目次へ



   雨降りの森で

 その日の朝は確かに良く晴れていた。
 見事な快晴で、これ以上はない、というくらい上機嫌な青空が広がっていた
のだ。
 そんな訳だから、今日こそは、きっと大丈夫だろう、と思っていた。
 ……いたのだが。

「……やっぱり、ダメなワケね……」
 目的地へ近づくにつれて湿り始めた空気と、陰り始めた空が全てを物語って
いる。
 雨なのだ、今日も。
 幼なじみの篭る森は、今日も雨降りで確定なのだ。
「そりゃね、確かに『雨降りの森』なんて言われてるけどね、あの森はっ!」
 それにしても、年中雨降り、というのはどうなのか。
 そして、そんな場所に年中篭っていられるというのは、一体いかなる神経に
よるものなのか。
 それは彼女、イーリス・エルフェンバインが、幼なじみのレーゲン・クラウ
ト・エーデルシュタインに常日頃から問いただしたい、と思っている最重要事
項の一つだった。
「っとに、もう……」
 ぶつぶつと文句を言いつつ、イーリスは用意してきた傘を開いて森へ踏み込
む。
 『雨降りの森』はその名の通り、ほぼ一年中雨が降る、というこの地方の名
物的場所だ。あちこちに小川が流れ──というか、道になっている部分を除く
とほぼ間違いなく水が流れているか湧き出している、という環境から、この地
方の水源的な役割を果たしている。
 それでいて洪水などの災害が起きる事がないのは、水の流れを制御する者が
いるからだ。この地方で最も重要なその『仕事』は、遥か昔からずっと、その
資質を持つ者に受け継がれているという。
 その『資質』がどんなものかは、当事者しか知らない。というか、イーリス
にはその『資質』の内容は正直どうでも良かった。
 問題なのは、現在その『資質』を持ち、水の制御の任についているのが幼な
じみのレーゲンである、という点。ただそれだけなのだ。
 そして。
「あたしは、雨、嫌いなのにーっ!」
 足元で跳ねた水がお気に入りのスカートを濡らしたのを見た瞬間、イーリス
は思わずこう叫んでいた。
 雨という天気の大切さ、そして、この『雨降りの森』が重要な場所である事。
それらはちゃんと理解しているが、しかし、イーリスにとって雨は最も嫌いな
天気なのだ。
 だが、その雨の只中に入って行かなければ、幼なじみの様子はわからない。
そして、昔から好きな事に没頭すると寝食をほったらかして熱中していたレー
ゲンが、一人暮らしでまともな生活をしているとは到底思い難く、『昔から面
倒を見ていた幼なじみ』としては、定期的に様子を見に行かねば気がすまない
のだ。
 結果、イーリスは『雨降りの森』の特異な環境とそこに篭って出てこないレ
ーゲンに毒づきつつ、週に一度は森の奥の彼の小屋を訪れていた。『幼なじみ
の好物』であるかぼちゃのマフィンをバスケットに詰め、『幼なじみが似合う
と言っていた』空色をどこかに身に着けて。
「……なんかあたし、バカみたい……」
 絶叫した後、イーリスは一転して力のない声でぽつりとこう呟いていた。
 何故、ここまでしなくてはならないのか。
 別に放置したところで問題ないと言うか、街では絶賛放置推奨な変人・レー
ゲンのために、嫌いな雨の中に繰り出す事にどれだけの意味があるのか。
 ある意味考えたら負けのような気もするが、しかし、今日は妙にそれが気に
かかった。
「……はあ」
 ため息をついた後、再び歩き出す。これ以上スカートを濡らさないように、
足元に気を配りつつ。
 森の中は水音以外の音はなく、いつも静まり返っている。
 そう言えば、この森には水棲生物以外の生き物はいるのだろうか?
 今まで全く気にも留めなかった疑問が、ふと、イーリスの脳裏を過ぎった。
レーゲンが守人となり、この森に通うようになってから五年、魚や蛙の類以外
は見た事がないような気がする。
「……無理ないのかな、普通の森じゃないんだし」
 そもそも、この『雨降りの森』は、自然にあった場所ではなかったらしい。
 何百年か前に、大規模な魔法儀式で生み出された森だった、と学習所では習
っていた。
 当時、この地方は大規模な旱魃に見舞われ、半ば砂漠と化していたらしい。
 その過酷な環境に困窮する人々を見かねた当時の領主が、親友だった魔導師
と共に水を集める儀式をやらかし、それが成功した結果、年中雨の降る森が生
み出され、そこからもたらされる水の恵みが乾ききった大地を沃野に変えたの
だという。
 その後、この不思議な森を手中に収めようと目論んだ他国の勢力による侵攻
などもあったらしい。が、それらは全て手にせんとした森からの水によって敗
走させられ、いつか、この地方は小さいながらも自治領として、列強各国に認
められるようになっていた。
 つまり、この地方の平和は『雨降りの森』によって保たれている。
 その『雨降りの森』を管理するレーゲンは、地域の平和を維持している、と
も言えるだろう。
「でも、だからって……」
 引きこもる必要はないじゃないのよ、と言うのがイーリスの主張なのだが。
「……人の気も知らないで……」
 ぽつん、と呟いて目の前の水の流れを飛び越え、細い道を進んで行くと、唐
