目次へ




   HOLYWORD 〜だいじなことば〜

 理由など特にないまま、いきなり自分が、存在を消してしまいたくなるくら
いに嫌に思える時が、誰にでもあると思う。
 少なくとも悠一は今、そんな心境だった。理由はないが、奇妙に疲れていた。
 しかし、何に?
 日々の生活か……それとも大学の講義? 先の見えない現代? 気苦労の多
い人付き合い……それも、確かにあるかも知れない。
 だが、一番の理由はこれだろう。
『全てが、嫌いだ』
 二十年も、人として生きてきた。まだ二十年だ、と多分人は言う。でも、今
の悠一にとっては、それは『もう』だった。
『二十年も生きてしまった……こんな嫌な世界で』
 そう考えると、何もかも嫌に思えた。汚く見えた。だから、消えてしまいた
い。逃げ出してしまいたい……なら。
 逃げ出せばいい。

『あいつらが今のオレのこの心境聞いたら、絶対笑うぜ』
 道を歩きながらも、こんな思いがどこかで自分を嘲笑しているように思えて
ならない。己自身を嘲り、笑う存在。それもまた自分。そんな風に自分自身を
貶める自分が、また嫌になる。
「……どこに行くかな……」
 どこなら目立たずに死ねるかな、という思いを込めて呟きつつ、悠一は駅の
料金表を眺めた。できれば、ぴったり五百円で行ける場所がいい。とはいえ、
そんな都合のいい駅はどこにも……。
「あるわきゃないか、そんな都合のいい……」
 都合のいい駅は、と呟こうとして、悠一はそれに気がついた。
「なんだ……? 咲夢? こんな駅、この沿線にあったのかよ……?」
 料金表の本当に隅の方、ふと見ただけでは気づきそうにない場所に、その地
名はあった。駅名咲夢、料金は……ぴったり五百円。
「変な地名……ま、いいか」
 無感動に呟くと、悠一は自動券売機のコインスロットに硬貨を入れた。

「まあいどお」

 その瞬間、奇妙な声が背後で聞こえたため、悠一はぎょっとして後ろを振り
返った。だが……そこにはいつもと変わらぬ、駅の雑踏しか見えない。
「なんだったんだ、今の……?」
 蛙が潰された、と言うか、猫が首を締められた、と言うか……とにかく奇妙
な響きとイントネーションの声だった。ともあれ、切符を買うべく悠一は券売
機に向き直り、
「……ありゃ?」
 取り出し口に当たり前に存在する、パステルピンクの切符に目を丸くした。
「……押して……ないよな、オレ?」
 疑問に思いつつも、悠一はその切符を取って改札に向かった。後ろで順番を
待つ、中年女性の視線が嫌だったのだ。自動改札が調整中となっていたため有
人改札を通りつつ、咲夢行き、と印刷された切符を係員に差し出した悠一は、
またもぎょっとする。
「……え?」
 差し出した切符にぽんっと捺印したのは、どう見ても猫の手だった。悠一は
ぽかん、とした顔を改札の駅員に向けるが、当然の如くそこにいるのが猫であ
るはずもない。
「……何か?」
「ちょっと、早く行ってちょうだい!」
 怪訝そうな視線を投げかける駅員と、後ろの中年女性から逃げるように、悠
一はホームに駆け出した。駅員はともかくとして、後ろで騒いでいた女性が、
やっぱり嫌だった。
(あのババアに限らない、か……何もかも嫌なんだから)
 ふと、こんな事を考え、悠一はまた、ため息をついた。
(……オレは……ここで、何をしてるんだ?)
 死に場所を求めて、奇妙な名前の駅に行こうとしている。
(……死ぬだけなら……ここに飛び込みゃ、いいんだよな……)
 電車の到着を告げるアナウンスを聞きながら、悠一はふとこんな事を考えた。
(そうだ、その方がいい……このまま、前にちょっと進めば……)
 そのまま死ねる――そんな事を考えつつ、悠一は前に進みかけた。

