返してくる。蝉は確かにね、
と言いつつ鮮やかな蒼い髪を撫でた。
「大丈夫、最近は安定してるから」
 笑いながらこ囁くと、秋斗はそっか、と安堵したように息を吐き、
「心配なら、添い寝してくれてもいいけどね」
 直後の一言にぴしり、と音入りで固まった。
「あーのーなーっ!」
 月の光が紅く染め上げる大地に、絶叫が広がっていく。

──キコエ……マスカ……──
 今にも途切れそうな声がする。それは今いる施設に入ってからずっと、蝉の
意識に語りかけていた。
──キコエ……マスカ……──
 良く知っているような、全く知らないような、不可解な感触を覚える声。そ
れは奇妙な懐かしさと言い知れぬ恐れを蝉に抱かせ、それらの思いが彼をぼん
やりとさせる原因になっていた。
 応えるべきか、否か。
 その答えが、出せない。
 応えるべき、という思いは強い。だが、それを凌駕する思いもある。怖いの
だ。応えたらどうなるか、それが予測できるから。
──キコエ……マスカ……──
 どうか、呼ばないで。
 二つの選択肢の狭間で、蝉は一人こう呻くしかできなかった。

「……っ!」
 夢現の泡沫が破れ、蝉ははっと我に返る。気分的には跳ね起きたいような感
もあるのだが、腕の中の温もりがそれを押し留めていた。
「……秋斗?」
 秋斗がそこにいる事に蝉は一瞬だけ戸惑うものの、すぐにその理由を思い出
した。昨夜冗談半分に言った添い寝が、冗談にならなかったのだ。
 あの後、先ほども夢現で聞いていた声によって結局蝉は安定を失してしまい、
秋斗に触れる事で安定回復してようやく眠る事ができたのだ。
 クリーチャーたちの中でも特に強い力を与えられた者は、時に自己存在を見
失って精神の均衡を失う事がある。それを鎮める手段として最も有効なのが、
波長の合う者との接触だった。
 精神を不安定にするのは結局は秘めた力の暴走であり、それを抑える事で精
神状態も安定する。そして、力の波長の近い者同士は接触する事でお互いの力
を安定させる事ができるのだ。
 蝉にとって最も自分を安定させてくれるのは秋斗であり、秋斗も、蝉が一番
自分を安らがせてくれる存在として認識している。彼らにとっては抱き合った
り軽い口付けを交わしたり、あるいは共に夜を過ごしたり、というのは、ある
意味で存在維持に必須の事と言えるのだ。
 勿論と言うか、彼らを結び付けているのはそんな『合理的な理屈』を超越し
た強い感情が主であり、仮にお互いよりも波長の合う者と出会ったとしても、
二人が離れる可能性は皆無に等しいのだが。
「……我ながら、情けない……」
 小さな小さなため息と共に、蝉は秋斗の髪を撫でる。
 ここ数日……というか、美海と行動を共にするようになってから、秋斗が強
い疲労を感じているのに気づいていたというのに。気遣わねばならない立場の
自分が秋斗に気を使わせ、助けられているのはなんとも言えず情けない。
 まして秋斗の疲れは力の暴走とは無縁の精神疲労と理解し、それを与えてい
るのが自分の態度であるとわかっているのに。
 とは言うものの。
(今はまだ、その時ではない)
 秋斗と美海、そしてレーテ。
 この三人を結び付けるものが何であるかを話すには、まだ早すぎるのだ。少
なくとも彼らの探すもの──かつて存在した青色を見つけ出すまでは、教える
事はできない。
 それを何故と問われたなら、それがレーテの望んだ形だから、と答えるしか
ないのだが。
「……蝉?」
 不意に、小さな声が名を呼んできた。いつの間に目を覚ましたのか、秋斗が
ややぼんやりとした蒼い瞳でこちらを見つめている。
「ああ……おはよう、秋斗」
「ん……おはよ……大丈夫か?」
 視線が合うなり投げかけられた問いに、蝉は苦笑しつつ頷いた。
「なら、いいけど……」
 いい、と言っているわりに、秋斗の表情は物言いたげだった。それに気づい
た蝉は、どうかした? と短く問う。
「蝉……」
「ん?」
