目次へ


   おもちゃ箱の迷宮

「あれ?」
 領主の館の厳めしい正門の前を三歩行き過ぎたところで、レヴィナは傍らの
気配が途切れた事に気がついた。
「ちょっと……ウィン!」
 少し慌てて、回れ右。三歩戻った所にカーキ色のマントに口許まで埋めた小
柄な少年が立って、領主の館をじいっと見上げていた。
「なに、立ち止まってんのよ! 早くいこ!」
 つい怒ったような口調になってしまうが、それも無理からぬ事だろう。滞在
許可を得るために出向いた役場で、頭の固そうな親父と約の一時間にも及ぶ不
毛な交渉の末、結局滞在を拒まれたのはつい先ほどの事だ。その後聞かされた、
同情を込めた役場の職員の言葉により、その親父が街の領主である事はわかっ
ていた。
「……ゆがんでる……」
 レヴィナの怒りなど気づいた様子もなく、少年は掠れた声で呟いた。
「ゆがんでる……!?」
 自分の感情をいつもストレートに表現するレヴィナの堪忍袋の尾は、常人の
それよりもやや脆い。
「じょ……」
 とにかく脆い、レヴィナの堪忍袋の尾は例によってあっさり、千切れた。
「冗談じゃないわよ!!」
 突然の叫びに、道行く善良な一般市民が何事かとレヴィナたちに注目した。
「ウィン、わかってる!? ここってば、領主の館なのよ、領主の!! 『賞金稼
ぎなんて怪しげな人間には歩き回られたくない』なんて、へーぜんと言っちゃ
える、イヤなヤツなんだからね!?」
「……レヴィナ……」
 少年が、つと視線をレヴィナに向けた。深く澄んだエメラルドグリーンの瞳
がじっとレヴィナを見つめる。いつもならここで折れてしまうレヴィナだが、
今度ばかりは完璧にキレていた事もあり、後に引かない。
「い・や・だ・か・ら・ね!! あたし、こんなヤツのためなんかに『渡ら』な
いよ。いくら、ウィンの頼みでも、絶対に、いや!」
「でも……」
「もう、行こう! 人の疲れも気に留めないよーなヤツ、『飲まれて』とーぜ
んなの!」
「レヴィナ……」
 細い声で少年が何事か言いかけた時、今レヴィナたちが歩いてきた道を二頭
立ての馬車が爆走して来た。レヴィナはとっさに少年の手を掴んでその場から
飛びのいた。蜂蜜色の髪がふわっと広がり、真昼の光に煌めく。
 レヴィナと少年が石畳に足をつくのと同時に、馬車が急停止して慌ただしく
扉が開いた。馬車から降りてきたのは、たった今レヴィナがイヤなヤツと称し
た人物──この街の領主だ。
「……レヴィナ……」
 少年がじっと見上げるが、レヴィナはぷいっとそっぽを向いてしまう。一方
馬車から降りてきた領主は、絹のハンカチでせわしなく汗を拭い、服の乱れを
正してレヴィナたちに一礼した。
「何か御用ですの、ご領主様?」
 あからさまな苛立ちを込めた問い掛けで、レヴィナは領主の出端をくじいた。
「レヴィナ!」
 さすがに怒ったのか、少年が咎めるような声を上げる。
「うるっさいわね! ウィンだって知ってるでしょ!? あたしは、一度嫌った
相手は徹底的に嫌いになる主義なの!」
「知ってるけど、でも……」
「あたしは、知らない」
 取りつく島もないレヴィナの言葉に、少年深く、ふかくため息をついた。そ
れから所在無く立ち尽くしている領主に向かい、
「完全に敵に回しましたね……」
 ぼそりとこう呟く。
「……さ、先ほどの非礼はお詫びいたします、渡夢師殿」
「ふんだ……何でも謝りゃいいってもんじゃないわよ」
「レヴィナ……あんまりいじめては……」
「だあって!」
「レヴィナ」
 突然、少年の口調が変わった。見かけとは恐ろしくかけ離れた大人びた口調
に、レヴィナは言いかけた言葉を飲み込む。
「……はいはい、わかりました! わかったわよ。このイヤなおじさんの、手
助けすればいいんでしょ?」
 拗ねたような口調で言って、レヴィナは領主を睨み据えた。
「いいわ。さっきのは取りあえず水に流しても。ただし」
「た……ただし?」
 領主は恐る恐る、と言う感じで問いかける。
「あたしはね、疲れてるの。いつまでもこんな道の真ん中で立ち話させてるつ
もりなら、もう行くからね」
 この一言に、領主は完全に言葉を失った。

