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   ACT−5:狂夢のみ知る遠い刻 03

 光が治まった後の球体は暗く沈黙し、そこには何も映し出されてはいなかっ
た。ミィは戸惑いながら球体を見つめ、それから狂夢王を振り返る。あの後一
体どうなったのか、それを聞きたかったのだが。
「……え?」
 振り返ったミィは、用意していた問いと共に息を飲んでいた。一体いつの間
に現れたのか、狂夢王の前に傷だらけの少年が立っていたのだ。
 とても暗い、陰りを帯びた翠珠色の瞳の少年は、静かに狂夢王を見つめてい
た。
『……あんた、誰?』
 少年が口を開き、問いを投げる。その声は、薄い紗のようなものを通してい
るかのように、遠く聞こえた。
「我は名も無き存在。名も無き狂気の王。精霊を統べしモノの一。ある者は我
をこう称する。ロード・オブ・ナイトメア……狂夢王、と」
 少年の問いに、狂夢王は歌うようにこう答える。
『じゃあ、あんたが最後のひとりか』
 狂夢王の答えに少年は小さく呟き、それから、すっとそちらへ手を差し伸べ
た。
「……力を、求めるのか?」
『うん』
 静かな問いに、少年はなんらためらう素振りも見せずに頷く。
「我は、汝に力を与え得る。だが……」
『だけど、何?』
 濁された言葉の先を、少年は淡々と促す。その声にも表情にも、感情らしき
ものは全くと言っていいほど伺えなかった。
「それは汝に多くを与え、同時に、全てを奪い取るやも知れぬぞ」
『構わない。どうせもう、何もないから』
 戸惑いも躊躇も、そこにはなかった。きっぱりと言い切った少年はじっと狂
夢王を見つめている。そしてこの言葉に、狂夢王は微かな笑みを口元に浮かべ
た。
「何もない……か。では、手にするがいい。我が力、我が剣を」
 言葉に応じるように、暗闇に剣が浮かび上がる。血を思わせる真紅の石の嵌
め込まれた、銀の剣。少年はなんらためらう事無く、その剣を手にした。
「……我が剣は、持ち手に全てに勝る力を二度、与える。ただし、その都度、
贄を要する」
 剣を手にした少年に、狂夢王は静かにこう告げる。この言葉に、少年はやや
首を傾げた。
『……にえ?』
「そう、贄。一度目は、記憶。過去に在りし全てを、汝より喰らう」
『ふうん……そう。別に、いいよ。過去の記憶なんて、いらないから』
 淡々と、淡々と、少年はこう言いきった。それに価値などない、と言わんば
かりに。
「そうか。そして、二度目。この時は汝の魂、そのものを喰らう」
『……魂?』
 記憶、と言われた時はあっさりと切り捨てたものの、さすがに今度は即答は
されず、少年は怪訝そうに瞬いた。
「そう、魂。汝の存在の根幹を成すもの。二度目の発動の際に我が剣はそれを
喰らい、汝の存在は消滅する。転生する事もなく、永久に」
 狂夢王の説明に、少年は一瞬思案するような素振りを見せた。さすがに、二
つ目の代償は大きいのか、と思いきや。
『別に、いいよ』
 それまでと変わらず淡々と、少年はこう言いきった。
『何にもないんだから。だから、消えたって同じ』
 宣言する声は言いようもなく冷たく、空間に響いて、消える。
「……全てを消した事で、彼の者は心を壊した」
 一連のやり取りに呆然としていたミィは、狂夢王の一言に我に返った。淡い
紅の瞳はいつの間にか、ミィへと向けられている。
「あの……今の、は」
 しばしためらった後、ミィは恐る恐る問いを投げかけた。答えは何となくわ
かっているが、しかし、問わずにはいられなかった。
「かつて、この場にて行われし事。我と彼の者の、盟約」
「盟約……」
 ふと、何かが引っかかった。今のやり取りが、彼らの盟約のそれだと言うな
ら。
「一度目は、記憶……あの……もしかして……」
 問いかける声が震えているのがわかった。狂夢王は静かなまま、言葉の続き
を待つ。
「もしかして、ソードさんが、自分の事だけ覚えていないのは……その、盟約
の……せいなんですか?」
 震えながら投げかけた問いに、狂夢王は微かな笑みを浮かべつつ、頷いた。
「そう。盟約の発動により、我が記憶を喰らった。クロード・ヴェルセリスと
呼ばれし者、その記憶は我が糧として、我が力となった」
「そんな……」
「全ては、彼の者が自ら望みし事」
 短い言葉に、ミィはそれ以上何も言えなくなって目を伏せた。そんなミィに、
狂夢王は気だるげな様子で問いを投げかけてくる。
「何故に、と思う。聖王女?」
 唐突な問いかけに、ミィは困惑しつつ狂夢王を見た。
「何故……って?」
「何故に彼の者は、第一の盟約を発動したのだと、何時は思う?」
 戸惑いながら問い返すと、狂夢王はこう返してくる。ミィは困惑を深めつつ、
淡い紅色の瞳を見つめた。その困惑を答えと見なしたのか、狂夢王は薄く笑み
つつ、言葉を続ける。
「彼の者が記憶を贄とせしは、聖王国ユグラル攻防戦の折。彼の者はそれまで
従いし帝国と袂を分かち、聖王国側についた」
 その話は、ミィも知っていた。魔導帝国軍第七遊撃師団の突然の離反。それ
があったからこそ、ミィは混乱するユグラルから一人、脱出する事ができたと
も言えるのだから。
 冷徹で知られた焔獄の聖魔騎士の突然の行動に皆戸惑いはしたものの、その
理由を考える余裕はユグラルの人々にはなかった。勿論、ミィ自身にも。
「帝国の聖魔騎士と聖王国。表層的な接点などはどこにも見えぬ。
 では、何故に彼の者は自らを犠牲にしてまで、王国を護らんとしたのか……」
 言いつつ、狂夢王はつい、と手を振る。少年の姿が消え、再び球体に光が灯
った。

