幻想桜花

 ──真夜中に、不意に響くは高き笛の音。
 何かを呼ぶよに、或いは嘆くよに。
 響くそれに気がついたのは偶然か、それとも血筋のなせる業か。
 何れにせよ、気づいたそれを捨て置く事はできなくて。
 煙草とライターを胸ポケットに、桜の意匠を施した黒檀の短刀を内ポケット
にそれぞれ入れたジャケットを羽織り。
 夜の闇へとさまよい出た。

「……静かだな」
 立ち込める静寂に、思わずこんな呟きを漏らす。
 夜には寝静まるのが当たり前の、山間の里。
 以前の一件で住人ががた減りした事もあり、立ち込める静けさは言いようも
なく深く、重かった。
 そんな静寂の中、何かに引き寄せられるよに──足を向けたのは、桜の丘。
笛の音色は、そちらから響いているように思えていた。
「……っ!?」
 夜の闇の中でも迷う事無く、たどり着いた桜の丘は、何故かぼんやりと明る
かった。容易に『いつか』を思い起こさせる光景に息を飲みつつ、史人は視線
を桜へと向ける。
 決して花も葉もつけぬ――つけてはならぬ、桜。その枝は薄紅色に包まれ、
周囲には小雪の如く同じ色が舞っていた。
「花が……咲いてる? いや……」
 一見すると、薄紅の花が繚乱しているかの如く見える桜。しかし、その花か
らは違和感が感じられた。酷く現実離れした――いや、そもこの花が開くとい
うのは、それだけで現実を逸脱した事態が発生しているという事なのだが。
「…………」
 しばし躊躇った後、そう、と手を差し伸べて舞い散る薄紅の欠片に触れる。
が、それは軽く触れた瞬間、溶けるように消え失せた。
「……幻影?」
 あまりにも儚いその様子に、軽く眉を寄せるのと前後するように響いていた
笛の音色が止んだ。直後、こちらに近づく気配に史人ははっとそちらを振り返
る。右手はジャケットの内ポケットに収まった、黒檀の柄を確りと握り締めて
いた。
「……誰だ?」
 低い響きの誰何の声。それに返されたのは、どこか楽しげな笑い声。
「……誰だ、って聞いてんだが」
 やや、不機嫌な口調で問いを繰り返す。笑い声はぴたりと止み、風が幻の花
弁を巻き上げながら渦を巻いた。
 闇夜に映える、薄紅の乱舞。それが鎮まった後に残ったのは、色鮮やかな朱
色だった。夜闇に映えるその色は、時代がかった狩衣の色。その上に月白色の
長い髪がさらり、と零れている。現れたのは、伝説や御伽噺からするりと抜け
出しでもしてきたかのような姿のまだ若い男だった。
 人、ならざるもの。
 それは、問うまでもなくわかった。
 史人は黒檀の柄を握る手に力を込めつつ、花弁の乱舞から現れたものを見据
える。鋭いその視線を、花弁と同じ薄紅の瞳がどこか楽しげに受け止めた。
「……三度目。これ以上は聞かねぇ。誰だ?」
「……我は、しゅおう」
「しゅおう……朱の、桜?」
 低い問いかけに返されたのは歌うような口調の名乗り。そしてその名乗りに、
史人は小さく呟いた。この言葉に、しゅおう、と名乗ったそれは不満げに眉を
寄せる。
「……もう少し、気の利いた当て字はできぬのか、葛木の者」
「お前みてーな、見るからに危なっかしいモノ相手に、力のモトになりそうな
言葉なんぞ当てられるか」
「ち……まあ、いい。この場の我は朱桜、としよう」
 史人の切り返しに朱桜はどことなく不満げな様子で一つ息を吐いた。くるく
ると、その周囲で花弁が舞う。
「……で?」
「で、とは?」
「何しに出てきた。また、血を求めるつもりか? ……桜の魔、古よりこの地
に眠りしモノ」
 低い問いかけに、朱桜は薄く、哂った。
「今は、求めはせぬよ。そも、あれは今は眠りの内だ。あれが望まねば、我は
求めぬ。
 ……あれが望めば、話は別だがな」
「……あれ……『巫女』が、望めば?」
 朱桜の言葉の意が今ひとつ掴めず、史人は微かに眉を寄せる。その様子に朱
桜はまた、哂った。
「……聞きたくば、その懐のものから手を離してはもらえんかな、葛木の者。
 今、ここにいる我は力の残滓。
 あれが目覚めた後、地に残ったカケラ……力など、ない」
 どことなく自嘲的な言葉に、史人はゆっくりとジャケットの内側から手を出
した。朱桜の言葉に偽りがないのは感じている。実際のところ、朱桜から感じ
る力は弱く、儚いものなのだ。
 黒檀の短刀から手を離した史人は胸ポケットにそれを移し、赤い箱から煙草
を一本抜き出して火を点けた。煙に、朱桜が形の良い眉をひそめるのは見えた
が、そこはさらりとスルーする。
「……それで? 『巫女』が望めば、ってのは、どういう意味なんだよ?」
 ライターをポケットにしまいつつ、話の続きを促す。朱桜は軽く肩をすくめ
ると、舞い散る幻影の花弁に手を伸ばした。
「それが、あれの示した対価であったが故、さ。
 『桜を咲かせるために、力が欲しい。そのために、血を捧げる』と、あれは
言った。
 故に、我はそれに応じた。
 ……あれが消えぬ限り、その盟は力を失する事はない。
 そして、あれが血を捧げたなら、我はそれに応じて花を咲かせる。
 ……それだけのこと」
