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   降りゆくものは

 バラ、カーネーション、ヒマワリ、ガーベラ……

 眩しいくらい明るい、色とりどりの花束が宣彦に手渡される。

「退院、おめでとう。」

 看護婦や、家族や、たくさんの人たちの笑顔に囲まれて、宣彦はちょっと恥
かしくなって下を向いた。「さあ、」ギプスで吊っていないほうの手を母に引
かれ、宣彦は病院の出口へと向かっていった。機械的な、かすかな音を立てて、
自動ドアが開く。

「……ノブ!」

 宣彦は後を向いた。パジャマ姿の千夏がつっ立っていた。

「……おめでとう」

 なんだか決まり悪そうに視線をそらしながら千夏は蚊のなくような声で言っ
た。宣彦は「へんなの、」と思いながらも、笑顔でありがとうといい、夏の日
差し眩しい屋外へと出て行った。

 

 

 宣彦が事故で病院に運ばれたのは、ちょうど1ヶ月前の事だった。軽自動車
との正面衝突――命に別状はなかったものの、何箇所か複雑骨折していて、入
院を余儀なくされたのだった。そこで隣りのベッドだったのが千夏である。6
人部屋だったのだが、あとは骨粗しょう症でコケて骨を折ったじいさんや、風
邪をこじらせたばあさんなどが入れ替わり立ち替わり住んで(?)いた。

「あんた名前は?」

 ずっとむすっとしてベッドに寝ていた千夏が、突然起き上がって宣彦に話し
掛けたのは、宣彦が入院してから3日後の事だった。寝たきりじゃなかったの
か――。宣彦は戸惑いながらも答えた。

「ああ、の、宣彦。」

「ふーん。じゃああんたは今日からノブね。」

 不機嫌そうにそう言って千夏はまた寝転んだ。おいおい。「あんたは?」と
りあえず宣彦は話し掛けてみる。が、返事はない。しばらくすると、寝息が聞
こえ始めた。

「……寝たのかよ」

 横の棚の上においてあったピンクの小さなバケツと、そこから伸びていた淡
い緑色の朝顔の芽が、妙に気になった。

 

 

「――なあ、母さん、明日千夏の見舞い行っていい?」

 母(前よりしわが増えた気がする)は笑って「いいわよ」と言った。

「まあ、そういう年頃だしね。」

「いや、千夏はそういうのじゃ……」

 宣彦は頭を掻いた。顔が変に火照っていた。

 

 

 次の日、宣彦は千夏の見舞いに病院に来ていた。

「よう。元気してるか」

 鼾をかいて寝ている千夏。

「……起きてるんだろ」

 千夏はよく狸寝入りをする。というか一日中ほとんど狸寝入りをしている。
一ヶ月も隣りにいるとそんなことまでわかってしまう。

「……で、何か用?」

 やたら面倒くさそうに片目だけあけて宣彦を見る千夏。やっぱり、という風
に宣彦は頷いて、持ってきていた花束を渡した。

「……んがと。」千夏はささやくような小声で言った。

「何て?聞こえない」

「あんがと、」

 いつものかすれ声でそういうと、千夏はばッ、とオノマトペがつきそうなく
らい勢いよく布団を頭までかぶった。しかし勢い余って手をベッドに打ったら
しく、直後に布団の中から「痛っ」と言う声が聞こえた。

「アホだ」

 宣彦はふふっ、と笑って棚を見た。ピンク色のバケツからにょきにょきと生
えている朝顔の茎の先っぽに、つぼみがついていた。多分明日か明後日あたり
には咲くだろう、と思った。

「――なあ、千夏、お前って朝顔好きなのか?」

「……んぁ?」

 生煮えな返事をしながら、千夏は布団の中から顔を出した。

「朝顔嫌いな奴って、お前の友達にいる?」

「……いいや。」

 千夏の隣りのベッドは、まだ空いたままだった。当たり前か、と宣彦は思っ
た。誰にも来てほしくないな――いや、俺バカかよ。

「何笑ってんのさ」

「いや、何も。ここ――座っていいか?」

 ベッドの隣りにある、ブサイクな緑色のパイプ椅子に、宣彦は返事も聞かず
に腰掛けた。それを見届けて、千夏は目を閉じる。――寝息。本当に寝たのか、
そう宣彦は思った。夏休みも終わりに近づいている。うるさくなく蝉の声も、
「つくづく惜しい」。