 ともあれ、領主ラフェールドは二人を館に招き入れた。今の彼には、この二
人以外に頼れる者が無かったのだ。故に拗ねた少女の言葉にも、一々頭を下げ
ていた。その様は端で見ていて痛々しいほどだった、と後になって妻のリレー
ナ夫人が語ったという。
「では、お話を聞かせて下さい」
 客間に落ち着くと、少年が穏やかな口調で恐縮しっぱなしのラフェールドに
語りかけた。レヴィナは澄まして夫人の入れた紅茶のカップを傾けている。
「私たちを渡夢師と知って、助力を求めていらしたのでしょう? ならば、こ
の館の時の歪みを正すのが目的のはず……何が、起きているのですか?」
 少年の口調は、先ほどレヴィナを黙らせた時と同様大人びている。見た目の
十二、三歳とは余りにもかけ離れているのだが、何故かラフェールドもリレー
ナ夫人もそれに対する違和感を覚えてはいなかった。
「はあ……それが……」
 細々と言って、領主は夫人の方を見る。
「わたくしから、説明させていただきますわ。実は……娘の、アリサの事です
の」
「お嬢さんの?」
「ええ……」
 一つ、ため息をついて。リレーナ夫人は言葉を続けた。
「娘は……アリサは、活発な子で。その……ふさぎ込んでもすぐに元気になっ
てしまうような、悩みなど、ないような娘ですの。それが半年ほど前から、急
に元気を無くして。部屋に閉じこもりがちになってしまったのです」
「急に、閉じこもりがちに?」
 少年とレヴィナはちら、と視線を見交わす。
「あの失礼ですが。お嬢さんお幾つですか?」
「え? ええと……十二歳になりましたわ」
「十二歳……それで、その半年前に、何か目立った変化は?」
「目立った変化……ですか? ああ、そういえば」
「何か?」
「外に遊びにいった時、小さなぬいぐるみを持って帰ってきましたの。大切な
お友達にもらったのだ、と言って……主人にねだって、ぬいぐるみ用のおもち
ゃ箱まで買って大切にしていましたわ」
「ぬいぐるみ……ですか? どんな形の?」
「おかしな形をしていました。確か……翼のついた、白い猫……」
 瞬間、穏やかだった少年の表情が厳しさを帯びた。レヴィナもいつの間にか
拗ねた表情を厳しく改めている。二人は互いに頷き合うと、それぞれのカップ
に残った紅茶を一息に飲み干した。
「お嬢さんの部屋に案内して下さい……急がないと、手遅れになる」
 すっくと立ち上がりつつ、少年は静かにこう言った。

 少女の部屋は、色とりどりの花に囲まれた小さな別棟だった。扉の前まで来
ると、二人は渡夢師の秘術を使う、と言って領主夫婦を母屋に追い返し、完全
に人払いをした。
「ったく、ドジよねーここの領主ってば」
 背中に背負っていた細身の長剣を下ろして通路の柱に立てかけつつ、レヴィ
ナが言った。
「レヴィナ、私情は禁物です。『渡り』に失敗しますよ」
 少年はカーキ色のマントを脱ぎつつ、静かな口調で釘を刺す。
「わかってるわ……ちょっと言ってみただけじゃない」
 少年から受け取ったマントを畳んで荷物袋の中にしまいつつ、レヴィナは拗
ねてみせる。その口調はまるっきり、恋人に甘える娘のそれだ。
「では、『渡り』ましょうか。レヴィナ、剣を忘れないで」
「はい」
 剣を両手に抱えてレヴィナは頷く。それを確認すると、少年は両手を輪を作
るように組み合わせて目を閉じた。
 ヒュウウウウ……
 程なく、両手の輪が淡い緑の光を放った。渡夢師と呼ばれる者たちが『渡り』
に用いるゲートだ。
「……行きます!」
 低い声で少年が宣言する。その声が消えるよりも少しだけ早く、二人の姿は
その場から消え失せた。

 渡夢師とは、人の心の傷などに乗じてその精気を吸い取る夢魔や、他者の呪
縛が生み出した不安定な異空間に『渡る』──肉体を伴って転移する秘術を習
得した者の称である。彼らは乱れた心が生み出した『時の歪み』を見いだし、
その原因を突き止め、可能ならばそれを取り払う事を生業としてきた。
 とはいえ秘術の習得の難しさは筆舌に尽くし難く、その危険性は他のいかな
る術をも凌駕する。それ故にその技は一子相伝の物となり、そして時の流れの
中で、秘術の継承者は広大な大地にただ一人となった。
 ウィンディ・ルエル・アーレイド。生まれながら渡夢師としての天才的な才
能を有していた希代の術師。
 だが、その強大すぎる力が彼に災いをもたらしていた。
 本来の姿を封じ込める呪い・変容呪。彼を敵視する夢魔たちの長の、若き渡
夢師への意趣返しがそれだった。

「うんっ……ふうう……」
 どことなく気の抜けた声とともに、しなやかな黒髪が渡夢師の証である白い
長衣の上を滑り落ちる。
「やれやれ、ずいぶん久しぶりですね、元に戻るのも……」
 少年──いや、さっきまで少年の姿をしていた青年はこう言って視界を遮る
前髪を軽く、後ろに払った。
「レヴィナ、具足を……おっと」
 傍らのレヴィナを振り返った青年、即ち一時的に変容呪を打ち破って本来の
姿を取り戻した渡夢師ウィンディは、剣を放り出して抱きついてきた少女の細
い身体を慌てて抱き留めた。
「……レヴィナ?」
「…………」
 レヴィナは何も言わない。ただ、ウィンディの首に回した両の腕に、ぎゅっ
と力を込めただけだ。
「レヴィナ、まだゲートが不安定です……今、襲撃されたらこのまま閉じ込め
られてしまいますよ……」
「……ん、そうね……」
 やや名残惜しそうにウィンディから離れて、レヴィナは投げ出した荷物袋と
剣を拾った。その間にウィンディは力を集中して、今いる場所と現実世界をつ
なぐゲートを安定させた。
「……妙な所ね……」
 袋の中から取り出した布束をウィンディに渡すと、レヴィナは周囲を見回し
て呟いた。
 確かに、妙な空間である。今二人がいるのは細い通路のような場所なのだが、
両脇の壁が妙につるつるしている。上質の木製製品の様な手触りなのだ。色は
パステルピンクで、可愛らしい花の絵があちこちに描かれていた。
「なんだか、おもちゃ箱みたい……」
「おもちゃ箱、ですよ」
 何気ないこの呟きを、ウィンディは事も無げに肯定した。
「おもちゃ箱の中ですよ、ここは……さっき領主夫人が話していたでしょう?
 翼のついた白猫のぬいぐるみのために、おもちゃ箱を買ったって……」
 言いつつ、ウィンディは布胸当ての肩紐をきゅっ、と縛った。ベストの様な
形の薄い防具だが、特殊な呪符を折り込んであるため下手な防具よりも遙かに
頑丈な物だ。白の長衣の上からこの布胸当てを着け、同じ材質の手甲を着けて
白のマントをふわりと羽織り、剣を腰に下げれば渡夢師の正装となる。
「……さて、行きましょう。急がないと、アリサ嬢の心が壊されてしまう」
 澄んだエメラルドグリーンの瞳がきっと前を見据える。それを、レヴィナは
頼もしそうに見つめていた。