「だあめ」

 その瞬間、またさっきの声が聞こえた。同時に、悠一は後ろに引っ張られて
バランスを崩す。びっくりして振り返るが、やはり真後ろには誰もいない。ぽ
かん、としていると、何事もなく電車にホームに入ってきた。
「……なんだったんだよ、ほんとに……?」
 呟きながら、取りあえずは何も考えずに電車に乗り込む。行こうとしている
駅が上り線なのか下り線なのかはわからなかったが、とにかく乗れば着くだろ
う――そんな、いい加減な考えに急かされていた。
 乗った車両は、一番後ろ。中は妙に閑散としていた。四時限目をサボって早
く出てきたから、時間的にそんなもんだろう、程度に思いつつ、悠一は窓辺に
陣取って頬杖をつき、ぼんやりと飛び去っていく景色を眺めていた。
 もうすぐ見納めにするつもりの景色――だが、特別な感慨はない。自分はこ
こから出て行く、逃げ出していく。自分を受け入れてはくれない世界なのだか
ら、無理もないだろう。
(……オレが……死んだら……)
 とりとめもなく、悠一はふとこんな事を考えた。
(誰も、なんとも、おもわないか。喜ぶヤツも多いだろうしな……)
 景色が流れ、過ぎ去っていく。
(……智美……)
 空っぽになっていく頭の中に、ふと、面影が浮かんだ。幼なじみの智美の顔
――ずっと昔からいる幼なじみ。

『……あいつは……ユウは、そんなんじゃないわよ! ただの、幼なじみ!』

 面影が消え、以前、偶然聞いた智美の言葉が蘇った。誰に、どんな意図で言
っていたのかは知らないが、その言葉は妙に重たく響いた記憶がある。
 特別なつもりでいた。智美は、少なくとも悠一にとっては、特別な女の子だ
った。だから、智美にとっても自分は特別だと、ごく自然に思っていた。だが、
それが思い上がりだとはその時まで気づかなかった。あまりにも、自然な距離
にいたから。
『それで気づいたら、途端に嫌になったんだよな、智美も、智美が好きな自分
も』
 もう一人の自分が嘲るのに、悠一はそうだよ、と呟いた。
(オレが死ねば、さぞかしみんな喜ぶだろうさ……キャンパス一の美人が、完
全フリーになるんだからさ)
 ふと、ため息が出た。合わせて、景色の流れが止まる。どこかの駅に着いた
ようだが、まだ降りる必要はなさそうだった。間隔を置いて、再び景色が流れ
はじめる。
(あいつらは……どうするかな……)
 次に浮かんできたのは、高校時代からのバンド仲間の事。何がどう、という
事もないが、最近活動は行き詰まっていた。

『バンドなんかやってる場合か? 就職活動はどうするんだ?』

 ふと、父の言葉が蘇った。この時、悠一はまだ特に明確な今後を決めておら
ず、そのために言われた言葉だった。
 正直、存在の全否定を食らった気分だった。仲間たちと話し合って、バイト
をしながらでもバンドをやって行こう、と決めた矢先に突きつけられた現実は、
奇妙に後味が悪かった。後味の悪さは心の乱れを呼び、それで乱れた自分の音
が不協和音みたいだ、と指摘されたのは、一週間前の事だった。
『現実なんて素っ気無いからな……嫌になったのも、無理ないさ』
 もう一人の自分が嘲る。
(別に、ギターは一人余ってんだ、オレがいなくたって……)
『そうそう、いなくたって、社会の仕組みは何もかわらないよ』
(……そんなもん……だよな)
『そうそう』