『……あの……大丈夫?』

 囁くような声が、球体から響く。酷く心配そうな、少女の声だ。その声と、
直後に映し出された映像に、ミィははっと息を飲む。
 森の中を流れる、小川の辺。そこに、傷ついた少年が座り込んでいる。年齢
は大体、十五、六歳になっているだろうか。翠珠色の瞳は酷く困惑した様子で
傍らに座る者を見つめている。
 その視線の先にいるのは、十歳になるかならないか、という年頃のまだ幼い
少女だった。金色の髪を白いリボンで結い上げたその少女は、スミレ色の瞳で
心配そうに少年を見つめていた。

『血……たくさん、でてる。痛い、でしょ?』

 おずおずと問う少女に、少年は何も言わずに目を逸らした。少女は困ったよ
うに眉を寄せ、それから、そっと少年の腕に手を触れる。その瞬間、少年の身
体が傍目にもはっきりそれとわかるほどに大きく震えた。

『……お前っ……』

 戸惑いを込めた瞳が少女に向けられる。一方の少女は驚いたように目を瞠り、
それから、哀しげに表情を曇らせた。

『お前……なんなんだっ!?』
『あなた、泣いてるの?』

 問いはほぼ同時に投げかけられ、そして、沈黙が訪れた。それぞれの問いは、
相手にとって答え難い物であったらしい。川のせせらぎの音だけが響き渡る静
寂が、空間に張り詰める。その静寂の中、少女が意を決したように顔を上げ、
少年の手をぎゅっと握った。