 ぴくっ、と。ぬいぐるみの猫が動いた。
(来たか……渡夢師)
 ガラス玉の眼が妖しげに光っている。小さなぬいぐるみに宿る存在──夢魔
王ラヴェールは、自分が念入りに張りめぐらせた罠に向かっていく宿敵の動き
に、知らず、ほくそえんだ。
(くっくっくっ……やはり、この子供を餌にしたのは正解だったな……)
 ガラス玉の眼がぎょろり、と動いて、寝台の上にころんっと転がった少女を
見た。古ぼけた人形を抱いた少女の目は虚ろで、何も見てはいないようだった。
実際、何も見てはいないのだ。現実の存在は、何一つ。
(さて……どうする渡夢師。この子供の傷は、お前がかつて抱えていたものと
全く同じ。どう立ち回るのだ?)
 楽しそうに楽しそうに呟いて、白猫のぬいぐるみは机の上に置かれたパステ
ルピンクのおもちゃ箱を見つめた。

 そんな呟きなどは露知らず。
「ふうう……おもちゃ箱って、こんなに大きい物だったの?」
 心底疲れた、という感じの声で、レヴィナが呟いた。
「レヴィナ? 大丈夫ですか?」
 それを聞きつけたウィンディが振り返る。それに対し、レヴィナは少し無理
して大丈夫、と応じた。が、人の精神状態を読み取り、状況を判断するのが基
本の渡夢師のウィンディが、それに気づかぬはずがない。
「無理はしないで。こちらに来る前に、かなりの体力を消耗しているのですか
ら」
「平気。平気だってば!」
「レヴィナ」
 少女の強がりに、穏やかだったウィンディの表情がほんの少し、厳しくなっ
た。
「お願いですから、無理はしないで下さい。
 君は……君に何かあったら、私はどうすればいいのです? ここでは、私も
本来の姿を取り戻せます。でも、一度現実に戻れば、今の私はろくに喋る事さ
えできない、何もできない子供なのです」
「……ウィンディ……」
 真剣な瞳に、レヴィナは用意していた強がりを引っ込めた。
「現実では、君が私を護ってくれる。しかし、ここでは逆なのです。私が君を
護る……わかりますね?」
「はい……」
 穏やかな中にも有無を言わせぬ響きを帯びたその言葉に、レヴィナは──夢
巫の少女は素直に頷いた。
 夢巫とは渡夢師と同種の力を有し、それを自在に引き出す修行を積んだ女性
たちの事を指す。常に渡夢師と共にあり、その技を助けるのが、彼女たちの役
目だ。
「なら、無理はしないで。この辺りなら、休む事もできるでしょう。少し、眠
りなさい」
「ウィンディ……でも、そんなにのんびりしてていいの? 翼の白猫って事は
……あいつがいるんでしょう? だったら……」
「……彼の性格は、君より私の方が詳しいって事、忘れてませんか? 心配し
ないで……」
 こう言って、ウィンディはそっとレヴィナを座らせた。そうして、羽織って
いるマントの中にレヴィナの身体を包み込む。
「お休みなさい、レヴィナ……」
 言いつつ、ウィンディはレヴィナの額に軽く、ささやかな呪いを込めて唇を
触れた。そのささやかな呪いはレヴィナを優しく、そして自然に眠りの中へと
誘う。レヴィナが完全に寝ついたのを確かめると、ウィンディは虚空に向かい
厳しい声で呼びかけた。
「……いつから少女趣味を持たれたのですか、夢魔王ラヴェール」
『……少女趣味とはご挨拶だな……』
 一拍の間を置いて、虚空に白い塊が出現した。翼を持った白い猫のぬいぐる
みだ。
「少女趣味でしょう? 聞けば、この空間の主はいまだ十二歳……貴方、幾つ
です? もう千は越えましたか?」
『……四六二だ、勝手に倍増するな。大体それを言うなら貴様とて』
「失敬な。私とレヴィナはたったの八つ違いです。四五〇も違う貴方と一緒に
しないでいただきたい」
『だからわたしは……ええい、わたしはこんな事を論じに来たのでは、ない!!』
「おや、違いましたか、道楽大魔王殿」
『誰が道楽……ええい、だから貴様は虫が好かん! 話をすぐにすり替えおっ
て!!』
 余裕を込めた笑みを漏らすウィンディに、ラヴェールは苛立たしげな声を上
げた。乗せる方も乗せる方だが、乗せられる方も乗せられる方である。この二
人、実は似た者同士なのかもしれない。
「それにしても……半年前から、全く進歩がありませんね、ラヴェール。貴方
はすぐに子供の心に住み着く」
 突然表情を改めて、ウィンディが言った。
『ふっ……子供の心は住みやすいのよ。疑いを知らぬか、疑念で凝り固まって
いるかのどちらかだからな、大半が。この小娘はその典型だよ。十五年前の貴
様にそっくりだ』
「なん……ですって?」
 ぴくり、とウィンディの眉が、動いた。
『十五年前の貴様にそっくりなのだよ、この小娘の心の中は。血のつながらぬ
母親に心を許せず、自分を捨てていった母を恨みつつも同時に恋い焦がれてい
る……』
「黙れ!」
 それまでの落ちついた態度を一変させ、ウィンディは突然声を荒らげた。ぬ
いぐるみはそれを、実に小気味良さそうに見下ろす。
『ほほお……その様子ではまだ、気にしているようだな?』
 わざとらしい口調で、ぬいぐるみは嘲笑う。無論、ウィンディがその時の事
を未だに引きずっているのは承知の上だ。その態度にウィンディは悔しげに口
許を歪め、問いを叩きつける。
「まさか……まさか、この子にも、あの時の私と同じ仕打ちを……!」
『まだ、してはおらんよ。まあ、退屈になったらやってやろうと思うがね……』
「そうはさせぬ!」
『ふん。ならば夢巫などと睦んでいる間に、わたしの所に来るがいい……だが、
気をつけるのだな。この子供は、救い主である貴様らを自分を脅かす存在と思
っている……まあ、貴様には一々説明をする必要もあるまいがな……くっくっ
く……』
 楽しそうな笑い声をその場に残して、ぬいぐるみは消えた。
「待て、ラヴェール!」
 とっさに立ち上がろうとして。ウィンディはそれを思い止まった。そんな事
をしては、せっかくゆっくりと眠っているレヴィナを起こしてしまうからだ。
ウィンディは小さなため息をつくと、掠れた声で呟いた。
「私と同じ……心の傷、か……」