「それだけのこと、って……」
 あまりにもあっさりと言われ、史人は言葉を失う。それからふと、疑問を感
じて朱桜を見つめた。
 今は、『巫女』の伝説が主流になっているためさほど重視されてはいないが、
本来櫻木や葛木と言った巫覡の血筋は、この魔を抑えるためにこの地に存在し
ていたはず。
 ならば、この魔は一体何なのか。
 それを知らぬままではいけないのではないか──と。
「……そもそも。
 『お前』は、なんなんだよ?」
 浮かんだ疑問を、史人はそのまま投げかける。この問いに、朱桜は一つ瞬い
た後、薄く哂った。
「我は、我。
 我は、古より在りし存在。
 我は古よりこの地に眠り、力を求める者あれば目覚め、対価と引き換えにそ
れに応じる。
 ……故に、あれの望みに応じ、未だ、あれと共にある。
 これで、答えになるかな、葛木の者?」
 それから、歌うような口調でこう返してくる。薄紅の瞳には、からかうよう
な、それでいてどこか寂しいような──何とも評しがたい色彩が宿っていた。
「……古より、在りし、存在」
 返された答えを、史人は小さく繰り返す。
 一つの場所に眠り、対価に応じて力をもたらすもの。
 櫻木と葛木に伝わる口伝では、確か、『強き力を持つ、恐れ敬うべき存在』
とされていた。
「……土地神?」
 たどり着いた結論に、朱桜は何も言わずに、ただ、わらう。だが、それだけ
でも答えとしては十分だった。
 朱桜はおそらく、古よりこの地に在った土地神。それが、時代の流れに伴う
信仰の形の変化により、魔へと変じた存在なのだろう。
 そして本来神格であったが故に、言霊に縛られ、『巫女』と共に在り続けて
いる。
「……やれ、やれ。なんとも、厄介なモンだな」
 しかし、それと知れたからと言って、何かが変わるわけでもなかった。
 朱桜がある限り『巫女』は消えず、『巫女』が情念を断たぬ限り、盟は消え
ぬ。
 それは、確たる事実なのだから。
「そうだな、厄介だ」
 煙と共に吐き出された史人の大げさな言葉に、朱桜は楽しげにわらう。史人
は煙草の先の灰を落とし、わらう朱桜を見た。視線に気づいた朱桜はわらうの
をやめ、すい、と史人に向けて手を伸ばす。その上に、花の開いた桜の小枝が
ふわりと現れた。
「あれは、今は眠っているよ。我が我として動けるほどに、深く、な。
 ……もっとも、それがいつまで続くかなどは、我は知らぬが」
「……また、目覚める事もある……って事か?」
「さあな。
 だが、不自然な眠りは、いずれ醒めるものぞ?
 それがいつになるか……今日、明日はなかろうが。
 十年先か、百年先か、千年先か。
 あれの気が済むまで、血の宴は繰り返される。
 ……あれの願いが叶うまで、我は応えるが決まり故に」
「……面倒な事しやがって……」
「それは、我の与り知らぬ事」
 さらり、と返された言葉に史人はため息をつく。朱桜はまた、楽しげに笑う
と桜の小枝を軽く握った。小枝は微かに揺れると一本の横笛に形を変える。真
紅の紐で飾られた漆黒のその笛に、朱桜は優雅な仕種で唇をつけた。
 桜の丘にしばし、幽玄たる調べが響く。
 史人は紫煙を燻らせつつ、ただ、それを聴いた。
「……清聴感謝……というところかな、葛木の者」
「ま、別に邪魔するいわれもねぇしな」
 やがて楽は終わり、朱桜は楽しげな声を上げる。それに、史人は灰を落とし
つつ素っ気無くこう返した。
「……口が悪いな」
「大きなお世話だ」
「ふふ……まあ、いい。
 さて、我はそろそろ消えるとしようか。
 あれが目覚めるまで。
 あれの気が済むまで。
 因果は輪となり巡る。
 ……確り、見守る事だ、葛木の者。
 血脈と、警鐘を伝えつつ、な」
「……言われるまでもねぇよ。
 伝え、つなげる。
 それが、生き残ったものの勤めでもある」
 朱桜の言葉に、史人は低い声でこう宣言する。朱桜はふ、と薄くわらって踵
を返した。薄紅の花弁が舞い、月白色の髪と朱色の狩衣が飲み込まれ、そして。
「……蛇?」
 一瞬だけ、見えたそれは幻か、それとも。
 桜の大樹、その幹に月白色の蛇がするりと絡みつき、そして──消えた。
 直後、満開になっていた桜の花弁が弾け、溶けるように消えてゆく。
 僅かな間に薄明かりに照らされた空間は消え去り、淡い星の光と、煙草の火
だけがぽつん、と灯る夜闇が丘を包み込む。
「『巫女』が目覚めるまで。
 『巫女』の気が済むまで。
 因果は輪となり巡る……か」
 一人、残された史人は小さな声で呟き、夜空を見上げた。
「伝え、つなげる。
 血脈と警鐘を、未来に……」
 櫻木と葛木、見守る者と、それを支える者。
 途絶えかけの血脈を再びつなげていくのは、櫻木の血をも受け継ぐ葛木直系
の義務。
 理解しつつも棚上げにしていた事がふと、頭を過ぎった。
「……週末辺り、ちょいと、出るか。
 大辺り捕まえれば、なんとかなんだろ」
 煙と共にこんな呟きを吐き出すと、史人はゆっくりと歩きだす。
 その背を見送るよに、幻影の桜が一片夜に舞い──そして、消えた。


BACK