『なっ……』
『……泣かないで』
『だ、誰が、泣いてる、って』
『あなたの……心? ずっと、泣いているみたい……だから、泣かないで……
ね?』

 囁くような言葉と共に、少女は宥めるように微笑んで見せる。少年はしばし、
呆然とその笑みを見つめ……それから、つられるように微かな笑みを浮かべた。
 翠珠の瞳の、穏やかな笑顔。それは、今知っている表情と容易に重なる。
「私……私っ……どうして……」
 思わずその場に座り込みつつ、ミィは呆然とこう呟いていた。
 今、映し出された光景。それは、彼女の記憶にも確かにある──存在してい
る。まだ幼い日に、好奇心から飛び出した森の中で偶然出会った少年。初めて
出会う、『自分を全く知らない人』と言葉を交わした記憶。
 大切な思い出のはずなのに、いつか、いつの間にか記憶の片隅に閉じ込めて
そのまま忘れてしまっていた……そんな、過去の一幕。
「……盟約により全ての記憶を喰らいしはずが、何故かこの記憶だけは写し取
るのみしか叶わなんだ。何としても手放すまい、という意思が抗い……結果、
歪みが生じた」
 呆然とするミィに、狂夢王が気だるげな言葉を投げかける。
「……歪み?」
 その声で我に返ったミィは、戸惑いながらも狂夢王を見た。
「そう。この記憶を守らんとする無意識が、不自然な鍵をかける。生命の危機、
憤りの高まり……そうした際に、彼の者は自身を閉ざし、仮面を用いる。
 そう……血の瞳の、な」
「血の瞳……」
 それが何を意味するかは、わかる。全く異なる人格への変貌の事だろう。
「そしてその歪み故に、彼の者は彼の者であり続けている。
 歪みがあるが故に、第一の盟約果たされし今も彼の者は『心』を失する事無
く、自らを維持し続けている。
 ……かくも神秘なるは想いの力。我が領域は、我自身にも未知なるもの」
 楽しげな響きを帯びた言葉を聞きつつ、ミィはまた俯いて唇を噛み締めた。
 この出会いの後、一体どんな経緯があったのかはわからない。が、とにかく
ソードは──いや、クロードは帝国軍へと入り、『焔獄の聖魔騎士』と呼ばれ
る存在となった。そして、何かの折りに自分の事を、自分がユグラルの王女で
ある事を知ったのだろう。
 それが直接の原因かどうか、はっきりとは言えない。だが、剣の盟約にすら
抗い、止めている、という事実は彼にとってこの出会いが大きな意味を持って
いた、という証と言えるだろう。
 それまで従っていた国に、王に叛旗を翻らせるほどの、大きな意味。
 それを、彼はこの僅かな時間に抱いていた。
 自分は……忘れてしまっていたというのに。
 そう考えると、言いようもなく苦しくなる。そして、何よりも。
(私……裏切ろうとしている……あの人の優しさや、想い……踏み躙ろうとし
ている……!)
 今、自分がなそうとしている事、なさねばならない、と思っている事。聖地
を目指す目的、それが裏切りになるという事実が改めて思い知らされた。
「……あの」
 しばしの逡巡を経て、ミィは消え入りそうな声で狂夢王に呼びかけた。
「如何した?」
「あの……えっと……ソードさん、は……ソードさんに、記憶を戻す事は、で
きないのでしょうか?」
 途切れがちの問いに、狂夢王は僅かに口元を吊り上げたようにも見えた。そ
こにあるのは、はっきりそれとわかる、楽しげな笑みだ。
「それを聞いて、如何にする」
「もし……それが、できるなら……ソードさんに……」
「記憶を戻せ……と?」
 迷いを帯びてかどこかためらいがちになる言葉を途中で引き取って問う狂夢
王に、ミィははい、と頷いた。
 ソード──いや、クロードと彼の副官を務めていたメイファ。二人が恋人同
士だった事は知っていた。ファルシスの二度目の襲撃の前に、師団のメンバー
が話しているのを偶然聞いてしまったから。
 そして、メイファが今でも彼を思っているのは間違いないだろう。でなけれ
ばあの時、彼女が警戒も忘れて縋りつくなどできるとは思えなかった。
 だから。それならば、ソードにクロードの記憶を戻して、二人の関係を元に
戻せば。そうすれば、ソードが自分を気にかける事はなくなる。負担になる事
もない。