『アリサ……アリサ』
 ウィンディが小さなため息をついている頃。おもちゃ箱の迷宮の主は穏やか
な声に呼ばれて、優しい夢のまどろみから目を覚ました。
「なあに……?」
 寝ぼけ眼を可愛らしい仕種で擦りつつ、アリサは傍らのぬいぐるみを見た。
半年前『大切なお友達』にもらった、翼を持った白猫のぬいぐるみだ。
『誰かが、君を、いじめにきたよ……』
「いじめに?」
『叔母様の使いだよ、きっと……』
 ぬいぐるみの言葉に、少女の顔色が変わった。アリサは腕に抱いていた古ぼ
けた人形をぎゅっと腕に抱いて立ち上がる。
「追い返さなきゃ……」
 少女の瞳は至極真剣だった。ぬいぐるみは不安な様子を装い、大丈夫? と
問いかける。
「だいじょうぶ。お友達がいるもん」
『ああ、そうだね……』
 ぴょんっとアリサの肩に飛び乗って、ぬいぐるみは言った。
『お友達、たくさんいるもんね……だから、大丈夫だね』
 ぬいぐるみの青いガラス玉の目が一瞬、妖しげに煌いたが、アリサは、それ
にまるで気づいてはいなかった。

「……ナ……レヴィナ!」
 ぼんやりとした夢の中でまどろんでいたレヴィナは、厳しさを帯びたウィン
ディの声にはっと目を覚ました。
「……どうしたの……?」
「なにか、来ます……」
 言われて、レヴィナは精神を集中させた。確かに何者かの気配が感じ取れる。
それは、あからさまな敵意をこちらに抱いていた。
「遅ればせながらお出迎えのようですね……」
 言いつつ、ウィンディは立ち上がった。右手が、剣の柄に掛かっている。
「えっ?」
「おもちゃ箱の迷宮の、番人の登場です!」
 言葉と同時に影が飛来し、ウィンディは振り向きざま剣を抜いてそのまま横
に薙いだ。その瞬間、狭いはずの通路の幅が一時的に倍増し、剣は正確に襲撃
者の首を落とす。
「レヴィナ、守護陣を!」
「は、はいっ!!」
 レヴィナが立ち上がって退魔の小結界を張っている間に、ウィンディは襲い
かかってきた人形の兵士を剣で消滅させた。人形に低級夢魔が憑依して襲って
くるのだ。人間二人が並んでやっと通れる程度の幅しか無かった通路は、剣が
壁に触れるのを恐れるかの如く、幅を広げている。
 このおもちゃ箱の迷宮を構築している力が剣の秘めた力を感じて避けている
のか、はたまた夢魔王が面白がって広げているのかは、定かではないが。
「……無駄な事は、お止めなさい!」
 敵を数体消滅させると、ウィンディは虚空に向かって声を上げた。途端に周
囲を埋め尽くしていた夢魔の群れは消え失せ、通路の幅も元に戻った。そして、
今の声に答えるように子供の声が虚空から返ってきた。
『出ていって!』
 ちょっと拗ねたような少女の声は、この空間を創りだした領主の娘・アリサ
で間違い無さそうだった。ウィンディは剣を鞘に収めると、厳しさを帯びた静
かな声で言葉を綴る。
「君は、アリサですね?」
『だからなによ? 早く出ていって!』
「そうは行きません。私たちは、君を迎えに来たのですから」
『むかえ? うそ、いじめにきたんでしょ!?』
「違います……心を落ち着けて」
『出てって! あたしの事は放っといて!』
「わがままを言うものではありませんよ。君のご両親も心配しています」
『……心配? うそ! 絶対うそよ!』
 ぱあんっ!
 高ぶったアリサの感情が電光という形で弾けた。この空間ではこの様な事が
多々ある。そしてその、パステルピンクの電光はウィンディの肩の上で弾けた。
「つうっ……」
「ウィンディ!」
 レヴィナが悲鳴じみた声を上げるのに大丈夫、と応えてウィンディは更に言
葉を綴る。
「いい加減にしなさい、アリサ!」
『出ていって! もう構わないでえっ!!』
 それっきり、声は途絶えた。周囲は沈黙の中に沈み、ウィンディが深いため
息をつく。
「ウィンディ……?」
「……大丈夫です……」
 と、言うわりにその表情は冴えない。
「一体、なんなの? あの子……何、ムキになってんのかしら……」
「仕方、ないのです……」
「え……?」
 レヴィナは不思議そうにウィンディを見た。
「仕方ないって……どうして?」
「……深い傷を、心に受けているのです……いえ、そう思い込んでいるのです
よ。自分一人が傷ついているのだと」
「?????」
「わかりませんか?」
「うん……」
 問い掛けに、レヴィナは素直に頷いた。この返事にウィンディはそうですか、
とため息をつく。
「まあいいでしょう。すぐにわかります……それより、急いで行きましょう。
彼が、あの子に余計な知恵を与える前にね……」
「ウィンディ……?」
 ウィンディの様子にただならぬものを感じて、レヴィナは不安げにその名を
呼んだ。
「……心配しないで。それより、レヴィナ。君に、頼みたい事があります」
 こう言った時のウィンディの表情は、この六年間にレヴィナが目にした中で
も、際立って真剣なものだった。

