そらいろのかさ

 回る、回る、空色くるり。
 いつからか、当たり前に繰り返してきたこと。

 ……いつから?

「……あの時から、だね。傘をウィアにもらってから。ウィアとひとつになっ
てから」

 誰も聞いてはいないのに、呟いて。
 くるり、傘を回す。
 緋色の意識の下になければ、澄んだ空色の瞳。
 それを、つと、空へと向けて。

「ウィア。ウィア。
 今日もいい天気だよ。
 雨は降らない。
 そらいろは濡れないよ」

 くるくるくるくる、傘を回しつつ。
 歌うように言葉を紡ぐ。
 自分の中でまどろむ事を望んだ者へと。


 ウィア。正式な名はなんと言ったろうか、もう覚えてはいない。
 ウィアは自分の事はほとんど話さなかった。
 ただ、自分には生まれつき足が片方しか無い事と。
 双子の弟がいるから、自分はいなくても大丈夫なのだと。
 それだけは、聞かせてくれた。
 ウィアの所に入り込んだのは、偶然。『狩り』を人に見られ、獣の姿で逃げ
込んだのだ。
 滅多に他者には見せない、銀灰色の狼の姿で、庭に飛び込んだ彼女に少年は
驚き。
 そして、言った。

「……綺麗だなあ……」

 と。
 綺麗、などと言われたのは初めてだったから、少し驚いた。
 大抵は、この姿は恐れられるものだから。

「……キミは、怖くないの?」

 それがふとした疑問になって。窓辺に近づき、問いかけてみた。狼が言葉を
話すという、ありえない事態。しかし、少年は取り乱す様子もなく……うん、
と一つ、頷いて見せた。

「もの凄く綺麗だ。銀灰色。月光を弾いてキラキラしてる……。
 ああ。喋れるんだね、キミは。ステキだなあ……」

 今更のように言って、無邪気に笑う。その姿は、とても不思議に見えた。

「……キミは、不思議だね」

 思わずもらした呟きに、少年はそう? と小首を傾げ。

「ねえ、キミ……キミの、名前は?」

 それから、こんな問いを投げてきた。

「そんなの聞いて、どうするの?」

 この場で食べてしまうかもしれないのに。
 声には出さなかったけど、言葉の後にはこんな思いが続いていた。
 それが伝わったのかどうかはわからないが、少年は、微かに笑んで。

「知りたかったから? ああ、ボクはプルウィア……ウィア、と呼んで」

 それから、聞いてもいないのに、自分の名を告げてきた。
「……ウィア?」
「うん。キミは?」
「ボクは……」

 答える刹那、ふと思い立って、人の姿を取っていた。その変化に、ウィアは
わあ、と驚いたような声を上げるものの、やはり、特に気にしたような様子は
見えなかった。

「ボクは、メイ。ボクを産んだヒトは、そう呼んでいたよ」

 名を告げれば、ウィアは数度、彼女の名を繰り返した。記憶の中に、それを
刻み込もうとするかのように。

「メイ……か。ねえ。メイは、これから、どこか行くところがある?」

 それから、唐突にこんな問いを投げてきて。その言葉に、彼女は首を傾げて
瞬いた。

「そんなの聞いて、どうするの?」
「うん……もし、何処にも行く宛がないなら」
「ないなら?」
「少しの間でもいいから、ここに居て欲しいな、って、思ったから」
「……え?」

 投げかけられたウィアの言葉は、とても、意外なものだった。
 それから、ウィアの所に半年ほどいたろうか。

 ウィアの住まいは、森の奥深くに隠されたように建てられた、小さな建物で。
 そこには、ウィアと、歩けないウィアの世話をする無口な女性が一人いるだ
けで。
 転がり込んできた彼女は厭われる事もなく、穏やかな日々を過ごせた。