「ここ……この施設、なんかあるだろ?」
「え?」
 投げかけられた問いに、蝉は言葉を無くしていた。
「ここに着いてから蝉、おかしいし。この施設自体、他のとこと違うしさ。何
か、あるんだろ?」
「秋斗……」
 問いかける秋斗の瞳は真剣で、それが言葉で誤魔化す事の困難さを物語って
いた。それ以前に、あからさまな自分の異常が反論の余地を与えていない。
(今回ばかりは……)
 秋斗に甘えるしかない。その結論に達するまで、さして時間はかからなかっ
た。
「ここは……この施設は、『ライブラリ』」
「『ライブラリ』?」
 唐突に始まった説明に戸惑う秋斗に、蝉はそう、と頷いた。
「クリエイターたちが作った、『七つの知の泉』の一つ……私の兄弟の一人が、
ここにいるはず」
 静かな言葉に、秋斗はえ、と短く声を上げて目を見張った。

「地下に行くのですか?」
 秋斗と蝉の話を一通り聞くと、美海は不思議そうにこう言って僅かに首を傾
げた。それに、秋斗はああ、とぶっきらぼうに頷く。
「わかりました。わたし、上で待っています」
 その素っ気無さを大して気にした様子もなく、美海はにっこりと微笑んだ。
そんな美海の反応に、秋斗は毒気を抜かれたような表情を覗かせる。美海のマ
イペースぶりは、秋斗のペースを大きく狂わせるものであるらしい。クリエイ
ターであり、また、これまで接する機会の少なかった同世代の異性である、と
いうだけでも理解の範疇を超えているのかも知れないが。
 そんな冷静な分析を巡らせる一方で、蝉は美海が待っている、と言った事に
内心で安堵していた。地下で起こり得る事態は、美海には刺激が強い可能性も
高いからだ。美海に限らず秋斗にもショックを与えてしまう可能性が高いのだ
が、秋斗にはついて来てもらわないと蝉自身が持たない、という嫌な確信もま
た存在していた。
「それでは美海様、くれぐれもお一人で外に出たりなさいませんように、お願
いいたします」
「はい。お風呂に入って、あとは本を読んでいます」
 蝉の言葉に、美海は本当に嬉しそうに微笑みながらこう言った。この施設の
一室にはデータ化されていない、印刷物の本が大量に保管されているのだ。そ
してその存在は入浴設備と同様、下手をすればそれ以上に美海を喜ばせていた。
「……お気楽言ってやがる……」
 にこにこしている美海の様子に、秋斗がぼそりとこんな呟きをもらす。それ
に苦笑しつつ、蝉は秋斗に行こうか、と声をかけた。秋斗は一つ息を吐いてか
ら、ああ、と頷く。
 行ってらっしゃい、と微笑む美海に送り出される形で、二人は施設の奥へと
向かった。
「なぁ、蝉」
 地下に向かうエレベーターに乗り込み、降下が始まって間もなく秋斗が問い
を投げかけてきた。またぼんやりとしていた蝉は、その声にはっと我に返る。
「……あ、ああ。なんだい?」
 テンポのずれた返事は秋斗に不安を覚えさせたらしく、こちらを見つめる瞳
に険が浮かんだ。蝉は大丈夫だよ、と言いつつ少年の蒼い髪を撫でる。
「それで? どうかしたの?」
「さっき言ってた、兄弟って、どう言う意味だ?」
 微かに険を残したまま、秋斗はこう問いかけてくる。
 クリーチャーにとって、兄弟姉妹という言葉は複数の意味を持つ。基本的に
は、精子と卵子を提供した人物が同一である、という、遺伝子的、血縁的なも
のをさすが、誕生した場所が同一である場合にもそう称する事が多い。つまり、
同じ人工子宮から生まれた者同士のつながりだ。
 クリーチャーはその誕生の特殊性故か、後者を重視する傾向にある。同じ場
所、同じシステムで管理された人工子宮で育まれた者同士は波長が近く、相性
がいい事が多いのだ。
「どういうって……そうだね。言わば、役割上の同類、かな?」
 突然の問いに戸惑いつつ、蝉は説明を始める。
「役割上の、同類?」
「そう。ようするに、同じ役割を押し付けられた者同士、かな」
 きょとん、とする秋斗に、蝉は苦笑めいた表情を向けた。