 それからしばらく、二人はパステルピンクの迷宮の中を進んだ。迷宮はどう
やら二人が進むに連れて形が変わるらしく、二人はあちこちに印を残しながら
進んでいた。が……
「……また、戻ってきちゃった……」
 壁に残った印を見つけて、レヴィナがもういや、と言わんばかりの声を上げ
た。
「きりが、ありませんね……まったく、ここの主殿の創造力には頭が下がりま
す……」
「夢巫になれるかもね、この子……」
 こう言って、レヴィナはつと目を閉じた。
「でも……なんなんだろ? 迷宮の色彩は鮮やかなのに……全体的に悲しそう
なの。どうしてかな?」
「さっき、言ったでしょう? 自分一人が傷ついてると思い込んでるって。そ
のせいですよ、きっと」
「でもなんで? こんないい環境にいて、なんで一人苦悩ごっこなんかしてる
のこの子?おかしい……って、言うか贅沢じゃない?」
「……そういう物なのですよ、こんな形で追い詰められた子供の心は」
 レヴィナにとっては何気ないその一言が、不思議と重く響くウィンディであ
った。知らず、声が苦々しくなってしまう。
「あ……あれ? あたしなんか……いけない事、言ったかな……?」
「いいえ……あなたが言ったのはむしろ、正しい事ですよ……」
 穏やかな表情でこう言うと、ウィンディは表情を厳しく改め、虚空に向かっ
て言った。
「聞こえているのでしょうアリサ、いい加減に気づきなさい! 君の心の傷な
ど、他の人のそれに比べれば、至極ちっぽけな物なのですよ!」
 返事は、ない。が、周囲を押し包む空気が微かな動揺をレヴィナに伝えてき
た。
「ウィンディ……」
「行って下さい、レヴィナ……」
 不安げに呼びかけると、ウィンディは振り返る事なく静かに言った。
「うん……でも……」
「私は大丈夫。それより、手順は大丈夫ですね?」
 レヴィナは無言で頷いた。が、心なしか肩が震えているようだ。
「ウィンディ……」
「早く! アリサが壁を厚くする前に……!」
「はい……」
 心の奥の不安を押し隠して、レヴィナは先程の頼まれ事を実行に移した。短
いコマンド・ワードが唱えられ、華奢な左上腕にはめた腕輪が翡翠の閃光を放
つ。緊急脱出用の一方通行簡易ゲートだ。
「ウィンディ……無理しないで!」
 転移する直前に、レヴィナは声に出して叫んでいた。それに対する答えを、
ウィンディは直接レヴィナの心に送る。
(大丈夫。心配しないで……今度こそ、彼にこのくだらない呪縛を返してやり
ますよ……君のためにね)
「え……!?」
 予想外の一言に、レヴィナは取るべき受け身を取り損ね、領主の館の芝の上
にどてっと落っこちた。
「いったあ……」
 強かに打ちつけた腰を摩りつつ、ふと視線を感じて振り向くと、突然何もな
い空間から降って湧いたレヴィナにぽかん、とする領主夫妻の姿があった。
「あ……おじさん! ちょうど良かった!」
「は……はあ?」
「む、娘は!? アリサは、一体どうしたのです!?」
 ぽかん、としている領主をほったらかしてリレーナ夫人が駆け寄ってくる。
レヴィナはよいしょっと言って立ち上がると、腰のポーチの一つを開けて、中
から銅板を磨いて作った小さな銅鏡を取り出した。
「ウィンディ、聞こえてる!? 丁度、二人そろって出て来てたわ! 鏡、投げ
るよ!?」
(……いつでもどうぞ!!)
 頭の中に、やや息切れした感のある声が響く。危機感を覚えつつ、レヴィナ
は銅鏡を空高く放り投げた。鏡はくるくると回りながら空へ飛び上がり、途中
でぴ、た、と動きを止めて光を放った。レヴィナと領主夫妻はとっさに目を覆
う。その閃光が治まった後には。
「……アリサ!?」
「ウィンディっ!」
 白い猫のぬいぐるみを肩に乗せ、古ぼけた人形抱えた少女の姿と、その少女
と片膝をついて対峙するウィンディの姿が空に映し出されていた。