 それから、電車が止まる度に悠一は様々な事を考えては、否定的な結論を導
いていた。考えれば考えるほど、何もかも嫌になる。そして自分が、自分が居
るここが、どんどん嫌に、疎ましく思えていった。ここには居たくない、だが
逃げ場はない、なら死ぬしかない……死んで完全に消えればいい……追い詰め
られた心は自分を庇って、どんどん殻を厚くしていく。
 繊細に、そして――無意味に。

「さきゆめー、さきゆめー、終点だよおお」

 突然、あのおかしな声が車両いっぱいに響き渡った。いつの間にか車両に、
いや、電車に乗っているのは悠一だけになっていた。悠一は立ち上がって奇妙
な名前の駅のホームに降り――絶句した。
「なんだよ、ここは……」
 目に入ったのは無限の花畑。どこを見ても、咲き乱れる花しか見えない。は
っと振り返ると、悠一の乗っていた車両が一両だけ、ぽつん、と花の中に残っ
ていた。
「なんなんだ、ここは……」
「さきゆめだよお」
 すぐ側で、あの妙な声が聞こえた。はっと振り返った悠一は、そこに奇妙な
存在を見いだす。
「なんだ……猫?」
 と、見るのが一番自然だろう。より正確に言うと、駅員の制服を着て、更に
直立二足歩行をしているという、ふざけた猫だが。
「猫? ああ、あんたには猫に見えるんだね。はい、いらっしゃいまーせー、
ここは咲夢、夢が咲き、散るところ」
「夢が咲き……散る?」
「だから咲夢」
 謎の猫は、わかる? とでも言いたげに首を傾げてウィンくしつつ、気取っ
た様子で駅員の帽子を爪でくいっと持ち上げた。
「……なんで、オレはここに……」
「来たいから、来たんでしょ? 五百円で、切符買って」
「なんなんだ、ここは?」
「人が探し物に来る場所……心の忘れ物を集めた、遺失物置き場さ」
「……訳がわからん……」
 猫の説明に余計に混乱した悠一は、苛立たしげにこう吐き捨てた。猫はぽん
ぽん、とその背を叩く。
「まあ、リクツでできてる場所じゃないからね、ここは……まあ、取りあえず
……ほい」
 呑気な口調でこう言うと、猫は帽子をきちっと被って手近な花を一本摘み、
悠一に差し出した。
「なんだよ?」
「覗いてみな」
 不審に思いつつ、取りあえず悠一は花の中を覗き込んだ。花の中には、奇妙
な映像が写っている。病院のベッドとおぼしき場所に、医師や看護婦に囲まれ
た自分が横たわっていた。
「……オレ? 病院で……何してるんだ?」
「死にかけてる」
 ふと浮かんだ疑問に猫はさらり、とこう答えた。この言葉に悠一は、はあ?
と言って猫を見る。
「……死にかけてる? でも、オレはここに居るぜ?」
 この疑問に、猫はやれやれ、と肩をすくめた。
「……自殺なんて事、ナチュラルに考えるわりに、想像力に欠けるねあんたは
……ここに見えてるのは、あんたの器。あんたは駅に行く途中で車に跳ねられ、
川に落ちてどうにかこうにか、病院に担ぎ込まれた。このまま、ここから戻ら
なければあんたはあのまま死ぬ」
「……戻れば?」
「生き返る。戻るなら、あの車両に乗ればいいんだよ」
 言いつつ、猫は爪で傍らの車両を示した。
「ふうん……もし、戻らなかったら、今ここにいるオレはどうなる? オレは
よーするにあれだろ、幽霊?」
「成仏できずに彷徨い、人を害する霊となる」
 何気なく問いかけると、猫はやたら真剣な口調でこう返してきた。悠一はま
た、ふうんと気のない声で応じる。
「なら、戻るつもりはない……元もと、オレは死ぬつもりだったんだからな」
「……なら、ここに来る必要はないんだけどなあ……」
 素っ気無く言うと、猫は妙に含みのある口調でこう言ってにやり、と笑った。
その笑い方が何故か、小学生の時に読んだ『不思議の国のアリス』に出てくる
チェシャ猫を彷彿とさせて、妙に気に障る。
「どういう事だよ?」
「迷いを持って死んだ人は、五百円払ってここに来る事ができる。迷いがなけ
れば、真っ直ぐ上に上がれるか、下に落ちられるんだよ。でも、あんたはここ
にいる……刻の遺失物を探しに来ている」
「迷い? オレが、あんな所に未練を持ってるっての?」
「……ま、取りあえず、その辺の大きな花、片っ端から覗いてみな」
 憮然とした問いにこう答えると、猫はどろんっという音と共に消えた。
「……なんなんだよ、ったく」
 後に残された悠一は、しばし所在ないままで立ち尽くしていたが、ただぼー
っとしているのも暇なので、取りあえず猫の言っていたとおり、大きな花を覗
き込みはじめた。だが、花の大半は花弁をぴったりと合わせており、中々その
内側を見る事はできなかった。
「……ん? あれは、開いてる……」
 しばらく花畑をうろついたところで、悠一はその花に気がついた。蒼い色の
一際目立つ花が、大輪に花弁を開いているのだ。近づいて中を覗き込んでみる
と、
『本当にありがと、ユウ! すっごく嬉しい……』
 まだ幼い智美の声が聞こえた。中には、見覚えのある光景が広がっている。
小学二年生の時の、智美の誕生日だ。
 この時、悠一は智美がずっと欲しがっていたオルゴールをプレゼントした。
こつこつと小遣いやお駄賃を貯め、ようやく買った小さなオルゴール――智美
が喜んでくれて、いいようもなく誇らしかったのを覚えている。
「……でも、あいつ……あれ、しまい込んでそれっきりじゃないか……」