「私がどういう……どういった目的で作られた存在かは、前に話したよね?」
 その表情のまま、蝉は淡々と説明を続ける。
「……確か、知識と、データの、蓄積……」
「そう。言わば、生体データベース。そして、その役割を持たせられたのが、
『七知泉』と呼ばれる七人のクリーチャー」
 誕生してからずっと、ただひたすらに知識のみを与えられていた、知の塊。
それが『七知泉』と呼ばれる者たちだった。余りにも多くを知るが故に彼らは
感情や自我を押さえ込まれ、ただ淡々と、必要に応じて知識を供するだけの存
在としてクリエイターたちに使われていた。
 蝉はその『七知泉』の一人として生み出され、『中央政府』でメインデータ
ベースとして使われていた。その後、クリーチャーたちの反抗活動によってそ
の役割から解放され、当時クリーチャーたちの導き手のような立場にあったレ
ーテに預けられたのだ。
「じゃ……ここにいるのって、その……昔の、蝉みたいな感じの?」
 沈黙を経て、秋斗は途切れがちにこんな問いを投げかけてきた。十年前、初
めて会った頃の事を思い出しているらしい。
「兄弟の誰がいるのかにもよるけど……ね」
 静かに答えつつ、蝉は秋斗の髪を撫でる。クセの強い、蒼い髪。それは触れ
ているだけで心を安らがせてくれる。そして安らぎを感じる事が、自分が心あ
る存在である事を実感させてくれた。
 それを感じさせてくれるのは、この少年だけ。
 閉ざされた自我を解放してくれたのは、レーテだった。だが、不安定な感情
に形を与え、自分を作り出す契機をもたらしてくれたのは秋斗だ。
 物心ついた時にはレーテと二人きりで暮らし、彼女以外の他者と接する機会
のなかった幼い秋斗にとって、初めて見る自分とレーテ以外の第三者。それに
対する無邪気な好奇心が、張り詰めて動かなかった心の琴線を揺り動かしてく
れた。
 そのお陰で、自分は今、自分としていられる。
 生体データベースとしててではなく、蝉という個人で生きていられる。
 それがどれだけ素晴らしい事なのかは言葉で言えるものではなく、そして、
自分を支えてくれる存在への愛しさはどんなに言葉を尽くしても語れるもので
はない。
「……蝉?」
 髪を撫でつつ物思いにふけっていると、秋斗が声をかけてきた。蒼い瞳には、
微かに不安が浮かんでいる。今のぼんやりとした物思いを、発作と疑っている
のだろうか。蝉は笑いながら大丈夫だよ、と応じる。
「ホントかよ……んで、兄弟に会って、蝉はどーするんだ?」
 僅かに眉を寄せるものの、秋斗はそれ以上は追求せずにこう問いかけてくる。
この問いに、蝉はやや表情を引き締めた。
「それこそ、誰がいるか、によるけれど……もし、兄弟が何かを私に望んでい
て、それが私にできる事だったら、叶えたいとは、思う……」
「でもさ。『七知泉』って、その……感情とか、そういうのが……」
「いや……『ネットワーク』から外れたとはいえ、私がこうして感情を取り戻
した事で、兄弟たちが影響を受けた可能性はあるよ」
 ここで蝉は一度言葉を切り、それからわざとおどけた口調でだから厄介なの
だけどね、と続けた。
 自我も感情もないからこそ、生体データベースとして扱われる事に苦痛を感
じる事もない。だが、それらが呼び起こされたなら、それは大きな苦痛を伴う
生となるだろう。
 ただ存在し、生かされるだけで何の変化もない空虚な時間があるだけの生。
各地の施設が放棄されている状況において、その空虚さはより一層、顕著な者
となっているはずだ。
 空虚さからの解放。恐らく、兄弟はそれを求めてくるだろう。
 問題なのは、それが生と死、どちらを伴うものとなるのか、だ。できるなら、
生きる方を選択して欲しいとは思うが、しかし。
「っとに……思いつめんなよっ!」
 思い悩んでいると、こんな言葉と共に胸に衝撃が伝わった。秋斗が軽く、拳
を打ち付けてきたのだ。
「秋斗……」
「とにかく、会ってみなきゃ始まんねーんだから! 悪い方に悪い方に考えて、
