盟約──小さき薔薇


 ……その『呼び声』に気がついたのは、いつの事だったろう?

「……多分……この辺りだと思うんだけど……」
 呟いて、周囲を見回す。地下の薄暗い闇を照らすのは、手にした小さなラン
プのみ。お世辞にも頼れる灯り……とは、言い難い。
「……んー」
 腕を一杯に伸ばして、先を見る。ぼんやりとした光の輪に浮かび上がるのは、
埃をかぶった古びたものたち。
 『名門』の看板を掲げる家は無意味に広く、地下もまた然り。
 そしてその、無意味に広い地下室には、積み重ねられてきた歴史の欠片が大
量に押し込められていた。
 両親のいぬ間に地下へと忍び込み、その欠片に触れること。
 それは、幼い彼の一番の楽しみと言えた。

 ……もっとも、両親は跡取り息子がそんな風に過去に親しむのを嫌い、地下
に入ったとバレるとお説教が一時間は降ってくるのだが。

 そして言うまでもなく、そのお説教は効果を発揮しない。
 それがお約束というものだ。

「もう少し奥……かなあ」
 呟いて、積まれたものとものの間をすり抜けていく。
 零れ落ちた埃や古びた蜘蛛の巣が、金色の髪に斑の陰りを落とすのも、気に
せずに。
 いや、両親がパーティから帰ってくるまでの間に探索を完了しなければなら
ない以上、そんな細かい事には気を配ってはいられなかった。
 とことこと奥へ進み、時折足を止めて耳を澄ます。
 数日前からこちらに呼びかけている『声』を捉えるために。
 いや、その『声』自体は初めてここに入った日から、うっすらと捉えてはい
たのだけれど。
 こうして探しにこよう、と決意したのは昨夜のことだった。
 両親がパーティに出かけて不在、というこの状況を生かさなければ、到底奥
までは入り込めないから。留守番を言いつけられた瞬間、探索行の決意は固め
ていた。
「……近づいてる……のかな?」
 奥へ、奥へと進んでいくに連れて、『声』ははっきりとしてくる。出して、
と繰り返すそれは、薄い紗のカーテンの向こうから響くような感じがしていた。
 呼びかけているのがなんなのか、どこにいるのか、どこから出たがっている
のか。
 そんな細かい事は一切考えていなかった。

 ……いや、そこを考えるならそれ以前──地下室に入ると、知らない声が聞
こえる、という事実についてから考え始める、とも言えるのだろうけれど。
 その部分は全く気にかけていない辺り、もしかすると大物なのかも知れない。
単なる考えナシの可能性もあるのだが。

 進むに連れて大きくなる『声』を辿るように、奥へ、奥へと進む。それに比
して周囲の埃は厚くなり、人が長い間ここに立ち入っていない事を感じさせた。
 そんな地下室の奥に、何があるのか。
 心に募るのは好奇心と、一欠けらの恐怖。
 翠の瞳は楽しげな、それでいてどこか不安げな光を宿して奥に続く暗闇を見
つめていた。

 そうやって、どこまで進んできたのか。

「……箱?」
 無限に続くのでは、という錯覚を感じさせた薄闇はやがて途切れ、無機質な
壁と、その前の箱がランプの作る光の輪に浮かび上がる。『声』は、その箱か
ら聞こえて来るように思えた。
「……この中……に?」
 呟きながら近づいて、そっと手を触れる。その瞬間、手にちり、と焼け付く
ような感触が走った。
「……っ!?」
 突然の事にぎょっとしつつ、触れた手を引く。反対側の手に持っていたラン
プが揺れて、不安定な光の波を作り出した。
「……なに……いま、の」
 ぽつり、と呟くが、答えるものなど当然いない。『声』は相変わらず聞こえ
てはいるのだが。
「……ええっとぉ……」
 引いた手と、箱とを見比べる。箱は黙して何も語らないが、『声』がそこか
ら聞こえて来るのは、今ははっきりと感じられた。
「……」
 沈黙と、逡巡。
 どうすればいいのかは、薄々感じていた。
 ただ、この箱を開けばいいのだと。
 しかし、開けた後にどうなるかは……わからない。
 それが、直感に従う事を躊躇わせるが、しかし。
「……でも、ここまで来たんだから」
 ぽつり、と呟く。
 ここまで来た──呼ばれたからには、この箱を開けるのには意味があるのだ
と。
 そう、理屈で納得した訳ではない、けれど。
 ここまで来て、何もせずに引き返したくない、という思いは、僅かながらに
恐怖感を凌駕していた。
「よっし!」
 景気をつけるべく、掛け声一つ。ランプを床の、埃の少ない所に置いて、箱
の蓋に手をかける。
 ちりり、という感触がまた伝わるが、それは我慢して、蓋を持ち上げる。鍵
はかかってはおらず、箱は、ごくすんなりとその口を開き──。