「何故、わかろうとしないのです? 皆、君を大切に思っている。だからこそ
……くうっ!!」
 ウィンディの言葉を遮って、ピンクの電光が襲いかかる。
『うるさい! うるさいうるさいうるさいっ!! そんなのうそ! うそにきま
ってるもん、うそだもんっ!!』
 ピンクのリボンで結った髪を振り乱して、アリサの意思体は激しく首を横に
振った。
「アリサ……どうして信じられないのです? 自分のご両親を、どうして信じ
ようとしないのですか!?」
『違うもん! あの人はおばさまだもん! あたしの……あたしのママとは違
うもん!!』

「……アリサ……」
 少女の叫びは、銅鏡を通して現実世界の者たちの元へ、ストレートに伝えら
れる。そしてその叫びは、レヴィナの傍らのリレーナ夫人から力を奪ったよう
だった。
「……どういう、事……?」
 レヴィナも戸惑っている。ちら、と領主の方を見ると彼はつと目をそらして
しまった。
「どういう事なんですか?」
「……あなた方には、関わりの無い事だ……」
 領主の返事は事務的なものだった。しかし、この場はそれでは済まされない。
「ちょっと、おじさん! あなたこの後に及んでまあーだ体面なんか気にして
るワケ!? それじゃ困るのよ! なんの解決にもならないわ!」
「……」
「何よ、そんなに体面とやらが大事!? そんなんだから夢魔に付け入られたり
すんのよ!? だから嫌いなのよ、権力者は!」
 苛立たしげに言い放つと、レヴィナは座り込んでいるリレーナ夫人の傍らに
膝をついた。
「話して下さい……あの子の言葉の意味! あの子を、助けたいなら話して!」
「あの子を……助ける事が……」
「できるわ! でも、それをやるのは、渡夢師でも夢巫でもない……あなたた
ちなの! あの子の親のあなたたちなの!!」
「アリサ……」
 夫人はつと、目を閉じた。それから五分ほど間を置いて、ゆっくりと閉じた
目を開ける。
「わかりました……」
「リレーナ!」
「おっさんは黙ってなさい!!」
 レヴィナにぎろっと睨まれて、ラフェールドは次の言葉を飲み込まざるを得
なかった。
「……あの子は……確かに、わたくしたちの娘ではありません……」
 途切れとぎれに、リレーナ夫人は言葉を綴り始めた。
「この街の領主は世襲制をとっていて……跡取りが途絶えるまでは、その血筋
が代々その役職を受け継ぎます。ところがわたくし……一人目の子供を流産し
てしまって……以来、子供が生めない身体に……」
「……それで……あの子を?」
 リレーナ夫人は小さく頷いた。レヴィナは立ち上がって、またぎろっとラフ
ェールドを睨む。何となくだが、事の次第が読めたのだ。
「……わたくしが、その事を知った直後に、姉のルリーアが事故で夫を亡くし
て……それを知った主人は……」
「……も、いーです。よおっく、わかっちゃいました、あたし。だから、もう
話さなくていいです」
 語るごとに傷を深めていくリレーナ夫人の様子を見かねて、レヴィナはそれ
以上の言葉を求めなかった。その代わりに、あさっての方を見ているラフェー
ルドの方に近づいて、
「よーするに。あんたの権力指向が原因だったってワケ」
 と、冷たい口調で問いかけた。
「……な、何が悪いというのだね? 実際、あの頃のルリーアには、幼い娘を
育てていく余裕など……」
 あからさまな言い訳を始める領主に冷やかな一瞥をくれ、ふと空に目をやっ
たレヴィナの目が大きく見開かれる。冷やかな表情が転げ落ち、不安がその顔
を彩った。
「……ウィンディ!?」

「だ……だいじょう……ぶ……」
 飛び込んできた声に対し、ウィンディは掠れた返事を返した。とはいえ、ア
リサの高ぶった感情が起こす電光を一切避けずに受けているため、その身体は
既にボロボロだった。
「アリサ……君は、何を……どうしたいのですか? 自分で……わかって……
います?」
 途絶えがちの言葉に対し、さすがに怯えてきたのか、アリサは泣きそうな声
で応じた。
『……あたし……あたしは、あたしは、ママと一緒にいたいの! お願いだか
ら、ママの所に帰してえっ!!』

「アリサ……」
 不意に、リレーナ夫人が泣きそうな声を上げた。いや、既に泣きそうな、ど
ころの騒ぎではなくなっている。夫人は泣いていた。淡い紫色の瞳から、ぽろ
ぽろと涙が零れている。
「そんなに……そんなに、嫌いなのですか?わたくしは、嫌い?」
 反射的に、レヴィナはその声をゲートを通して迷宮に届けていた。夢巫の特
殊能力は、渡夢師のそれよりも小回りが聞く物が多いのだ。

『……おばさま……』
 そしてその声は、頑な少女の心に変化をもたらす。
「アリサ。君は……賢い子です。わかっているはずですよ……」
 ごく穏やかに、ウィンディは少女を諭す。
「ほんとは、大好きなんでしょう? 叔母様を、母様と呼びたいんでしょう?
 私には、わかります……」
『ど……どうして?』
 戸惑いのこもった問い掛けに、ウィンディは優しく、優しく、微笑んで見せ
た。
「私も、同じでした。母になった伯母を、受け入れたいのに、生んでくれた人
を忘れられずに、反発していた……君と、同じです……」
「……ウィンディ……」
 その言葉はレヴィナにも戸惑いを与えていたが、あまり長くは戸惑っていら
れない。レヴィナはリレーナ夫人の傍らに戻ると、毅然とした声で呼びかける。
「はっきり、言ってあげて下さい。あの子に愛してるって……あたしが伝えま
すから!」
 夫人が頼り無げな瞳を向けるのに、レヴィナは力強く頷いて見せた。夫人は
また、虚空の映像を見つめる。そして、言った。
「アリサ……わたくしは。わたくしは……あなたを、本当の娘と思っていまし
た……」