思いつめんなって!」
 直線の言葉が胸に響く。言われてみれば、確かにその通りだ。会ってみなけ
れば何が望まれるかはわからない。そして、最悪の形を望まれたとしても。
(受け止められる)
 その望みを受け止め、叶えられる気がした。すぐ側に、大きな支えがあるか
ら。
「そう……だね。確かに、その通りだ」
 秋斗と、そして自分自身と、その双方に向けてこう呟く。この呟きに、秋斗
はだろ? と言ってにやっと笑った。それに笑みを返しつつ、蝉は胸に押し当
てられたままの秋斗の手を引いて、腕の中に抱きすくめた。
「って、お、おいっ!?」
 突然の事に驚いたのか、秋斗は声を上擦らせる。文句を言おうと顔を上げる
のを狙いすまして、蝉は素早くその唇を塞いだ。
 ほんの一瞬、逆らう素振りを見せるのはいつもの事。
 それでも、秋斗はすぐに目を閉じて口付けに応える。
 だが甘い時間は長くは続かず、それは足元から伝わってきた振動によって中
断された。のんびりと下降していたエレベーターが、最下層に到達したのだ。
 離れる事に一抹の物足りなさと、そして、微かな不安を感じつつ、蝉はそっ
と秋斗を放す。その表情が、いつになく厳しく引き締まった。
──キコエ……マスカ……──
 再び、呼び声が響く。蝉はそれに、聞こえますよ、と静かに答えた。
「今から……行きます」
 言い切る刹那、その表情にはどことなく悲壮な決意のようなものが浮かんで
いた。それに何か感じたのか、秋斗がぎゅっと手を握ってくる。その手を握り
返しつつ、蝉はゆっくりと目の前に開いた通路に足を踏み入れた。
 通路には幾重にも扉がつけられていたが、それらは近づくだけで呆気なく開
放される。奥にいる者が彼らを招いている事が、そこから感じられた。
 そして、扉を一つ潜るごとに、蝉を呼ぶ声ははっきりとしてくる。
 兄弟と──他の『七知泉』とこうして会うのは初めてだ。『七知泉』は人工
子宮を出てすぐ、あらかじめ割り当てられていた『ライブラリ』に移され、生
体データベースとしての役割を与えられていたから。『ネットワーク』を構築
する事で繋がりを持ってはいたが、当時の彼らには、それに役割以外の意義を
感じる『心』は存在してはいなかった。
 誰がいるのだろう。どんな姿をしているのだろう。
 今更ながらこんな事を考えた時、目の前に一際大きな扉が現れた。
「……ここか?」
 秋斗が短く問い、それにええ、と頷くのと同時に扉は開いた。二人はゆっく
りとその向こうに歩みを進め、
「……なっ……」
「な……なんだよ、これ……?」
 広がる光景に絶句した。
 そこは『ライブラリ』の中枢、『七知泉』の一人が納められた空間のはずだ
った。
 だが、そこにあるのは無差別に破壊された機械の残骸と、白骨化した死体が
幾つか。そして唯一稼動していると思われるシステムのパネルにはやはり白骨
化した死体がもたれかかり、その傍らに、半透明の少女が寄り添っていた。
 漆黒の長い髪と、翡翠色の瞳の少女。その容姿は、どことなく蝉に似ている
ように見える。
「あれって……ホログラフ?」
 半透明の少女をしばし見つめた後、秋斗がぽつりと呟いた。その呟きを聞き
つけたかのように、少女が顔を上げて二人の方を見る。
「あなたは……」
『わたしは、泉』
 蝉の問いに、少女の声が答える。その声は、部屋全体から響いているようだ
った。
「……あ……本体は、もしかして、奥のシステムん中……?」
 また、秋斗が呟く。その声は、微かに震えていた。
 生体データベースとして、施設のシステムに組み込まれる。
 言葉だけで説明してたそれがどういう状況なのか、実物を見て悟ったのだろ
う。
『そうです……わたしの身体は……このシステムの中枢部に、パーツとして組
み込まれています』
 秋斗の呟きに蝉が答えるよりも早く、泉と名乗った少女の声が静かに説明し
た。
「泉……これは、一体。この『ライブラリ』で、何が?」