 だがその一ヶ月後、智美の部屋には自分がプレゼントした物よりも立派なオ
ルゴールが置かれていた。自分のプレゼントはどこにもないのに。
「……飽きっぽいヤツだったからな……」
 大きい物に目移りしたんだろう、と、そう思って納得する事にしたのだ、あ
の時は。
「……だから、プレゼントのしがいのないヤツだって、思ってたんだよな……」
 そしてその時以来、悠一は智美の誕生日には花束と菓子以外の物は持って行
かない事にしていた。花なら生け花好きの智美の母が飾ってくれるし、菓子は
食べてなくなるからだ。
 映像が終わると、花は他と同じく花弁を閉じてしまった。悠一はそこを離れ、
他の花を探しに行く。どの花にも、嫌な思い出に連なる出来事が写っていた。
自分の描いた絵に関する事、創った詞をけなされた事……一つ一つが、悠一に
自分と世界を嫌いにさせた思い出だった。
「……なんか、腹立ってきた……」
 何が楽しくて、嫌な思い出や苦い記憶を見せつけられねばならないのか、と
考えると、無性に腹立たしかった。
「やめやめ! こんな事してたって、意味なんか……ん? 泣き声?」
 苛立ちからこんな言葉を吐き捨てた直後に、悠一はそれに気がついた。突然、
幼い女の子の泣き声が聞こえてきたのだ。
「なんで、こんなとこで……」
 ふと興味を駆られた悠一は、声の聞こえる方に行ってみた。場所はわりと近
く、声の主はすぐに見つける事ができた。
「!? あれは……智美?」
 泣いていたのは、まだ幼い日の智美だった。膝の上には、微かに見覚えのあ
る壊れたオルゴールが乗っている。
「……お兄ちゃん……誰?」
 呆然としていると、気配に気づいたのか、不意に幼い智美がこちらを見た。
「オ、オレは……それより、どうしたんだ、このオルゴール?」
 問われた悠一は適当に誤魔化しつつ、智美の傍らに膝をついて問いかけた。
「……壊しちゃったの……」
「壊した? どうして?」
「……嬉しくて、嬉しくて……毎日聴いてたの……でも……片づける時に、落
として……壊しちゃって……ユウが、くれたのに……大事にするって、約束し
たのに……ひっく……」
「……嬉しくて……毎日、聴いてた?」
 幼い智美の言葉を、悠一はやや呆然と繰り返した。
「なのに……ひっく……ユウ、きっと、怒るよね……ユウに嫌われちゃう……
嫌なのに、そんなの……」
「……だから……しまい込んじゃうのか? 隠しちゃうのか?」
「だって! こんなの見せたら、ユウ……」
 悠一は一つ、ため息をついた。
(オレって……そんなに、信頼されてなかったのかな……?)
 それからふと、こんな事を考える。
『それは、お前が智美を信頼してなかったからさ……今もだけどな』
 突然、もう一人の自分――忘れていた存在の声が響いた。
「信頼……してなかった? 智美を?」
 言われて考えてみれば……確かにそうかも知れない。
「……そうだよな……そんなもんなんだ、で、納得して……オルゴールがどう
なったか、聞こうともしなかった……」
『いつもそうさ、お前は。絵や詞の事だってそうだぜ。何が悪いのか、も聞か
ないで、勝手に怒って引っ込めちまって』
「……オレが……全部が全部、オレのせいだってのか!?」
『……そうかも知れない。でも、違うのもあるさ……』
「違う? どれが違うってんだよ!」
『それは、お前が知ってる……世の中の道理や、手を届かせてくれない狂った
仕組み。それは、お前だけが悪い問題じゃない』
「……死ぬほどの理由じゃないぜ、それ」
「つーまり、死ぬ必要は、ないってワケよ」
 思わず呆れたように呟くと、突然、あの猫の声が聞こえた。いつの間にやっ
て来たのか、猫は傍らに立って、楽しそうに悠一を見上げていた。
「……化け猫駅員……」
「猫化けって呼べよおお」
「同じだっ! まだ……間に合うんだろ?」
「よゆー、よゆー、切符、持ってる? じゃあ、帰りの分の確認印押したるー」
 猫はこう言うと、差し出されたパステルピンクの切符にぺんっと捺印した。
悠一はそれを、胸ポケットに入れる。
「でもさ、化け猫」
「ねーこーばーけ!」
「……そんな事、どっちでもいいってのに……とにかくさ、ここって……来な
い方がいいよな、もう二度と」
「まあね……まあ、来ないよーに、努力しなよ。少し見方を変えれば、随分違
うから」
「……そうだな……オレ……少し自分の事、特別に思い過ぎてたみたいだ……
それって、やっぱり問題……なのかな?」
「一度、特別って思い込むと、そこから先に進めない……と、思う。きっとね」
 にやり、と笑いつつ、猫は曖昧にこんな事を言う。人を馬鹿にしたようなそ
の笑いも、今はあまり気にならなかった。
「きっと、か……あばよ、化け猫!」
「猫化けにゃあああ!」
 猫の訂正を聞きながら、悠一は笑い出していた。走りながら笑っていた。ど
こからともなく聞こえる発車ベルにあわせて、涙が出るほど、大声で笑い続け
ていた。
 席に座り、元のように頬杖をつく。様々な色彩が高速で過ぎ去っていく……
そして、周囲はやがて、白い光に包み込まれた。
「……」
 その瞬間、あの猫の声が聞こえた。言葉が記憶に刻まれる。しかし、その意
味を理解する前に、悠一の意識は白の中に溶けてしまっていた。