突に目の前が開ける。目的地である森の中心、レーゲンの住む小屋のある小さ
な広場にたどり着いたのだ。
「……あ、」
 そこまでやって来て顔を上げたイーリスは、その場から動けなくなった。
 広場の中央に、漆黒のローブをまとった青年が一人、ずぶ濡れで佇んでいる。
レーゲンだ。ローブと同じ漆黒の髪は水を吸ってべたり、と張り付いた状態で、
彼がその場に佇んでいた時間の長さを容易に伺わせた。深く澄んだ蒼の瞳は真
剣な光を宿し、じっと空を見つめている。
「……」
 呼びかけようとしたはずが、何故か、声が出なかった。
 あまりにも、表情が真剣だったから。
 いつもはぽやーっとした笑顔魔人のレーゲンがこんなに真剣な表情をしてい
る所を、今まで見た事がなかったから。
 恐らくは、これがレーゲンの務めを果たしている時の表情なのだろう。
 『雨降りの森』の守人として、水の流れを制し、この地方を守護する者とし
ての、表情。
 それと認識したら、声がかけられなくなった。
 邪魔をしてはいけないような、そんな気がしてしまったから。
(……帰ろ)
 一瞬空っぽになった頭に、こんな言葉が浮かび上がる。今ならまだ、気づか
れていないだろう。そう思ってくるりと背を向けたその時。
「……あれ、イーリス?」
 怪訝そうな声が背中にぶつかって来て、イーリスは踏み出そうとした足を止
めざるを得なくなる。そーっと振り返ると、きょとん、とした表情で首を傾げ
るレーゲンの姿がそこにあった。
「来てたんだぁ、全然気づかなかった」
 先ほどまでの真剣かつ凛々しい面持ちが目の錯覚だったのではなかろうか、
とすら思える、のほほーんとした笑顔。
 いつもと変わらぬその様子に安堵するのと同時に、イーリスは何か、形容で
きない憤りがふつふつと湧き上がるのを感じていた。
「ちゃんと、気づきなさいよ、この鈍感っ!」
 その憤りに突き動かされるように、イーリスは水を弾きつつレーゲンに近づ
き、睨むように見上げつつこう言い放った。レーゲンはえ? と言いつつ首を
傾げる。どうやら、イーリスが何故怒っているのかわからないらしい。
 いや、ある意味わからなくて当然だろう。何せ、当のイーリスからして自分
が何を怒っているのかわかっていないのだから。ただ、どうにも腹立たしくて、
それをぶつけずにはおれない──そんな心境に陥っていた。
「えーっと……と、とにかく、落ち着こうよ、うん」
 苛立ちを帯びた瞳に気圧されたように、レーゲンは早口にこんな事を言って
くる。
「落ち着いてるわよ、ちゃんと!」
「あ、いやまあ、うん、そうかもだけど……」
「大体! あんた、なんでずぶ濡れで突っ立ってんの!? いくらあんたがどー
しよーもないバカ、でも、風邪引くかもしれないじゃない!」
「……ど、どーしよーもないバカ、って、それはいくらなんでも……」
「問答無用!」
 人の心配に気づかない時点でバカは確定。
 声に出しこそしないものの、イーリスは心の奥でこう続けていた。
「え、えーっと……取りあえず、さあ。中で、お茶にしない? いや、オレも
さすがに着替えたいしさ……ダメ?」
 引きつったような笑顔で、レーゲンが提案してくる。ダメ、と一蹴する理由
はなく、イーリス自身、いつまでもずぶ濡れでいられたくはないので、無言で
こくり、と頷いた。この返事にレーゲンはほっとしたような笑みを浮かべ、そ
れから、イーリスの手にしたバスケットをちらりと見て嬉しそうな声を上げた。
「あ、お茶菓子」
「え?」
「かぼちゃのマフィンだろ、それ?」
「……」
 なんで、こんな事にはすぐに気がつくのだろうか、この鈍感は。
 そんな事を考えつつ、イーリスはぷい、とそっぽを向いていた。
「別に、あんたのために作ってきた訳じゃないわよっ! 作りすぎちゃったか
ら、分けてあげようと思っただけ!」
「う……それでもいいよ、イーリスのかぼちゃのお菓子は美味しいから」
 素っ気無く言い放つとレーゲンは一瞬だけ困ったような表情を浮かべ、それ
から、気を取り直すようにこう言った。どこまでものほほん、お気楽な物言い
にイーリスは何となく気が抜けるような心地がしてため息をつく。
 その反面、イーリスは妙な安堵も覚えていた。
 やっぱり、レーゲンはレーゲンなのだ、と。
 『雨降りの森』の守人である以前に、慣れ親しんだ幼なじみなのだと、今の
やり取りが感じさせてくれたから。
「おだてても、なんにも出さないからねっ! それより、いつまでもぼーっと
してないで、早く着替えるなり何なりしなさい! その間に、お茶淹れとくか
ら」
「はいはい……って、お客がお茶淹れるって、一体」
「細かい事、気にしないのーっ!」
 雨音を制して、声が響く。

 いつも静かな森は、空色を好む少女が訪れる時だけ、賑やかになる。
 森を管理している若き魔導師がその変化を楽しみにし、待ちわびている事を
知る者は、今の所、いない。

 唯一、降りしきる雨を除いては。


目次へ
この作品はこちらの企画に参加しております。
突発性競作企画第14弾 「in rain...」