蒼月夜

 母一人、子一人。
 政の趨勢定まりきらぬ世において、それは取り立てて珍しいものでもなく。
 だからこそ、蒼い髪と瞳の幼子を連れた若い母親が街を訪れ、ひっそりと暮
らし始めた時、特に過去を詮索する者はいなかった。
 生活はけっして楽ではないけれど。
 若い母親は日々神に祈り、蒼い髪の我が子を慈しんで。

 穏やかな時を。
 自身が病に倒れるまで、ゆっくりと紡いでいた。

 元々、さして丈夫な質ではなかったのだろうか。
 一度病の発作を起こした後、母親に回復の兆しはなく。

 眠るように、息を引き取った。

 最後に蒼い髪の我が子の名と、子の知らない誰かの名を、小さく呼んで。

「う……」
 空腹で、目が覚めた。
 周囲を見回しても、目に映るのは蒼い闇。
「かあ……」
 無意識の内に母を呼ぼうとして、思い出す。

 母はいない。
 今は墓地の冷たい土の下なのだと。

「……ぇぅ……」
 一人、なのだと。
 感じた瞬間、泣きそうになった。葬儀の間は、全く泣けなかったのに。
 葬儀の後、心配そうに自分を見ていた教会の神父の手が、声が。
 届かない場所に来てから、ずっと、こんな感じだった。
「おなか……すいた」
 ぽつりと呟いて。
 ずるり、とベッドから落ちる。
 体を引きずるように狭い台所に入り、棚の中から少し固くなったパンを探し
だして、かじり始める。
 味は、ほとんど感じなかった。
 時折むせながらパンを食べ終え、水さしに残っていた水を飲み。
 それでひとまず飢えと渇きは癒される。

 けれど。

 でも。

 言いようのない寒さは消えなくて。

「…………」

 どうしていいか、わからなくて。

「かあ……さん」

 答えは返らないとわかっているけれど、小さく呼び掛けて。
 思い出そうとする。
 母が、言っていた事。

 何か。何か、願われていたような気がしたから。
 それを。
 それをやればいいような、そんな気がしたから。

「…………」

 やがて、蒼い髪の子は蒼い瞳を閉ざし。
 ……沈黙を経て、目を開けた。

「いきなきゃ」

 小さな呟き。
 母が最後に残した言葉は、「生きて」だったから、と。

「…………」

 だが、そこで再び沈黙が訪れる。
 どうすれば、それが叶うのか。
 肝心のそれが、わからないから。

「……なら」

 ぽつり、呟く。
 根拠は無い、けれど。
 教えてくれそうな宛が一つ、思い出されて。

 会いに行こう、と思った。
 時間が遅いとか、そういう事には意識は回らなくて。
 少しでも早く、答えが欲しいと、その思いに急かされるままに、外に出た。

 ……出迎えるのは蒼い闇。それを照らす白い月。それを見て初めて、今が夜
だと気がついたものの、引き返そうという気にはなれずに歩き出し──

「アーベル=レオンハート……だな?」

 唐突な呼びかけに、足を止めた。
 振り返った瞬間、目の前に黒が翻り、口元が塞がれる。突然の事に戸惑う瞳
の前に閃いたのは、銀の刃。

「……っ!?」

 叫ぼうとした。でも、口は塞がれていて、それは叶わない。身体の動きも封
じられていて、できたのはただ、蒼い瞳を声の主に向けるだけ。

「なるほどな。……卿に、良く似ている。生かしておけば、後顧の憂いか……」

 呟かれた名は、良く聞こえなかったけれど。
 つい最近、聞いたような気はしていた。

「さて……アーベル=レオンハート。君には私と一緒に来てもらう」

 戸惑うところに投げかけられたのは、唐突な言葉。訳はわからないものの、
それは嫌だと思えて、必死で首を横に振ろうとした……が。

「君は、表の世界で生きていてはならぬのだよ。
 君が生きていれば、多くの者が生命を失う。そして、君自身もいずれ生命を
失うだろう」

 投げかけられた言葉に、動きが止まった。

 生きていれば、多くの者が生命を失い、自分もいずれ生命を失う。

 謎かけのような言葉は、意識の混乱を差し引いても到底理解に及ばなくて。
 蒼の瞳は、困惑を声の主へと向けた。

「『アーベル=レオンハート』は、生きていてはいけないのだよ」

 その困惑を読み取ったかのように。投げかけられるのは、穏やかな声。

「しかし、一度『死んで』しまえば。君は、違う場所で『生きて』いける。
 ……死にたいのでなければ、私と一緒に来るんだ」

 静かな、静かな言葉と共に。口元から手がはずされる。

「……や……やだ……」

 それでようやく出せた声は、途切れがちで。

「どこか……どこにも、行きたく、ない。ここに、いたい……」

 だからと言って、死ぬのも嫌なのだけれど。
 でも、だけど。

 言葉にならない思いが、ぐるぐると回る。
 そんな彼に、声の主は冷ややかな視線を投げかけた。

「君が『ここ』にいれば、皆、死んでしまうが?」

 それと同じくらいに冷たい言葉が、胸を貫く。

「みん……な?」
「そう、君を知る者、全てが」
「…………」
「そして、君の生命も、断たれる」

 畳み掛けるような言葉。
 自分を知る者全てが死ぬ、と言われても実感はわかない、けれど。
 その中に、今、会いに行こうとしていた者が含まれている事くらいは理解で
きて。

 それは。
 上手く言えないけれど、嫌だったから。
 それに、自分も死にたくなかったから。

 ……だから。

「や……だから」

 震えながら、言葉を紡ぐ。

「行く……から……ころさない……で。
 ……は」

 かすれて、はっきりとは聞こえないその言葉が。
 『アーベル=レオンハート』と言う名の子の、最期の言葉だった。

 突然姿を消した子を、街の人々は一時案じたろうか。
 しかし、その記憶は程なく薄れ。
 姿を消した子と良く似た、しかし、彼よりも冥い瞳の少年が戻ってきても、
特に気にかける者はなく。
 ただ、それと同時期に噂に上り始めた者──『銀糸の幻魔』の名に、恐れを
抱くのみだった。

 勿論、それが。
 かつて『アーベル=レオンハート』と呼ばれていた子の『幽霊』──『アー
ベル=ゲシュペンスト』の願いのままであると気づく者は、誰一人としていな
かったのだけれど。

 ただ、その瞬間を見ていた月を除いて。
 何者も。 

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