 ウィアと一緒にいるのは楽しかった。
 ウィアは、彼女の知らないことをたくさん知っていて、それを教えてくれた
から。
 そして、ウィアは彼女の話を楽しげに聞いてくれたから。
 生まれつき片足のないウィアは、ここから出た事がないのだと言う。
 だからこそ……外の世界の話を、楽しげに聞いてくれて。

 それが。
 なんだか嬉しかった。
 今までは、自分の話を聞いてくれるひとなど、いなかったから。 
 だけど。
 ずっとこのままでいられないのも、わかっていて。

 だから。
 ずっと気になっていた事を聞いたら、行こうと思っていた。

 気になっていた事……それは、ウィアの部屋の隅に置かれていた、空色の傘
の事。
 外を歩けないウィアの部屋に、どうして傘があるのか。それは、ずっと気に
なっていた事だった。
 だから、その意味を聞いて。
 それから、また、旅立とうと思った。
 ウィアを食べてしまう前に。

 だけど。

「……メイ。お願いがあるんだけど」

 紅い満月が世界を照らす夜。

「……お願い?」

 ウィアは静かに、静かにこんな事を言い出した。

「うん……ボクを……殺して」

「殺して?」
「うん」
「……どうして?」
「連れて行ってほしいんだ」
「……どこへ?」
「どこでも。メイの行くところへ」
「……ウィア?」

 言われている言葉の意味が理解しきれず、首を傾げつつ問うと、ウィアは少
し、困ったように微笑んだ。

「ああ、言い方が、おかしかったかな?
 メイは、人を、食べるんだよね?
 だから、ボクを食べて欲しいんだ」
「ウィアを?」
「そう」

 言いつつ、一つ頷いて。
 それから、ウィアは夜空にかかる月を、見た。

「ボクは、生まれてからずっと、ここにいた。いるけどいないモノとして、こ
こに隠されてた。
 でもね。もう、やなんだ。
 解放されたいんだ。
 でも、ボクは歩けないから。ここから逃げられない」

 ウィアはこう言うと、だから、と言いつつ、月から彼女へと目を向け。

「だからね、メイ。
 ボクを食べて、メイの一部に……メイの魂の中に住まわせて。
 ボクの身体を、メイの力にして、その力で世界を見て回って」
「ウィア」
「……そうすれば、ずっと一緒にいられるから」

 にこり、と。
 微笑んだウィアの表情に。
 迷いのようなものはなく。

 静かに。
 ただ、静かに。
 答えを待って。
 
 「……ウィア」

 しばし、考えた。
 でも、出せる答えは一つだった。

「ウィアは、それが、一番?
 なら、ボクは、ウィアの一番でいいよ」

 ふわりと、笑んで。
 返した言葉に、ウィアもふわり、と笑んだ。

「……ああ、そうだ。メイ。もう一つ、お願い」
「もう一つ?」
「ここを出る時に、あの傘を持って行って」

 言いつつ、ウィアは部屋の隅にある、空色の傘へと目を向けた。

「傘?」
「そう、傘。ボクは、一度もあの傘をさして外を歩けなかったから。
 メイが、代わりにさして」

 晴れた日に、傘をさして散歩したい。
 それが、夢だったんだと。
 そう言って、ウィアは……また、笑った。

「わかった。約束、だね」
「うん、約束」

 それが。
 『メイ』として、ウィアと交わした最後の言葉。

 紅き月。
 その光の下、緋色の意識が目を覚ます。

 緋色の意識の下では、彼女は『リーフ』。
 どこかの言葉で、風を意味する名を持つ、銀灰色の狼。


 そして……真紅は舞い。
 少年は、彼女の内へと取り込まれた。
 

 くるり、回る、空色の傘。
 傘を回すは、どこかあどけない、空色の瞳の少女。

「もうすぐ消える世界。
 ボクはこれからどこへ行こう」

 壊れそうで壊れない、世界の片隅で。
 少女は傘を回しつつ、歩みを進めて行く。

 くるくるくるくる。
 空の一部を切り取ったような、あおいろの花を咲かせつつ。 




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