「……ユウ……ユウ……」
 唐突に、声が聞こえた。耳に心地よく馴染んだ声は、何故かかすれているよ
うに思えた。
「ユウ、しっかりしろってば!」
「ユウイっつぁん、帰ってこいよ〜!」
「ユウ〜、オレ一人にあの狂気のギターコード、弾かせるつもりかああ!」
「ユウイチ、オレが悪かった。理屈はともかく謝る。謝ってやるから、帰って
来い!」
 続いて、妙にとんちんかんな声の四連続。これも、聞き慣れている。
「悠一……悠一、起きなさい、ね?」
「悠一……」
 いつもは落ち着いている声が、妙に悲しげな響きを伴って聞こえた。
「う……」
 ようやく、声が出せた。とはいえ、まだ言葉にならない。口よりも、目を開
けたかった。瞼が奇妙に重いが……開けなければ、という、使命感にも似た思
いが身体を動かす。
「ユウ!」
 ゆっくりと、ゆっくりと、光が見えてくる。もう一息だ、と自分に言い聞か
せ、悠一は重たい瞼を持ち上げる。
「……さと……み……」
 目を開けてすぐに、ぼやけた視界にその姿が写った。悠一は、なんとか笑お
うと試みる。智美が泣いているのが見えたため、安心させてやりたかったのだ。
「……ただ……いま……」
「ユ……悠一っ! 悠一……良かった……」
 どうにか言いたい言葉を告げた途端、智美が抱きついてきた。ぐるり周囲を
見回すと、バンド仲間の翔、政義、和人、悟ら四人と両親が、各人各様に相好
を崩していた。
「……ただいま……迷惑かけて、ごめん……」
 その一人一人と、そして肩で泣いている智美に向けて、悠一は今の素直な気
持ちを告げていた。

