今は遠い空の下へ

 満月の夜を恐れていたのは、きっと、覚醒の夜の紅い記憶のせい。
 その恐れは未だに消えない――けれど。

「……明るい……な」
 ぽつり、呟いて。何気なく、窓越しに夜空を見上げた。
 見上げた空、かかるのは銀の満月。ああ、そうだった、と。舌打ちしつつ、
左手で右の手首を掴んだ。

 今は別に、月に酔いはしない、けれど。
 血を求める渇きに苛まれもしない、けれど。

「…………」

 血がざわめく。獣の性が、騒ぐ。
 突き動かすような衝動。満月の夜にだけ訪れる、発作。
 それはあの時の――賭けに出た時に、よく似た感覚。

「……これ、絶対アレだよな……副作用……」

 吐き捨てるように呟いて。
 読もうと思って開きかけた物――真白の封筒を、シャツの胸ポケットに入れ
て、窓を開けた。
 窓から吹き込む夜気はひやり、冷たい、けれど。
 それを持ってしても、冷ませない、熱。
 それをどうにかする方法は、今のところ一つしか見つけていない。

 ……つまり。

「よっと!」

 軽い、掛け声。
 窓枠を乗り越えて、下へと飛び降りた。
 着地する背にぶつかる感触。面倒になって伸ばしっぱなしの、髪。これもな
んとかしなきゃな、と思いつつ、駆け出した。 
 走り出し、風と同化するよな感触を味わいつつ、いつか蒼の狼へと転じる。
 こうして、自分の中の獣の赴くままにひたすらに駆ける事。
 今の所は、それしか熱を冷ます術が見つからなかった。

 だから、走って、走って、走り続けて。
 息が続かなくなるくらいに、走り続けた所で。

「はぁっ……あっつ……」

 隠れ住む場所の近く、小高い丘の上で獣の姿を解き、寝転がる。
 冷たい夜の空気が、心地よかった。

「…………」

 そのまま、ぼんやりと、月を見上げる。
 蒼のままの右目に映るのは、銀の満月。
 紅に変わった左目に映るのは、その銀に重なる、鮮やか過ぎる緋色の影。
 変わらない視界。これにもすっかり慣れてしまった気がした。それがいいの
かどうかは、わからないけれど。 

 「Ich werde Schnee fur Sie bringen.
 Diese Erde, alles.
 Es gibt es viel, um fahig zu sein, aufzuhoren, es in einem weisen 
Schleier zu decken……」

 小さな声で、歌を紡ぐ。
 空へ想いを託す歌。

 それを届けたい相手は、どうしているか、とふと思う。
 幼馴染と、彼に託してきた相棒は。
 今は眠る妹分たちは、安らかだろうか。
 そして、誰よりも気にかかる者。月にかけ、誓いを交わした少女は。

「…………」

 かさり、と音を立て、胸ポケットに突っ込んできた手紙を取り出す。
 一体、どんなルートを経由しているのかはわからない、けれど。
 故郷からの手紙は定期的にこちらへ届いている。こちらからの返事も、ちゃ
んと届いているようだった。

「ほんっと、訳わかんないおっさん……」

 ぽつりと呟きつつ、改めて封を開いて読み始める。
 綴られているのは、故郷の様子や、養父の近況。
 こちらが知りたい事を、丁寧に記してくれている手紙に、微かに笑みが零れ
た。

 「……そろそろ、顔出しに行かないと、ヤバイかねぇ……」

 読み終えた手紙を封筒に丁寧にしまい、ぽつりと呟く。
 会いに行くと。逢いに行くと。
 そう、約束していて。
 定期的に……というのは、さすがに難しいものの、でも、それを途切れさせ
る事はなく。
 数ヶ月に一度は、故郷へ向けて駆けるようにしていた。

 ……もっとも、それはそれで、苦しい部分も多少はある。

 再会は安堵を与えてくれるけれど、同時に、辛さも感じさせて。
 再びこちらへ戻ってくる時に、連れ去りたい衝動に駆られた事も、少なから
ずあった。
 それでも、未だに自身が不安定なのも感じていたから、必死でそれは押し止
めているのだけれど。
  
  「……まだ、無理そうだし……な」

 呟いて、右の手を月へと翳す。

 他者の生命を奪った右の手。
 それで触れたら、壊してしまうような、錯覚めいた恐れが消えなくて。
 未だに、両腕でしっかりと支える事にはためらいがあった。

 それを越える事ができれば──あるいは。
 そう、思ってはいるものの。

「……っとに、上手くいかねーよなぁ」

 呆れたような呟きと共に、掠めるのは自嘲の笑み。翳した右手を下ろしてゆ
っくりと起き上がり、封筒をそっとポケットに戻して。
 また、月を見上げる。

 現実も、緋色の世界も、今は静かで。
 その静けさは心地よさと苦しさを同時に与えてくる。

「Wenn ich bete und ankomme.
 Es ist einmal mehr dieser Boden.
 Wenn ich auf Sie stosen will……Nur es.
 Aber zum blauen Himmel……Ich bete.」

 呟くように紡ぐのは、歌の最後の一節。それが大気に溶けると、ふう、と一
つ息を吐いて。

「……逢いに、行くか。そろそろ、季節だしな」

 呟きながら立ち上がり、ん、と言いつつ腕を上に上げて身体を伸ばす。戻っ
たらおっさんうるせーかなあ、とか。そんな冗談めいた呟きを漏らしつつ、再
び駆ける。
 蒼の狼と化して。  

 ……数日後。
 村へと届けられたのは、差出人の記されていない一通の手紙。

『元気か? 手紙、ありがとな。

 俺の方は、相変わらず。
 それでも、前に比べたら、だいぶ落ち着いたかな。

 元神父のおっさんは相変わらずなに考えてんのか良くわかんないけど、まあ、
何とか問題なくやってる。
 たまに、突拍子もないこと突然言い出すから、心臓に悪いんだけど。

 そう言えば、そろそろリディの所には花が咲いてるかな。
 行かないと怒られそうだから、近い内にそっちに行く予定。

 それじゃ、その時まで。
 今よりは、少しでも、前に進んでから、逢いに行く。

                       Abel=Turkis』  

 綴られる言葉は素っ気なく、内容も簡素なそれが。
 届けられた相手に何を伝えるかは──駆け出した風は未だ、知らぬ事。


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