月はくろく染まりて、笑みと共に沈む

 ――わかっている、つもりだった。

 残された時間の短さも、そして、自分の代では終わらない事も。
 けれど。

 いざ、それを――その兆しを見ると、やはり。
 言葉で表しきれない思いが、満ちた。

「……わかっては、いたけどやぁ」

 誰もいないアトリエ。絵筆を置き、独りごちる。緑が向くのは、自身に宿っ
た『月』――『絵師』の印である、蒼い月の痣。それは何故か、鈍く黒ずんで
いた。
 それが示すのは、一つ。
 終わりが近い、という事。
 自分自身の。

「……白く、なって、欲しかったんだが……」

 『月』が白くなる──それは、『伝承』の成就を意味する。
 即ち、綿毛によってそらへかえる刻が訪れた事を。
 逆に、黒くなるのは、『月』の終焉。
 即ち、『絵師』の代替わり──。

「……」

 軽く。
 唇を、噛んだ。
 いずれは来ること。
 わかりきっていた。

 けれど。
 いや、だからこそ──。

「……言っても、始まらんだろう?」

 一つ息を吐いてから、薄く、笑む。
 選んだのは、自分。
 この在り方も、生き方も。
 自分自身が納得した上で、送ってきた。
 ならば、とは思う、けれど。

「……ミハエル、は」

 己が後を引き継ぐ者であり、それ以上に大切な、家族。たった一人の。
 過去、自分の子や弟妹に『絵師』の務めを引き継いだ者がいなかったわけで
はない。
 いや、いたと知っているからこそ。その痛みが、理解できていたから。
 は、と。一つ、息を吐いた。

「いや……大丈夫、だよな?」

 立ち上がり、壁の棚へと向かう。取り出すのは、木炭でラフの描かれたキャ
ンパス一枚。

「あいつは……あいつも、一人じゃ、ない。
 支えが、ある……」

 人と人のつながり。それは、『絵師』の孤独をかき立てながらも同時に、癒
して。
 自分がそうだったように、弟も、幼馴染たちの支えに救われるはず、と。
 そう、呟きながら。

「……俺の『月』が、沈むなら。
 その前に、これだけは……」

 完成させたい、と。
 つい先ほど、描き上げた『封じの絵』をイーゼルから外して、それを乗せる。

 描かれているのは、風景。
 林檎と泉。
 そして、その上の空間。
 ほとんど接する事のない、太陽。
 自由に舞う鳥たち。
 
 『知っている』けれど、『知らない』ものも含まれた絵──それは、ずっと、
描きたかったもの。
 堅固な崖の、ない世界──。

「…………」

 絵筆を手に取る。
 色彩をのせる。

 削られる魂が悲鳴を上げるのが、聞こえる気がした。

 けれど。
 これだけは。

 この都市で唯一、鮮やかなる色彩を写すのを許される品を用いなければ、完
成させられないから、と。

 そう、思いながら、筆を運ぶ。
 色彩を、のせる。

 ずっと、描きたかった、ただ一枚の絵。
 自分のための。

 これを仕上げて、笑って、堕ちよう。
 幼馴染たちが呆れるくらいに、呑気な笑顔で。
 それは、ずっと、決めていた事だから──と。

「……俺も」

 鮮やかなあおいろ。
 白をそれで染めながら。

「……俺も……いってみたかった、やぁ……」

 無限のあおへ、その先へ。
 呟きは、誰にも届く事はなく。
 ヒカリコケの照らすアトリエで、色彩が、踊る。


 ──やがて。

 封じられし間の氷面鏡が、二つの『月』を映す。

 くろく染まって堕ちる『月』と。
 あおさを深めて、冴える『月』とを。

 幾度も繰り返されてきた儀式の様を、淡々と象徴して──。


 やがて。
 黒く染まった『月』は、堕ちた。

 完成した風景画を、前に。
 楽しげな、嬉しげな──そんな笑みを、浮かべつつ。



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