『おばさま……』

「姉様に、安心して引き合わせられるような、立派な令嬢に育てようと思って
……少し、気が急いていたの。あなたには、いつも、厳しくしていました……
でも……決して、あなたを、嫌っていたわけではないの……」

『……』

「アリサ……戻ってきてちょうだい……わたくしの娘としてでなくてもいいか
ら……姉様にはかなわないだろうけど……わたくしだって、あなたを、愛して
いるの……」

『……お……おば、さま……』
「アリサ」
 戸惑う所に、ウィンディが優しい声を投げかける。
「もういいでしょう? 素直におなりなさい」
『あ……あたし……』
「早く肉体に戻って。安心させてあげなさい」
『でも……帰り道、わからない……』
「私が、送ってあげます。そのぬいぐるみと人形を置いて、こちらにいらっし
ゃい」
『でも! でも、これは!』
「生んでくれた母様の思い出の品……でしょう? でも、それがある限りあの
人はいつまでも『叔母様』なんですよ?」
『……いつまでも?』
「そう。さあ、早く!」
『……』
 少女はしばし、腕の中の人形を見つめた。それから、ぬいぐるみと並べて下
に下ろす。ウィンディは優しく少女の手を取ると、早口に送還のゲートを開く
術言を唱えた。

(レヴィナ、アリサの心を肉体に戻します! ご両親に知らせてあげて!)
 頭の中に響く声に、はらはらしながら空を見上げていたレヴィナの表情が明
るくなった。
「上手く、行ったのね!?」
(ええ……)
「アリサは!? アリサは大丈夫なのですか!?」
 レヴィナの言葉に、リレーナ夫人が顔を上げて問うた。
「ええ、すぐに戻ってくるわ! 早くあの子の所に行ってあげて!」
 夫人の表情が歓喜に彩られる。彼女はよろけながらも立ち上がり、ドレスを
翻して別棟へと走っていく。その背を、領主はどことなく複雑な表情で見送っ
ていた。
「ちょっと。行ってあげないの?」
「……一つだけ、言い訳をさせて欲しい」
「え?」
 戸惑うレヴィナに、領主は暗い面持ちでこんな事を言う。
「わたしも、できるならアリサを引き取らずに済ませたかった。だが……」
「だが……なによ?」
「義姉のルリーアは、ひどく病弱だった。子供を生めたのが奇跡と言って良か
ったほどにな。それが……夫のヴェイクを亡くしてから一気に心が弱くなり、
病状が悪化した。
 権力的な打算が無かったとは言わん。だが、見舞った先で病床のルリーアに
頼まれ……わたしはアリサを引き取る事に決めたのだよ」
「もしかして……あの子のお母さんって……」
 恐る恐る問うレヴィナに、領主はうむ、と頷いた。
「既に、亡い。アリサが当家の養女になった直後に……彼女の願いでまだ話し
てはいなかったのだが……間違いだったかも知れんな」
「そうでもないんじゃない? 話したら話したで、もっと酷い事になったかも
しれないわ」
「……さてな。ああ、それより報酬を支払わなくては……時に、連れの子はど
うした?」
「え? そう言えば……」
 確かに、アリサは戻ってきたらしい──部屋の中から少女の泣き声が聞こえ
るので間違いないだろう──のに、ウィンディは一向に戻ってくる気配が無い。
「どうしたのウィンディ?」
(……このまま、夢魔王を追撃する……!)
 やや時を置いてかすれた声が聞こえてきた。
「え!? ちょっと、どうしたの、いきなり?」
(今なら……追いつける! 追いついて、そろそろこの呪いを返そうと思いま
してね……)
「そ……そんな! 無茶よ、もうぼろぼろなのに!!」
(大丈夫! それより君は、領主殿から適当に報酬をもらっておいて下さい。
そして……この街に入る直前の夜に野営した丘……覚えてますか? そこで、
待っていて下さい)
「ウィンディ? 無茶よ、もう戻って!」
(今のままじゃどうしようもないでしょう!? 大丈夫、必ず行きます!)
「ウィンディ!? ウィンディってば!」
 もう返事はない。浮かんでいた銅鏡も力を無くしてへろへろと落ちてくる。
レヴィナはそれを受け止めると、空に向かって叫んだ。
「……戻ってきて! 必ず戻ってきてえっ!!」

 ──……心配しないで、必ず戻るから……──

 風に乗って、微かな声が聞こえたような。そんな気がした。
「……約束……だからね……ウィンディ。絶対だよ……」
 その場にぺたん、と座り込みつつ、レヴィナは切実な思いを込めてこう呟い
た。