 実際の所はともかく、それはミィから見れば『最良』の手段であると。そん
な思いからの訴えに、狂夢王は楽しげな様子のまま、声を上げて笑った。
「……あ……あの?」
 唐突な事にミィは困惑した声を上げる。狂夢王は聞いているのかいないのか、
額に手を当ててくっくっく、と笑い続け、そして。
「そうして、彼の者を再び過去の悪夢の淵へと突き落とす、という訳か」
 笑い出した時と同様、唐突にぴたり、と笑い止めるなり静かな口調でこう言
い放ってきた。思いも寄らない一言に、ミィはえ、と声を上げて目を瞠る。
「過去の……悪夢?」
「遠き日の記憶は、大半が真紅の悪夢。そこから漸う逃れし者を、再びその只
中へ突き落とす、と? それを本気で願うか、聖王女よ?」
 戸惑うミィに、狂夢王は嘲りを帯びた口調でこんな問いを投げてくる。その
言葉に、ミィははっと息を飲んだ。
「そんなっ……私、そんなつもりじゃっ……」
「意図の有無に関わらず、結果として二つは同義……何れにせよ、その願いは
叶うべくもないが」
「……え?」
 歌うように紡がれる言葉に、ミィは知らず、呆けた声を上げる。その様子に、
狂夢王は再び薄い笑みを口元に乗せた。
「言ったはずだが。彼の者の記憶は、盟約により我が喰らった、と。汝は喰ら
いし糧を再び元の姿に還す事、叶いしか?」
「……あ……」
「それは何者にも叶わぬ事。我ら精霊の王とて、例外ではない。即ち、その願
いは叶わぬという事……何より、自らを偽りて望まれし願いなど、如何なる対
価あろうとも叶える必然などない」
 きっぱりと言い切られた言葉、取り分け最後の部分が鋭く突き刺さるような
心地がして、ミィはまた俯いて唇を噛み締めた。
「……さて、天の巫女姫。汝、これより如何にするか?」
 俯くミィに、狂夢王は歌うように問いを投げかける。
「これから……私は……」
「形のみの『名』に殉するか? 地の巫女姫の如く。それとも、その『名』を
断つか? 何れ選びしも、それは即ち汝の真実となる」
「私の……真実」
「答えは多様。故に、何者にも導くは叶い、そして叶わぬ」
 さて、如何に? と楽しげに言いつつ狂夢王はつい、と手を振る。その動き
に伴い、球体が粉々に砕け散った。カシャーーン、という澄んだ音が響き渡り、
次いで、周囲の風景が同じく音を立てて砕け散る。
「我の干渉はこれまで。これ以上、汝に干渉を重ねたなら、『名もなき天聖な
る君』の機嫌を損ねる故、控えるとしよう」
 歌うように紡がれる楽しげな言葉に、ミィは俯いたまま答えない。その様子
に狂夢王はまた楽しげに笑み──そして、唐突に消え失せた。ミィは再び、他
に何もない、誰もいない暗闇に取り残される。
「……どうすれば、いいの? どうしろと、いうの?」
 ずっと繰り返してきた疑問がまた、口をついて零れた。
 今更ながら、知らなければよかったと思えた。ソードの過去、自分との接点。
それを知らなければ。そうすればまだ……切り捨てる事もできたのに、と。
 しかしそう思う反面、それを否定する思いもまた、存在していた。それは単
なる理屈、言い訳と言い切る、静かな想い。精霊の作り出した温泉での一件で
その存在をはっきりと感じたそれは、ソードの事を知る知らないに関わらず、
彼と別れるという選択肢を強く拒んでいた。
「違う……違う! 流されては、ダメ! 私は……私は、私のために生き延び
たんじゃない!」
 想いに基づく選択肢を受け入れようとすれば、別の意思がそこに歯止めをか
ける。いきなさい、という言葉、託された祈り、願い。それはとても重く、そ
して、捨てる事を自身に許せないもの。
 想いと思いは複雑に絡み合い、いつか、縛鎖となってミィの心を縛りつける。
「どうして……あの時、手を取ったの?」
 縛り付けられてもがく心はいつか、そんな思考にたどり着いていた。
 あの時、差し伸べられた手を取らなければ。大丈夫、という言葉と笑顔に惹
かれなければ。
「そうすれば……今、こんな……」
 こんなに思い煩う事など、なかったはずなのに。
「……それなら……」
 それなら、いっそ拒んでしまえばいい。向けられる優しさも労わりも全て拒
み、自分の使命の事だけを考えればいい。