「なぁ――、」

 千夏は目を閉じたまま、何かを言いかけ、そして口をつぐんだ。

「何だよ」宣彦が言うと、千夏は目をあけて、天井を見つめていった。

「朝顔の開くとこって、見たくねぇ?」

「へ?」

「病院のすぐ近くにさ、っていうか病院の中なんだけど、すっげー朝顔のきれ
いな公園があるんだ。」

 千夏はいたずらっぽく目を細めた。

「でも、明け方だろ?無理だよ」

「平気、平気。今日の宿直って吉井と永松だったよな」

 吉井と永松――、どちらも1歳と2歳の子供を病院に連れてきていて、夜は
その子たちにかかりっきりなのだ……というのは病棟内での公然の秘密である。
その日は看護婦達が回ってこないと言うのも、病院の幹部に知られたくないナ
ース達の秘密であった。(ちなみに前までいた野沢老人はこの日はいつも薩摩
の芋焼酎を飲んでいた)

「それにしても……。」

「大丈夫だって。あたし前一回外出たことあるし。」

 あるんかい。宣彦はつっこんだ。うへへと千夏は笑っていた。

「今日12時に……、職員用の通用門の前で。」

 背中を押されるようにして、宣彦は病室から出(され)た。

「12時って言われても、なぁ……。」

 宣彦は少しため息をついてナースステーションのほうを見た。千夏が小さく
咳き込むのが聞こえていた。

 

 

 その日、午後11時30分。

 宣彦は部屋の鍵を閉めて、窓から家を出た。なんだか泥棒みたいだ、と苦笑
しながら。病院まで500メートル。膝はまだ痛いが、余裕を持ってたどり着
ける。

 

「ノブ、遅いぞ」

 病院の通用門に憑くか着かないかというところまで来た時、宣彦は小声で千
夏に呼び止められた。

「行くか」彼女はにやりと笑っていった。ピンクの寝巻き姿が、なんだか眩し
かった。

「見つかんなかったのか。」

「あの病院、警備がなってないんじゃないのか?」

 クククッ、と千夏は笑った。らしくない笑い方だった。

「はい、ついた。ここ、ここ!」

 本当に公園はすぐそこだった。しかし宣彦ははじめて見た場所だった。

「初めてだろ、ここ。吉井のオバチャンがさ、前連れてってくれたんよ。お医
者さんに一番人気のデートスポットって。」

 また千夏はクククッと笑った。街頭がスポットライトのようだよ――なんち
ゃって。宣彦もそう言って大笑いした。

 大きな花壇――今は朝顔のつるに覆われているが――の前のベンチに二人は
陣取った。もちろんまだ朝顔の花はほころんでいない。

「あ、蚊取り線香忘れたな。」

「いいよ、どうせさされても痒いだけだしね」

 千夏はそう言って夜空を見上げた。

「知ってる?朝のニュースで言ってたんだけどさ、今日は流れ星がいっぱい落
ちる日なんだとよ。」

「へぇ」宣彦も空を見上げた。2つ、3つ、星が落ちていく。千夏が小声で何
か言っている気がした。

「カネ、カネ、カネ」

「……現実的だな」

 ふっ、っと笑みをもらして、当たり前よ、とかすれ声で千夏は言った。

「何かと要るからな。世の中カネだろ」

「――あ、また落ちた。」

「あーあ、言いそびれちゃった。あんたのせいだよ」

 千夏はそう言って、宣彦の、ギプスでつってあるほうの腕を叩いた。
「痛てて」手は痛くないのだが、首が痛かった。

「――なぁ、」

 宣彦が痛がっているのを完全に無視して、千夏は言った。

「流れ星ってさ、死んだ人の魂なんだろ……」

 宣彦ははっとして彼女のほうを見た。

「カネカネカネーーー!!」

 心配した俺がバカだった、と宣彦は下を向いた。

「よーし、寝る!」

 周りのものを全く見ていないように千夏は満足そうに言って、宣彦の肩に頭
を乗せる。「4時に起こせよ」まったく……まだ3時間もあるじゃないか。宣
彦はため息をついた。