 『前代未聞のラッキー男』。
 悠一はしばらくの間、こう呼ばれる有名人になった。まあ、車に跳ねられ川
に落ち、それでした怪我が打撲十数カ所の骨折数カ所のみ、内臓、脳に異常な
しとあってはそうも言われるだろうが。
「でも悠一、どうして、車道歩いてたの?」
 連日見舞いに来ては、智美はその事を知りたがったが、悠一は曖昧に微笑う
だけで教えなかった。
「……ん、ちょっとね……それより智美、聞きたい事があるんだけど……いい
かな?」
「え? なによ、改まって?」
「ん……オレが、昔あげたオルゴール……今、どうなってるんだ?」
「え!? あ、あれは、その……」
 半ば予想していたとおり、智美はもごもごと口ごもった。ストレートな反応
に悠一は苦笑する。
「壊れてるなら、言えよ。翔に聞いたんだけど、工学部にその手の修理、得意
なヤツがいるんだってさ」
「悠一……怒らないの?」
 おそるおそる問う智美に、悠一は静かに頷いた。
「ん……まあね。それより、智美……オレ、お前に謝りたい事がいくつかある
んだ……」
「謝りたい……事?」
 戸惑う智美に、悠一は真剣な面持ちで、また一つ頷いた。

 悠一は、自分はかなりプライドが高いと思っている。だから、すぐには絶対
無理だろうが、それでも、悠一は少しずつでいいから、変わろう、と思う。
 不必要に自分で自分を傷つけずにすむように、無意味に人を傷つけずにすむ
ように。かなり難しいけど……やらなければいけない、と思う。
『悩んでるのは、あんただけじゃあにゃーの。誰だって同じ、みんなそうなの
……だから、ね。特別な人間なんていないんだから……忘れるなよ、な。『特
別』に自分から押し込められたら……二度と前には行けないにゃ……きっと、
ね』
 不可解な咲夢を出る直前に聞こえた、あの妙な猫の言葉――記憶に深く刻ま
れたそれは、今でも鮮明に蘇る。
 かなり無責任な物言いではあるが、悠一にはこの言葉が不思議と神聖な――
大事な言葉に思えてならなかった。


  ☆あとがき…☆  キリリク短編としてここに上げるべくデータを発掘し、更新日時を見てびっ くり。これを書いてからもう六年もたつんかい! はあ〜……早いもんですよ ねえ……。え、解説? ……したないです、これは(- -")。  ただ、この話は、読んだ人それぞれに思う事がある……と、いいなあ、とか 思ってますけどね。  
目次へ