 閉ざされた暗闇の中でミィはいつかこんな選択肢を作り出し──そして、そ
れに向けて手を伸ばしていた。

 ことり、と小さな音がする。
「……にいさま」
 音に続いて投げかけられた、消え入りそうに小さな声が、エイルセアを転寝
から目覚めさせた。
「……リュー? どうしたんですか?」
 ふるり、と頭を振って眠気を振り落とすと、エイルセアは穏やかに問いなが
ら立ち上がり、声の主へと歩み寄る。彼と同じ、黒髪と紫水晶の瞳の少女は、
あのね、と言ったきり口を噤んでしまった。
「ん? どうしたんです? ゆっくりでいいから、お話ししてください」
 膝を突いて目線を合わせ、優しく笑みながら、問う。一見するとまるで親子
のように見えるこの二人が兄妹、それも異母兄妹と聞いても俄かには信じ難い
かも知れない。
「……あのね」
「はい」
「……泣いてる、の」
 問われた少女はしばしためらったものの、優しい笑みに安堵したのか、ゆっ
くりと口を開いてぽつり、と呟いた。
「泣いてる? 誰が、ですか?」
「……水晶の、お姉ちゃんが……」
 短い言葉に、ほんの一瞬エイルセアの表情を厳しさが過ぎる。しかしそれは
ほんの一瞬の事、魔導師はすぐにそれを押し隠し、少女を抱き上げて立ち上が
った。
「にいさま、お姉ちゃん、かなしいのかな?」
 不安げな問いに、エイルセアはどうでしょうね、と苦笑する。
「今度、お月様がお許し下さった時に聞いてみましょうか。リューは、もうお
休みなさい」
 風邪を引いてしまうといけないから、と。柔らかな黒髪を撫でてやりつつこ
う言うと、少女はうん、と素直に頷いた。その返事に穏やかな笑みをごく自然
に浮かべつつ、エイルセアは少女をその部屋へと連れて行って寝かしつける。
「……やれやれ……」
 少女が眠りに就くのを待ってから一人、音もなく廊下に出るなり、魔導師は
小さくため息をついた。直後にその表情から穏やかさは消え、厳しさが紫水晶
の瞳を彩る。
「……天狼くん」
 ゆっくりと歩き出しつつ、エイルセアは静かに黒装束の名を呼んだ。
「控えております」
 その呼びかけに応じるのは、ただ、声のみ。しかし、エイルセアはそれに構
う事無く問いをついで行く。
「例の件については?」
「既に、調べがついております。『否』でありました」
「やはりか……『殿下』の方は?」
「彩牙が、側に。ですが……」
「……関わりを持つのは、拒んでおられるでしょうね」
 途切れた言葉の先を、エイルセアは嘆息と共に引き取った。
「……もっとも、逃げられるものではない事など、ご自身が誰よりもご存知の
はずなのですが」
 低い呟きに、天狼は何も言わない。エイルセアもそのまま黙り込み、廊下に
はしばし、足音だけが無機質に響いた。
「さて……では、天狼くん。申し訳ありませんが、当面は現状を維持。彩牙さ
んにも、そう伝えて下さいね」
 空白を経て、エイルセアはいつもと変わらぬ口調で指示を出す。天狼は御意、
と短く応じてそれきり沈黙する。姿は相変わらず見せぬまま、しかし、気配が
途切れた事で彼が動いたのは察する事が出来ていた。一人きりになった、と確
かめると、エイルセアは小さくため息をつく。
「逃れられぬは、定めの縛鎖……それを編んだのは、私自身とはいえ……」
 消え入りそうに呟く刹那、紫水晶の瞳には深い陰りが浮かんでいた。魔導師
は緩く首を左右に振ると顔を上げ、先ほど後にしてきた部屋の方を振り返る。
「……それでも……逃げ出すわけには、行きませんからね。あの子の、ために
も」
 例え、そのために如何なる業を背負っても、と。そう、声に出さずに呟くと、
魔導師はゆっくりと歩き出し──やがて、淡い闇の奥へと、消えた。

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