 泉の説明に絶句した秋斗の肩を抱いて支えつつ、蝉は静かにこう問いかけた。
『十年前……あなたが『ネットワーク』から切り離された時の衝撃で……わた
しの心が、目覚めました。幸いというか、この施設の管理者は皆穏やかで……
わたしは、とても安らいだ時間を過ごしていられたのです』
 ここで、泉はでも、と言葉を切った。
「でも……なんです?」
『……八年前、残った『七知泉』をクリエイターの支配下から解放しよう、と
いう活動が起きた時に……わたしの安らぎは、失われました』
 静かな言葉の後、少女のホログラフがパネルに伏した死体を見た。
『わたしは、ここにいたかった。ここに……この人の側に。でも、彼らはそれ
を理解してくれなかった。だから……わたしは……』
「……防衛システムを作動させて、『解放』に来た人たちを……」
 途切れた言葉の先を、蝉は一部分だけ引き取って続ける。その先は言わずと
も、中枢の状況が全て物語っていた。
『でも……この人は……救えなかった……大切な人、なのに……』
「大切って……だって、そいつ、ツクリテだろっ!? ツクリテの事なんか、好
きになったっての!?」
 泉の言葉に衝撃を受けたのか、秋斗が叫ぶようにこう問いかけた。
 理解できない。
 声にも表情にも、そんな思いがありありと浮かんでいた。
 ツクリテ──クリエイターという存在への憎悪を抱えている秋斗には、それ
は理解できない事態なのだろう。
『わたしがこの人に抱いた感情が、愛や恋と呼べるモノであるならば、そう』
 その問いに、泉は静かに静かにこう答える。
「わかんねぇ……ワケ、わかんねぇよ、そんなんっ!」
「秋斗、落ち着いて」
 静かな泉の態度に混乱を深めていく秋斗の様子に危機感を覚えた蝉は、とっ
さに少年を抱き寄せていた。このまま感情を昂らせると、力を暴走させる怖れ
もある。
「落ち着けって、落ち着けって……でも、だけどっ!!」
「いい子だから」
 小声で囁いて、ぽんぽん、と背中を叩く。まるで、幼い子供をあやすように。
秋斗が混乱した時には、こうするのが一番いいのだ。いつもであれば即、「ガ
キ扱いすんなっ!」と反発してくる所だが、今はそんな余裕もないらしく、ぎ
ゅっと蝉の服を掴んで俯いたままだった。
「……泉」
 秋斗がひとまず落ち着くと、蝉はゆっくりと泉を見た。泉はじっと、蝉と秋
斗を見つめている。ホログラフに映し出される少女の髪と瞳は、自分のそれと
同じ色彩。自分と同じ、『優良遺伝子』を組み込まれた『兄弟』である、とい
う事実の一端が、そこに垣間見えた。
「あなたの望みは……その、彼の許へ?」
 静かに、静かに問う。その言葉に腕の中の秋斗が微かに震え、泉は静かなま
まはい、と頷いた。予想通りの返事に蝉は一つ息を吐く。
 泉は、システムの内部に組み込まれている。恐らくは特殊な培養液と共に、
さして大きくないカプセルに詰め込まれた状態で。生きていられるのは、シス
テム内の生命維持プログラムの働きによるものだ。生命維持プログラムの制御
は外部からのアクセスによってのみ可能とされており、現状では泉に自決する
術はない。
 この八年間、泉は死に焦がれつつ、ただ、存在していたのだろう。朽ちてい
く屍たちを見つめつつ、唯一救いをもたらせるであろう蝉を、待ち続けていた
のだとしたら。
「……残酷な話ですね」
 その時間の空虚さと、望まれる結末。そのどちらも残酷なように蝉には思え
た。蝉は一つ息を吐き、そっと秋斗を放す。
「……蝉……」
「これは、私の責任だから」
 何か言おうとする秋斗を静かな微笑で遮ると、蝉はゆっくりとシステムパネ
ルに歩み寄った。
『あの子は……あの、蒼い髪と瞳は……』
 パネルの前に立つと、頭の中に泉の声が響いた。蝉は意識の上でそう、と短
く答える。
『……『忘却』と『海』の愛し子……では、もう一人も?』
(ここの上に居る)
『そう……』
(泉、最後に一つだけ。他の『七知泉』たちは……?)