「……みゅうううんっ!」

 甲高い声かあがり、次いで、白い影が目の前を過ぎった。
「……わっ!」
 唐突かつ、予想外の出来事。思わず後ろによろめき、そのまま尻餅をつく。
「な……なに?」
 ぽかん、とした声で呟く目の前に、箱から飛び出したと思しき白い影がしゅ
た、と舞い降りた。
 全身真白の毛皮に覆われた、ふわふわとした生き物。外見的には、リスかキ
ツネ、と言った風。
 しかし、それがリスやキツネでないのは──それ以前に、普通の『生物』で
ない事は、その登場の仕方と、額に煌めく真紅。その二つが容易に悟らせてい
た。
「な……ナニ、コレ?」
 きょとり、としつつ、呟く。現れたそれは大きな瞳をきょとり、とさせつつ、
じっとこちらを見つめていた。
「……」
 戸惑いながら、瞬き一つ。
 あわせるように、白いそれも瞬きをした。
「…………」
 特に意味もなく、首を傾げてみる。
 白のそれは、同じ方向に首を傾げた。
「………………」
 本当に意味もなく、右手を、挨拶でもするようにしゅたっ、と伸ばしてみる。
 白のそれも、応えるようにしゅたっ、と右手を上げた。
「……………………」
 上げた、右手。
 しばし躊躇ってから、それを、真白の小さな頭に乗せてみた。
「……みゃうん」
 手に伝わるのは、柔らかさと温かさ。ゆっくりと撫でてやると、真白のそれ
は、甲高い声を上げつつ、目を細めた。ぱた、ぱた、と。ふんわりと長い尾が
揺れる。
「……あっは……」
 可愛らしい仕種に、自然、笑みと声が零れた。
 それが何なのか、何故箱の中にいたのか、何故自分を呼んでいたのか。
 そんな事は、既にどうでもよくなっていた。
 今、手を触れた事で、何となくだが、わかったから。

 自分は、この小さな生き物を探していたのだと。

「……お前。名前、あるの?」
「みゅう?」
 そっと問いかけると、真白のそれは一つ瞬きをしてからこくり、と頷いた。

『なまえ、おしえたら、おしえてくれる?』

 同時に、意識の内に声が響く。自分を、ここへと呼んだあの『声』だ。
「うん、教える」
 問いへの答えには、躊躇いはなかった。頷きながらの言葉に、真白のそれは
みゅう、と嬉しげに尻尾をぱたぱたとさせる。

『あのね、あのね。『Rose』』

「……『ローゼ』?」
 意識の奥に聞こえた名前を繰り返すと、真白のそれは嬉しそうにこくこくこ
くこくと何度も頷いた。
「ローゼ、かぁ……ぼくは、エーリッヒ。エーリッヒ=フォン=レーヴェ」

『エーリッヒ……エーリ? エーリでいい?』

「うん。エーリでいいよ、ローゼ」

『わかったの、エーリ!』

 ぱたぱたぱたぱた、ローゼは本当に嬉しそうに尻尾を振る。何がそんなに嬉
しいのかはわからないが、正直、それはどうでも良かった。
 妙に嬉しいのは──自分も、同じだったから。

 それが、先祖から伝わる血──妖精や精霊たちに深く通じる、『妖精の寵児』
の血がもたらすものとは知らぬまま。
 そして、この後半年もしない内に、この小さき妖精のお陰で一命を取り留め、
更に自身の喪失をも免れる事になるとは、夢にも思わぬままに。

 少年は、小さき真白を──幸運の妖精を、華奢な腕で抱え上げた。