 そして、その日の夕暮れ。
「ウィンディ……」
 約束の丘に、人影はなかった。レヴィナは領主からの餞別の二頭の馬を丘の
上の木につないで、ぐるりと周囲を見回してみる。が、茜染めの丘には彼女の
他に誰もいないようだ。レヴィナはため息をつくと、木の根方に座って夫人か
ら送られたマントにくるまった。
 それから、時ばかりが無情に過ぎていった。辺りはすっかり夜の色彩に染ま
っているが、ウィンディは戻る気配を見せない。
「……ウィンディ……無事だよね、絶対に。必ず戻って来るよね……そう、約
束したもんね……」
 不安からこんな事を呟きつつ、レヴィナはウィンディと初めて会った時の事
を思い出していた。
 初めて会ったのは、レヴィナが十歳でウィンディが十八歳の時。ウィンディ
が渡夢師としての修行を終え、補佐役の夢巫を選びに祠を訪れた時だった。
 夢巫は最終的に渡夢師の伴侶となり、血筋を後の世に伝えてゆく役目を有し
ている。そのためか、年上の巫たちはその日、朝からそわそわしていた。ウィ
ンディは修行中にも師匠の使いで祠を訪れており、その姿を垣間見た事のある
巫たちは大抵その優しげな容貌にお熱を上げていた。
 それだけに、祠でも最年少のレヴィナが選ばれた時、他の巫たちは騒然とな
ったものだった。まあ一番驚いたのはレヴィナ自身だったが。
『ふあふあの蜂蜜色。それが物凄く綺麗に見えたからさ』
 なぜ年上の巫ではなく子供の自分を選んだのか、と聞いた時、ウィンディは
こう言って微笑った。
 そしてその子供扱いに反発したり甘えたりしている内に、いつの間にか八つ
年上の不思議な渡夢師に、夢中になっている自分がいた。
 そして、彼の優しさに幾度も救われていたからこそ耐えられたのだ、この二
年間の不便に。変容呪を受けたウィンディを護るために剣を学び、日々の糧を
得るために気丈な女剣士を装い、賞金稼ぎにもなった。
 できたのだ、それだけの事が、たった一人の渡夢師のために。
(ウィンディ……早く戻ってきて……)
 祈るしかできない自分がもどかしい。早く、無事で戻ってきて欲しかった。
そして……。

「ただいま、ふあふあ蜂蜜さん」

 突然の声に、レヴィナははっと顔を上げる。
「あ……」
 月明かりを背にして、長身の若者が立っている。軽やかな夜風が、一本に束
ねてある長い髪を気まぐれに揺らしていた。
「ウ……ウィン、ディ?」
 恐る恐る、声を上げると、若者はとんっと目の前に膝をついた。
「ちょっと苦戦したけど、なんとか戻ってきましたよ……」
 エメラルドグリーンの瞳が、優しくこちらを見つめている。それを確認した
瞬間、押さえ込んできた思いが、一気に弾けた。
「ウィンディっ!!」
 レヴィナは迷わず、優しい渡夢師の胸に飛び込む。ウィンディは夢巫の細い
身体を力強く抱き締めた。自分の存在を、はっきり感じさせるために。
「君のおかげで、戻って来れました……ありがとう、レヴィナ」
「……でも、あたしは……何も……」
「ここで、私の事を信じて待っていてくれた。そして、祈ってくれていた……
それだけで充分ですよ」
「ウィンディ……」
「夢魔王も、しばらくは何もできませんよ。念入りな呪詛が倍返しになったん
ですから」
 ここで、ウィンディは軽い笑みを漏らした。変容呪で子供になった夢魔王ラ
ヴェールの姿でも想像したのだろう。
「これで……これで、やっと。君に迷惑をかけずにすむ……普段から、君を護
る事ができるのかと思うと、心底ほっとしてますよ」
「……迷惑だなんて、思ってなかった。だってウィンディは最初、子供のあた
しを護ってくれたわ……ちょうど、おあいこ、よ」
「おあいこ、ですか?」
「うん、おあいこ」
 すっかり夜闇色に染まった丘の上にしばし、無邪気な笑いが弾けた。
「レヴィナ……」
「なに?」
「一度しか、言いませんから。ちゃんと聞いて下さいね?」
「え? なによ?」
 戸惑うレヴィナの耳にウィンディは何事か囁きかけた。レヴィナの瞳が大き
く見開かれる。そして彼女が何か言おうとするよりも早く、ウィンディは抱擁
を解いて立ち上がった。
「さて、行きましょう。いつまでもここにいると、夢魔王の意趣返し返しへの
お返しが来るかも知れませんしね」
 にっこり微笑って、ウィンディは言った。その態度にやや釈然としない物を
覚えつつ、それでも。
「そうね。もう、あんな苦労したくないし」
 こう言って、レヴィナは微笑って見せた。はぐらかされたのは不満だったが、
そんな事が気にならないくらい、今は嬉しかった。
 ウィンディが無事に帰って来た事、呪いが解けた事。そして、何より今、囁
かれた短い言葉──それら全てが嬉しかったのだ。
 夜の闇の中に、真白のマントが翻る。ウィンディが繋いでおいた馬の一頭に
跨がったのだ。レヴィナも身軽に、もう一頭に飛び乗る。
「どこに行く?」
「風任せ、と参りましょう」
「いつもの事、か」
「無理に変わる必要は、ないでしょう?」
「そうね!」

 渡夢師と夢巫を乗せた馬は、夜闇の中とは思えないほど軽やかに丘を駆け降
りる。
 夜空にかかる真白の月と、丘の上に佇む老木だけが、いつまでもその背を見
送っていた。


 ☆あとがき  えーっと……こないだ、先々代の愛機であるオアシス君から、あるモノを移 設してきたのですが。  その時、同じFDに入っていたコレも一緒に引っ張って来てまして。  妙なテンションが気に入っている一本なので、軽く手直しして掲載する事に いたしました〜。  ……言わないで。  場繋ぎだけどそう言わないで……orz
目次へ