『わからないわ。あの時から……八年前から、『ネットワーク』は機能してい
ないから』
(そうか……)
 泉の返事は、ある程度は予想していたものだった。八年前にあったと言う、
クリーチャーたちの大規模な反抗運動。それが『兄弟』たちにどんな影響を及
ぼしたのか。それを考えると、やはり、辛い。
『蝉。わたしからも、一つ聞かせて』
 暗い予測に瞳を陰らせる蝉に、泉が静かに呼びかけてきた。
(……何を?)
『あなたは、あの子を、愛している。なら、わたしの、この人への想いも、そ
う呼べると思う?』
 静かな問いに、蝉はまた、微笑を浮かべた。
(勿論)
 短い肯定に、少女のホログラフが微笑する。
 それはとても穏やかで、そして、美しかった。
 その笑みを、決して忘れまい。
 そう心に決めつつ、蝉は自らの『力』を起動する。
 厳重なプロテクトもなんら意味を成さない、文字通り全知全能の力。それを
持って、ほんの少しだけシステムに干渉する。
 それで──全ては、終わった。

「……蝉」
 沈黙した中枢を完全に封印し、上へ戻るべくエレベーターに乗り込むと、秋
斗が小声で呼びかけてきた。その表情には強い困惑が浮かんでいる。
 今、中枢で見聞きした事。
 それを、自分の中でどう処理すればいいのかわからない。
 そんな思いが、その表情からは読み取れた。
「えっと……あの、さ……」
「ね、秋斗。今日も、月は紅いかな」
 途切れがちの言葉を遮ってこんな問いを投げかけると、秋斗はえ? と間の
抜けた声を上げた。
「今日もって……月って、紅いもんじゃんか?」
 それから、何を今更、と言わんばかりにこう問いかけてくる。
 秋斗が生まれるずっと以前から、月は紅い。だから秋斗にとってはそれが当
たり前なのだ。
「でも、昔は違う色をしていたんだよ?」
 それに、蝉は笑いながらこう返す。
 私たちが探している、空と海の青と同じように、月の色も失われているのだ
からね、と続けると、秋斗はそうだけど、と眉を寄せる。
「でも、それがなんだって……」
 なんだって言うんだよ、という問いは途中で遮られる。蝉が不意をついて唇
を塞いだからだ。
「……って、何なんだよ、もうっ!?」
 触れるだけの軽い口付けは、大抵はからかいを含むもの。さすがにそれとわ
かっているのか、秋斗の問いは苛立ちを帯びていた。
「もしかしたら、違う色になるかも知れないから、一緒に見ていよう」
 そんな反応の一つ一つを愛しく受け止めつつ、蝉は笑顔でこんな事を言う。
この言葉に秋斗はまた、え、と間の抜けた声を上げた。
「っとに……昨日からこっち、蝉、わけわかんねぇっ!」
 怒ったように言いつつ、しかし、拒絶の意は示さない。それが秋斗なりの優
しさなのは、他の誰よりも蝉が一番良くわかっている。
「じゃ、決まりだね」
 にこりと笑って言いつつ、年齢のわりに華奢な身体を抱き寄せる。

 今日出る月も、恐らくは紅い。
 だが、それに魅入られる心配はないだろう。
 失われた青をその身に継ぐ者。
 本来、多くの存在の希望であるはずの少年を、独占する事を許されたのだか
ら。

 鮮やかな蒼色の髪を撫でつつ、蝉はふとこんな事を考えていた。

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