 何の虫かは知らないが、虫のなく声が聞こえる。何十も、何百も。こんな時
間がずっと続けばいいのに――宣彦はぼーっとしてえらく長い時間朝顔を見つ
めていた。はっと気付く。「いかんいかん、俺寝てた」独り言をいって、宣彦
は千夏の顔を見た。眠っていた。蛍光灯の無表情な光に照らされて、青白く、
血の気がないように見えた。

    『――流れ星ってさ、死んだ人の魂なんだろ……』

 彼女の言葉が頭をよぎる。すうっと、背中に冷たいものが流れた気がした。
「お……おい、千夏!」宣彦は千夏の肩を揺さぶった。返事がない。
「おい、目ぇ開けろよ!!」今度は思いっきり叩いた。

「……何だよ、痛ぇよ」

 不機嫌そうに、千夏が目を開ける。さすがに……いやな予感がした、とは言
いにくいので、宣彦は時計を見た。「ああ、4時。」

「お。」

 千夏は軽快に立ち上がって、花壇へと走りよった。

「よし、開くぞ」

 宣彦も立って朝顔を見に行った。寝不足の所為で若干頭が痛い。

「ふーん、これがなぁ……。」

 二人はずっと朝顔に見入っていた。それは目に見えないくらいゆっくりと、
しかし確実にそのつぼみをほころばせていった。

 

「さて、帰るか」

 朝日が昇り始める頃、千夏が突然沈黙を破った。

「もうそろそろ帰らないと、”マザーズ”に怒られるからな」

「なんだよ、マザーズって」

「夜勤おさぼり組」

 ものすごく楽しそうに千夏は言って、もと来た道を歩き出した。宣彦ものろ
のろとついて行っていた。スズメがあちらこちらで鳴いている。

「――あのさ、」

 しばらく歩いて、千夏は突然振り向いた。

「今日、手術なんだ」

「え?」

「あんたさ、あたしの病気知らないだろ」

「……うん、まあ」

 千夏は、にいっと笑った。宣彦はその笑顔に戸惑った。

「じゃあいい」

「何だよ」

 黙って、また二人は歩き出した。夕べ使った、職員用の通用門についた。

「じゃあな。」

「……見つからないように注意しろよ」

「ああ。お前もな」

「――手術、頑張れよ」

「んぁ」

 ふふん、と笑って千夏は走って病院へと入っていった。宣彦は、彼女をどこ
かへとかっ攫って行ってしまいたい気分だったが、あきらめた。遠くの方で、
誰かが激しく咳き込むのが聞こえている。宣彦は一瞬目を伏せ、その場を後に
した。家に帰ってからも千夏のことが気になってずっと眠れなかった。

 

 

 

 久しぶりに走った。ずっと病院で寝てばっかりで、しかもろくなものを食べ
ていないから入院する前よりだいぶ痩せていた。30メートルも走っていない
のに、息が上がっていた。痰がからんで、咳き込んだ。のどの奥で、血の味が
した。

「千夏ちゃん、大丈夫?」 

 すぐに看護婦の吉井が駆け寄って来た。

「ああ……。悪かったな、いろいろと手伝ってもらっちまった」

 いいながら、千夏はまたむせるような咳をした。

「いいのよ、私たちもあなた達の恋の行方を見守りたいのよ」

 「お前ら、何なんだ。」千夏は苦笑した。

「病室、一緒行こうか?」

「いい。一人でいく」

 病室について、ベッドに寝転ぶと、ちょうど真上に朝顔の花があった。絹の
ような薄い花びらだった。触れると、ひんやりと冷たい。

「負けねぇ」そう呟いて、千夏は目を閉じた。


 『へもぐろ便』にて、3000ヒットを踏ませていただいた際のキリリク作品。 お題は『朝顔』でお願いしました。  夏の入院て、ホント、きついんですよね〜……。特に骨折とか、骨折とか、 骨折とか……(←真夏の粉砕骨折経験者)。  それはさておき、なんとも微妙な気持ちが爽やかでよいです。  青春だなあ……(しみじみ〜)。                             2004.09.27up  
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